衣食住足りて礼節を知る
ことわざを子供のころから祖父から聞かされて育ったので、
自分もついつい昔のことわざを使うことになる。
私が農業の手伝いができるようになったころには
祖父の仕事は牛の世話だったように記憶する。
3頭から多いときは5頭ぐらい飼っていただろうか・・・?
農耕用の牛も記憶していて、
家の前の田んぼで父が牛にすきをひかしていた。
そのころは田んぼにドジョウがいた。
フナもいたと思う。
マシキナ池には鯉やウナギもいたので捕まえてきて井戸に放したりして遊んだ。
田んぼには緑肥用にソテツの葉っぱを入れて耕すので、
裸足で入った足が痛かったことで記憶している。
黒砂糖を作る小屋と(車道)クルマドーと呼ばれる、
圧縮してキビ汁を絞るための広場が倉庫や牛小屋、鶏小屋と家の間にあって、
大きな屋敷だった。
倉庫から畑と田んぼへの道路わきは、物干し場になっていて、
豆やらの穀物を干していた。
正月前の大掃除の時は、母の手伝いをさせられ、畳や布団を広げて干していた。
豚小屋と便所は家の後ろ、北側にあった。
豚も5頭ぐらいは飼っていただろう。
仕切があったので、もっといたかもしれない。
正月用の豚を殺すために包丁を首に差し込み、断末魔にあえぐ豚の哀れな最後も見届けた。
去勢したり種をつけるのを見たりした。
自分で鶏の首をひねったりもしただろうが、
弟に殺させたという記憶のほうが脳裏に残っている。
首をちょん切られた雄鶏が走り出したので印象深い。
今思えば
ほかの家庭よりも何不自由なく暮らしていたのだと思う。
贅沢はしてなかったが、学用品も食べ物も不足した覚えはない。
農機具はもちろんのこと、電化製品やTVなども他の家庭のよりも
大きなのものだったような気がする。
都会の生活を知らないで育っていたころは、それでよかった。
TVが普及し、NHKのドラマを見るようになると、
上流社会があるということがわかるようになった。
芦田伸介さんが主演だった「飛べないアヒル」と「陽の当たる坂道」など、
また教育映画の外国映画「ベンハー」の壮大なスケールをうらやましく思った。
中学一年の修学旅行で初めての船に乗って徳之島まで行った。
3年のときに農協のツアーで東京見物。
高校二年の修学旅行は鹿児島、京都、東京だった。
浪人した二年間に鹿児島に慣れると、
志望校を東京に変えた。
礒公園からみた桜島が造園の道に進路変更させたのだった。
今思えば鹿児島はど田舎なのだが、第二の故郷でもある。
そして海老名から川崎市中原宮内、多摩川べりが私の第三のふるさとである。
いきなり東京に行くよりは良かったとも思う。
日々暮らしていると、与論島がほんとに好きだと思う。
そして今は沖縄にそして奄美大島にも惚れている。
この与論島に、
うるわし日本の文化と風景を残していきたい。
衣食住に足りているから こんな活動ができること、
この家と屋敷を残してくれた先祖に感謝しながら私が壊した部分を修復して
子や孫に残してやりたい。
日々是好日と言えるためには 健康が一番です。
礼を尽くせる人になりたい
一隅を照らすものを目指して・・・。