毎日モーツァルト!

モーツァルト初心者なので、モーツァルトの曲をたくさん覚えたい♪BS2の番組『毎日モーツァルト』の曲名を毎日?記録します。

◇オペラ「フィガロの結婚」 K.492 第1幕 アリア「殿様 もし踊りたいんでしたら」 他

2006年09月08日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
1786年 モーツァルト30歳の作品。

◇第1幕カヴァティーナ(アリア)「殿様もし踊りたいんでしたら」
指揮: リッカルド・ムーティ
演奏: ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
出演: 涼風真世 (女優)
バリトン: トマス・アレン

◇二重唱「どうぞお先に」より
ソプラノ: キャスリーン・バトル 、マリアナ・ニコレスコ

◇アリア「僕どうなっちゃったんだろう」
メゾ・ソプラノ: アン・マレイ


 ~ 今からでも間に合う“毎日モーツァルト”Ⅱ⑤ 「フィガロ」 ~

1786年5月1日、現在のウィーン・ミヒャエル広場にあったブルク劇場でモーツァルトの代表作オペラ「フィガロの結婚」が初演された。
原作は作家ボーマルシェが書いた貴族批判を含む過激な芝居だったが、台本作家ダ・ポンテは過激な描写を減らし、ヨーゼフ2世から上演許可を取り付けた。

主人公フィガロは自分の婚約者を誘惑する伯爵の企みを阻止しようとする。

“相手の隙をついてうまいことやって ある時は突っ込みある時はふざけ どんな企みもひっくり返してやるぞ”(第1幕カヴァティーナ(アリア)「殿様もし踊りたいんでしたら」より)

宮廷内部にはダ・ポンテとモーツァルトを快く思わない者も多く上演を妨害する動きもあったが、初演ではアンコールがやまなかった。

1786年の冬、プラハでも「フィガロの結婚」が上演される。
プラハでの上演はウィーンを上回る大人気となり、1787年1月、街の有力者らがモーツァルト夫妻を招く。プラハを訪れたモーツァルトは自ら「フィガロ」を指揮し、大喝采を浴びる。

アリア「僕どうなっちゃったんだろう」は、恋に恋する少年ケルビーノの心を歌っている。

“僕どうなっちゃったんだろう 熱くなったとおもったらすぐ冷めるし 女の人を見るたびに顔が赤くなって胸がどきどきするんだ 寝ても覚めても恋の話ばかりしちゃう
水にも 影にも 山にも 花にも 草にも 泉にも こだまや 空気や 風にさえ語りかける 風が僕のたわ言を運び去ってくれる”

主人公だけでなく、すべての登場人物が生き生きと描かれた「フィガロの結婚」。
このオペラはとりわけプラハの人々の心をとらえ、熱狂させた。

『なにしろここでは話題と言えば「フィガロ」で持ちきり。弾くのも歌うのもそして口笛もフィガロばかり。確かに僕には大変な名誉だよ。』 (友人への手紙 1787年1月15日)

モーツァルトの30歳代はプラハでの大成功で幕を開けた。

◇ピアノのためのロンド ニ長調 K.485

2006年09月07日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
ピアノ: ラルス・フォークト
出演: 西村由紀江 (ピアニスト)


 ~ 今からでも間に合う“毎日モーツァルト”Ⅱ④ 「家族の愛」 ~

1783年7月、モーツァルトは妻コンスタンツェを連れて結婚後初めてザルツブルクに帰郷した。モーツァルトは最愛の妻コンスタンツェを家族に引き合わせることを楽しみにしていた。父と姉はこのとき初めてコンスタンツェと対面する。

モーツァルトはコンスタンツェとの結婚が成就したらミサ曲を書くと誓っていた。
その誓いを果たし、故郷の聖ペテロ教会でミサ曲を演奏した。妻コンスタンツェがソプラノを歌い、宮廷楽団の仲間が演奏に駆けつけた。演奏の翌日モーツァルト夫妻は3ヶ月滞在したザルツブルクを後にする。

翌1784年夏、姉ナンネルがザンクト・ギルゲンの地方管理官と結婚する。
指揮に出席できないモーツァルトは心を込めて祝いの手紙を書く。

“何よりもおふたりが僕らと同様に仲良く暮らして行きますように” (姉への手紙 1784年8月18日)

1785年1月、父レオポルトが初めてウィーンの息子のもとを訪れる。
レオポルトはモーツァルトの豊かな暮らしぶりに驚いた。

“お前の弟が家財道具一切合財がついた立派な住居を持っていることは、家賃を460フローリンも払っていることからわかるでしょう” (レオポルトから娘への手紙 1785年2月16日)

