明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の選んだ今年の10大ニュース2018 個人編10位から5位

2018-12-28 21:09:58 | 今日の話題
(10)引っ越しは奈良と決めていたが、京都もいいかなと思い始めて迷っています
年を取ってきてやりたいことが少なくなってきている。朝起きてから夜寝るまでの間の時間を、出来れば何かを集中して追いかけることで埋め尽くしたい、というのが私の理想的生活である。寝る前から次の日に何をやるか考えて寝ることにしているので、朝起きたときはスケジュールが決まっているというのが理想だ。だが変更はいつでも可能なフレキシブルな予定でもある。つまり何かが決まっているが変更も自由である、ということは何も決まっていないことでもある。なんのこっちゃ!。何をしようかとぼーっとする時間が年を取ると「あらゆる雑念の温床」になってくるのだ。人間は「自分はどうなるのか」とか「自分は幸せなんだろうか」とか、自分の事をあれこれ考えだすと碌な事がない。眼の前のことに夢中になり、幸せを追い求めて自分のことなどすっかり忘れて、精一杯努力している時が「最高の状態」である。動物は皆そうやって生きている。生まれてきた理由はなく、死んでいく時も意味など考えずに去っていく。人間も畢竟動物である。獲物を追いかけ食べることで生命を維持し、食べられなくなったら死ぬ、それが「生命現象」というものである(哲学的だ!)。私は60過ぎて、そういう結論に達した。それから自分のライフワークとして、奈良散策と歴史探訪を選んだのである。しかし近年「邪馬台国」の場所が私なりに九州に決定したことを受け、その後「壬申の乱」の舞台も九州に比定されて、私の歴史認識は大きく変わってしまった。奈良大和の歴史は、文武天皇以来の短い間だったのである。悠久の奥深い歴史は遠い九州の彼方にある、それが現在の私の考えだ。それで奈良への愛着は大分薄れてきて、いっそ京都で「便利で文化的な生活」を送るというのもいいかな、と迷っている。京都は奈良と違って室町応仁の乱以降から、江戸期を経て幕末明治初期までの歴史が詰まった街である。歴史と同時に記録が豊富な点も「実物より書斎・喫茶店派」の私には何より嬉しいことである。奈良は観光客の人数が200万人、「あれぇ、そんなもんなの?」というぐらい少ない。平均滞在日数は0.6日、一人当たり平均消費金額は3000円強である。何れも全国最低だ(最低だって!)。ホテルの客室数も全国最低レベル。それに吉野が杉の産地だということも「花粉症患者の私にとって最悪」の環境ではないのか。京都は九条兼実を読んで以来の、第二の懐かしい土地になった。問題は「場所」である。奈良には勿論行くので、余り遠いところでは困る。かと言って年金ぐらしの生活では、家賃6万円が限界である。奈良の橿原神宮前であれば14畳のリビングに6畳の書斎がついて5万2千円でオーケーなのだが、京都九条の家賃相場では「ボロアパート」が精々である、さてどうするか。やっぱ書斎だな、書斎が欲しい。テレビを離れて意味のある人生を送るには喫茶店が最適だと今でも思っているが、そういう最高の喫茶店は都会に行くほど見つからない。手っ取り早い対策は、やっぱり書斎だね。ぼんやりと思索を巡らすには、時間と空間が必要なのだ。勿論まだまだ決定ではない。奈良もいいし京都もいい、そういう悩ましい状況である。

