毎日モーツァルト!

モーツァルト初心者なので、モーツァルトの曲をたくさん覚えたい♪BS2の番組『毎日モーツァルト』の曲名を毎日?記録します。

【第205回/最終回】セレナード ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K.525第3・4楽章

2006年12月29日 | フィナーレ特集
指揮: コリン・デイヴィス
演奏: フィルハーモニア管弦楽団

 ~ さらばモーツァルト ~

モーツァルトの人生をキーワードで振り返ります。

ザルツブルク~250年前ひとりの神童が誕生

幼少時代 旅から旅の日々

王侯貴族の賞讃

ロンドン~初めての交響曲

ミラノ~本場でオペラを上演

パリ~母の死

ミュンヘン~実らなかった恋

傷心の帰郷 大司教との衝突

ウィーン~25歳 故郷との訣別

自立 演奏会 順風の日々

運命の出会い コンスタンツェ

プラハ~「フィガロの結婚」

絶賛の嵐  しかしかげり始めた人生

妻の病気 

庶民のためのオペラ 「魔笛」

脚光再び

忍び寄る病魔

早すぎた死


不世出の天才音楽家は700とも言われる楽曲を残し、35年と10ヶ月の人生を駆け抜けた。

【第204回】交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 第4楽章

2006年12月28日 | フィナーレ特集
モーツァルト最後の交響曲。
シンプルな4つの音 ド レ ファ ミ
モーツァルトはこの4つの音型を生涯愛した。
それは8歳のときに書いた最初の交響曲にも登場する。

指揮: オットー・クレンペラー
演奏: フィルハーモニア管弦楽団
出演: ダニエル・ハーディング (指揮者)


 ~ 永遠の音楽 ~

モーツァルトが後世の音楽家に与えた影響ははかりしれない。

■ベートーヴェン
ベートーヴェンはモーツァルトを音楽の師と仰いだ。

“常に私は自分をモーツァルトの崇拝者のひとりと考えています
  これは生涯変わることはないでしょう” ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

■ブラームス
ベートーヴェンの後継者と評されたブラームスもモーツァルトを愛し、収集したモーツァルトの楽譜を生涯大切にしていた。

“今日では私たちはもうモーツァルトのように美しくは書けない
  できるのは彼が書いたのと同じくらい純粋に書くよう努めてみることだ”
                       ヨハネス・ブラームス 

■チャイコフスキー
叙情的な作風で知られるロシアのチャイコフスキーも敬愛した。

“私がこれほどモーツァルトを愛するのは
  生の喜びが表現されている音楽に安らぎと慰めを求めていればこそです”
                       ピョートル・チャイコフスキー

■リヒャルト・シュトラウス
世紀末に活躍したR・シュトラウスはモーツァルトを「奇跡」と評した。

“モーツァルトの旋律はすべて地上の姿かたちから解放され 
  死すべきものと不死のものの間を漂う” リヒャルト・シュトラウス

■ストラヴィンスキー
20世紀の作曲家ストラヴィンスキーもモーツァルトの重要性うぃこう説いた。

“モーツァルトは我々にとって力強い灯台のようなものであり
  その光と熱から後継者たちの共通性が展開されるのです”
                     イーゴリ・ストラヴィンスキー

モーツァルトが築き上げた豊かな音楽世界は21世紀の今なお数多くの音楽家や音楽ファンを魅了し続けている。

【第203回】交響曲 第40番 ト短調 K.550 第4楽章

2006年12月27日 | フィナーレ特集
指揮: ネヴィル・マリナー
演奏: アカデミー室内管弦楽団
出演:  岩城宏之 (指揮者)


 ~ 世紀を越えた賞讃 ~

モーツァルトの音楽を称える声はその死後ますます高まっていく。

■ゲーテ
当時ドイツ文芸界に君臨していた「疾風怒濤運動」の担い手。
ゲーテは生涯モーツァルトを愛し、自らオペラ「魔笛」を上演するほどだった。

“モーツァルトのような現象はどうにも説明のつかない奇跡だ” 
                     ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

