毎日モーツァルト!

モーツァルト初心者なので、モーツァルトの曲をたくさん覚えたい♪BS2の番組『毎日モーツァルト』の曲名を毎日?記録します。

【第45回】 ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310 第2、3楽章より

2006年03月31日 | パリ
1778年 モーツァルト22歳の作品。
初めて短調で書かれたピアノ・ソナタ。
緊張感に満ち、悲痛な情感にあふれている。

 (ピアノ)クリスティアン・ツァハリス
 【出演】 (声楽家)鮫島有美子


 - 母の死 -

1778年6月、モーツァルトがパリで就職活動に奔走しているとき、体調のすぐれなかった母マリア・アンナが病のため寝込んでしまう。
モーツァルトは母親に薬を用意し、ドイツ語の通じる医者を探した。しかし高熱が続き意識がもうろうとした状態が続く。
そして寝込んでから15日目、母マリア・アンナは帰らぬ人となった。
マリア・アンナ57歳、生涯モーツァルトを支えた母だった。

モーツァルトは母の死を看取った晩、ザルツブルクの父と姉に手紙を書いた。衝撃を少しでも和らげようと「母の容態が重い」とだけ伝えた。同時にブリンガー神父にも手紙を書き、こちらには事実を知らせた。

「今日は僕の生涯で最も悲しい日だった。僕の愛する母はもういない。神に召されたのだ。まるでろうそくの火が消えるように。」 モーツァルトの手紙 1778年7月3日

母マリア・アンナの葬儀はサン・トゥスタシュ教会で行われた。
母マリア・アンナを見送ったのは、モーツァルトと友人の2人だけだった。
初めて肉親の死に直面したモーツァルト。その心の衝撃は大きかった。

【第44回】 交響曲 第31番 ニ長調“パリ” K.297 第1楽章より

2006年03月30日 | パリ
1778年 モーツァルト22歳の作品。
自筆譜には“10種の楽器のための交響曲”と書かれており、モーツァルトには珍しく何度も推敲した跡がある。
ヴァイオリンなど弦楽器だけでなく、金管・木管楽器も駆使されている。

 (演奏)イギリス室内管弦楽団
 (指揮)ジェフリー・テイト
 【出演】 (指揮者)大野 和士


- 久しぶりの大喝采 -

かつてモーツァルトもたびたび訪れたチェイルリー宮殿では、当時定期的な演奏会が開かれ話題を呼んでいた。それは「コンセール・スピリチュエル」と呼ばれる18世紀に始まった新しいタイプの公開演奏会。ヨーロッパ中の優秀な音楽家を集め、上質な演奏を聞かせることで評判を呼ぶ。

その音楽監督のルグロがモーツァルトに白羽の矢を立てた。
コンセール・スピリチュエルのオーケストラは当時最大規模の57人。
「大編成のオーケストラの特徴を生かした交響曲を作ってほしい」という依頼だった。
モーツァルトにとっては作曲の才能を見せる絶好のチャンス。モーツァルトはなみなみならぬ意欲で臨んだ。

1778年6月、チェイルリー宮殿での『交響曲第31番』初演の日を迎える。
モーツァルトは聴衆の反応が気になり客席に座る。
大編成のオーケストラが奏でるダイナミックな響きに聴衆は大喜びした。
何度も拍手喝采が起こり、会場は大いに盛り上がった。
モーツァルトは嬉しさのあまり演奏会を最後まで聴かずに会場を飛び出す。
向かったのはパリで最もにぎわっていた広場、パレ・ロワイヤル。
当時からカフェやレストランが並んでいた。
モーツァルトはここで大好物のアイスクリームにひとり舌鼓をうつ。
モーツァルトは久しぶりに自信を取り戻した。
久しぶりの成功・・・しかしその喜びは長くは続かなかった。

【第43回】 バイオリン・ソナタ ホ短調 K.304より 

2006年03月29日 | パリ
1778年 モーツァルト22歳の作品。
就職活動で忙しい頃に作った短調の曲。
明るさに憂いを含んだ旋律で、パリの貴族好みの優雅でたおやかな他の作品とは違っていた。

