重低音のBlue Canary

♪ 思いつくままを、つたない文と photo で …

スイート・ホーム

2006-11-16 | つれずれ
仕事で使う資料を借りに、いつもより遠い図書館へ出掛けました。
借り出した帰り、ふと思い立って、そこからさらに車で5分ほど走った「ある場所」に立ち寄ってきました。

それが、
ここです。



ただの、アパートです。


でも、
私にとっては、
ただのアパートではありません。

気が付くともう、30年余の歳月が経ってしまったんですよね。
20代半ばで結婚し、家内と初めて住んだ、ここがそのアパート。
そう、
「スイート・ホーム」です。
まだ、取り壊されずに残っていました。



2階の、向かって右から2番目の部屋でした。
6畳1間に、3畳ほどの台所。
トイレはあっても、風呂はありませんでした。

いわゆる「若気の至り」で少し無理な結婚をしましたから、
親からの援助はほとんどありません。
もちろん、貯金も限りなくゼロに近い状態でした。

ですから、
洗濯機とコタツは実家から持って来ましたが、
ちゃぶ台も、テレビもない新婚生活が、ここから始まりました。

その30余年前のアパートが、
まだ残っていました。
かつて「○○荘」だった名前が、
現在は「コーポ○○」と一見ハイカラに変わっていましたが、
外観はほとんど変わっていません。


ずいぶん変わっていたのは、周囲の風景です。
向かいの民家はほとんどが建て替えられ、
当時はまったく無かったマンションも、あちこちに出来ていました。

というより、
私たちのアパートの前も、
ほとんど同じタイプの2階建てアパートだったのに、
今ではご覧の通り、



小洒落たマンションに建て替わっています。

早い話、
私たちが住んでいたアパートだけが、
取り残されたように、
昔のままなのです。

その奇妙さが、
嬉しいような、
寂しいような……。


アパートの前の道の、向こう側の突き当たりは川の堤防です。



その堤防への坂を上り、
堤防道路を数百メートル歩き、



向こうに見える、いまはコンクリート製になった昔の木橋を向こう岸に渡ったさらに先に、
銭湯がありました。

冬の、身を切るような木枯らしの中を、
夏の、うだるような暑さの中を、
ハネムーン・ベビーで生まれた娘を代わる代わる抱きながら、
この道を、何度通ったでしょうか。


その後に生まれた息子はもちろん、
いまや男ばかり3児の母になった娘にも、
自分がこのアパートに住んでいた記憶は、おぼろげにさえないそうです。

でしょうね、
2歳と少しで引っ越したのですから。

だからこのアパートは、
私たち夫婦だけの、懐かしい思い出の場所――。


久しぶりに訪れて、
いろいろなことを思ったのです。

たとえば、
こういうように夫婦には夫婦だけの思い出の場所があるということを、
父親や母親という人種は、最初から「父親」や「母親」だったわけではないことを、
彼らにもそれぞれ「男と女」の時代があったことを、
そうした若い男女が、期待と不安が入り混じった思いをそれぞれの胸中に仕舞い込みながらおぼつかない足取りで一緒に暮らし始め、
喜びや悲しみを分かち合い、
時には絶望的な思いをも乗り越えて、とにかくいま、ここに居ることを――。

さらに、
こうも思うのです。
そういう事々を、
自分の父や母がどういう人生を歩んできたかの歴史を、
子供たちも、知っておいてよいのではないか――と。


いま私自身が、
もう亡くなってしまった父・母に、少しずつ、しかし確実に近づきつつある年齢になって初めて、
父親を一人の男として、
母親を一人の女として、
見たり、理解したりしてやらなかったことの申し訳なさを、
済まなく思い、
悔やんでもいます。

弘法は…

2006-11-15 | つれずれ
勤め先が発行している情報誌の新年号に載せる対談が昨夜あり、
担当者が相応しいデジカメを探していたので、
1カ月ほど前に背伸びして買い求めた1眼レフデジカメの愛機を貸してあげました。

