毎日モーツァルト!

モーツァルト初心者なので、モーツァルトの曲をたくさん覚えたい♪BS2の番組『毎日モーツァルト』の曲名を毎日?記録します。

【第105回】 ピアノ協奏曲 第18番 変ロ長調 K.456 第2楽章より

2006年06月30日 | ウィーン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
モーツァルト一家が「フィガロハウス」に引っ越した翌日に完成した。
充実した暮らしぶりを映すかのような豊かで流麗な作品である。

ピアノ・指揮: レイフ・オヴェ・アンスネス
管弦楽: ノルウェー室内管弦楽団
出演: 赤川次郎 (作家)


 ~ 次男の誕生 ~

1784年9月2日、次男カール・トーマスが誕生した。
モーツァルト一家は手狭になったトラットナー館から新居へ引っ越す。ドム通りにある彼の新居を、人々はそこで書かれたオペラの名前から「フィガロハウス」と呼んだ。
「フィガロハウス」はウィーンに現存する唯一のモーツァルトの住宅。生誕250年を機に改修され、記念館「モーツァルトハウス」となっている。

この家でカールはすくすくと育っていった。
翌年ここを訪れた父レオポルトは、カールの様子をナンネルに書き送っている。

“小さなカールはお前の弟にそっくりです。この子はとても健康なのが分かりました。とっても人なつっこいし、話しかけるとよく笑うのです。”

モーツァルト一家はここで2年あまりを過ごす。
作曲の翌年、モーツァルトは御前演奏会で「ピアノ協奏曲第18番」を披露した。演奏が終わると皇帝ヨーゼフ2世は「ブラボーモーツァルト!」と叫んだ。列席していた父レオポルトも「満足感で目に涙があふれた」と書いている。

家族3人で始まった新たな暮らし。
それはモーツァルトにとってもっとも幸せな時代となっていく。

【第104回】ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457 第1楽章

2006年06月29日 | ウィーン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
トラットナー夫人に捧げられた曲。
ウィーンで完成された唯一の短調のピアノ・ソナタ。
作曲の翌年1785年に出版された。

演奏: エリック・ハイドシェック
出演:  假屋崎省吾 (華道家)


 ~ トラットナー ~

1784年1月から9月まで、モーツァルトはトラットナー館で暮らした。
トラットナー館は、書籍商で財を成したヨハン・トーマス・フォン・トラットナーが建てた当時のウィーンを代表する建造物。トラットナーはモーツァルトの終生に渡る友人であり、支援者であった。モーツァルトの子供達の洗礼立会人もトラットナー夫妻がつとめている。トラットナー夫人はウィーンでのモーツァルトの最初の弟子のひとりだった。

“毎朝6時に理髪師が来て 僕を起こしてくれます。7時から10時まで作曲をして、その後トラットナー夫人にレッスンをします。キャンセルがない限り毎日僕は通っています。” (モーツァルトの手紙)

モーツァルトはこの曲を自らの手でたびたび演奏し、楽譜も出版した。
1770年に創業されたアルタリア社は、ウィーン最初の出版社。モーツァルトはアルタリア社から多くの作品を出版した。
ウィーンでは皇帝ヨーゼフ2世の芸術保護政策により、書籍の出版が盛んになっていた。
貴族や裕福な市民がわが子のピアノ練習用に楽譜を買い求めた。
パリやロンドンに比べ出版では遅れをとっていたウィーンでも、出版譜の形でモーツァルトの作品が人々の間に広まっていった。

【第103回】ピアノ協奏曲 第16番 ニ長調 K.451 第2楽章

2006年06月28日 | ザンクト・ギルゲン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
姉ナンネルの助言によって、ピアノの旋律に装飾的な音符が付け加えられた。

ピアノ・指揮: ダニエル・バレンボイム
管弦楽: イギリス室内管弦楽団
出演: 河合隼雄 (心理学者)