 (バイオリン)フランク・ペーター・ツィンマーマン
 (ピアノ)アレクサンダー・ロンクヴィヒ
 【出演】 (東京大学特別栄誉教授)小柴 昌俊


- 母の病気 -

このころ、旅に同行していた母マリア・アンナに異変が起きる。
母マリア・アンナがモーツァルトの就職活動の旅に付き添って半年、長旅と慣れない異国暮らしの疲れのため、マリア・アンナはパリで体調を崩してしまう。
ザルツブルクから工面して持ってきた旅行資金はまもなく底をつこうとしていた。高熱が出て体中が痛んだが、マリア・アンナは薬も買わずに部屋に閉じこもっていた。

母マリア・アンナはいつも明るい性格。モーツァルト一家の心の支えだった。
父レオポルトに代わってひとり息子に同行し、故郷への手紙の中では夫と娘に気遣いながらモーツァルトの就職活動の様子を伝えた。手紙にはパリ暮らしの苦労もつづられている。

「1日中1人きりで部屋の中に座っています。まるで牢獄に入れられているみたいです。」 母マリア・アンナの手紙より

息子は外出ばかりで寂しい思いでいること、さらに調理法の違う食事が口に合わないことなどを夫レオポルトにこぼしている。

「野菜スープですが、私、好きじゃありません。それと石のように硬いレバーが出ます。晩にはスープも飲みません。手紙では書き尽くせないほどで、とても辛抱できません。」

モーツァルトが気づかないうちに、母の病は少しずつ重くなっていった。

【第42回】 J.C.フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲K.179より 主題、第1~第4変奏

2006年03月28日 | Weblog
ヨハン・クリスチャン・フィッシャー(当時のイギリスの宮廷楽団で活躍していた有名なオーボエ奏者)の作った旋律をもとに華やかな曲にまとめ上げたもの。

 (ピアノ)ダニエル・バレンボイム
 【出演】 (“モーツァルト劇場”主宰)高橋 英郎

 
- 失意のパリ -

1778年、この街を訪れたモーツァルトにパリは冷たかった。
芸術の都としてヨーロッパ中の感心を集めていたパリだが、このころ王宮の財政は破たん寸前。貴族文化もらん熟期を迎えていた。
モーツァルトは多くの貴族のもとを訪ねるが、かつての待遇とは全く違い、作曲や演奏の依頼を受けても十分な報酬は得られなかった。

「演奏すると誰もが言います。“ああ これは天才だ 驚きましたな”
 しかし、それで はいさよなら です。」 モーツァルトの手紙 1778年5月1日 より。

ヴォージュ広場に面する館には、当時貴族たちが多く住んでいた。
ある日モーツァルトはこの一角にあったシャボ公爵邸を訪ねた。寒い部屋に通され1時間以上待たされたあげく、モーツァルトが演奏を始めても誰も真剣に聴こうとしなかった。
その時シャボ公爵邸で弾いた曲がこの 『J.C.フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲』。曲調がパリの嗜好に合うと考え、モーツァルトはこの曲を好んで演奏会で取り上げた。この曲の華やかさがパリの人々に喜ばれるのではないか・・・!
しかしモーツァルトの期待はことごとく裏切られた。
かつて神童ともてはやしたパリの人々は、モーツァルトに以前ほど感心を示さない。

「要するにパリはすっかり変わりました。礼儀など、とうの昔になくしてしまいました」 モーツァルトの手紙 1778年5月1日 より。

予想もしなかった冷たいパリ。辛い日々は続く。

【第41回】 フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 第2楽章より

2006年03月27日 | パリ
1778年 モーツァルト22歳の作品。
ド・ギーヌ公爵とその娘のために作った曲。
当時貴族の間ではハープが流行しており、この曲はその時代の優雅な雰囲気を伝えている。

 (フルート)エマニュエル・パユ
 (ハープ)マリー・ピエール・ラングラメー
 (演奏)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 (指揮)クラウディオ・アバド
 【出演】 (ハープ奏者)吉野 直子


 - パリ 再び -

1778年3月 モーツァルトは母と二人パリに到着した。
当時のパリは貴族文化が花開きヨーロッパの芸術の中心地。モーツァルトはこの街で認められ、大きな仕事のチャンスを得ようとしていた。
モーツァルトはあらゆるつてを頼って収入の糸口をつかもうとする。グリム男爵に音楽関係の貴族を紹介してもらい、貴族が多く住むこの一角に住み、精力的に仕事を探した。