おかげで、出勤前にカメラを持って「名城公園」に立ち寄ることを日課にしている私は、いささか手持ち無沙汰の今朝になったのです。


というので、
仕方なく携帯電話のカメラで、
こんなものや、



こんなものや、



こんなものを



撮ってはみたのですが、
やっぱり、
思うような写真を撮れず、
少し落ち込んだ気分で出勤したものです。


けれども、
そう思っているのは私だけで、
いざこうしてアップして見比べてみると――。

うーん、
一眼レフの愛機で撮った写真も、
携帯カメラで撮った写真も、
どうやら、
思っていたほど出来栄えに差はなさそうです。


「弘法は筆を選ばず」――。
上手な人は、使う道具の良し悪しとは関係なく良い作品を生み出すそうですから、
出来栄えの良し悪しを道具のせいにする私は、
やはり、凡人中の凡人ということになりそうです。
やれやれ。

「生き証人」

2006-11-14 | つれずれ
昨日のブログ「市役所の大時計」で、
小学生時代、道草して上がった市役所の屋上から、
「名古屋城がこんなに近くに見えるとは気がつかなかった」と書きました。




そう書いてアップし終えた後、風呂に入り、しばらくテレビ・ニュースを見てから布団にもぐり込み、就寝態勢に入ってボケーッとしていた時です、
突然、「あっ!」と気が付いたんです。

市役所の屋上から、養老山系がある北西の方角を見ても、
当時そこには、
威容を誇る名古屋城の天守閣など、
実は「無かった」ことに。


名古屋城の天守閣は慶長17年(1612年)建設されました。
以後、名古屋地方を襲った幾度かの震災や大火から免れ、
とりわけ、明治24年(1891年)の推定マグニチュード8.0という濃尾地震にも耐えて333年間、名古屋の町を見下ろしてきました。

しかし――。

間もなく終戦という昭和20年(1945年)5月14日午前8時20分、
襲来した米軍B29が投下した焼夷弾のいくつかが名古屋城にも落ち、
天守閣は炎上し、焼失してしまったのです。


焼失した名古屋城天守閣の再建を、名古屋市市制70年の記念事業に掲げ、工事が始まったのはそれから12年後の昭和33年(1957年)6月で、
竣工したのは34年(1959年)10月1日でした。

ということはつまり、
いま出勤途上に毎朝立ち寄る「名城公園」(旧「練兵場」跡地)のすぐ近くに住んでいて、
市役所近くの小学校に通い、
時折り道草しながらその屋上で遊んでいた私の小学校低学年当時、
天守閣は、まだ再建に向けた机上計画が進んでいた段階だったのです。

したがって当時、私がその雄姿に「気が付かなかった」のではなく、
そもそも天守閣はその時、「存在していなかった」のです。


再建時に議論はいろいろあったようですが、現在の名古屋城天守閣は木造ではなく鉄骨コンクリート造りで建設され、極めて堅牢に出来上がっています。

したがって今後、言われている「東海地震」のような大地震が発生し、それによって倒壊しない限り、
ほぼ永遠にそこに建ち続けることになるでしょう。


ということは、
こう言えそうなのです。

私と私の同世代は、
名古屋城天守閣が慶長17年に建てられてから現在に至るまでの394年間の長い歴史の中で、14年間だけ、あの場所に姿が無かった時期があることを、実際に見て知っている、だんだん数少なくなってきた歴史的「生き証人」なのだと。


「生き証人」……。

天守閣が「あの当時は無かった」のを思い出したことよりも、
自分がすでに「生き証人」などという表現で呼ばれる年代に、
いつの間にかなっていることに気付づいたことのほうが、
私には、
はるかに、
はるかに大きなショックなのでありました。


市役所の大時計。

2006-11-13 | つれずれ
マイカー通勤の、往きと帰りのコースを変えています。
理由は、同じ道を往復するのが嫌いだから。

それに、道を変えたほうが、日常の些細な変化に、より多く気付く機会が増えるんじゃないかと思って。
それがマイカー通勤の自由さでもありますからね。


でもって、
朝は、この前の道を通ります。



向かって左手前が名古屋市役所、右手後方が愛知県庁の、それぞれ本庁舎です。

市役所は昭和8年に、県庁は13年に完成した歴史的建造物ですが、
共に「現役」です。
その後に建てられた各々の別館だけでなく、いくつかの部署や市議会、県議会の議場が、それぞれこの本庁舎にあります。


