毎日モーツァルト!

モーツァルト初心者なので、モーツァルトの曲をたくさん覚えたい♪BS2の番組『毎日モーツァルト』の曲名を毎日?記録します。

【第162回】J.P.デュポールのメヌエットの主題による9つの変奏曲 ニ長調 K.573 より

2006年10月31日 | ポツダム
1789年 モーツァルト33歳の作品。
J.P.デュポールの曲を基にした変奏曲。

ピアノ: ラルス・フォークト
出演: 假屋崎省吾 (華道家)


 ~ ポツダム ~

湖畔に美しい宮殿が立ち並ぶ街ポツダム。
4月25日 リヒノフスキー侯爵と共にモーツァルトはこの街に到着した。
モーツァルトはバッサン広場に面したホルン奏者の家に宿泊したという。

この時モーツァルトが謁見を願っていた国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世もポツダムに滞在していた。
国王ヴィルヘルム2世によって建てられた大理石宮殿。音楽を愛した国王は度々ここでチェロを奏でた。
モーツァルトはヴィルヘルム2世に謁見を願い出る。

“モーツァルトと申す者が国王陛下に才能を披露させていただきたく陛下への拝謁を願っております” (4月26日付けの上申書)

しかしヴィルヘルム2世は宮廷音楽監督デュポールに会うよう指示。
デュポールはパリ出身の作曲家で国王のチェロの教師でもあった。

4月29日、モーツァルトはデュポールの曲を基にしたこの変奏曲を作曲。
原曲は国王がチェロで好んで演奏した曲だった。
モーツァルトによるこの変奏曲は軽やかで親しみやすい名曲。
モーツァルトはデュポールの前でこの曲を演奏し国王の歓心を買おうとする。
しかし結局国王との謁見は実現せず、モーツァルトはやむなくポツダムを後にした。

【第161回】 ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 第1楽章より

2006年10月30日 | ドレスデン
ドレスデンの音楽会で演奏された曲。
ヴァイオリン ヴィオラ そしてチェロが豊かな響きを奏で、モーツァルトの傑作のひとつと言われる。

ヴァイオリン: オーギュスタン・デュメイ
ヴィオラ: ジェラール・コセ
チェロ: ゲイリー・ホフマン
出演: 河合隼雄 (心理学者)


 ~ ドレスデン ~

1789年4月8日 リヒノフスキー侯爵と共にウィーンを発ったモーツァルト。
4日後の4月12日にドレスデンに到着した。

“最愛 最上の奥さん! ドレスデンに到着したよ。きのうドゥーシェク夫人の泊まっているところに行った。みんな大喜びだった。”(モーツァルトの手紙 1789年4月13日)

モーツァルトは友人のソプラノ歌手ドゥーシェク夫人と嬉しい再会を果たした。
モーツァルトはザクセン選帝侯アウグスト3世から宮廷に招待された。
ザクセン王家は代々宝飾品の収集家として知られる。世界中から集められた財宝が並ぶ。

4月14日、モーツァルトは宮廷を訪ねアウグスト3世の前でピアノを披露。
お礼に美しく飾られた小箱を選帝侯からもらった。

翌日、オルガンを弾くために宮廷教会を訪れたモーツァルトはJ.S.バッハの孫弟子へスラーとオルガンの弾き比べをした。

“モーツァルトの名人技は筆舌に尽くし難い 稀に見る初見の能力にはまことに信じがたいものがある” (ドレスデンの新聞 1789年4月)

世界で最も華麗な劇場のひとつに数えられているザクセン州立歌劇場で、ドレスデン滞在中モーツァルトはイタリアの作曲家のオペラを鑑賞した。

“僕はオペラへ行った。オペラのあと、僕にとって最も幸せな瞬間がやってきた。君からの手紙を見つけたんだ! 封を開ける前に手紙に数え切れないほどのキスを浴びせた。それからそれを読んだというより、むさぼりつくしたんだよ。”(モーツァルトの手紙 1789年4月16日)

コンスタンツェへ思いを馳せるモーツァルト。
4月18日 ウィーンに残した妻を気づかいながらドレスデンを離れ北ドイツ旅行を続ける。

【第160回】ピアノ・ソナタ 第16番 変ロ長調 K.570 第2楽章より

2006年10月27日 | ウィーン
1789年2月に完成。 モーツァルト33歳の作品。
簡素な響きのなかにモーツァルト特有の孤独感が漂う。

ピアノ: ダニエル・バレンボイム
出演: 菊池洋子 (ピアニスト)


