毎日モーツァルト!

モーツァルト初心者なので、モーツァルトの曲をたくさん覚えたい♪BS2の番組『毎日モーツァルト』の曲名を毎日?記録します。

【第22回】 ウィーン四重奏曲 第6番 K.173 (弦楽四重奏曲 第13番 ニ短調)

2006年02月28日 | ウィーン
1773年 モーツァルト17歳。
モーツァルトはわずか1ヶ月で6曲の弦楽四重奏曲を書き上げる。
「ウィーン四重奏曲 第6番」は、6曲の中で唯一短調で書かれている。

第1、4楽章より
 (演奏)ホイットリンク弦楽四重奏団
 【出演】 (ドイツ文学者)池内 紀


- ハイドンへの憧れ -

1773年 モーツァルト父子は、新たな職を探すため再びウィーンを訪れる。
モーツァルトは幼年時代に御前演奏し大喝采を受けた女帝マリア・テレジアに再び謁見した。しかし女帝の態度は冷たく、宮仕えの夢は叶わなかった。
モーツァルトは失意の中でハイドンなどをはじめとするウィーン作曲家の新たな音楽と出会う。

ウィーンの南50キロにある街アイゼンシュタットに、ハンガリー出身の貴族エステルハージ家がある。ハイドンはエステルハージ家に29年勤め、数々の楽曲を生み出した。
今でも「ハイドンザール」の名で親しまれているそのホールでは、多くのハイドンの曲が初演された。ハイドンはモーツァルトがウィーンを訪れた1770年代初頭、数々の弦楽四重奏曲を作曲し、脚光を浴びていた。
後にモーツァルトはハイドンに対し、父親同様の尊敬を抱くようになる。

【第21回】 ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191 第1楽章より

2006年02月27日 | ザルツブルク
1774年6月 モーツァルト18歳の作品。
ザルツブルクの宮廷楽団のファゴット奏者のために書かれたと言われている。
ファゴットは、そのなめらかな音色から「愛の楽器」として知られる。
イタリア旅行を通して本物のオペラに触れたモーツァルトは、オペラのアリアのような主旋律をファゴットに与えたのだった。

(ファゴット)ペーター・ノイマン
(演奏)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮)ヘルベルト・フォン・カラヤン
【出演】 (モーツァルト研究家)海老沢 敏


 - 帰ってきたザルツブルク -

1773年春、モーツァルトはイタリアの旅から故郷ザルツブルクに戻ってくる。
帰郷したモーツァルトに与えられたのは、ザルツブルク宮廷楽団の職務であった。
ザルツブルクの大司教の宮廷レジデンツ、ここで大司教は宗教と政治の両方を支配していた。
1773年春、モーツァルトは宮廷楽団の楽師長として働き始める。主人のコロレド大司教のもとで、ヴァイオリンを演奏するとともに次々と作品を生みだしていく。

1773年秋、モーツァルト一家は新市街のある家の2階に引っ越した。
モーツァルトはこの家に5年暮らし、およそ200曲の作品を書き上げた。
モーツァルトは宮廷で演奏しただけでなく、大聖堂で演奏される教会音楽の作曲もした。
この時期モーツァルトが手がけた音楽の多くは宮廷音楽としての職務の中で作られた。
アルプスのふもとの小さな街ザルツブルクでの穏やかな日常が始まった。

■ バチカン

2006年02月25日 | ちょっと休憩
第16回で放送された、モーツァルトが『ミゼレーレ』を聴いたバチカン。
システィーナ礼拝堂はサン・ピエトロ大聖堂に隣接し、バチカン宮殿内に建てられた礼拝堂です。
ミケランジェロが描いた「最後の審判」で有名。
教皇を選出するコンクラーヴェの会場としても知られています。

写真は、昨年6月に行ったバチカンの『サンピエトロ寺院』。
この大聖堂が建てられたのは聖ペトロの墓の上であり、その聖ペテロの像は敬虔なキリスト教徒の接吻等によって足の指の部分がすり減っていました。
モーツァルトが姉ナンネルに宛てた手紙(1770年4月14日)によれば、モーツァルトもこの足にキスをしたそうですよ。
私が行った時はキスをしている人はほとんどいなかったので、私は聖ペテロの足をなでるだけにしました。
『ミゼレーレ』を聴いてみたかったです

【第20回】 オペラ“ルーチョ・シッラ” K.135 序曲、アリア“不吉な死の想いとともに”

2006年02月24日 | イタリアの旅
フェルディナント大公のための3度目のオペラ。(1772年 モーツァルト16歳)
イタリア旅行の総決算といえる卓越した内容の作品である。
ローマ時代の独裁者ルーチョ・シッラの愛による改心をテーマにした歴史物語。
アリア「不吉な死の想いとともに」でオペラはクライマックスに達する。
シッラ暗殺に失敗して投獄されたチェチーリオの妻ジューニアは死に瀕した夫に従って自分の命を絶つ決意を歌い上げる。

