毎日モーツァルト!

モーツァルト初心者なので、モーツァルトの曲をたくさん覚えたい♪BS2の番組『毎日モーツァルト』の曲名を毎日?記録します。

【第93回】ミサ曲  ハ短調 「大ミサ」 K.427 「エト・インカルナートゥス・エスト」より

2006年06月14日 | ザルツブルク
1783年 モーツァルト27歳の作品。
「エト・インカルナートゥス・エスト」(御体を与えられ)は、キリストの降誕を賛美する歌。

ソプラノ: バーバラ・シュリック
指揮: ペーター・ノイマン
演奏: コレギウム・カルトゥジアヌム
出演: 黒板伸夫 (歴史学者)


 ~ 約束のミサ ~

1783年夏、ザルツブルクに帰郷したモーツァルト。
前年コンスタンツェとの結婚話にひとつの誓いを立てていた。それはもし結婚の願いがかなうならミサ曲を作り奉納するというものだった。

モーツァルトが13歳で書いた「ドミニクス・ミサ」が初演された聖ペテロ教会で、1783年10月26日、モーツァルトは妻コンスタンツェを伴い神に誓ったミサ曲を演奏した。姉ナンネルの日記にこの時の様子が書かれている。
“弟が自分のミサをあげた宮廷楽団員がみんな参加した” (ナンネルの日記 1783年10月26日)
指揮をしたのはモーツァルト自身。ソプラノのパートはコンスタンツェが歌った。
“エト・インカルナートゥス・エスト”(御体を与えられ)
“聖霊によって処女マリアより生まれ 人間になりたまえり”

大編成のこの曲は聖ペテロ教会の小規模楽団では演奏できなかったため、宮廷楽団員が大挙してモーツァルトのために演奏した。温かく迎えてくれた宮廷楽団の仲間たち。

結局父と姉はモーツァルトが期待したほどにはコンスタンツェを受け入れてくれなかったと言われている。
ミサの翌日10月27日、モーツァルトはウィーンへの帰途についた。

【第92回】ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 ト長調 K.423 第1楽章

2006年06月13日 | ザルツブルク
1783年 モーツァルト27歳の作品。
ザルツブルク大司教の命令で6曲の二重奏曲に取りかかっていたM・ハイドンが作曲の途中で病に倒れたとき、帰郷していた旧友モーツァルトが救いの手を差し伸べ、書いた曲。

ヴァイオリン: オーギュスタン・デュメイ
ヴィオラ: ジェラール・コセ
出演: 島田雅彦 (作家)


 ~ M・ハイドン ~

ミヒャエル・ハイドンは1737年オーストリアの地方都市ローラウで生まれた。
モーツァルトが尊敬する「交響曲の父」ヨーゼフ・ハイドンの実弟。兄同様、シュテファン大聖堂の聖歌隊(現ウィーン少年合唱団)で教育を受ける。1763年には25歳でザルツブルクの宮廷音楽家に就任。モーツァルトはザルツブルク時代から19歳年上のM・ハイドンを敬愛していた。特にM・ハイドンの教会音楽に強い影響を受けた。

ザルツブルクの三位一体教会で、M・ハイドンは1777年からオルガン奏者を勤めた。M・ハイドンは教会音楽や器楽曲を中心に360あまりの曲を書いた。1781年、モーツァルトがウィーンに移り住んだ後、後任の大聖堂オルガン奏者になったのもM・ハイドンだった。

M・ハイドンは、モーツァルトの楽譜を友情の記念として長らく大切にしていた。
モーツァルトもM・ハイドンへの敬愛を変わらず持ち続け、ウィーンに戻ってからもたびたびM・ハイドンの楽譜を取り寄せた。
他の宮廷からの誘いもあったM・ハイドンだが、この地に留まり続け、一生をザルツブルク宮廷に捧げた。

【第60回】 オペラ“ツァイーデ” K.344より アリア“やすらかにお休み、私のやさしい命よ”