市役所の本庁舎は地上5階地下1階建て、鉄筋コンクリート造り。
特徴は、ご覧の通り屋上に5階分の時計台(棟屋)が乗っていることです。



塔屋の大時計は、名古屋市のシンボルの1つです。


実は、ン十年前、すぐ近くの小学校に通っていました。
そして時々、一緒に帰る悪ガキたちと道草して、この市庁舎内に入り込み、屋上で遊んでいました。

そんなことを、なぜか今朝突然思い出したので、
少し早めに会社を出た帰り道に立ち寄って、受付の「年配のお嬢さん」に聞いてみました。
「屋上に行きたいんですが、大丈夫ですか?」


返事は案の定、「ダメです」。

「でも…、庁舎管理の係に、一応聞いてみてはいかがです?」と教えられた部署に出向き、「ガキの頃遊んだ場所をもう一度見てみたいんですが、ダメでしょうかね」と尋ねると――。

「いいですよ」と、意外にもあっさりOK。
「ご案内しますよ。屋上へのカギを守衛室に取りに行ってきますから、ちょっと待っててくださいね」と予想外の展開に目を丸くしているヒマもなく、案内していただけてしまったのです。

やっぱり、物事、言うだけは言ってみないと、どう転ぶか分からないもの。嬉しい誤算です。


で、
係のお兄さんに案内されて「秘密の通路」?を通り、



扉を開けてもらって出たここが、
5階の本屋の屋上です。



時計台が、さらに大きく頭上に迫ります。

そして、
その屋上から名古屋城が、



養老山脈を背景にこんなに近く見えるとは、
小学生時代は興味がなかったせいもあるでしょうが、まったく気がつきませんでした。


さらに、
汚れて見えにくくなってはいますが塔屋の窓ガラスの向こうに、



「JRセントラルタワーズ」と「ミッドランド・スクエア」の駅前高層ビル群がこんなふうに見えるとは思いもよりませんでした。


ここまで来れば…と、図々しくなったついでに、聞いてみました。
「時計台の内部は、見せてもらえませんよ、ねえ…」
「いいですよ」
「はい?」

というので、
案内していただいたお兄さんの気分が変わらないうちに早速、
こんな年代物の細い階段をさらに上り、



大時計の「心臓部」を見せてもらいました。

それが、
これです。



地上からは小さく見えても文字盤の直径3m、長針1.8m、短針1.5mと結構大きい時計台。
昔は手動式で、でっかい歯車がついていたはずですが、
「文明開化」の現代は、



こんなにコンパクトなモーター式に変わっていました。
味気ない、などと不満を洩らすのは、現代人の身勝手でしょうね。


でも、
本庁の建物内部は、昭和初期の、当時としては近代的な建築様式を残したままです。

中でも1階の正面玄関から5階まで一気に上がる主階段は、



威厳があって、立派です。

国会議事堂の建設時に集めた山口県産の大理石「小桜」の余材を使っており、この材が使われたのは議事堂とここだけだそうです。




「いいですよねえ、昔の物は重厚で、落ち着きがあって」と、つきっきりで案内してくれた若い職員に話し掛けると、
「昭和8年8月8日だそうですからね、完成したのは」とか。

えっ?、8月8日?

それって、
私と、誕生日が同じじゃん!
もちろん、誕生「年」は違いますけど。


ホント世の中、
聞いてみなければ分からないことだらけです。


なんとなく、ソワソワ。

2006-11-12 | おすすめ
「今年も、いよいよ始まりました」
――と伝えるテレビ・ニュースを見てソワソワと落ち着かなくなり、
我慢できずに昨夜、
早速、見に行ってしまいました。

これです。



名古屋駅「JRセントラルタワーズ」のクリスマス・イルミネーション「タワーズ・ライツ」が10日から始まりました。

2階部分の屋外オープン・スペース「タワーズ・テラス」に5本のツリーが並び、きらきらと輝いています。



最も大きなツリーは20mだそうです。
いま流行りの青白色のLEDイルミネーションが、とてもきれいです。



見上げると、タワーが夜空にそびえ立っています。


全長100mほどの「タワーズ・テラス」には、
今年はテディベアが何匹も居ます。




クリスマスなどには、もうとっくに縁がなくなった、私はオジサンです。
それなのに、
「ジングル・ベル」のメロディと、イルミネーションの輝きに弱くて、ついソワソワ、ドキドキしてしまいます。