 ~ 姉の結婚 ~

ザンクト・ギルゲンはザルツブルクの東に位置するヴォルフガング湖のほとりの小さな村。モーツァルトの亡き母マリア・アンナの故郷である。街の広場(モーツァルト広場)にはモーツァルトの少年像がある。

1784年8月23日、姉ナンネルは「ザンクト・ギルゲン教区教会」で結婚式を挙げた。家計のやりくりや父の世話に追われてきた姉に幸せが訪れた。結婚相手は15歳年上のザンクト・ギルゲンの地方管理官ベルヒトルト・ツゥ・ゾンネンブルクだった。
街の人々は今でもナンネルを愛し、その名を冠したカフェ(カフェ・ナンネル)もある。

結婚式に参加できなかったモーツァルトは、愛する姉に祝福の手紙を書いた。
“結婚したら分かります おおよその謎がどんなものか。物事には裏と表が 楽しみもありゃ苦労もあるさ。だから旦那が不機嫌で渋面ばかりするならば、あなたは思えばいいのです あれは男の気まぐれと”

ナンネルはいつもモーツァルトの作品のよき理解者であり、助言者であった。
「ピアノ協奏曲第16番」にはナンネルからの指摘が反映されている。

モーツァルトは姉への思いを手紙でこう述べている。
“来春にはきっとザンクト・ギルゲンでゾンネンブルク夫人となったあなたを抱擁したいと思っています” (ナンネルへの手紙 1784年8月18日)

しかしモーツァルトとナンネルは再開を果たすことはできなかった。

【第102回】ヴァイオリン・ソナタ 変ロ長調 K.454 第1楽章より

2006年06月27日 | ウィーン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
イタリア出身の女性ヴァイオリニスト、ストリナザッキとの共演のために書かれた。
ヴァイオリンとピアノの個性を生かしたスケールの大きな作品である。

ヴァイオリン: フランク・ペーター・ツィマーマン
ピアノ: アレクサンダー・ロンクヴィヒ
出演: 佐藤康光 (棋士)


 ~ 天才の共演 ~

現在のホテル・ザッハーの場所に、当時「ケルントナートーア劇場」があった。
ここはブルク劇場に次ぐ第2の宮廷劇場として多くの演奏会が開かれた劇場である。

1784年4月29日、モーツァルトはケルントナートーア劇場でストリナザッキと共演した。
ストリナザッキはその才能をたたえられ、ヨーロッパ各地を演奏旅行していた。
演奏会当日までにピアノパートの作曲が間に合わなかった。モーツァルトは楽譜を見るふりをして見事にピアノを演奏し、演奏終了後、皇帝ヨーゼフ2世からからかわれたという。
自筆譜を見ると、1段目がヴァイオリンパート、2段目と3段目がピアノパートであるが、ピアノパートは後から書き加えられた。ピアノの音符は所々で小節の線からはみ出している。

この日の演奏会は大喝采を浴び、2人はお互いの才能をたたえあった。
“非常に優秀なヴァイオリン奏者です。彼女の演奏にはとても豊かな様式感と感情があります。” (モーツァルトの手紙)

ストリナザッキは翌年に結婚して以降、あまり演奏会をしなくなった。
ふたりの天才の共演は、この日が最初で最後となった。

【第101回】 ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 第3楽章 より

2006年06月26日 | ウィーン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
生徒の一人、プロイヤー嬢に捧げられた曲。
ピアノと管弦楽とが詩情豊かに掛け合う洗練された作品である。
第3楽章冒頭の楽しげな旋律は、当時モーツァルトが飼い始めたむく鳥のさえずりを思わせる。

ピアノ: ハンス・リヒター・ハーザー
指揮: イシュトヴァン・ケルテス
管弦楽: フィルハーモニア管弦楽団
出演: 宮本文昭 (オーボエ奏者)


 ~ むく鳥 ~

モーツァルトの家計簿には、むく鳥を購入した記録が残されている。
“むく鳥34クロイツァー それはきれいな声だった!”(モーツァルトの言葉)
言葉と一緒に「ピアノ協奏曲第17番」の第3楽章冒頭の旋律が書き込まれていた。