やがて長旅の疲れもあってか65歳のレオポルトは体調を崩す。
そんなレオポルトを看護したのはコンスタンツェの妹ゾフィーだった。
病気が治ったレオポルトはヴェーバー家に招かれる。

“私たちはお前の弟の義理のお母さんのヴェーバー夫人の所で食事をしました。食事は過不足なく素敵な料理でした。全部見事に調理されていました” (レオポルトから娘への手紙 1785年2月21日)

息子の成長を見届け、妻の実家で歓待を受けたレオポルト。
父と子のわだかまりは次第に解けていく。

◇ホルン協奏曲 第3番 変ホ長調 K.447 第2・3楽章より

2006年09月06日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
ホルン: ラドヴァン・ヴラトコヴィッチ
指揮: ジェフリー・テイト
管弦楽: イギリス室内管弦楽団
出演: 山本真 (ホルン奏者)


 ~ 今からでも間に合う“毎日モーツァルト”Ⅱ③ 「結 婚」 ~

1782年夏、モーツァルトはオペラ「後宮からの誘拐」に取り組んでいた。
「後宮からの誘拐」は1782年7月、当時のブルク劇場で初演された。
オペラのヒロインの名前は自らの恋人と同じコンスタンツェ。青年貴族から異国のハーレムに囚われたヒロインを救い出す物語は、当時の異国ブームにも乗って大成功を収める。

このころモーツァルトはコンスタンツェとの結婚を考えていた。
“愛しいコンスタンツェがいないと、僕は嬉しくも楽しくもないのです。あなたの同意が得られなければ僕の満足も半分にしかなりません。” (父への手紙 1782年1月9日)

しかし父レオポルトは結婚を許そうとしなかった。
一方ヴェーバー夫人は「結婚しないなら交際を許さない」と宣言。
ついにモーツァルトは父の許しを待たずに結婚に踏み切る。

1782年8月4日、モーツァルトはシュテファン大聖堂で結婚式を挙げる。
式はコンスタンツェの母と妹のほか、3人の後見人が出席して行われた。
モーツァルト最愛の父や姉の姿はそこにはなかった。

“あなたの同意が得られると確信し、僕は愛する人と結婚したわけです。僕らふたりが結ばれたとき、妻も僕もともに泣き出してしまいました。出席者はみんな司祭さんまでがそれに感動して涙を流しました” (父への手紙 1782年8月7日)

モーツァルト夫妻はヴィップリンガー通りにあった「赤剣館」に新居を構えた。
結婚式が済んでから父レオポルトの承諾も届いた。
“僕らはふたりともあなたの父親としての祝福に心から感謝しています” (父への手紙 1782年8月17日)

このころモーツァルトはウィーンでザルツブルク時代の友人と旧交を温める。
4曲からなる「ホルン協奏曲」はその友人のホルン奏者のために書かれた。
この時期の幸福を象徴する妻への手紙が残っている。

“おはよう!かわいい女房さん。君がよく眠り、なんにも煩わされず、あまり突然に起きたりせず、風邪をひかず、小間使いに腹を立てず、戸口の敷居でつまずいたりしないことを祈るよ。とにかく君に何事も起こらないよう!”

モーツァルト26歳。幸せの絶頂期を迎えていた。

◇ピアノ協奏曲 第11番 ヘ長調 K.413 第2楽章より

2006年09月05日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
1782年 モーツァルト26歳の作品。
ウィーンの最初期に書かれたピアノ協奏曲のひとつ。

ピアノ・指揮: ダニエル・バレンボイム
演奏: イギリス室内管弦楽団
出演: 安珠 (写真家)


 ~ 今からでも間に合う“毎日モーツァルト”Ⅱ② 「確 執」 ~

1781年5月、ウィーンで大司教と訣別したモーツァルトは、ウィーン中心部のヴェーバー家が経営する下宿で新生活をスタートさせる。ヴェーバー家は以前モーツァルトが恋したアロイジアの実家だった。

モーツァルトの突然の辞職に驚いた故郷の父レオポルトは、大司教に謝罪し辞職を撤回するようモーツァルトに手紙を送る。しかし若いモーツァルトは父の説得に反発するばかり。

“僕の決心をくつがえすことによってしか僕の名誉は救えないですって? 僕は臆病者に成り下がり、大司教は名君に仕立て上げろというのですか? あなたの手紙にはただの1行も僕の父親を見出せないのです” (父への手紙 1781年5月19日)

