明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

日本の何故?を解決する(11)中国人名を日本語読みすることの問題点

2022-09-21 18:42:31 | 芸術・読書・外国語

私は中公新書の会田大輔著「南北朝時代」という本を読んでいるのだが、登場する個人名や地名など(例えば拓跋氏)、全て「日本語読み」で通している。この時代は5胡16国と言って、中国北部を漢人以外の遊牧民族が乱立して政権を建てた時代。個人名も私に馴染みのない、ヘンテコリンな名前がズラーッと並ぶ。といってもヘンテコリンなのは中国人が「音が近い漢字に当てて」書いているのを我々が「日本語読みする」からで、中国人はちゃんと中国読みをするから、違和感があるのは我々だけなのだ。これは今でも習近平と書いて本来はシーチンピンと発音しなくてはいけないのに、日本のメディアは「しゅうきんぺい」と日本語読みにしているのと同じである。当然、匈奴・柔然・鮮卑・突厥・回紇・契丹などという遊牧民族の名前は外見はおどろおどろしいが、発音すれば至極まっとうな名前であることがわかるはずなのだ。今中国政府の人権問題で話題になっているウィグルについても、もしこれを回紇と書いたら「ウィグルを読める人」はあまりいないのじゃないか。これも西班牙と書いて何と読むか、クイズになることでも時代遅れであることは明々白々であろう。

しかし日本では1972年の日中国交回復時の取り決めで、マスコミが個人名や地名その他の使用する場合は「漢字はそのままで、読み方は日本読み」にする、となった(ネット情報)。当然、反対に日本人の名前も漢字はそのままで、読み方は「中国語読み」で発音される。

だが世界中がネットでつながっている現代でもこのやり方を続けているのは如何なものかと私は思う。もうやり方を変える時が来ているのだ。例えばパソコンで習近平が画面に映し出されるとして、日本のアナウンサーが「しゅうさん!」と呼びかけたとして、果たして彼が反応するだろうか?

彼は生まれた時からシーチンピンと呼ばれていたのであり、「しゅうきんぺい」と呼ばれたことは「長い人生で一度もない」と言っても過言ではないのである。勿論、名前を書けば習近平と表示されているから自分の事だと分かるとは思うが、それにしても人の名前を勝手に間違った発音で呼ぶというのは、「現実世界では機能しない」のでは、と思う。それに失礼だし相手の事を「尊重しない態度」にも通じることだと思う。もし人から自分がヘンテコリンな呼ばれ方をしたら、私という人間はどこに行ってしまうのだろう?

そこで私なりに、外国の名前を扱うときのルールを考えてみた。

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1、固有名詞については現地音を使用。個人名は現地音で発音、表記するときはカタカナで書く。これはバイデン大統領をわざわざ売電大統領などと書く必要がないのと同じで、日本には「カタカナ」という便利な道具があるからこれを使用すること(逆に中国ではカタカナにあたる発音文字がないから、苦労してると思う)。北京などの地名についても、すべてカタカナにする。なんだか漢字で書けばわかるのに何故「わざわざカタカナ」なんかで表記するのかと不満に思うかもしれないが、外国の人と話をして「全く通じない言葉」を使い続けるほうがおかしい、という感覚を持つ事が大事である。中国名を日本語読みしていると何だか親近感が湧くと勘違いしているが、それは単なる日本人の「ひとりよがり」でしかないと思う。

2、例え馴染みのある漢字を使っているといって中国の表記をそのまま使うのではなく、必ずカタカナで表記する。「ペキン」とパソコンに打ち込むと「北京」に変換されるが、実はこれ「誤変換の極み」なんではないだろうか。本当は「ペイジン」と打ち込まなくてはおかしい。まあ北京は既に日本語になっていると言えるかもしれないが、当の北京市民からすれば奇異に聞こえるのは当然であろう。今ではニューヨークの事を「紐育」と書く人はいないと思うが、つい何十年か前には堂々と新聞にも表記されていたのは記憶に新しい。やはりもっともっとカタカナを使って、日本語の文章も「世界標準」にしていく必要があるだろう。

3、中国語を勉強している人は簡体字と現地読み、つまり中国人と同じ読み方書き方で「中国人になり切って」呼べばよい。中国に旅行する人や中国人と商売をしている人は、当然中国の現地音でしゃべらなければ相手には通じない。それがままならないのであれば、英語で会話するほうが「まだマシ」である。幸い英語は世界共通語として通用する場合が多いので、特に中国文化に思い入れがある人以外は、英語を勉強すればいいだろう。

4、固有名詞以外の単語については「日本にも普通にあるもの」は日本語で表記し、日本にない中国だけのものについては「無理に日本語名を考え出す」のではなく、素直にストレートに中国名・中国読みを使っていくべきである。勿論その場合にはカタカナを使用する。日中国交回復などの単語については、日本で使用する場合はそのまま日本語として使えばよい。但し和製英語といって「英語圏では通用しないのに、まるで英語であるかのような誤った表記」は現に慎むべきである。カタカナを使う時はストレートに外国の現地音そのままにして、何か意味のある表記にしたい場合は別の表記にするのが望ましい。例えば日常的に使っている「スーパー」という言葉、実はアメリカに行って口に出すと「?」という顔をされるらしい。当たり前だ。スーパーはスーパーマーケットと言わなければ通用しない。何でもかんでも省略して便利に使うのは、こと外国語の場合は「タブー」である。この和製英語のせいで「大恥をかく」人が続出したのは、なんとも日本人らしい「田舎者気質」の表れだと私は思う。そろそろ世界標準の言葉をカッコよく使って、「世界」と仲良く会話していこうではないか。

5、歴史の中に出て来る人名や地名などは、今更改めることが「何かの足しになる」わけじゃない場合は、そのままにする。例えば三国志に出て来るような昔の個人名など、もはや中国でも読み方は全然違っていて、むしろ日本で通用している読み方の方が「漢の時代の発音」に近いから、無理に現代中国標準語に直す必要はないとも言える。古い「ことわざ」など、日本人の知識の一部になってしまっているような中国故事も多いことから、例えば昭和の戦争終結前までに使われていた表現については、もう「日本語」として扱ってもいいのではないかと思う。

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以上、長々と説明したが要するに、「世界と友達になろう」ということ。友達になるには「話が通じる」ことが大前提である。言葉はコミュニケーションであり、お互いの意思を確認するためには、少なくとも固有名詞ぐらいは「同じ発音」をする必要がある。勿論、同じ日本語を使っている日本人同士でさえ、時々一つの物を「違う呼び方」で呼んでいるのが事実である。この改革は大変時間がかかる問題と思うがしかし、日本が世界と伍してお互いを尊重し、立派に発展・交流を続けて行くためには避けて通れない問題だと思っている。中国人の名前を全部カタカナにすると「中国と日本は同じ漢字圏」という大事なことをおろそかにしていると思われるかも知れないが、実は同じ字を使ってはいても「もう完全に別」の言語なんである。別の言語であるなら、カタカナにしても何の問題もない。使っている単語だけを見ればなんとなく分かったような気になるが、ちゃんとした中国語の文章の中でそれを見れば「アラビア語の文章」と大差ないくらいチンプンカンプンなのだ。同じ漢字圏という「幻想」はこの際残念だがすっぱり捨ててしまって、中国は「別の言葉を話す」隣人として、もっと実のある友好関係を築こうではないか、というのが私の主張である。

まずは個人名から「カタカナ」で表記しよう!


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