誰も真似できないような芸術家の誕生をゲーテはデーモン(悪魔)の仕業と評した。

“悪魔は人類をからかうために時々魅惑的な人物を生んでみせるのだ。その悪魔が音楽の分野に生んだのがモーツァルトだった。”

■スタンダール
1814年まだ無名だったスタンダールはモーツァルトの伝記を自費で出版。
その後も数々の自署の中でモーツァルトについて触れている。

“天才の魂がこれほど裸で現れたことはなかった” スタンダール

37歳のとき書いた自分自身の墓碑銘の文案にはモーツァルトへの愛が書かれていた。

“私が生涯本気で愛したのは チマローザ モーツァルト シェイクスピアだけである。


モーツァルトを愛した思想家も数多く存在する。

■キルケゴール

“不滅のモーツァルトよ!私の身に起こった一切のことは君のおかげなのだ。
  私が分別をなくしたのも 私の魂が呆然としているのも
   私が生の歩みにおいて心を揺さぶられたのもみんな君のおかげなのだ”
                        ゼーレン・キルケゴール

■カール・バルト
20世紀を代表するキリスト教神学者カール・バルトの賛辞も有名である。

“天使たちは神を賛美するときバッハを演奏するかもしれないが、彼ら自身のためにはモーツァルトを奏で神も喜んでお聴きになるのは確かだと思う” カール・バルト

モーツァルトの音楽は文学者や思想家に多くの感銘を与え続けた。

【第202回】ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 第2楽章より

2006年12月26日 | フィナーレ特集
ピアノ: メルヴィン・タン
指揮: ロジャー・ノリントン
管弦楽: ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
出演:  ラン・ラン (ピアニスト)


 ~ 音楽の街 ~

モーツァルトの生まれ故郷ザルツブルク。
モーツァルトの生きていた時代は大司教の治める宗教都市だったが、1803年ナポレオンによって大司教の宮廷が廃止された。モーツァルト対立した大司教コロレドはウィーンへ逃亡する。その後ザルツブルクは大国の支配に翻弄され、さびれていく。

作曲家シューベルトが訪れた1825年頃にはすっかり活気を失っていた。
“ザルツブルクに住みついている人はわずかで、石畳の間からは草が生えています” (シューベルトの手紙 1825年9月12日)

そんな街が1835年新聞に載った一通の投書をきっかけによみがえる。

“今こそ地上のあらゆる民族を音楽という世界語で熱狂させた人物に記念碑をささげよう” (ザルツブルク新聞 1835年)

自信を失っていたザルツブルクの市民はこの呼びかけに応じて募金や演奏会などで資金を集めた。

1842年9月4日 モーツァルトの死から半世紀あまりザルツブルクのモーツァルト広場でモーツァルト像の除幕式が行われた。コンスタンツェは半年前にザルツブルクで亡くなっていたが、除幕式にはふたりの息子(次男カール・トーマス、四男フランツ・クサーヴァー)が参加した。夜には祝祭音楽会が開かれ、四男フランツ・クサーヴァーが亡き父のピアノ協奏曲第20番を演奏。

この音楽祭が現在のザルツブルク音楽祭の原型となった。
1856年にはモーツァルト生誕100年祭が催され、72歳になった次男カール・トーマスが父のピアノ曲を演奏した。

1841年ザルツブルクに初の音楽教育機関が設立された。
それが発展し、1880年にモーツァルト研究の総本山モーツァルテウムとなった。
現在も世界中から研究者や音楽家を志す学生が集まっている。

モーツァルト生誕250年の2006年、ザルツブルク音楽祭ではモーツァルトのオペラ22作品すべてが上演された。
世界中から集まるモーツァルトファンで埋め尽くされたザルツブルク。
「この街には劇場もオペラもない」と生前のモーツァルトは嘆いていた。
しかしその死後ザルツブルクはモーツァルトを称える人々の手で世界有数の音楽の街に発展した。