2006年04月21日 | ザルツブルク
1780年夏 モーツァルト24歳の作品。
楽譜はモーツァルトの死後1799年に未完成の形で遺品の中から発見された。
ある旅回りの一座のために書いたオペラで、台詞がすべて地元の言葉・ドイツ語で書かれている。
第一幕でトルコ皇帝に仕える女性ツァイーデがこのアリアを歌う。
恋する青年の愛を獲得するため、ツァイーデはその枕元に密かに自分の絵姿を置く。

“ やすらかにお休み 私のやさしい命よ
    眠れ あなたのしあわせが目覚めるまで
      さあ 私の絵姿をあなたに差し上げましょう 
       ごらんなさい どんなに親しそうにそれがあなたに笑いかけるかを ”

(ソプラノ)ナタリー・デセイ
(演奏)ジ・エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(指揮)ルイ・ラングレ                  
【出演】 (声楽家)中嶋 彰子
  

 ~ オペラへの情熱 ~                  

1775年にモーツァルト一家が暮らすマカルト広場の家の向かいに宮廷劇場(今のザルツブルク州立劇場)が新たに建てられて以来、モーツァルトはこの劇場によく通い、旅回りの一座の公演を楽しんだ。
宮廷オルガン奏者としての日々が続いていた1780年、毎日の単調さを救うものといえば、旅回りの一座が上演する演劇だった。

未完の「ツァイーデ」に注がれたオペラへの情熱、それはモーツァルトを新たな本格的オペラの作曲へと駆り立てることになる。     

【第59回】 ヴェスペレ ハ長調K.339 第3曲ベアースト・ヴィルより/第5曲ラウダーテ・ドミヌム

2006年04月20日 | ザルツブルク
1780年秋 モーツァルト24歳の作品。
大司教コロレドの洗礼名・聖ヒエロニムスの祝日のための曲といわれている。
ヴェスペレとは、日没時に執り行われる祈りのこと。

(ソプラノ)エルナ・ベルガー
(コントラルト)マルガ・ヘフゲン
(テノール)ホルスト・ヴィルヘルム
(バス)フェルディナンド・フランツ
(演奏)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮)カール・フォルスター
【出演】 (俳優・演出家)ダリオ・ポニッスイ


 ~ 夕べの祈り ~
                   
“ 光は正しい者のために 暗闇の中にもあらわれる
   主は恵深く あわれみに満ち 正しくおわします
    惜しむことなく与え 恵を施し 正しい行いをする人は幸いである
 
  もろもろの国よ 主をほめたたえよ もろもろの民よ 主をたたえまつれ
   われらに賜るそのいつくしみは 限りなく大きい
    主のまことは とこしえに絶えることがない
     願わくは 父と子と聖霊に栄えあらんことを
      はじめにありしごとく 今もいつも世々にいたるまで”

モーツァルト24歳。大司教のために教会音楽を創作する日々が続いていた。

【第58回】 交響曲 第34番 ハ長調 K.338 第1楽章より

2006年04月19日 | ザルツブルク
1980年8月 モーツァルト24歳の作品。
ザルツブルク宮廷楽団のために書かれた。
当初、メヌエットを含む4楽章形式で書こうとしていたが、途中でメヌエットを削ったといわれる。第1楽章の楽譜の裏にはメヌエットの冒頭部分に×をして消した跡がある。そして最終的に3楽章形式となった。
1780年9月に初演されたといわれている。

(演奏)イギリス室内管弦楽団
(指揮)ジェフリー・テイト                          
【出演】 (作曲家)大島ミチル


 ~ 大司教の改革 ~
          
大司教コロレドは倹約・合理化を目指し、さまざまな改革を押し進めていた。
大司教の意向はこの交響曲にも影響を与えたといわれる。
コロレドの制約の中でモーツァルトはこの曲に創意工夫を懲らし、反復を控えて次々とメロディーを変化させていった。
『交響曲第34番』は短い演奏時間にもかかわらず、パリやマンハイムのオーケストラを彷彿させる雄大な作品で、ザルツブルク時代を代表する交響曲の名作の1つ。
大司教コロレドの改革のもと、モーツァルトは葛藤していた。      

