みんなの僧

24で僧侶になり54で住職になるまで夢や悩みを聞き続けて30年。

超伝「実忠和尚とお水取り」~龍穴に纏わる伝承~

2012-03-15 12:27:09 | 日記
先ずは、神聖な吉祥龍穴の写真を拝んで頂きつつ、面面と徒然に。

「龍穴」は「流血」の意味もあります。母が体内の血を先ず、汗に変化させ、汗が「血からできた血」と精製されて「乳」と呼ばれます。

同じように、雨=天(真理=如)は血であり、天の血が「龍」の体内で人への恵みの「飲み水」と変化します。(厳密には海水=血→雨=汗→龍=濾過・精製→飲み水)

この場合「龍」は濾過・精製の役割を果たす意味に成ります。

濾過・精製を経ないと天水=雨水は 人間には耐えられない毒素(現在ならば放射能)が含まれます。

乳が血から出来ているとは言え、そのままは飲用乳に適さぬように雨水を溜めて直接飲むのは 身体に良くありません。

果たして、天水=雨水は「龍」の胎内で精製・濾過されて飲用水となるのです。
科学的な表現をしても、空中に漂う科学的物質を含む雨を直接飲むことは良くないですね。ましてや福島原発の放射能が飛散する ここ10年は。

もともと「命」は「意の血」のことで、「血の意味」を表し、「個人それぞれの血のアイデンティティ」を示します。

では「血」とは何か?

それは「濾過・精製された水」に「DNA」が「完全に融合」されたものです。

その「血」にそれぞれの「意」=「アイデンティティ」が「完全に融合」したもの、それが「意の血」=「命」なのです。


そんな「命」の大元になる飲用水が大事でない筈はありません。

ましてや、龍の体内で濾過・精製されて流(龍)れ出す瞬間の場所=龍穴が最高に大切で大事な場所であろうことは言うまでもありません。

今も昔も家庭にある水の出口を「蛇口」と言うでしょう?蛇は龍の孫の孫みたいな存在です。各家庭の飲用水が出る口を大元の「龍穴」と呼ぶのは流石に失礼なので、龍の孫の孫ぐらいと言う意味で「蛇口」としたのです。
「水口」と呼ばないのは飲用に適さないものと、適するものを区別するために「蛇口」とつけたのです。(でも、蛇穴だと抵抗があるので蛇口)

賢いですね。日本人のご先祖さんたちは!

ましてや天水=雨水を濾過・精製された「天からの飲用水」が大量に流(龍)れだす「龍穴」が神聖中の神聖でなかろう筈もありません。
「龍穴」は、物理的には火山活動によって出来たものですから空間があります。その空間を「龍が通る・棲む穴」としたのでしょう。

東大寺の天才僧侶・実忠和尚はそんなこと全てを理解した上で入穴して、瞑想したに違いありません。龍穴の長さ・深さが一里(4キロ)

実忠和尚は発見しました。天水が龍の胎内で飲用水と変化するなら、その逆も可能性があると。

物質が他の物質に置き換わることやその意味を置き換えることを「置換」と言います。英語なら「laundering」かな?

まさに龍穴は天水(雨水)を飲用水(聖水)に置換する装置なのです。
仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝
天水が飲用水に置き換わるのなら、人間が天=真理=如に置き換わることも可能なのではないか?

「如となってこそ悟りではないのか? 瞑想や内観は東大寺の大仏殿や何処でも出来る。私は真理=如の本質を知りたいのだ。見たいのだ。自分自身が如となり真理とならなければならない。その為には、天水が飲み水と置き換わる、あの龍の胎内に入り、自分自身を置き換えるのだ!」

実忠和尚は決心して龍穴から龍の胎内に入った。
真理=如の実相を知り、見なければ胎内から出ることは無い!と決意して龍の胎内に入って行くとどんどん奥があり、深くなる。一里(約4キロ)は進んだろうか… 真っ暗である。「ん、ここにしよう」と結跏趺坐し瞑想に入った。不退転の決意で。

どれだけの時間が経ったろうか?時間の感覚や視覚と言った感覚はもう無い。天水から飲み水に変わった水滴が一滴ポトリと和尚の頭頂部に落ちた。「あー、わしはまだ生きとるんだなぁ」暫くすると 頭がジンジンして来て目頭が熱くなってきた。暗闇を見開いても意味は無いが、凝視した。もう、瞑想も意味を成さない。龍の胎内の暗闇は居るだけで瞑想なのだ。

実忠和尚は自分が飛んでいるように感じ始めた。どんどん勢いが強くなり、前に進んでいるのか、後退しているのか分からない。

すると、観たこともない光景(ビジョン)が突然見えてきた。

宇宙だ。天そのものだ。地上から見上げると塵のような星が見たことも無い大きさと輝きで眼前にある。
また、その色合いは入り交じり、曼荼羅図をかき混ぜたような配色である。

星と星が引き合い、星が星を周り、星と星がぶつかり合い大爆発さえしている。目の前を通り過ぎた星は真っ赤に燃えている。

「わしは星になったのか?」

止まっていると思った自分さえも動いているようだ。
度肝を抜かれ、驚嘆し続けていた実忠和尚であるが、一念発起したことを思い出してきた。

「わしは天となり、如となった。しかし、わしはわしの為だけではなく、末の世の人にも天を如を知らせたい」

結跏趺坐を解き、実忠和尚は直感だけを頼りに ひたすら出口を目指した。
ようやくたどり着いて出た所は龍穴と呼ばれた場所とは違った。見たことも無い場所だ。満天の星空だった。
「わしはあそこ、とそつ天に行ったのだな」としみじみ思った。龍の穴から入り違う所に出でた。だから、ここは口だろう。だから「龍口」と名付けよう。

その後実忠和尚は自分が見た宇宙全ての、真理の実相を忠実に再現した。「真理」の「実相」を「忠実」に再現した彼の事を他の僧侶達は畏敬の念を込めて呼んだ「実忠和尚・じっちょうかしょう」と

ディスカバリーチャンネルを見ながら良く思う。真理の実相は宇宙全てであり、また、その反対の最小単位「素粒子」の世界もまた、「宇宙」そのものだと。一(素粒子)は如(宇宙全て)である。

東大寺・修二会の行は拙僧をコスモス(宇宙の実相)に