ある日、有力者のド・ギーヌ公爵から娘の音楽レッスンの依頼が舞い込む。
モーツァルトは毎日2時間のレッスンに通った。
ド・ギーヌ公爵に気に入られたモーツァルトは作曲の依頼を受ける。
公爵自らがフルートを吹き、娘がハープを弾くための曲だった。
ド・ギーヌ公爵は王妃マリー・アントワネットの信頼が厚い人物。
モーツァルトは宮殿で職を得ることを期待していた。
当時のパリはフランス革命のおよそ10年前。貴族文化は最後の輝きの中にあった。
モーツァルト22歳。夢を追い求めるパリの日々は続く。

■ 格安CD

2006年03月25日 | ちょっと休憩
モーツァルト初心者の私が曲を覚えたいと思い始めた頃に買ったCDは、1枚315円の格安CD。4枚シリーズで、有名な曲がけっこうたくさん収録されています。
曲の中で、ポピュラーな楽章のみピックアップされていたりするので、初心者の私でも「この曲聴いたことある!」という曲がたくさん。
お手頃価格なので、オススメです。

演奏は、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団。
ジャケットのモーツァルトの顔が4枚とも違うのが面白いです。

【第40回】 バイオリン・ソナタ ハ長調 K.296 第2、3楽章より

2006年03月24日 | マンハイム
1778年 モーツァルト22歳の作品。
マンハイムの宮廷の役人の娘テレーゼに贈った曲。

 (バイオリン)フランク・ペーター・ツィンマーマン
 (ピアノ)アレクサンダー・ロンクヴィヒ
 【出演】 (作家)赤川 次郎


- 引き裂かれる思い -
何かと理由をつけてマンハイム滞在を延ばしていたモーツァルトは、度重なる父の叱責にとうとうマンハイムを離れる事を決意した。それは愛するアロイジアとの別れを意味する。

出発を2日後に控えた日の午後、音楽家の仲間がささやかな演奏会を開いた。
モーツァルトが手ほどきした教え子たちも3台のクラヴィーアで演奏した。
その1台を弾いたのは宮廷の役人の娘テレーゼ。モーツァルトは親しみを込めて“妖精”と呼んでいたテレーゼにこの『ヴァイオリン・ソナタ ハ長調』を贈った。
2台目のクラヴィーアを弾いたのは、宮廷音楽家カンナビヒの娘ローザ。彼女には『ピアノ・ソナタ第7番』を贈っている。
そして3台目のクラヴィーアを弾いたのは愛するアロイジアだった。この日アロイジアはモーツァルトから贈られたアリアも披露した。そのアリアは『私は知らぬ この優しい愛情がどこからやってくるのか』。この日はアロイジアの歌声とモーツァルトの奏でるクラヴィーアの音色がいつまでも響いていた。

このころ、音楽の都マンハイムを揺るがす出来事が起きる。
ミュンヘンでモーツァルトが謁見したマクシミリアン3世が、1777年12月急死。親戚関係にあるマンハイムのカール・テオドール侯が跡を継ぎ、宮廷をミュンヘンに移すことになる。音楽の都マンハイムは大きな曲がり角を迎えようとしていた。

モーツァルトがマンハイムを離れるとき、アロイジアは手編みのレースの袖飾りを贈った。そしていつまでも「さようなら」と叫んでいたという。
アロイジアへの思いを残しながらモーツァルトは旅立つ。目指すはパリ。

【第39回】 アリア“もし私の唇を信じないのなら” K.295より

2006年03月23日 | マンハイム
1778年 モーツァルト22歳の作品。
18世紀最高のテノール歌手と言われたアントン・ラーフのために書いたアリア。
このアリアの歌詞は、イタリア語のオペラ『アルタセルセ』がもとになっている。
ペルシャの王が暗殺され、青年アルバーチェは罪に問われる。
このアルバーチェが敵側にいる恋人に無実を訴える曲。

