写真は本堂から 西側に向いてのもの
晴れてはいるが まだまだ寒い
ありきたりな話題だがあえて一筆。
放送中であるNHK朝の連ドラ主役・小原糸子こと小篠綾子さんの生き様が下敷きになっている物語「カーネーション」が今週で終わる。
実際にあったことが骨組みだから 脚色されてるとは言え 真に迫って面白かった。
題材は「ファッション」だったが、脚本家の「渡辺あや」さんがドラマを通じて伝えてくれたのは、「活きた哲学」であり「生きる哲学」だった。
我々男どもの哲学は、とかく理屈で、しばしば屁理屈も混入している。
中学一年生から厭世思想にかぶれ「ショーペンハウエル」に傾注していた拙僧は 少年時代から、とかく理屈っぽく、屁理屈も多用しまくって来た。
だからと言っては何だが、近親憎悪で、理屈っぽい野郎やウンチクたれは嫌いだ。特に理屈っぽいオッサンは天敵である。
出来れば因縁つけて、八方手を尽くして、苛めたりしたくなる。
でも、ある時その理屈に「真の哲学」を見出したり、「愛」を感じると 真逆に大好きになったり、ファンになったりする。
その違いは何か?
簡単明瞭
「哲学や理屈が生き様に反映されているか?」か「哲学を分かり易く何かに表現出来ているか?」
だから、文章や本だけで語り尽くしたり、講演会ばかりやっている御仁は 殆ど信用してない。
その点、瀬戸内寂聴さんは 生き様が素晴らしく「表現」物に哲学が貫かれている。道徳的と言う意味ではないし、立派とか言う陳腐な形容でもない。ひたすらに己の煩悩と向き合っておられると言うことだ。
サッカーであろうが、茶道であろうが、ゴルフであろうが、木彫であろうが、 その哲学が、それぞれを通じて「表現」し続ける事が肝要なんである。
三浦雄一郎という、桁はずれた「馬鹿じじぃ」がいる。拙僧は三浦さんをこよなく愛して、尊敬している。
小賢くなく、馬鹿大きい。
老人、少年に関係なく、伝わる「生き様哲学」がある。
それに比べると某田原のじじぃは駄目だ。世間と政界とマスメディアの吹き出物みたいなじじぃだ。第一に人相が悪相である。
何の表現も出来ていないし、結局は高度成長期の屁理屈たれだ。色んな事や色んな真相や政界の裏事情に明るいだろうが、それが
どうしたって言うんだ?あんたが居なくたって日本は高度成長していたし、マスメディアが育たなかった事は無いだろうぜよ
あまりにキライなんで、櫻井よしこさんに「あんなんに放言させといたらアキマヘンで」と直言したことがある。
ニコニコとただ笑っていらっしゃったが……
結局は哲学の通ってない、「表現」は底が浅い。口笛太郎さん的に言うと「堀内の野球解説」みたいなもんだ。
でも、もぅ どうでもいい他人の非難は止めておこぅ
話を本題に戻すと 女性に取っての「哲学」は「ファッション」であり「ヘアスタイル」であることは間違いない。
また、それで良いと思う。
言葉遊びの羅列が哲学と言うならクソクラエダ。哲学に始まり、実践と表現に至らなければ、人間という、三次元思考動物に生まれて来た価値は無い。
ベンツやフェラーリやポルシェも車を通した哲学の表現だ。
所有する喜びとかは三の次であって、開発者の哲学を共有する喜びが、大事だ。
高価な物だからなかなか共有出来ないが、素晴らしい哲学表現の一つだと思う。
昔のソニーの製品やホンダのASIMOにも哲学表現の極みを感じた。
いつの間にか 色んな表現哲学が金銭主義に籠絡されてしまった。いや、工業製品だけじゃない、音楽の業界だっておんなじだ。
ツマラン。
しかし、探せばまだまだ、面白い製品や音楽の哲学に遭遇出来るはずだ。
アキラメズにやっていこう。
ちなみに、ショーペンハウエルの幸福論に曰わく、幸せは「朗らか」に尽きると結論づけている。
毒舌と偏屈の極地で到達した彼岸は「朗らか」
ばかばかしいが、けだし「名言」で「真理」
某田原は朗らかさの欠けらもないが、三浦雄一郎さんは「朗らか」の極地だ。
ポジティブみたいな肩の凝るやつじゃなく、「朗らか」っていいな。
拙僧も「朗らかな方ですね」と言われる様になれば 本望だが、言われる時には 彼岸が近づいている頃だろうな……
二流のハウツウ本や啓発本、紛いもんの癒やし宗教書読むんだったら、毒舌の極地の哲学参考書、ショーペンハウエルの「幸福論」をお薦めする。
読むのが嫌いなら、超一流と呼ばれているファッションをみたり、絵画を観賞したり、ブルーノートにアル・ジャロウ聴きに行ったりすればいい。
超一流には言葉を超越した「活きた哲学」が満ち満ちているから。
今はコワいけど、若き日の美輪明宏さんも「美しい哲学」だったな。 やはり、この世は「無常」だ。やりきれないけど、愛おしい。
「それでイイノダ、人間だもの!」
晴れてはいるが まだまだ寒い
ありきたりな話題だがあえて一筆。
放送中であるNHK朝の連ドラ主役・小原糸子こと小篠綾子さんの生き様が下敷きになっている物語「カーネーション」が今週で終わる。
実際にあったことが骨組みだから 脚色されてるとは言え 真に迫って面白かった。
題材は「ファッション」だったが、脚本家の「渡辺あや」さんがドラマを通じて伝えてくれたのは、「活きた哲学」であり「生きる哲学」だった。
我々男どもの哲学は、とかく理屈で、しばしば屁理屈も混入している。
中学一年生から厭世思想にかぶれ「ショーペンハウエル」に傾注していた拙僧は 少年時代から、とかく理屈っぽく、屁理屈も多用しまくって来た。
だからと言っては何だが、近親憎悪で、理屈っぽい野郎やウンチクたれは嫌いだ。特に理屈っぽいオッサンは天敵である。
出来れば因縁つけて、八方手を尽くして、苛めたりしたくなる。
でも、ある時その理屈に「真の哲学」を見出したり、「愛」を感じると 真逆に大好きになったり、ファンになったりする。
その違いは何か?