結局モーツァルトは父の意向に反し、ウィーンに留まる道を選んだ。

ウィーン定住後、モーツァルトはヴェーバー家の娘コンスタンツェと恋に落ちる。
やがて交際の噂がザルツブルクまで届き、父レオポルトは強く反対した。
モーツァルトはコンスタンツェとの愛をはぐくんでいたが、コンスタンツェと結婚するという噂を父への手紙で否定する。

“暇な時は彼女とふざけたり冗談を言い合ったりします。そしてそれだけのことです。それ以外のことは何もありません。もし僕が冗談を言った人すべてと結婚しなくてはならないとすれば、少なくとも200人の妻を持つことになるでしょう” (父への手紙 1781年7月25日)

モーツァルトはレオポルトの指示で「神の目館」から引っ越した。
引っ越し先は「神の目館」のすぐ近くの建物だった。

「ピアノ協奏曲第11番」は1783年初めの演奏会で披露されたと言われている。
こうした演奏会はモーツァルトに大きな収入をもたらした。
父とのわだかまりを残したまま、ウィーンでの生活は軌道に乗っていく。

◇ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 K.377 (アウエルンハンマー・ソナタ 第3番) 第1楽章

2006年09月04日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
1781年 モーツァルト25歳の作品。

ヴァイオリン: フランク・ペーター・ツィンマーマン
ピアノ: アレクサンダー・ロンクヴィヒ
出演: 松田理奈 (ヴァイオリニスト)


 ~今からでも間に合う“毎日モーツァルトⅡ① 「訣 別」 ~

モーツァルトの生きた18世紀後半にハプスブルク家の都として栄えたウィーン。
1781年春、ザルツブルク大司教コロレドはウィーンを訪問していた。

貴族社会の交際にはお抱えの音楽家の演奏がつきものだった。
大司教はミュンヘンに滞在中のモーツァルトをドイチェス・ハウスに呼び寄せる。
モーツァルトは到着したその日から貴族たちを招いた演奏会にかり出される。
ウィーンの貴族たちはモーツァルトの才能に目をみはり、次々演奏を依頼する。

しかし大司教はモーツァルトが自ら演奏会を開くことは許さなかった。
モーツァルトの大司教への不満は募る。

1781年4月、珍しく大司教の許可が出てケルントナー通りにあった劇場でモーツァルトの演奏会が開かれた。皇帝ヨーゼフ2世もこの演奏会に列席したといわれる。

モーツァルトは音楽の都ウィーンで音楽家としての自信を深めていく。
やがて大司教コロレドからザルツブルクへの帰郷命令が下る。
しかしモーツァルトはウィーンを離れようとせず、大司教と衝突する。

コロレド “今日中に発つならいいが、さもなければ給料を没収するぞ、このろくでなし”
モーツァルト “では猊下は私にご不満なのですね”
コロレド “貴様はわしを脅かす気か?ばかもん こんな哀れな小僧っ子にもう用はない”
モーツァルト “これが最後です。明日辞職願を届けます”

そしてモーツァルトは故郷と訣別し、ウィーンで暮らす決意を固めた。

陶磁器工房で有名なアウガルテンには、かつて演奏会場があった。
ピアノを教え始めたモーツァルトはここで教え子の一人とも共演した。
「ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調」は、そのウィーン初期の教え子に捧げられた。
こうして青年モーツァルトの新天地ウィーンでの生活が幕を開けた。

◇弦楽四重奏曲 第8番 へ長調 K.168 第1・4楽章

2006年05月05日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
モーツァルト17歳の作品。
ウィーンで作った曲。

演奏:ホイットリング四重奏団
出演:村上陽一郎 (国際基督教大学大学院教授)

 ~ ♪さらば故郷 ~

【ザルツブルク:教会音楽の日々】
1779年、モーツァルトは傷心のままマンハイム・パリ旅行から帰郷した。
父レオポルトの取り計らいで宮廷楽団に復帰し、オルガン奏者となる。
教会音楽の作曲と演奏が続く単調な日々。しかしオペラへの情熱は消えることはなかった。

【オペラへの想い:旅回りの一座】
ザルツブルクではモーツァルトが愛するオペラ上演の機会はほとんどなかった。
巡業で訪れる旅回りの一座の公演がモーツァルトの数少ない慰めだった。
旅回りの一座のために芝居音楽を作ってはオペラ作曲への想いを満たそうとした。