(9)考え方の大転換
セクハラが大々的にニュースになって、世間では「どこまでやったらセクハラか」と、認定基準を巡り大の大人も巻き込むフィーバー現象が吹き荒れた。立場がどっちかというと「セクハラする側」の驚きと恐怖である。中には「もう何にも出来ない」と悲観するものもいたが、今までやっていたことがある日突然「犯罪」になるわけで、その当惑というのは充分理解できる。誰もが生き方の大転換を強いられているのだ。私も少なからず女性と接する時にはセクハラを意識するようになった。だが、何がセクハラになるかという基準には、ハッキリしない所があるのは事実である。私の言っているのは週刊誌やテレビのワイドショーでニュースになるような「犯罪としてのセクハラ」でなく、「○○課長ったら、ちょっと短いスカート穿いてきたらもう、途端にいやらしい目付きで見てくるから、ホント変態!」という、人柄と見事にマッチした行動への評価のことである。ただ見ているだけであるからセクハラにはならないとはいえ、言われている本人の気分的には「セクハラ」と判定が下ったも同然である。ここまでくると、セクシャルな言動・態度・行動の全てが「本人の好意であれ興味であれ、理由の如何によらず」相手から嫌がられればその時点で、その本人が意識していなくても「セクハラ認定」されることになる。結論から言えば、オジサンは何をやっても嫌がられるのだ。つまり従来の私達のやり方が間違っているのではなく、「選ぶ相手を間違えている」といえる。これは、本来のセクハラとは意味が違っていて、性的な興味の表現自体が問題ではなく、性的興味の「対象としてはいけない相手」を選んでしまった、ということのようである。何だかセクハラということを誤解しているようだが、結果として「大筋では間違ってはいない」と思っている。要は私達の年代は、若い子には「もう手を出してはいけない年齢」なのである。なんたって「もうすぐ70歳」なんだから、これからは可愛いとか美しいとかに「無縁の女性」と知的な会話を楽しめるように、自分の持っている「新しい魅力」を磨いていきたいですね。まあ若い子に心を燃やすのは「来世に取っておく」ぐらいの気持ちの余裕が欲しいです。・・・つまり、これが考え方の大転換でした。私は何故かいつまでも青春まっ只中のつもりでいたのだが、世間は70の老人と見ていたことに気がついた、という次第である。当ブログでも私の書き方が多少変わってきて、皆んなが興味を持つニュースな話題を「世間とちょっと違う切り口で考える」という当初の姿勢から、少しずつ私自身の興味ある話題へと焦点が移ってきている。世の中に受けるブログよりも「自分の気持ちに正直」なブログを書く、これが今年大きく変わったことである。

(8) デリック・ローズが教えてくれたもの
NBAミネソタ・ティンバーウルブスのガード「デリック・ローズ」が、度重なる怪我からの復帰後も低迷してチームを転々とした暗澹たる日々に考えていたことは、「やっぱりバスケットボールが好き」だった。何とも泣かせる言葉ではないか。私は豪快なダンクを連発する体格抜群のパワーフォワードより、技も敏捷さも兼ね備えたアスリートのスモール・フォワードか、またはゲームを支配し肝心な時には強靭な精神力でクラッチ・シュートを決めるポイントガードが好みである。選手で言えばマイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンは勿論誰もが大好きなスーパースターだが、私はデトロイトの黄金時代を築いたピストンズのチャウンシー・ビラップスが大好きなのだ。試合が拮抗していて「最後の最後という一瞬に、態勢を崩しながらもブザービーターの3ポイントを決める!」、というのはチャウンシーならではの勝利である。同じような存在感のあるスタープレイヤーがNBAにはいっぱいいるが、何と言っても強面の風貌、しかも目だけがギラギラしつつ「ニヤッと笑って人を斬る」という不敵な面構えは、過去のNBAの歴史の中でもチャウンシーが「随一」だと確信している。その栄光の戦国武将の跡を継いで台頭してきたのが「デリック・ローズ」なのである。シカゴでの活躍は皆さんご存知の通り、将来のNBAを背負って立つ大スターの道を歩んでいくかと思われたその瞬間に、膝のケガという不幸は襲いかかってきた。これで彼は1年間を棒に振る。チームメイトの踏ん張りでなんとか持ちこたえたシカゴは、待ちに待った彼の復帰を見て「歓喜した」筈である。しかしケガの影響からか他の部位に影響があって「またケガをして」しまい、休んだり何だかんだで成績も振るわず、とうとうニューヨーク(クリーブランド?)へトレードされてしまったのだ。ジャーニーマン、彼にはもう残されたチャンスは多くない。そして数度のトレードの末、元シカゴの恩師「シボドー」のいるウルブスにやって来た。ベテラン最低補償年棒での契約だったと報じられたが、彼にしてみれば「最期のチャンス」だったのかも知れない。そしてゲームに出続けていて、とうとう自身の記録を塗り替える「1試合50得点」というガードとしては異例のハイパフォーマンスを成し遂げたのだ!。おめでとうデリック!。これからも彼は活躍し続けるだろうが、私が感動したのは50点取ったことではない。もし彼が試合にも出れずにベンチを暖めていたとしても、またはローカルな弱小チームでささやかなゲームを戦っているとしても、インタビューで語った彼の言葉は我々に人間の真実を伝えてくれている、その事に感動したのである。曰く、「それでも僕はバスケットボールが好きだったから・・・」。声を詰まらせた後、彼は涙を抑えられずに泣きじゃくった。・・・私はそんなデリック・ローズが好きである。