子供時代、
家族同士でクリスマス・プレゼントを交換していました。

決して裕福ではなかったわが家の、
しかしそれだけが、1年で1度の、とても楽しいイベントだったのです。

そんな幼児体験が、
クリスマス・ツリーを見ると蘇ってくるのでしょうか。


華やかな「タワーズ・テラス」の、道路を挟んだ向こう側には、



完成して間もない高層オフィス・ビル「ミッドランド・スクエア」が、
土曜日だったからでしょうか明かりをほとんど消して、
暗闇の中に佇(たたず)んでいました。

ただ――、
その道を挟んだ「こちら側」と「向こう側」の明暗の格差が奇妙な現実感を醸し出しているようで、
「向こう側」を長い時間見ているのが辛くなり、
早々に背を向けてしまいました。

世の中の、万事にある「明と陰」。
でも「陰」の部分は、できることなら見たくないから目をつい逸らす――そういう人間の「弱さ」が、こんな場面にも、無意識に現れてしまうのでしょうか。


イルミネーションの見に来た人々で込み合う戸外の「テラス」とはガラス1枚隔てただけの屋内通路に、
若い女性が1人、
外の賑わいを、じっと見ていました。



誰かと待ち合わせをしているのでしょうか。
それとも……。

しばらくその後姿を見ていると、
不思議なことに、
彼女の周りだけ「音」が消えているような錯覚を覚え、
つい、



写した写真までも、
「モノトーン」に変えてみたくなりました。



とりあえず、記念?に。

2006-11-11 | つれずれ
このところ所用で週末に家を空けていましたから、
土曜日を自宅で過ごすのは、なんと1カ月ぶりです。

本当は今週も出掛けるつもりだったのですが、
アクシデントが起きて足止めを喰らいました。
そのアクシデントとは――。


風呂のボイラーが、壊れたのです。


エコライフというわけでもありませんが、
わが家では太陽熱温水器を屋根に上げ、お風呂をはじめとする給湯に使っています。

陽射しの強い夏場なら、それだけで充分熱いのですが、
秋から春にかけては、
晴天の日は事足りても曇天・雨天の日は、
シャワーだけならともかく風呂桶に湯を張るには少し足りません。

そこで、太陽熱だけでは足りない分を石油ボイラーで追い焚きする仕組みなのですが、
そのボイラーが耐用年数を迎え、
とうとう壊れてしまいました。

やむなく業者に頼み、
明日、取り替え工事をしてもらうことになりました。

ただ、
日頃の無精のせいで、バスルームが少し汚れています。
このままでは業者さんに見せるのは恥ずかしいというので、
やむなく今日は、バスルームを徹底的に掃除することにし、
ほとんど一日をそのクリーニングに費やしたのです。


ということで、
本日はブログに上げる話題がありません。

というより、
日頃の無精と運動不足がたたって、すでにあちこちが筋肉痛です。
キーボードを打つのにも、腕がだるい始末ですから。

したがって今日は、
たぶんこれで7回目の「開店休業」と相成ります。


ただ――、
このまま「投稿」ボタンをクリックする前に、
写真を1枚だけアップさせてください。

これです。



風呂掃除の途中の休憩時間に携帯をチェックしたとき、
気付いたので、
とりあえず、記念?に写しておきました。

今日は11月11日。
そして、
時刻はちょうど11時11分。

何の意味もない、ただの「1」並びです。
でも、
そんな「一瞬」は滅多にないことですし、
そんなことに気付いた時って、
なぜか、嬉しくありません?