【第57回】 ミサ曲 ハ長調 K.337より 第6曲 アニュス・デイ

2006年04月18日 | ザルツブルク
モーツァルト24歳の作品。
1780年3月、ザルツブルクで書かれた。

“ アニュス・デイ(神の子羊) 世の罪を除きたもう主よ
       我らをあわれみたまえ 我らに平安を与えたまえ ”

(合唱)ケルン室内合唱団
(演奏)コレギウム・カルトゥジアヌム
(指揮)ペーター・ノイマン      
【出演】 (作家)永井 路子

                             
 ~ 魂の歌声 ~                     

モーツァルトが13歳の時『ドミニクス・ミサ』を初演した聖ペテロ教会では、それ以来しばしばモーツァルトのミサ曲が演奏された。
倹約・合理化を推し進める大司教コロレドは、荘厳さを失うことなくミサ曲の演奏時間を短くするよう求めた。
高らかに歌い上げるソプラノの後に合唱が続き、音楽はクライマックスに達する。
モーツァルトは課せられた制約の中、魂の歌声を響かせた。 

【第56回】 バイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 第2楽章より     

2006年04月17日 | ザルツブルク
1779年 夏 モーツァルト23歳の作品。
ザルツブルク宮廷楽団のために作られた。
モーツァルトが完成させた数少ない協奏交響曲のひとつ。
第二楽章のアンダンテからはヴァイオリンとヴィオラがもの哀しい対話を繰り広げる。
                  
       (バイオリン)ユーディ・メニューイン
       (ビオラ)ルドルフ・バルシャイ
       (演奏)バース・フェスティバル管弦楽団
       (指揮)ユーディ・メニューイン
       【出演】 (作家)なかにし礼


 ~ 悲しみの旋律 ~

モーツァルトは前年夏、パリ滞在中にも別の協奏交響曲を書いたが結局それは演奏されずに終わっていた。協奏交響曲の作曲はモーツァルトの長い間の念願だった。
「協奏交響曲」とは18世紀後半にパリやマンハイムで流行した音楽の様式。複数の独奏楽器がオーケストラを背景に響きを作る。帰郷したモーツァルトはヴァイオリンとヴィオラをソロに据えて協奏交響曲を書いた。

1779年、モーツァルトが仕えていたコロレド大司教は、イタリア人音楽家を重用した。
イタリア人優位だったザルツブルクの宮廷楽団で新たなスタイルに挑んだのが、この協奏交響曲だった。
その異彩を放つ深い感情表現には、モーツァルトのパリ・マンハイムで母の死など辛い体験が重ねられている。

【第55回】 セレナード ニ長調 K.320 “ポストホルンセレナーデ” 第6、7楽章より

2006年04月14日 | ザルツブルク
1779年 モーツァルト23歳の作品。
「ポストホルン・セレナード」というこの曲の愛称の由来となったのが、第6章で高らかに鳴り響くポストホルンの独奏。
ポストホルンは当時馬車の御者が吹いたラッパ。帰郷する学生達を乗せる郵便馬車の合図だった。

 (演奏)ローザンヌ室内管弦楽団
 (指揮)イェフディ・メニューヒン
 【出演】 (N響主席トランペット奏者)津堅 直弘


 - 旅への郷愁 -

モーツァルトは宮廷音楽家として教会音楽の作曲と演奏をするほか、地元の大学のための音楽作りも重要な仕事としていた。
ザルツブルク大学は1622年に設立された。かつて学業を修了する毎年8月に、学生たちは管弦楽セレナードを演奏した。それは“フィナール・ムジーク”「修了の音楽」と呼ばれた。『ポストホルン・セレナード』はフィナール・ムジークのために書かれた。

1年の学業を終えた学生たちは、ミラベル宮殿で大司教を前に演奏する。こうしてフィナール・ムジークが幕を開ける。
宮殿での演奏を終えた学生たちは楽器を奏でながら夜の街に繰り出す。松明をともしながら行進を続ける。大学に到着した学生たちは教授たちの前で演奏する。感謝の気持ちを伝える演奏は、友人や恩師との別れの音楽でもあった。