簡単明瞭
「哲学や理屈が生き様に反映されているか?」か「哲学を分かり易く何かに表現出来ているか?」
だから、文章や本だけで語り尽くしたり、講演会ばかりやっている御仁は 殆ど信用してない。
その点、瀬戸内寂聴さんは 生き様が素晴らしく「表現」物に哲学が貫かれている。道徳的と言う意味ではないし、立派とか言う陳腐な形容でもない。ひたすらに己の煩悩と向き合っておられると言うことだ。
サッカーであろうが、茶道であろうが、ゴルフであろうが、木彫であろうが、 その哲学が、それぞれを通じて「表現」し続ける事が肝要なんである。
三浦雄一郎という、桁はずれた「馬鹿じじぃ」がいる。拙僧は三浦さんをこよなく愛して、尊敬している。
小賢くなく、馬鹿大きい。
老人、少年に関係なく、伝わる「生き様哲学」がある。
それに比べると某田原のじじぃは駄目だ。世間と政界とマスメディアの吹き出物みたいなじじぃだ。第一に人相が悪相である。
何の表現も出来ていないし、結局は高度成長期の屁理屈たれだ。色んな事や色んな真相や政界の裏事情に明るいだろうが、それが
どうしたって言うんだ?あんたが居なくたって日本は高度成長していたし、マスメディアが育たなかった事は無いだろうぜよ
あまりにキライなんで、櫻井よしこさんに「あんなんに放言させといたらアキマヘンで」と直言したことがある。
ニコニコとただ笑っていらっしゃったが……
結局は哲学の通ってない、「表現」は底が浅い。口笛太郎さん的に言うと「堀内の野球解説」みたいなもんだ。
でも、もぅ どうでもいい他人の非難は止めておこぅ
話を本題に戻すと 女性に取っての「哲学」は「ファッション」であり「ヘアスタイル」であることは間違いない。
また、それで良いと思う。
言葉遊びの羅列が哲学と言うならクソクラエダ。哲学に始まり、実践と表現に至らなければ、人間という、三次元思考動物に生まれて来た価値は無い。
ベンツやフェラーリやポルシェも車を通した哲学の表現だ。
所有する喜びとかは三の次であって、開発者の哲学を共有する喜びが、大事だ。
高価な物だからなかなか共有出来ないが、素晴らしい哲学表現の一つだと思う。
昔のソニーの製品やホンダのASIMOにも哲学表現の極みを感じた。
いつの間にか 色んな表現哲学が金銭主義に籠絡されてしまった。いや、工業製品だけじゃない、音楽の業界だっておんなじだ。
ツマラン。
しかし、探せばまだまだ、面白い製品や音楽の哲学に遭遇出来るはずだ。
アキラメズにやっていこう。
ちなみに、ショーペンハウエルの幸福論に曰わく、幸せは「朗らか」に尽きると結論づけている。
毒舌と偏屈の極地で到達した彼岸は「朗らか」
ばかばかしいが、けだし「名言」で「真理」
某田原は朗らかさの欠けらもないが、三浦雄一郎さんは「朗らか」の極地だ。
ポジティブみたいな肩の凝るやつじゃなく、「朗らか」っていいな。
拙僧も「朗らかな方ですね」と言われる様になれば 本望だが、言われる時には 彼岸が近づいている頃だろうな……
二流のハウツウ本や啓発本、紛いもんの癒やし宗教書読むんだったら、毒舌の極地の哲学参考書、ショーペンハウエルの「幸福論」をお薦めする。
読むのが嫌いなら、超一流と呼ばれているファッションをみたり、絵画を観賞したり、ブルーノートにアル・ジャロウ聴きに行ったりすればいい。
超一流には言葉を超越した「活きた哲学」が満ち満ちているから。
今はコワいけど、若き日の美輪明宏さんも「美しい哲学」だったな。 やはり、この世は「無常」だ。やりきれないけど、愛おしい。
「それでイイノダ、人間だもの!」