明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(40)またまたまた邪馬台国の本を読む(下)

2024-05-31 12:53:00 | 歴史・旅行

1、とうとう田沢正晴著「邪馬台国へ一直線」を読み切った。近頃珍しく短い日数で読めたのは、その内容が私の想像する古代日本の実像にほぼ一致していたことである。推論のしかたも実に論理的で、今まで読んだ歴史書の中でも古田武彦・斎藤忠といった大御所に並ぶ説得力があった。

まあ邪馬台国に至る路程の詳細については、すなわち「何故博多湾岸に直接上陸しなかったのか?」という疑問に納得行く答えを用意出来るかどうかに掛かっているわけである。その疑問に対する田沢氏の答えは、邪馬台国は博多湾岸でなく「佐賀・熊本」にある、ということになるだろうか。或いは博多湾岸には別の国があって、邪馬台国とは抗争中だったとも言える。

後漢光武帝に金印を授与された委奴国が後年日出る国「俀国」と国名を変えているわけだが、途中邪馬台国になったという記述は日本中国の「何処を探しても無い」という事実を考えると、委奴国の地域にはそもそも邪馬台国は存在して無かったと考えるのが妥当だと思う。もしかしたら5万戸あるという大国「奴国」がそうかな?という気もしないでもないが、今の段階では証拠何もない。

とにかく邪馬台国は紀元3世紀に魏との通交があったと三国志に書かれて卑弥呼・壹与といった人物を紹介されたが、その後「一切の記録」が無いまま忽然と消えて無くなった謎の国である。魏との密接な交流は当時の倭国としては突出しているにしても、朝鮮半島との関りで言えば、東アジアの歴史にそれほど重要な役割を演じていたとも思えない。よって倭国の代表というよりは、いくつかある地域覇権国の一つに過ぎないレベルなのではなかったか、というのが田沢氏の認識であり、これに私はとても納得させられた。

これらの点で邪馬台国についての田沢氏の考えは、間違いなく「正解」だろう思う。よって私にとっては、邪馬台国はこれでほぼ調べがついたと言えそうだ。そもそも邪馬台国近畿説などは歴史を知らないクズ学者の呆れ返った妄想で、もはや歴史を語る資格もない「1顧だにする価値もない与太話」なのは確定しているのであるが、九州説の中で定説となっている「博多にあり」という説明も実は間違いなんだろうな、と結論が出たように思う。邪馬台国は「佐賀~熊本」の辺りで決まりである。

2、私が考える今後の古代史の謎解きは
① 天智天皇の本当の姿は百済人?
② 壬申の乱九州説の証明
③ 天武天皇の次は高市天皇だった説
④ 長屋王は何故政権の中枢から排除されたのか?
④ 日本国の登場と倭国衰退のいきさつ
⑤ 天武天皇以下9代の位牌が泉涌寺に祀られていないことの明確な説明
⑥ 桓武天皇は何故日本で初めての郊祀を行ったのか?
⑦ 白村江は大したこと無かった説の検証
などなどである。

まあしばらく邪馬台国問題は封印して、次回は上記のいずれかについて「謎解き」を楽しみたい。



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