“死の不吉な想いとともに 私には血を流したあの方が見える
  あの方はその冷たい手で その傷口を示すのです
   そして私に言います お前はまだ死ねないのかと
    私はよろめき気を失いそうですが 今は逢えぬ愛する方のあとを
     忠実な影のように急いで追うのです 急いで追うのです”

【序曲】(演奏)アカデミー室内管弦楽団
    (指揮)ネヴィル・マリナー

【アリア「不吉な死の想いとともに」】
    (歌)バーバラ・ヘンドリックス
    (演奏)イギリス室内管弦楽団
    (指揮)ジェフリー・テイト

【出演】(ドイツ文学者)小塩 節


- 最後のイタリア旅行 -

1772年 モーツァルトはミラノでこのオペラに取り組む。
これまでの成功でオペラ作曲家としての名声を確立したモーツァルトは、ミラノのフェルディナント大公から再びオペラの作曲依頼を受けたのである。
このオペラはその年の謝肉祭のシーズン幕開けを飾る大作となった。
モーツァルトのイタリアでのオペラはすべてミラノ宮廷劇場で上演された。
『ルーチョ・シッラ』は大成功を収め、上演は1ヶ月も続いた。
ミラノでの成功によってモーツァルトはイタリアでの就職を期待する。しかし結局その願いは実現しなかった。
こうして3年あまりのイタリア旅行は終わる。

【第19回】 オペラ“アルバのアスカーニョ” K.111から アリア“あなたの気高い姿から”

2006年02月23日 | イタリアの旅
1771年 8月 モーツァルト15歳。
モーツァルトはミラノで、フェルディナント大公とリッチアルダ大公女の婚礼祝典オペラの制作を始める。作曲を依頼したのはフェルディナント大公の母、女帝マリア・テレジア。
オペラ「アルバのアスカーニョ」はギリシャ・ローマ神話を題材にした祝典劇。
女神ヴィーナスの息子アスカーニョと精霊シルヴィアとの恋物語。大公はアスカーニョに、大公女はシルビアに喩えられ、女帝マリア・テレジアは女神ヴィーナスとして描かれている。
アリア「あなたの気高い姿から」はこのオペラの中で最も技巧を凝らしたアリア。
アスカーニョの魅力を牧神ファウノが高らかに歌い上げている。

“いつかあなたが恋に落ちたとき こんな美しい炎によって
       燃え上がらせられる乙女は なんと幸せでしょう
    あなたの気高い姿から 偉大な魂が輝きを放ち 
         その魂からあふれ出る香りには 誰もが思わず慕い寄ります”

(歌)ナタリー・デセイ
(演奏)ジ・エイジ・オブント・エンライトゥンメント管弦楽団
(指揮)ルイ・ラングレ
【出演】 (歴史学者)黒坂 伸夫


- 2度目のイタリア旅行 -

フェルディナント大公とリッチアルダ大公女の婚儀は、ミラノ大聖堂で行われた。
『アルバのアスカーニョ』はスカラ座前身のミラノ宮廷劇場で初演。
婚礼の祝典では宮廷音楽家ハッセのオペラ『ルッシェーロ』も上演されたが、『アルバのアスカーニョ』の方がはるかに評判が良かった。
貴賓席からはフェルディナント大公の「マエストロ万歳!」という叫びが響いた。

【第18回】 エクスルターテ・ユビラーテ K.165

2006年02月22日 | イタリアの旅
残念ながら放送時間が変更になっていて録画できていませんでした
どんな曲だったのでしょうか。

 (歌)モニカ・フリンマー
 (演奏)コレギウム・カルトゥジアヌム
 (指揮)ペーター・ノイマン
 【出演】 (「モーツァルト劇場」主宰)高橋 英郎


 - イタリアの旅 ナポリ -

お話はナポリが舞台だったようです。
かなりショック・・・・

【第17回】 交響曲 第10番 ト長調 K.74 第1、2、3楽章より

2006年02月21日 | イタリアの旅
1770年 モーツァルト14歳。
この曲はローマで作曲されたと言われている。
3楽章形式のこの交響曲にはイタリアで触れた音楽の影響が伺える。

 (演奏)イギリス室内管弦楽団
 (指揮)ジェフリー・テイト
 【出演】 (ドイツ文学者)小塩 節


- ローマでの栄光 -

モーツァルトはローマでの休息の日々を楽しみながら多くの作曲も行った。
ローマでの作曲の日々を故郷ザルツブルクへの手紙にこう綴っている。
「この手紙を終えたら書きかけの交響曲を仕上げます。交響曲は写譜屋さんの所にあります・・と言ってもそれは我が父上です」(モーツァルトの手紙1770年4月25日)

ローマでの滞在が終わろうとしていた頃に驚くべき知らせが舞い込んでくる。
ローマ教皇から騎士に叙せられ『黄金拍車勲章』が与えられるという。
音楽家がこの勲章を授与されるのはルネサンス以来200年ぶり2人目。
モーツァルトはサンタ・マリア・マジョーレ教会で、ローマ教皇クレメンス14世に謁見する。
モーツァルトはイタリアの人々から「音楽の騎士殿」と呼ばれるようになる。
こうしてモーツァルト父子の1ヶ月に渡るローマ滞在は終わりを告げる。
イタリアでの栄光はさらに続く。