【大司教コロレド:改革への不満】
各地の音楽に触れたモーツァルトは地元の宮廷音楽に不満を感じていた。
宮廷音楽会の時間の短縮など、倹約・合理化の改革が進められていた。
大司教コロレドへのモーツァルトの不満はいっそう募っていく。
その後ミュンヘンからオペラ「イドメネオ」作曲の依頼が来る。
大司教から6週間の休暇をもらい、モーツァルトはミュンヘンへと向かった。

【ミュンヘン:待望のオペラ】
モーツァルトは久々のオペラ作曲に渾身の力を込めた。
実現したオペラ「イドメネオ」はキュヴィリエ歌劇場で喝采を浴びた。
「イドメネオ」の再演に立ち会ううちに、ミュンヘン滞在は4ヶ月にも及ぶ。
モーツァルトの行動は大司教の不興を買い、両者の関係は悪化していく。

“あの君主が日ごとに僕には耐え難くなっています” (父レオポルトへの手紙)

モーツァルトは大司教コロレドから滞在先のウィーンへ呼び出される。

【ウィーン:運命の時】
8年ぶりに訪れた音楽の都ウィーン。モーツァルト25歳、人生の大きな転機が訪れる。

◇フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313 第2楽章より

2006年05月04日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
1778年 モーツァルト22歳の作品。
音楽愛好家の依頼で、マンハイムで作られた。

フルート:アンドレアス・ブラウ
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団  
出演:高木綾子 (フルート奏者)

 ~ ♪傷心の旅 ~

1777年、21歳になったモーツァルトは宮廷楽団を辞職し、母と二人で新たな職を探す旅に出る。

【マンハイム:恋の始まり】
当時ヨーロッパ随一の宮廷楽団があった音楽の都マンハイム。
この街でモーツァルトは新人ソプラノ歌手アロイジア・ウェーバーに出会い恋に落ちる。
モーツァルトは彼女に歌を指導し、イタリアに連れて行こうとまで夢見る。
しかし就職活動のためアロイジアを遺してパリへ発つ。

“あなたに再会して心から抱擁するこの願いにのみ 僕は唯一の慰めと安らぎを見いだしています” (アロイジアへの手紙)


【パリ:母の死】
パリでの就職活動がうまくいかない中、悲しい出来事が待ち受けていた。
母マリア・アンナが病のため帰らぬ人となってしまった。
モーツァルトは友人と二人、教会で母を見送った。

“今日は僕の生涯で最も悲しい日だった。僕の母、愛する母はもういない。神に召されたのだ。まるでロウソクが消えるように” (友人への手紙)

ひとり悲しみに暮れるモーツァルトが求めたのは、アロイジアの愛だった。
父からの帰郷命令の手紙を無視して、モーツァルトはアロイジアに会いに行く。


【ミュンヘン:再会 しかし・・】
アロイジアはミュンヘンの宮廷劇場で華やかな歌姫へと成長していた。
すっかり心変わりしたアロイジアはモーツァルトに冷たかった。

“今日はただ泣きたいだけです。僕の心はあまりにも感じやすいのです。僕は時が下手です。でも生まれてこのかた、今回ほど下手に字を書いたことはありません。書けないのです。” (父への手紙)

モーツァルト22歳、傷心の旅に終わりを告げる。

◇セレナード ニ長調 K.250 「ハフナー」 第4楽章

2006年05月03日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
1776年 モーツァルト20歳の作品。
貴族の結婚の祝宴のために作曲された。

ヴァイオリン・指揮:ユーディ・メニューイン
管弦楽:バース・フェスティバル・オーケストラ
出演:里中満智子 (漫画家)

 ~ ♪故郷の日々 ~

【ザルツブルク:新生活の始まり】
1773年 イタリア旅行を終えてモーツァルトはザルツブルクへ帰ってくる。

【マカルト広場の家:家族の愛情】
今も残るモーツァルトが暮らした家。ここで3人の家族と共に青年期を過ごした。
父レオポルト、母マリア・アンナ、姉ナンネル、愛犬ピンペル・・モーツァルトは家族の愛情に包まれて暮らした。創作活動に励んだモーツァルトは、この家で多くの作品を作曲した。

【ミラベル宮殿:宮仕えの日々】
モーツァルトは副楽長の父と共にザルツブルクの宮廷楽団に勤めた。
当時の楽士は王侯貴族の召使いであり、決して高い身分ではなかった。
モーツァルトは宮廷のために曲を作り、宮殿や教会で自ら演奏した。
しかしモーツァルトは故郷での暮らしに満足してはいなかった。