1784年の春、長男の死から9ヶ月あまり。モーツァルトは一編の詩を捧げるほどそのむく鳥を愛した。

“いとしの道化 一羽のむく鳥
   憎めないやつ ちょいと陽気なおしゃべり屋
     時にはふざけるいたずら者 でもあほう鳥じゃなかったね”

妻コンスタンツェの2度目の妊娠でモーツァルト夫婦は喜びに包まれた。暮らしぶりも豊かになっていった。午前中は貴族の子女のレッスン、夜は演奏会という日々が続いた。
この曲はプロイヤー嬢の父が主催した演奏会で初演された。プロイヤー嬢がピアノを演奏し、演奏会は大成功に終わった。
1羽のむく鳥に愛情を注ぐほど心に余裕ができたモーツァルト。そして妻コンスタンツェの2度目の妊娠。モーツァルトの目の前には明るい展望が広がっていた。

【第100回】 ピアノと木管のための五重奏曲 変ホ長調 K.452 第1楽章より

2006年06月23日 | ウィーン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
編成はピアノ、オーボエ、ファゴット、ホルン、クラリネットで、当時珍しい組み合わせだった。
この曲ではどの楽器も対等に扱われ、その魅力を発揮している。
モーツァルトがそれぞれの楽器を熟知していたからこそ生まれた作品。
ピアノと4つの木管楽器が歌声のように対比している。

ピアノ: クリスティアン・ツァハリス
管弦楽: ザビーネ・マイヤー管楽アンサンブル
出演 :  大野和士 (指揮者)


 ~ 『最高の作品』 ~

1784年4月、当時のブルク劇場でモーツァルトは演奏会を開いた。モーツァルトにとってそれまでにない大規模な演奏会。そのとき初演したのが「ピアノと木管のための五重奏曲」。演奏会で大喝采を浴び、モーツァルトは父親に次のように書いた。

“親愛なお父さん、演奏会で僕は大変な名誉を得ました。ブルク劇場でのコンサートも非常に好評でした。五重奏曲を1曲書いたのですがこれは異常に受けました。僕自身これまで書いたもののうち最高の作品だと思っています。あなたに聴いてもらえたらなぁ。演奏がどんなに素晴らしかったことか” (父への手紙 1784年4月10日)

モーツァルトが「最高の作品」と呼んだ自信作。広く人々の心をとらえる名曲がまたひとつ生まれた。

【第99回】ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 第3楽章より

2006年06月22日 | ウィーン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
1784年3月、トラットナー館での予約演奏会で初演した。
ピアノ独奏部分はいきいきとしたメロディが軽快に展開し、まるで交響曲のようにダイナミックな響きが鮮やかに表れる。
ピアニストの高い技巧が求められる曲。

ピアノ・指揮: ダニエル・バレンボイム
管弦楽: イギリス室内管弦楽団
出演: 滝田栄 (俳優)


 ~ 人気ピアニスト ~

1784年、モーツァルトのピアニストとしての活動は順調だった。自ら会員を募って開く予約演奏会も頻繁に行われた。
3月にはトラットナー館で予約演奏会を3回催す。モーツァルトが住むこの建物にはコンサートホールがあり、ここでの予約演奏会には多くの申し込みが集まった。申込者の数はこの時期最大に膨れ上がる。会員数174人、いずれも貴族や裕福な市民ばかりである。当時ウィーンは2月から4月にかけてが演奏会シーズンだった。

モーツァルトは貴族の私邸で開かれる演奏会でもたびたび演奏した。パルフィ伯爵の邸宅もそのひとつ。ピアノ協奏曲は演奏会で人気が高く、モーツァルトは作曲に精魂を傾けた。この年モーツァルトは6曲ものピアノ協奏曲を書いた。