(7)ゴルフの進化とエイミー・コガ
ゴルフの世界でもいよいよ世代交代が始まった。私が注目する若手有望株は原英莉花・小祝さくらそれに永井花奈の三人だ。そしてもう一人新発見したのが、こないだの加賀電子カップ新人戦で登場した「エイミー・コガ」である。彼女はプロテストにトップ合格した実力者であるが、私は実際の映像を見てその「スイングの素晴らしさ」に驚いた。物凄いダウンブローである。コンパクトだがしっかりしたバックスイングからやや沈み込みながら深いタメを作ってのダウンブローで、インパクトに向けて更に深く前傾するスイングスタイルは、「典型的なヘッド・ビハインド・ザ・ボール」そのものの美しさがある。私が「三觜喜一が最高!」と言い続けてきたそのままの「お手本のようなスイング」で、いっぺんに大ファンになった。姿勢が低くて懐が深い理想的なインパクトは、LPGAの中でも「ピカイチ」ではないだろうか。まだ成績は出ていないが、外国選手に多く見られる「上体を折り曲げたスタイル」は、今後日本でも主流になると思っている。原英莉花のスイングが正にそのスイングなのだ。今年は一皮もふた皮も向けて大進化した私のスイング、何とかそのスイングを手に入れようと今必死になって練習しているところである。来年は仲間に「目にもの見せてやる」つもりで意気込んでいるが、いつかはこんなゴルフがしてみたい、と思わせるスイングの持ち主、それが「エイミー・コガ」なのだ。彼女のスタイルは教えられてできたものではなく、体型や柔軟性から自然と身につけたものだろうとは思っている。が、カッコいいスイングであれば真似してみたいのが心情、出来なくても努力することに「アマチュアの意義がある」なんていうのは、負け惜しみっぽくて悪くはない。最近特に気をつけている点は、① 前傾を保つ ② 左腰に乗る ③ 沈み込んで打つ姿勢を作る ④ 頭は右側 ⑤ クラブを倒す ⑥ インパクトまでは力を入れない ⑦ 手を思いっきり返す ⑧ クラブを勢い良く投げ出す ⑨ 上半身を思いっ切り右に傾ける、である。数え上げれば切りがないが、良いと思うことは何でもやっている。徐々にサマになってきたので上手く練習の成果が出てきたのではないだろうか、今後が楽しみである。来年3月の沖縄ダイキンレディースでエイミーの勝利、なんてことがおきたら嬉しいんだけど。勿論、原でもいいし、小祝でもいいし、永井でもいいしって、「どんだけ優勝すれば気が済むの?」と言われそうだ。女子ゴルフはレギュラーツアーもステップ・アップ・ツアーもどちらも楽しいので、来年シーズンの開幕を首を長くして待っている私でした。唯一の心配事は、小林会長の言動である。大丈夫かなぁ。