【第201回】 ホルン協奏曲 第1番 ニ長調 K.412+K.514 第1・2楽章より

2006年12月25日 | フィナーレ特集
モーツァルトの死後、弟子の手で完成した曲。

ホルン: デニス・ブレイン
指揮: ヘルベルト・フォン・カラヤン
管弦楽: フィルハーモニア管弦楽団
出演: ラデク・バボラーク (ベルリン・フィル首席ホルン奏者)


 ~ 家族 その後 ~

モーツァルトが亡くなった後、各地で追悼ミサが行われた。ウィーン以上にモーツァルト人気が高かったプラハでは、1791年12月14日ミクラーシュ教会で追悼ミサが行われた。

その後残された妻コンスタンツェは生前出版されなかった夫の楽譜を出版社に売って積年の借金を返済。さらに各地で演奏会を開きモーツァルトの作品の普及に尽力した。また、未完に終わった作品のいくつかを補筆完成させることにも力を注ぐ。この「ホルン協奏曲第1番」も弟子の手で完成した1曲。

18年後コンスタンツェはデンマークの外交官ゲオルグ・ニコラウス・フォン・ニッセンと再婚する。再婚相手のニッセンはモーツァルトの熱烈なファンで、コンスタンツェの話をもとにモーツァルトの伝記をまとめた。これがモーツァルトの手紙を紹介した最初の重要な文献となった。

コンスタンツェはモーツァルトの故郷ザルツブルクで晩年を過ごした。
コンスタンツェは1842年に80歳でこの世を去り、モーツァルトの父レオポルト、夫ニッセンと同じ墓に葬られた。

モーツァルトの6人の子供のうち、成人したのは2人。
次男カール・トーマスは1810年ミラノの役人になった。

“母の決断により音楽家になるのは私ではなく弟に決まったのです。有名だった父親の子供は決して同じ生涯をたどるべきではないので私は非常に満足でした。” (カール・トーマスの手紙 1856年3月4日)

四男フランツ・クサーヴァーは11歳でピアノ四重奏曲を出版。
アン・デア・ウィーン劇場で13歳にして演奏会を開き絶賛される。
その後アマデウス2世を名乗り2年間のヨーロッパ演奏旅行に出る。

“今日は父が31年前に弾いた同じ場所(ライプツィヒのゲヴァントハウス)で初めて演奏した。何の因縁か同じ協奏曲だったので最初はいつになくあがってしまった。” (フランツ・クサーヴァーの日記 1820年2月21日 ライプツィヒ)

四男フランツ・クサーヴァーは多くのピアノ曲を残したが53歳で病死。
次男のカール・トーマスは74歳まで生き、その姿は写真に残っている。
ふたりとも生涯独身だったため、モーツァルトの家系は途絶えた。

【第200回】レクイエムニ短調K.626セクエンツィア(続唱)呪われたもの/ラクリモサ「涙の日」

2006年12月22日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。

■呪われたもの
“灰のごとく砕かれた心で祈ります 私の終わりの時を取り計らってください”

■涙の日
“涙の日 その日こそ 罪ある人が裁かれるために 灰からよみがえる”
モーツァルトの筆はこの8小節で途絶えた。

指揮: ペーター・ノイマン
合唱: ケルン室内合唱団
演奏: コレギウム・カルトゥジアヌム
出演:  赤川次郎 (小説家)


 ~ 涙の日 ~

コンスタンツェの妹ゾフィーはモーツァルトの最期をこう書き残している。

“彼の臨終はまるで口でもって「レクイエム」のティンパニを表そうとでもするようで、私には今でもそれが聞こえてきます”(ゾフィーの手紙)

1791年12月5日 モーツァルトは息を引き取った。

モーツァルトの亡骸はシュテファン大聖堂の十字架礼拝堂に運ばれ、家族や旧友が見守る中、最後の祝福を受けた。

「レクイエム」は翌年弟子のジュスマイヤーの手で補筆完成された。

モーツァルトはウィーンの聖マルクス墓地の共同墓穴に葬られた。
その埋葬場所は定かではないが、後に墓碑が作られた。
妻コンスタンツェはモーツァルトが愛用していたノートにこう書き記した。