 ~ 旅立ち ~

1789年春 モーツァルト33歳。皇帝から宮廷作曲家に任命されて1年が経過していた。
宮廷作曲家としての主な職務は年末年始に行われる宮廷舞踏会用の舞曲の作曲。

1789年1月、モーツァルトは聖母館に移り住む。かつて大きな収入源だった予約演奏会や楽譜出版の機会は減り、友人からの借金を重ねる日々が続いていた。

このころある貴族から旅行の誘いが舞い込む。
カール・フォン・リヒノフスキー公爵である。
彼はモーツァルトのピアノの弟子であり、ウィーン時代のよき理解者でもあった。
旅の目的地はウィーンのはるか北方プロイセン王国の首都ベルリン。
音楽愛好家の国王のもとを訪問するというものだった。
新たな収入の道を模索していたモーツァルトは公爵からの誘いに心を躍らせた。
旅を前に妻に宛て一遍の詩を贈る。

“ベルリンへ向け旅立つからには期待はむろん名誉と名声
  でも気にはかけない賞讃なんぞ 妻よ僕の賛辞の側に黙っていてくれ
   僕らが再会するときは キスの雨を”

1789年4月8日 モーツァルトは期待を胸にウィーンを発つ。

【第159回】ヘンデル「メサイア」の編曲 K.572 より

2006年10月26日 | ウィーン
1789年3月に完成したモーツァルト33歳の作品。
18世紀前半にイギリスで活躍したゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの最高傑作「メサイア」を編曲したもの。宮廷図書館長スヴィーテン男爵の依頼による。

指揮: ヘルマン・マックス
演奏: クライネ・コンツェルト
出演: 鈴木雅明 (バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督)

■ ヘンデル「メサイア」の編曲 K.572 合唱「ハレルヤ」
 合唱: ライン・カントライ

“主なる神は 全能の支配者である ハレルヤ
   今から永遠に支配を行う彼は 主の中の主 神の中の神である
     そして今から永遠に支配を行う ハレルヤ ”


■ へンデル「メサイア」の編曲 K.572 アリア「暗闇の中をさまよう民は」より
 バス: シュテファン・シュレッケンベルガー

“暗闇の中をさまよう民は大いなる光を見る”


 ~ ヘンデル ~

1789年3月、モーツァルトはヘンデルの「メサイア」を編曲した。
原曲の崇高な響きを保ちながら、当時の聴衆の好みに合わせて管楽器のパートを付け加えていく。モーツァルトはクラリネットやホルンなどの管楽器を加え、和声の厚みのある曲に仕上げていった。

1789年3月6日、ウィーンのエステルハージ邸でモーツァルトが編曲した「メサイア」が初演された。モーツァルト自らが指揮をとり、ソプラノ歌手アロイジアをはじめウィーンを代表する歌手たちが集った。

編曲を通じて尊敬するヘンデルの世界に浸ったモーツァルト。
時を越えて新たな響きの「メサイア」を世に送り出した。

【第158回】交響曲 第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」 第1楽章より

2006年10月25日 | ウィーン
1788年8月10日に完成した作品。モーツァルト32歳。
モーツァルトの最高傑作のひとつ。
壮麗で優美な旋律が醸し出す神々しいこの曲は後世「ジュピター」の名で人々に広く親しまれる。「ジュピター」とはギリシャ神話の最高神ゼウスを意味し、その堂々とした響きは王者の風格さえ漂わせる。

指揮: ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏: ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
出演:  葉加瀬太郎 (ヴァイオリニスト)


 ~ 最後の交響曲 ~

モーツァルトは1788年夏、立て続けに3つの交響曲を完成させた。

清澄で優美な 交響曲第39番
悲劇的情感をたたえた 交響曲第40番
そして明るく壮麗な 交響曲第41番

これらの作曲の経緯や目的は明らかではない。
ウィーンやドイツでの演奏会のために作曲されたという説、また、イギリスでの演奏旅行を念頭に置いて作られたという説もある。