(6)リハビリが加速して止まらない!
ここんとこ会社で色んな事があり、仕事が急に増えてしまった。増えたことによって字を書くことも多くなり、結果「字が上手く書ける」とか「会話が伝わる」ようになり、リハビリが進んでいると実感できたことは望外の幸せである。同時に「歩きも正常に近く」なってきたので、外出するのが楽しくなってきた。体力はまだふらつくことがあるが着実に戻って来ている。ここ数日、突然腰が痛くなって「屈むのも大変」な状態だったが、数日が過ぎてだんだん元に戻ってきたので安心した。これは毎年冬になりたての頃に起きるので、例年のことと我慢している。とにかく身体は使わないとダメである。だから今後も一生懸命仕事をして、リハビリを継続してみようと思っている。今のところ発症して5年、まだ回復する力が残っているみたいだ。脳梗塞からの回復度合いは人それぞれだが、5年も経ってまだ回復し続けているというのは奇跡なのか、とも思ったりするが「案外普通のこと」だったりして良くわからない。一つには脳からの司令が腕や足の神経につながる仕組みである。脳からは司令が出ているが、手足には上手くつながらないので動かないのだと理解している。この場合は正しい動きの感覚は残っていても、それが正しく筋肉に伝わっていないことがわかる。これには「筋肉が使っていなかったために衰えてしまった」ことも原因の一つに数えられると思った。あるいは強弱の度合いを制御している神経が弱ってきて、力を出しきれないのかも知れない。力を出すと身体が激しく動いてコントロールの限界を超えてしまうと危惧して、「神経が自動的にセーブしている」と考えられる。安全弁である。ゴルフスイングで思いっ切り振るというのが出来ないのも、筋力と言うより「体力あるいは脳の制御機構」の問題であろう。もう一つは今まで健康な時には無意識にやっていたことが神経が死んでしまっているので「出来なくなって」いることである。箸を持つことなど、大人になれば無為意識に出来ることだが、私は「箸を持つ指の動きを考えながら意識して持たないと、上手くつかめなかった」。こちらの動きは一から練習しなくてはならない。まあ三歳児に戻った感じである。しかし「焦りや苛立ち」は私の場合無かった。病気をしたんだからしょうが無い、と言うのもあるが「殆どのことが左手で出来た」からである。唯一お店で何かの書類に住所を書いたりサインをする時だけ、出来ない自分がちょっと嫌だな、と思ったぐらいだ。車椅子に乗ったり寝たきりになったり、目が見えなくなったり手が動かなかったり、世の中にはもっとひどい障害に悩む人がいる。私は幸せ者なんだな、と改めて感じることが出来たことも良かったと思う。テレビで片手が生まれつき不自由な人が、水泳選手としてオリンピック目指して頑張っている姿を映し出していた。「私は手が片方ないけど、それは私の個性だと思ってます」というこの選手の言葉は、負け惜しみというより「正直な気持ち」を表していると思ったのだ。ライオンには鳥の翼は無い。鳥には魚のエラは無い。他の人にあって自分にないことをマイナスと捉えるのではなく、「自分に出来ることを見つける」プラス思考が、我々皆んなに取って大事なんだと教えられたのである。人と自分を比較してもその人になれるわけではない。もっと自分を大切にしよう、もっと自分を好きになろう。それが私が病気をして得た「もっとも大切なこと」だ。来年はジムに行って筋力強化などしてみたい、そんな計画もするほどに進歩してきたリハビリ、もしかしたら全快するかも、である。