“いとしい夫よ 忘れることのできないモーツァルト
  8年もの間優しいかぎりの絆が私たちを結びつけていました 
   やがて永遠にあなたと結ばれる日が参りますように”
            悲しみに暮れるあなたの妻 コンスタンツェ・モーツァルト

【第199回】 レクイエム ニ短調 K.626 セクエンツィア(続唱)「思い出したまえ」

2006年12月21日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。
チェロやバゼットホルンが奏でる穏やかな旋律にのせて、主に懺悔し赦しを願う祈りが歌われる。

“思い出したまえ 慈悲深きイエスよ
  罪を恥じ 私の顔は赤らむのです 主よ懇願する私を赦したまえ
   私の祈りは聞き入れられる価値のないものですが
    慈悲深い主よ あわれみをもって 永遠の光で 焼き尽くさないで下さい”

ソプラノ: ダイアナ・モンタギュー
カウンターテナー: マイケル・チャンス
テノール: クリストフ・プレガルディエン
バス: フランツ・ヨーゼフ・ゼーリッヒ
指揮: ペーター・ノイマン
演奏: コレギウム・カルトゥジアヌム
出演: 養老孟司 (解剖学者)


 ~ 死の床 ~

1791年12月 モーツァルトは病の床にあった。
当時モーツァルトはこのように心境を語ったと伝えられている。

“心のおもむくままに自由に書くことができるときになって僕の芸術を見捨てなければならないとは” (モーツァルトの伝記より)

12月4日、モーツァルトの容態が急変した。
看病にあたっていたコンスタンツェの妹のゾフィーにモーツァルトはこう語った。

“よかったゾフィー、今夜はここに残って僕が死ぬのを見ていてくれなければ。一体誰が僕の最愛のコンスタンツェの助けになってくれるんだい” (ゾフィーの手紙)

妻コンスタンツェを思いやるモーツァルト。
未完の「レクイエム」を手に取り、枕元に弟子のジュスマイヤーを呼び寄せた。
そして自分の死んだあとの「レクイエム」の完成を頼んだ。

病床に臥して2週間余り。
モーツァルトは最後の時を迎えようとしていた。

【第198回】レクイエムニ短調K.626セクエンツィア(続唱) 怒りの日/霊妙なるラッパ他

2006年12月20日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。

■怒りの日
最後の審判を描いた「怒りの日」。猛々しい旋律を奏でる弦と呻くような声部が神の怒りと裁きへの恐れを劇的に表現している。

“何という恐怖でしょう 審判者が訪れて全てを厳しく罰したならば
  何という恐怖でしょう 怒りの日 その日こそ
   何という恐怖でしょう 何という恐怖でしょう 全てを厳しく罰したならば”

■霊妙なるラッパ
全ての死者を眠りから覚ます霊妙なるラッパの響き。
死者のよみがえりと最後の裁きへの畏怖が歌われる。

“霊妙なるラッパの音が響きわたる この世の墳墓の上で
  全ての者は玉座の前に集められるのです
   裁きの時 あわれな私は何と語りましょう 誰を頼ればよいのでしょうか
    立派な人間でも平静でいられぬ時に” 

■恐るべき大王
繰り返される「大王」への呼びかけ。救いへの願いを歌い上げる。

“大王よ 大王よ 大王よ 恐るべき偉大なる大王よ
  あわれみの泉よ 私を救いたまえ”


ソプラノ: ダイアナ・モンタギュー
カウンターテナー: マイケル・チャンス
テノール: クリストフ・プレガルディエン
バス: フランツ・ヨーゼフ・ゼーリッヒ
合唱: ケルン室内合唱団
指揮: ペーター・ノイマン
演奏: コレギウム・カルトゥジアヌム
出演: ニコラウス・アーノンクール (指揮者)