【第16回】 三位一体の祝日ミサ ハ長調 K.167

2006年02月20日 | イタリアの旅
この曲はイタリア旅行の直後に作曲された。
すべて合唱で歌われる壮麗さにあふれた作品である。

(合唱)ケルン室内合唱団
(演奏)コレギウム・カルトゥジアヌム
(指揮)ペーター・ノイマン
【出演】 (「モーツァルト劇場」主宰)高橋 英郎


- イタリアの旅 ローマ -

モーツァルトは35年間の短い生涯でおよそ80曲の宗教曲を作った。
1770年4月11日 モーツァルト父子は雨道を急いでローマに到着。その日のうちに教皇庁のあるバチカンへと向かう。モーツァルトがローマへの道を急いだのには理由があった。バチカンでこの時期にしか歌われない『ミゼレーレ』を聴くためである。
『ミゼレーレ』はイタリアの音楽家グレゴリオ・アレグリが作曲。4声と5声で交互に歌われ、最終節で9声部になる合唱曲。その類いまれな合唱の美しさを多くの人々が褒め称えた。

モーツァルト父子がシスティーナ礼拝堂を訪れたのは、キリスト教の聖週間の時期であった。『ミゼレーレ』は聖週間の後半にだけこの礼拝堂で歌われる門外不出の秘曲。
初めて聴いた『ミゼレーレ』をモーツァルトはその場で暗譜してしまった。
宿に帰ったモーツァルトは楽譜に記し、その噂はローマ教皇の耳にまで届いた。
ローマの人々はモーツァルトの優れた才能に驚き褒め称えた。

■生誕250周年記念限定CD

2006年02月18日 | ちょっと休憩
モーツァルト生誕250周年を記念して、モーツァルト博物館(ザルツブルグ)が制作した限定CD。昨年買いました。
曲が「現代的なクラシック」に編集されていて、原曲とはかなり雰囲気が違いますが、なかなかおもしろいです。
多くの人にモーツァルトの曲を聴いてもらうことが目的で作られたそうです。

【演奏曲目】
1 モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ニ長調 K.618
2 クラリネット協奏曲 イ長調 K.622より第3楽章
3 「おおイシスとオシリスの神よ」 歌劇「魔笛」K.620よりザラストロのアリア
4 「トルコ行進曲」 ピアノソナタ第11番 イ長調K.331より第3楽章
5 「もう飛ぶまいぞこの蝶々」 歌劇「フィガロの結婚」K.492よりフィガロのアリア
6 交響曲第40番 ト短調 K.550より第1楽章
7 「手をとりあって」 歌劇「ドン・ジョバンニ」K.527よりドン・ジョバンニとツェルリーナのアリア
8 「メヌエット」 歌劇「ドン・ジョバンニ」K.527より
9 「私は鳥刺し」 歌劇「魔笛」K.620よりパパゲーノのアリア
10 ピアノ・ソナタ第15番 ハ長調 K.545より第1楽章
11 「復讐の心は地獄のようにわが胸に燃え」 歌劇「魔笛」K.620より夜の女王のアリア
12 「レクイエム」 ニ短調 K.626よりラクリモーザ 

【第15回】 弦楽四重奏曲 第1番 ト長調 K.80 “ローディー”第1、3楽章より

2006年02月17日 | イタリアの旅
1770年 モーツァルト14歳の作品。
モーツァルトはイタリアで初めて弦楽四重奏曲の作曲に取り組んだ。
『弦楽四重奏曲第1番』はイタリア風の伸びやかな旋律が特徴。

(演奏)ホイットリング四重奏団
【出演】 (アコーディオニスト、作曲家)coba


 - イタリアの旅 フィレンツェ -

1770年3月、モーツァルト父子はフィレンツェを訪れる。
モーツァルトはトスカーナ大公をはじめ、多くの貴族の邸宅で演奏会を開いた。
宮廷詩人の家で出会ったのが、イギリス人の少年トマス・リンリである。
高名な作曲家を父に持つ神童の誉れ高い14歳の音楽家リンリは、ヴァイオリンの演奏に優れ、フィレンツェに音楽の勉強に来ていた。
モーツァルトは同い年のリンリと宮廷詩人の家で一緒に演奏し、ふたりの神童は意気投合、友情を深めた。モーツァルト父子がフィレンツェで泊まった宿でも、リンリとモーツァルトはふたりで演奏を楽しんだ。

モーツァルトがフィレンツェを出発する朝、リンリは宿を訪れて別れの手紙を渡した。
“喜びや笑いは涙に変わったけれど、僕は君と再び会えることを願う。
  君の心から僕が消え去らないように、僕は君を変わらずに愛することだろう”
リンリは町外れの城門でいつまでも親子を見送っていたという。

イギリスへ帰ったリンリは音楽家として活躍するが、22歳の若さで亡くなる。
ふたりの再会はついに叶わなかった。