モーツァルトはこの「ピアノ協奏曲第15番」の完成度に満足し、父に手紙を書いている。

“変ロ長調(第15番)とニ長調(第16番)のどちらを選ぶか、僕自身決めかねます。二つとも演奏者に汗をかかせる協奏曲とみています。でも難しさの点では変ロ長調(第15番)の方が上です。” (父への手紙 1784年5月26日)

レベルの高い作品を自ら演奏会で披露し喝采をあびるモーツァルト。
ウィーンの人気ピアニストとしての日々は続く。

【第98回】セレナード 変ロ長調 「グラン・パルティータ」 K.361 第3楽章

2006年06月21日 | ウィーン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
7楽章の大作で、通称「グラン・パルティータ」(大組曲)。
13人で演奏することから「13楽器のためのセレナード」とも呼ばれる。
その白眉と言われているこの第3楽章では、細かくリズムを刻む伴奏に乗って、オーボエとクラリネットの美しい旋律がなめらかに対話する。

演奏: ベルリン・フィルハーモニー管楽アンサンブル
出演: 江守徹 (俳優)


 ~ ハルモニームジーク ~

女帝マリア・テレジアの後を継ぎ国を治めたヨーゼフ2世は積極的に芸術を奨励し、モーツァルトのよき理解者でもあった。
ヨーゼフ2世は、とりわけ「ハルモニームジーク」を好み、そのための専用楽団も作った。
これをきっかけに貴族の間でもハルモニームジークが流行した。
モーツァルトもハルモニームジークの作品を3曲残している。

1784年3月、旧ブルク劇場でこの曲は初演されたと言われる。
モーツァルトのハルモニームジークの新曲ということで注目が集まった。
演奏会を聞いた評論家が感想を書き残している。

“輝かしく 偉大で 卓越していて 高貴だった!”

モーツァルトが生んだハルモニームジークの名曲、それはヨーゼフ2世が推奨するウィーンの新しい文化の賜物だった。

【第97回】 ピアノ協奏曲 第14番 変ホ長調 K.449 第1楽章より

2006年06月20日 | ウィーン
1784年 モーツァルト28歳の作品。
モーツァルトの自作目録の冒頭を飾った曲。
1784年3月、トラットナー館で初演されたと言われる。

ピアノ・指揮: ダニエル・バレンボイム
管弦楽: イギリス室内管弦楽団
出演: 池内紀 (ドイツ文学者)


 ~ 自作目録 ~

ウィーンの中心部に位置するグラーベンは、街の目抜き通りのひとつ。ここはモーツァルトの時代も貴族や裕福な市民で昼夜にぎわっていた。1784年1月、モーツァルトはグラーベンの一角にあるトラットナー館に引っ越してきた。

ピアノのレッスンや演奏会に忙しく駆け回る中で、モーツァルトは作曲の記録をつけ始めた。モーツァルトの自作目録には、“わが全作品の目録 1784年2月より ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト”と書かれている。

冒頭を飾るのはこの「ピアノ協奏曲第14番」。
左のページには、1.ピアノ協奏曲 伴奏:ヴァイオリン2 ヴィオラとバス(オーボエ2 ホルン2は任意に)
右のページには、曲の冒頭部分最初の4小節が書かれている。
必要な時すぐに譜面を出せるよう工夫された作品目録である。

モーツァルトが住んでいたトラットナー館には演奏会を開ける大広間があり、さまざまな芸術活動の拠点だった。演奏会の前評判は高く、モーツァルトは期待を込めて父親に伝えた。
“すでに100人の予約者があります。まだ軽く30人は集まるでしょう。”(父への手紙 1784年3月3日)

演奏会は大成功だった。
“演奏会は無事にいきました。広間は超満員でした。僕の弾いた新しい協奏曲は特に受けました。どこへ行ってもこの演奏会を褒め称えています”(父への手紙 1784年3月20日)

モーツァルト28歳。この後、自作目録には自身と意欲に満ちた作品が綴られていく。