モーツァルトは四半世紀にわたり交響曲に取り組んできた。
最初の交響曲は8歳の時ロンドンへの演奏旅行中に手がけた。
17歳という多感な時期には傑作「交響曲第25番」が生み出された。
続いて第35番「ハフナー」、第36番「リンツ」、第38番「プラハ」、そして「三大交響曲」。
なかでも第41番は交響曲の最後を飾るモーツァルト渾身の作品だった。

【第157回】交響曲 第40番 ト短調 K.550 第1楽章

2006年10月24日 | ウィーン
1788年 モーツァルト32歳の作品。
モーツァルトの傑作のひとつとして広く親しまれている。
冒頭で奏でられる憂いに満ちた旋律は、モーツァルトの心境を映すかのように悲痛な情感に満ちている。 その緊迫感に満ち溢れた曲調は後世さまざまな解釈を生み出した。
“悲劇的な苦痛に満たされたもの”
“激情を募らせるもの”
“不幸な愛への希求と後悔” など・・。

指揮: ロジャー・ノリントン
演奏: ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
出演: 滝田栄 (俳優)


 ~ 激情 ~

1788年7月 モーツァルト32歳、交響曲第39番に引き続き第40番を完成させた。
このころモーツァルトは友人プフベルクに借金依頼の手紙を次々出していた。

“私の現状はどうしても借金せずにはいられないほど困窮しています。でも一体誰に頼ったらいいのでしょうか?あなたを措いて 最上の友よ 他にだれひとりいません。”

借金を求める手紙には時折モーツァルトを襲う「暗い考え」が顔をのぞかせている。

“ここに移り住んで10日間の間に以前の住居の2ヶ月分よりもっと多くの仕事をしました。たびたび暗い考えに襲われさえしなければ、なおいっそううまく行くでしょうに”
                   (モーツァルトの手紙 1788年6月27日)

交響曲第40番はモーツァルトの心の闇を表すかのように暗い叙情美をたたえている。

【第156回】 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 第1楽章より

2006年10月23日 | ウィーン
1788年6月26日に完成。 モーツァルト32歳の作品。
第1楽章が3拍子というのはあまりみられず、珍しいといえる。

指揮: ロジャー・ノリントン
演奏: ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
出演: 飯森範親 (指揮者)


 ~ 三大交響曲 ~

1788年6月 モーツァルト32歳、ウィーン郊外の三星館に引っ越し作曲に励む日々。
予約演奏会や楽譜出版が減る中でひとつの交響曲を作曲した。交響曲第39番変ホ長調である。
この曲の清澄な曲調と壮大な響きはモーツァルトのあふれる才能の輝きを感じさせる。

ウィーンフィルの本拠地として知られる楽友協会は世界中の音楽ファンが憧れるクラシックの殿堂。もちろんモーツァルトの作品も頻繁に演奏されており、建物の中にはモーツァルト像もある。

1788年夏、モーツァルトはわずか1ヶ月半のうちにこの曲を含む3つの交響曲を立て続けに完成させる。第39番、第40番、そして第41番。モーツァルトの交響曲の最高峰を成し、後に「三大交響曲」として人々に広く知られることになる。しかしいずれも作曲の経緯は定かではない。初演の記録も明らかになっていない。しかしベートーヴェンをはじめ後世活躍する多くの作曲家に大きな影響を与えた。

1788年の夏はモーツァルトの三大交響曲が誕生した音楽史に残る夏となった。

【第155回】弦楽五重奏曲 ハ短調 K.406 第1楽章より

2006年10月20日 | ウィーン
1788年 モーツァルト32歳の作品。
明るさの中に憂いを秘めた曲。

演奏: ホイットリンク四重奏団   ハインツ・オットー・グラーフ
出演: 島田雅彦 (作家)


 ~ プフベルク ~

1788年6月、モーツァルトのウィーンでの生活は8年目を迎えていた。
三星館に引っ越したのは前の家賃の支払いが滞ったためだった。
このころからモーツァルトはある人に借金を求める手紙を書き始める。
ウィーンでも有数の資産家で織物商人ミヒャエル・プフベルクである。

ウィーン北西100キロの街ツヴェットルでプフベルクは生まれた。
プフベルクが洗礼を受けた教会が今も残る。
プフベルクは法律家の父の手伝いをしていたが、27歳でウィーンに移住し繊維工場の経営で大きな成功を収めた。