 ~ 死の影 ~

夏以降、モーツァルトは2つの大作オペラを完成させたが、8月末のプラハ旅行の頃から体調を崩し、薬を常用していたと言われる。

10月末から11月にかけてウィーンを寒波が襲った。
長引く雨はモーツァルトの体調を更に悪化させた。

11月17日、モーツァルトは病身を押してフリーメイソンの式典で指揮をとった。
そしてその直後の11月20日頃、ついに病の床に臥す。

【第197回】 レクイエム ニ短調 K.626イントロイトゥス(入祭唱)/キリエ

2006年12月19日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。

“主よ 彼らに永遠の安息をお与えください
  主よ あなたに捧げ物を献じます 私の祈りを聞いてください”

ソプラノ: ダイアナ・モンタギュー
合唱: ケルン室内合唱団
指揮: ペーター・ノイマン
演奏: コレギウム・カルトゥジアヌム
出演: 鈴木雅明 (バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督)


 ~ レクイエム ~

1791年秋、体調がすぐれない中モーツァルトは「レクイエム」の作曲に取り組んでいた。
「レクイエム」は死者の安息を神に願うミサ曲。

その年の夏、ある貴族の使いがモーツァルトのもとを訪ねた。
その男は依頼主の名を明かさないまま「レクイエム」の作曲を依頼した。

ウィーンの南西およそ80キロに位置するグログニッツ。「レクイエム」の作曲を依頼したのはこの町に住む音楽好きのヴァルゼック・シュトゥパハ伯爵だった。

1791年2月、シュトゥパハ城に住んでいた伯爵は妻を病のため失う。
伯爵は亡くなった妻を追悼するため匿名で「レクイエム」を依頼し、自分の作品として演奏しようと考えたのだった。

シュテファン大聖堂の副楽長に就任し教会音楽に意欲的だったモーツァルトは、ヴァルゼック伯爵からの依頼に応じた。後に伯爵はノイクロスター教会で思惑通り自ら「レクイエム」を指揮した。

1791年秋「レクイエム」の作曲に取り組むモーツァルト。
その体調は悪化の一途を辿っていった。

【第196回】クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 第2楽章

2006年12月18日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。
モーツァルトが書き残した唯一のクラリネット協奏曲。
クラリネットの奏でる端麗で陰影に富む旋律。
その清澄な響きでモーツァルトの協奏曲の集大成とも言われる。

クラリネット: ザビーネ・マイヤー
指揮: ハンス・フォンク
演奏: ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
出演: 小塩節 (ドイツ文学者)


 ~ 澄みきった魂 ~

1791年10月初旬、モーツァルトはバーデンで療養していた妻に手紙を送る。

“きみが発ったあと僕はシュタードラーのための曲をほぼオーケストレーションし終えたよ。もし仕事がなければすぐにでも発って1週間きみと一緒に過ごしたいよ” (モーツァルトの手紙 1791年10月)

この時旧友のクラリネット奏者シュタードラーのために書いた曲は「クラリネット協奏曲 イ長調」。モーツァルトは完成した楽譜を演奏のためプラハ訪問中のシュタードラーに送った。1ヶ月前に「皇帝ティートの慈悲」が初演されたばかりの国立劇場(現スタボフスケー劇場)で、シュタードラーは「クラリネット協奏曲 イ長調」を初演した。
多忙の中、夏頃から体調を崩し始めていたモーツァルトだが、旧友シュタードラーとの約束を果たすためこの曲を完成させた。

クラリネットの名手シュタードラーはウィーンのヴィルヘルミーネンベルク宮殿の主ガリツィンに仕えていた。
ウィーンの宮廷楽団員だったシュタードラーとの交友を通じてモーツァルトはクラリネットの魅力を知った。
2年前のクラリネット五重奏曲そしてこのクラリネット協奏曲と、2つのクラリネットの名曲はいずれもシュタードラーに捧げられた。

10月中旬、バーデンまで妻を迎えに行ったモーツァルト。
ウィーンに戻ったあと生涯最後の作品に取りかかる。