“ もし私の唇を信じないなら いとしい私の敵よ
   私の胸を開いて そしてよく見て 愛する心がどんなものかを ”

 (テノール)クリストフ・プレガルディエン
 (演奏)ラ・プティット・バンド
 (指揮)シギスヴァルト・クイケン
 【出演】 (俳優)斎藤 晴彦


- ベテラン歌手 ラーフ -

1778年2月。モーツァルトは早くパリに行って仕事を探すよう父レオポルトにせかされていたが、マンハイムには音楽仲間も恋心を抱く女性アロイジアもいる。暖かくなるのを待つという口実で出発をひきのばしていた。

アリア『もし私の唇を信じないなら』はこの頃作られた。
ラーフは、美しい曲だが自分には長すぎるので短くしてほしいと言う。
64歳のラーフは高い音域で歌うことが難しくなっていた。
モーツァルトはその注文を快く受け、この曲を短くして完成させた。
「服を仕立てるように歌手にぴったり合った歌を作りたい」と父への手紙に書いている。
これがきっかけでモーツァルトはラーフと親交を結ぶ。
2年後、ラーフはオペラの主役として再びモーツァルトの作品を歌うことになる。

【第38回】 オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314 第3楽章

2006年03月22日 | マンハイム
モーツァルト唯一のオーボエ協奏曲。
モーツァルトはこの曲を親しい音楽家の1人オーボエ奏者ラムに贈った。

 (オーボエ)ローター・コッホ
 (演奏)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 (指揮)ヘルベルト・フォン・カラヤン
 【出演】 (落語家)古今亭志ん輔


- 揺れる心 -

マンハイムの宮廷楽団への就職に失敗したモーツァルトであったが、マンハイムの優秀な音楽家たちとの交流は大きな収穫だった。
親しい仲間のいるマンハイムを去りがたいモーツァルト。マンハイムにとどまるもうひとつの理由はアロイジアだった。
アロイジアに夢中のモーツァルトは、父にも彼女のことを絶賛する手紙を送る。
父レオポルトからは、女性にうつつを抜かす息子を叱責する手紙が届く。
そしてある日、決定的な手紙が送られてきた。

「おまえはパリに発つのです! しかもすぐに!
    パリに行けば世界的な名声を得ることができるのだ」

気の合う音楽家たちと知り合い、愛する女性アロイジアに出会ったマンハイムでの4ヶ月。
父の意向に従ってマンハイムを離れるべきか・・・・。
モーツァルトの心は揺れていた。

【第37回】 アリア“私は知らぬこの優しい感情がどこからやってくるのか”K.294より

2006年03月21日 | マンハイム
1778年 モーツァルト22歳の作品。

このアリアは古代ギリシャのクリステネ王が1人の若者と出会ったときにこみ上げてきた親愛の情を歌っている。実はその若者は、別れ別れになった王の実の息子だった。

“私は知らぬ この優しい愛情がどこからやってくるのか
  私の胸にいつのまにか生まれてくるこの感情
   私の血管を流れるこの氷のようなおののきが
     私の中でこれほど激しく気持ちがかきたてられるのは
       ただ憐れみの気持ちだけからとは思えない”
      
もともとはテノール歌手のための曲だが、モーツァルトはアロイジアのために書き換えた。
モーツァルトはこの曲でアロイジアの魅力を最大限に引き出そうとし、彼女の得意な高音を聴かせどころにしている。

 (ソプラノ)ナタリー・デセイ
 (演奏)国立リヨン歌劇場管弦楽団
 (指揮)テオドール・グシュルバウアー
 【出演】 (声楽家)中嶋 彰子


- つのる思い -

1778年の冬をマンハイムで過ごしたモーツァルトは、オルガンの演奏をするため、イエズス教会(マンハイムの中心部にたつバロック様式の教会)をしばしば訪れた。
このころモーツァルトはアロイジアのためにこのアリアを作った。
アロイジアはこの曲をモーツァルトの前で見事に歌ってみせた。
その歌声を聴いたモーツァルトはますます恋心ををつのらせ、将来の夢をふくらませる。
“アロイジアとともに音楽を楽しみ、そして二人で人生を歩みたい”
モーツァルト22歳。真剣に向き合った愛から名曲が生まれた。