ツヴェットル近郊にはかつてフリーメイソンの支部があった。
プフベルクとモーツァルトはフリーメイソンの盟友だった。
モーツァルトはプフベルクに経済的援助を求める手紙を書いた。

“真の友情と兄弟愛にすがってあなたの絶大のご好意をお願いします。ほんの来週まで100フローリンを融通して下さるようお願い致します。必ず予約金が入りますし、きわめて容易にお返しできるでしょう。” (プフベルクへの手紙 1788年6月)

プフベルクはモーツァルトの求めに応じて送金した。
モーツァルトは「弦楽五重奏曲」を含む楽譜集を出版し、その売り上げで借金を返済しようと考えていた。しかし購入者が一向に集まらず、自ら新聞に広告を出した。

“私の五重奏曲の楽譜は出版が延期となったが、まだ予約を受け付けている。”
                    (「ウィーン新聞」1788年6月25日)

結局希望者は集まらず、出版は実現しなかった。
しかしプフベルクはこの後も度重なるモーツァルトからの借金の求めに応え続けた。

【第154回】弦楽のためのアダージョとフーガ ハ短調 K.546

2006年10月19日 | ウィーン
1788年 モーツァルト32歳の作品。
バロック音楽の様式と斬新な和声が溶け合った作品である。

演奏: ベルリン弦楽ゾリステン
出演:羽田健太郎 (ピアニスト・作曲家)


 ~ 新たな響き ~

モーツァルトが宮廷作曲家に任命されて間もない1788年2月、皇帝ヨーゼフ2世は対トルコ戦争に踏み切った。戦費調達のため宮廷の音楽分野への予算は制限され、演奏会も少なくなっていく。

そんな折、スヴィーテン男爵から演奏会への出演の依頼が舞い込んだ。
宮廷図書館長を務める男爵はバロック音楽の愛好家だった。
エステルハージー邸でスヴィーテン男爵は演奏会を主催。モーツァルトはそこでオーケストラを指揮した。

男爵はモーツァルトにバロック音楽の魅力を教えてくれた恩人だった。
スヴィーテン男爵は自ら館長を務める宮廷図書館でしばしば演奏会を主催した。
かつてモーツァルトはそこに通い、ヘンデルやバッハの音楽に初めて触れた。

フーガの魅力を教えてくれたのもスヴィーテン男爵だった。
複数の声部が同じ旋律を次々に追いかけ演奏していくフーガ。
この曲では厳粛な雰囲気の主題が巧みに展開され、緊迫感を高めている。

スヴィーテン男爵は外交官として各国をまわり、音楽の教養を身につけていた。
モーツァルトの音楽のよき理解者でもあった。
モーツァルトはスヴィーテン男爵を通じ、過去の大作曲家たちから多くを学び新たな響きへと昇華させた。

【第153回】アダージョ ロ短調 K.540より

2006年10月18日 | ウィーン
1788年 モーツァルト32歳の作品。
ピアノ独奏用に書かれたこの曲は切なさと悲しみに満ちたピアノ小品の傑作である。

演奏: ラルス・フォークト
出演: 西村由紀江 (ピアニスト)


 ~ 戦争の影 ~

1788年2月、オーストリアはトルコとの戦争に突入した。
皇帝ヨーゼフ2世は同盟国ロシアを助けるため自ら軍を率いて出兵した。
軍事史博物館にはトルコ軍との戦いの歴史を物語る品が展示されている。

皇帝ヨーゼフ2世は増税と緊縮財政に踏み切る。
ウィーンの物価は高騰し、市民の生活は困窮した。

ケルントナー通りにかつて宮廷劇場があった。
ここはモーツァルトの演奏活動の貴重な場だった。
しかしヨーゼフ2世の引き締め策の一環として戦争中閉鎖された。
モーツァルトの演奏活動を支えた音楽愛好家の貴族たちも多くが出兵しウィーンを離れた。

長引く戦争の中でモーツァルトは音楽のよき理解者である故郷の姉ナンネルにこの曲を贈った。
“最愛のお姉さん 僕の最新のピアノ作品を受け取ってもらえますよね。 僕が毎日どんなにあなたのことを思っているか確信するでしょう” (姉ナンネルへの手紙 1788年8月2日)

3年間に及ぶトルコ軍との戦争。それはモーツァルトの日々に暗い影を落とした。