(5)ファッションに目覚める
シューズ・バッグ・帽子・メガネ・アウターと、前に買っていたものを引っ張り出してみたら意外と自分に似合っていたという発見があった。最初は合わないと思ってタンスの引き出しにしまいっぱなしだったのだが、久し振りに着てみると「案外イケるじゃん」というのが驚きである。もしかしたら脳梗塞の後遺症で顔が片面麻痺してたのがだんだん治ってきて、顔の形が変化したために似合ってきたのかも知れないと思っている。こないだ新しく「GRAVISの白いエナメルのスニーカー」を買ってきて、靴は都合4つになった(雨用のゴム長靴とサンダル代わりの「つっかけ」は別)。不思議でも何でも無いことだが、服というのは「いくらあっても欲しくなる」ものである。女の子が靴を30足も持っているというのが分かる気がした。物欲は三大煩悩の一つだと言うけどホントである。ちなみに三大煩悩のその他は権力欲と名誉欲(食欲や性欲や睡眠欲などの動物全般に共通の本能は除外した)。そのうち物欲はお金があれば誰にでも満たされる欲望であり、ファッションは特に毎年のように新作が出て、Tシャツ・パーカー・セーター・ダウンジャケット・パンツ・シューズと、切りがない。こないだ「断捨離」したばっかりだと言うのにこの有様では、この先どんくらい貯まるのか末恐ろしい。ファッションというのは自分が楽しめればそれで良いのだが、どうしても他人の目が気になってしまうもの。それを気にせずに「めちゃめちゃ目立つ恰好なのに、さり気なく着る」ことが出来れば、それが強烈な個性となる。肝心なことは「恥ずかしがらない」こと。あなたがどんな格好をしていようが、気にする人などいないのが事実なのだ。そんな無関心な人々の真っ只中で暮らしている無名なあなたが、自分の着てみたい服を着ないでどうする?、というのが私の言いたかったことである。だから私は遠慮しないことにした。思いっ切り格好良い服装で生きていくことに決めたのだ。というわけで今年はファッション開眼元年と位置づけたい。来年はお洒落に生きるぞー!

(4)可愛い老人、竹内まりあ
63歳だってのが超ビックリ。アルバム買ってみようかな、とも思った。いつも見ている有名人が「年齢を聞いてビックリ!」ということ、ありますよねぇ〜。歌手マドンナが60歳、こないだマツコ・デラックスの番組に出ていた風吹ジュンが66歳、昔なら老齢と「老」の字がついちゃう年齢だが全然老人には見えない。そりゃそうだろう、女性の平均年齢が87歳、男性で80歳を超える時代である。60ー70歳はまだまだガキである。平均余命で見れば男性でも85歳くらいは生きるのだから、私などは69歳なので「あと15年は余裕で生きている」計算だ。当然ながら体力も動きも「それなりに維持しているのが当たり前」である。細胞自体が長生きしてるというのも確かだが、それよりも「新陳代謝が持続している」ことが大きいと思う。私は病気したせいで老人ホームや介護施設を見て回った経験があるが、衰えてる人は新陳代謝が落ちているのである。体の細胞が「新しく作られる」のが新陳代謝であるから、「気持ちが若々しい」ということが必要条件に違いないのだ。最近それを実感したことがあったので、ちょっとここで紹介しよう。朝、会社に行くので上野で常磐線から山手線品川方面ホームへ乗り換える時にそれは起こった。階段を登っていく私の前に「彼女」が降りてきたのだ!。「めぐり逢い」のケイリー・グラントとデボラ・カーか、「めぐり逢えたら」のトム・ハンクスとメグ・ライアンか、はたまた「めぐり逢いリメイク版」のウォーレン・ベイティとアネット・べニングか、とにかくいずれ劣らぬ美貌とコケティッシュな魅力を持つ女優達だが、それに勝るとも劣らないくらいの「美しく知的な美女」がまっすぐ降りてきたのである(残念ながらシャルル・ボワイエとアイリーン・ダン主演の「邂逅」は見ていないが、この際そんな事はどうでもいい)。大事なことは彼女の髪型や服装や持っているバッグや体型・脚の形など、彼女の特徴を「まるで覚えていない」ということなのだ!。何も覚えていない、ただ大きな黒い瞳以外には!・・・である。私の方をじっと見てた「その瞳の美しさ・大きさ」といったら、私は思わず「アイ・コンタクトしていた数秒間」何も考えず、魅入られたように見つめ合っていた。それしか覚えていないのである。これは恋なのか、いや一瞬で恋に落ちるということが本当にあるのだろうか。考える間もなく彼女は階段の下に消えていった。私は消えていった彼女の後を追いかけることもなくその場に立ち尽くしていた。一度きりの恋(まあ誰にでもある経験ではあるが)、私の心にもまだこんな感情が湧いてきたということに驚いたのだ。それがつまり、心の「新陳代謝」である。

以上で10位から4位までお届けしました。続くは明日、よろしくお願いします。

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