明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(40)またまたまた邪馬台国の本を読む(上)

2024-05-14 12:47:29 | 歴史・旅行

ここの所連続して邪馬台国づいています。こないだ邪馬台国は「北九州の博多湾岸」だったとする本を読み終わったばかりだと言うのに、もう次の新説を読み始めている位のめり込んでいます(というか、他にすることも無いので・・・)。本の名は田沢正晴著「邪馬台国へ一直線」です。これも Amazon の読み放題でした(読み放題最高!)。しかし邪馬台国はさすがに歴史エンターテイメントの王者と言うだけあって次から次へと新しい説が登場してくるあたり、まさに極上のイギリス・ミステリーを読むような独特の世界がありますね(私のライフワークに相応しい!)。

今度の本はどちらかと言うと私が以前から「真実はこうじゃないかな?」と思っていた佐賀〜熊本の有明海沿岸地帯を邪馬台国の候補地に挙げている点で「本命」って感じが胸にジワジワ来ています。やっぱり私の歴史認識は正しかった、ですね(この真実に辿り着いた感がたまらん訳ですよ、はい)。

実は私はまだ半分しか読んではいないのですが、私の心に「ズバびぃ〜ん!」と響いた箇所があったので嬉しくなり、矢も楯もなく取り急ぎ皆さんにご報告したいと思ってこの記事を書きました。それは邪馬台国よりずっと後の「隋書東夷伝」に登場する日出ずる国の天子として有名な阿毎多利思北孤が治めていた俀国(たいこく)の説明が、「古の委奴国」であるという記述にピンと来たわけです。

委奴国は後漢光武帝から金印を貰っている倭の有力国ですが、邪馬台国も同じように金印を貰っています。だとすると陳寿が魏志倭人伝で邪馬台国への経路にある国を紹介する際に「もし博多湾岸を通っていたとするならば」、中国王朝に記録されている「有名な委奴国に何らかの言及」があっても不思議は無いとは思いませんか?。博多湾岸にあったと思われる国=委奴国がもし3世紀にも存続していたとするなら、それは「奴国」ではないでしょうか。魏志倭人伝では5万戸の大国と書かれているわりには「殆ど説明もなく」ササっと通過して何の注意も促してはいません。もうちょっと何らかの特徴なり邪馬台国との関係などの記事があっても良い筈だと思うのです(伊都国が千戸ばかりと小さいのに随分と注目しているのと好対照ですね)。この辺りのちょっとした違和感を「全く新しい観点から」見事に説明してくれた田沢氏の慧眼には、まったくもって称賛されてしかるべきでしょう(つまり私も「それなりに鋭い」っていう自慢です。やっほー)。

要するに、当時は北九州の博多湾岸にあった「委奴国」と佐賀有明海沿岸の「伊都国・邪馬台国連合」との2大勢力があって、お互いに拮抗していたと解釈したわけです。これは後の8世紀の大和朝廷のように中央集権体制が整備されている状態ではなく、まだ中小各国が各地域に点在していた3世紀の頃の倭民族全体を考えると大陸の中国からすればその中で「一番強大な国がどこか」というよりは、むしろ一番「自分達に都合の良い国」を選んで取引をしようとした、と考えるのが妥当だと言えます。それが後漢光武帝の頃は北九州「委奴国」だったが魏の時代には「邪馬台国」であった、という訳です。そして片方の「博多湾岸」の委奴国はその後に「倭の五王」を経て阿毎多利思北孤の「俀国」に連綿と王統を伝え、もう片方の「佐賀有明海沿岸」の邪馬台国連合は「南の狗奴国」との戦いに敗れて併合され、歴史の舞台から消えていった。これが歴史の闇の中から現れて来た「新らしい古代のストーリー」なのです。

納得です(続く)。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