【ザルツブルク大聖堂:故郷への不満】
ザルツブルクはカトリックの大司教が治める宗教都市だった。
この頃宮廷楽団には演奏時間の短縮など様々な制約が課せられた。大司教コロレドの合理化政策によるものだった。自由に音楽を作らせてもらえない日々にモーツァルトの不満は募る。大司教コロレドに休暇願いを出すが認められなかった。
モーツァルト21歳。旅への思いが募っていく。

◇交響曲 第13番 へ長調 K.112 第1・2・4楽章より 

2006年05月02日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
1771年 モーツァルト15歳の作品。

指揮:ジェフリー・テイト
演奏:イギリス室内管弦楽団
出演:徳永ニ男 (ヴァイオリニスト)

 ~ ♪音楽の国イタリア ~ (13歳~17歳)

【ブレンナー峠:憧れの地へ】
アルプス以北の芸術家はこの峠を越えて憧れの地イタリアへと向かった。
1769年の冬、モーツァルト父子もこの峠を郵便馬車に揺られて越えた。

【ヴェローナ:歓迎された神童】
古代から栄えた歴史の街ヴェローナでは父子を歓迎して演奏会が開かれる。
聴衆は13歳の神童に拍手喝采し、街の楽団の名誉楽長の称号を贈った。

【ボローニャ:師との出会い】
欧州最古の大学の街ボローニャでは、音楽理論の最高権威マルティーニ神父を訪れる。
モーツァルトはマルティーニ神父から高度な作曲技法を学び、師と仰いだ。

【フィレンツェ:友情】
イタリアにはヨーロッパ各国から多くの音楽家が修業に来ていた。
モーツァルトは古都フィレンツェでイギリスから来た同い年の音楽家トマス・リンリと出会う。二人は貴族の館でクラヴィーアとヴァイオリンを共演して友情を深めた。
モーツァルトが旅立つ日の朝、二人は街の門でいつまでも別れを惜しんだ。
“友よ 僕がいつまでも変わらぬ愛をもって存在することを どうか信じてくれたまえ” (リンリへの手紙)

【ローマ:最高の栄誉】
バチカンのシスティーナ礼拝堂を訪れたモーツァルト。
門外不出の秘曲 『ミゼレーレ』 を一度聞いただけで覚え、楽譜に書き取った。その噂はローマ中に広まり、ついにローマ教皇の耳にまで届く。モーツァルトはその才能をたたえられ、教皇から「黄金拍車勲章」を授かる。

【ミラノ:喝采の日々】
音楽の中心地ミラノでは念願のオペラの作曲に取り組んだ。
『ポントの王ミトリダーテ』 『アルバのアスカーニョ』 『ルーチョ・シッラ』
ミラノで初演された3つのオペラはどれも大成功を収め喝采を浴びる。

モーツァルト17歳。旅は神童を音楽家へと成長させていった。

◇交響曲 第5番 変ロ長調 K.22 全楽章

2006年05月01日 | 今からでも間に合う毎日モーツァルト
1765年 モーツァルト9歳の作品。

指揮:ジェフリー・テイト
演奏:イギリス室内管弦楽団 
出演:中西俊博 (ヴァイオリニスト)

 ~ ♪1 神童の旅 ~

【ウィーン:神童伝説の始まり】
6歳のモーツァルトは家族と共に初めてこの音楽の都を訪れた。
モーツァルトは姉ナンネルとシェーンブルン宮殿で演奏を披露。神童の見事な演奏は王侯貴族たちを驚かせた。モーツァルトは女帝マリア・テレジアのひざに飛び乗りキスをした。ウィーンで喝采を浴びたモーツァルトは、一家をあげてヨーロッパ旅行に出発する。
交響曲第5番はこの度の途中で作曲された。

【パリ」:貴族達の寵児】
ブルボン王朝の華の都パリは貴族文化が栄えていた。
モーツァルトは貴族達に招かれ、自作の曲を披露して喝采を浴びる。ヴェルサイユ宮殿では国王ルイ15世夫妻の前で演奏を披露。モーツァルトは初めてのソナタ集を王女ヴィクトワールに献上した。

【ロンドン:初の交響曲】
続いてモーツァルト一家は産業革命の熱気にあふれるロンドンに到着する。
この地で父レオポルトは長旅の疲れから病に倒れ床に伏す。8歳のモーツァルトはこの時初めての交響曲をひとりで作曲する。
市民が台頭し始めたロンドンでは、音楽は貴族だけのものではなかった。モーツァルトは街の公開演奏会で自作の交響曲を披露し、大成功を収める。
神童モーツァルト・・その名声はヨーロッパ中に鳴り響く。