旅立ちの時を告げて町中に鳴り響くポストホルン。人々が郵便馬車を使ってヨーロッパ中を旅した18世紀当時、いつも旅の傍らにはポストホルンの響きがあった。
愛してやまない旅の魅力をモーツァルトはこう語った。
“僕は断言しますが、旅をしない人はまったく哀れな人間です!凡庸な才能の人間は旅をしようとしまいと常に凡庸なままです。でも優れた才能の人はいつも同じ場所にいればだめになります”(父への手紙より)
モーツァルトの心は新たな旅を求めていた。

【第54回】 ディヴェルティメント ニ長調 K.334 第3、6楽章より

2006年04月13日 | ザルツブルク
1779年 モーツァルト23歳の作品。
モーツァルトのメヌエットの中でとりわけ有名なこの曲は、名門貴族ロビニヒ家のために書かれた。

 (演奏)ストックホルム室内管弦楽団
 (指揮)フランツ・ウェルザー・メスト
 【出演】 (漫画家)砂川しげひさ


 - 親友の門出 -

モーツァルトはロビニヒ家の二人の子供とよく遊んだ。
4歳年下の長男ジークムントを“ジーゲル”と呼び、親しんだ。1歳年下のルイーゼにはひそかに想いを寄せていたという。ロビニヒ家の演奏会では小さな手でピアノとヴァイオリンを奏でた。

かつてイタリア旅行に出かけたとき、モーツァルトは姉にことづけた。
「ジーゲルに会ったら僕を決して忘れないように伝えて下さい」
ザルツブルクを離れても、ジーゲルとの友情は変わらなかった。

ザルツブルクに戻り再会を果たしたとき、ジーゲルは大学卒業を迎えていた。モーツァルトはお祝いに曲を書き、「ロビニヒ家の音楽」と呼んだ。優雅な美しさに満ちた“嬉遊曲(ディヴェルティメント)”はこうして生まれたといわれる。

ディヴェルティメントとはイタリア語で“気晴らし”“娯楽”の意味。一堂に集った貴族たちのために楽士が演奏した“お楽しみの音楽”。
当時、貴族の生活には音楽が欠かせなかった。想いを寄せる女性に音楽でメッセージを贈り、誕生日や結婚式など人生の節目を音楽が華やかに彩った。
モーツァルトは宮廷のために手がける教会音楽にとどまらず、親しい貴族や知人にも作品を捧げた。
幼なじみとの友情のために書き上げたこの曲がザルツブルク時代を代表するディヴェルティメントの名曲となった。

【第53回】 交響曲 第33番 変ロ長調 K.319 第1楽章

2006年04月12日 | ザルツブルク
1779年 モーツァルト23歳の作品。
後のモーツァルト円熟期の作品との不思議な一致がみられる。
第1楽章の中で繰り返される旋律は、後年の傑作交響曲第41番「ジュピター」のテーマと符合する。その「ジュピター」と重なる旋律は、8歳で手がけた交響曲第1番にも現れ、モーツァルトが生涯好んだ旋律である。
ザルツブルクの豊かな自然の中から生まれたこの交響曲には、牧歌的な明るさが満ちている。後世著名な音楽学者は、「モーツァルトの田園交響曲」と呼んだ。

 (演奏)ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
 (指揮)オットー・クレンペラー
 【出演】 (作曲家)大島ミチル


 - 創作への意欲 -

1年4ヶ月にわたる長旅を終えて帰ってきたモーツァルトを、ザルツブルクの懐かしい風景が迎えた。
姉ナンネルと散歩を楽しんだミラベル庭園、家族と通ったマリア・プライン巡礼教会。父と姉と過ごす穏やかな時間が、旅先のパリで愛する母を亡くしたモーツァルトの心を慰めてくれた。
旅先で知ったマンハイムやパリの充実したオーケストラに比べ、演奏者が少なく演奏の水準も低かったザルツブルク宮廷楽団。こうした制約の中でいかに豊かな響きを生み出すか、モーツァルトは創作への意欲を奮い立たせた。
モーツァルトの音楽はさらなる成長をとげようとしていた。