そろそろ…。

2006-11-10 | つれずれ
「またかよ」と、食傷気味で呆れられているとは思いますが、
やはりきれいだし、好きですから、名古屋「名城公園」の紅葉を、ついつい載せてしまいます。



でも当然、
紅葉は「名城公園」だけではありません。
それに、「紅葉」ばかりでなく「黄葉」だって、あちこちにあります。

たとえば、
勤務先の前の、街路樹のプラタナス。
そろそろ色付いてきたことに昨日の朝、気が付きました。



大きな葉っぱです。
そのせいか、
せっかく黄葉しても、
あまり「可愛気(かわいげ)」はありません。




中には、雑巾みたいに汚く萎(しお)れている葉も混じっていたりして。


でも、
もっと近づいて、アップで撮ってみると……、



ほら、クサすほどひどくもないじゃないですか。

これはこれで「あり」なんでしょうから、
少し温かい目で、プラタナスの「黄葉」も愛でてあげることにしよう――
と、思ったのが昨日の朝のことでした。

それなのに……。


今日の昼近くのことです。
自主的に決めている「定期喫煙タイム」に、いつも通り会社の外階段の踊り場に出て、何気なく道の向こう側に目をやると――。



目撃したのです、
その「真っ最中」を。



街路樹の「枝打ち」作業です。

4、5人がクルーを組んで、
葉の生い茂った枝を、バサバサと払っていきます。
その手際のよいこと、手際のよいこと。

1本のプラタナスをほぼ丸裸にするのに、
10分とかからなかったんじゃないでしょうか。

で、
昨日の朝、私が撮ったプラタナスも、
あれよあれよと言う間に、



こうなっちゃいました。
ありゃまあ、なんてこった…。


「軍団」が去った後、
近くまで行き、
見上げると、



てっぺんに、
生き残った1枚の黄葉が、風に吹かれてヒラヒラ…。

わざと見逃してもらったんでしょうかねえ、あのてっぺんの1枚は、
慈悲で。


ともあれ――、
冬支度が、
そろそろ始まったようです。

撤去…。

2006-11-09 | つれずれ
名古屋地方は数日前から急に、朝夕冷え込んできました。


というので、毎朝立ち寄る「名城公園」の街路樹の紅葉は…



うーん、でもまだこの程度のまだら模様ですかね。

とはいえ、
中には一足先にすっかり色づいた木もあります。
人間の世界と同じなんですね、たまに「早熟」なのが混じっているのは。




以前も書きましたが(ご覧いただくなら、ここをクリック)、
私はこの「名城公園」内を貫いて通る市道の街路樹
「ナンキンハゼ」の紅葉が好きです。



ほぼ1ト月前にはまだ緑だったその実も、
いまはもう濃い茶褐色に変わっています。

そして中には
葉はまだずいぶん緑を残しているのに、
すでに実が弾け、
真っ白な種が剥き出しになっている木もあります。



足元を見ると、
昨日の強風のせいでしょうか、小枝ごと落ちてしまった実もありました。



でも、
こうした都会の街路樹の実は、可哀想ですよね。
落ちた場所がコンクリートやアスファルトの上では、
芽を出し、子孫を残すことは、絶対に出来ないのですから。



そして、
可哀想と言えば――、
今朝、公園内でまた大きな変化に気が付きました。

これも以前のブログで、「公園の住人」たちが作った自前の「集会所」の屋根が、ある日突然、半分剥がされていたことを書きましたが(再び、ご覧くださるなら、ここをクリック)、



その「集会所」が今度は、



柱ごと、跡形もなく撤去されてしまったのです。

誰が撤去したのか、聞くまでもありますまい。


すっきりは、しました。
すっきりするにはしましたけれど、
寂しいと言うより、
風景が、
寒いのです。

冬が、
急に近づいてきたような気がするのは、
そんな、心に感じた寒さのせいもあるのでしょうか――。


「赤い靴」

2006-11-08 | つれずれ
1…赤い靴 はいてた 女の子
   異人さんに つれられて 行っちゃった
2…横浜の 波止場から 船に乗って
   異人さんに つれられて 行っちゃった
3…今では 青い目に なっちゃって
   異人さんの お国に いるんだろう
4…赤い靴 見るたび 考える
   異人さんに 逢うたび 考える

ご存知、童謡「赤い靴」(野口雨情作詞、本居長世作曲)です。


この「赤い靴をはいた女の子」は、実在の人物です。
名前は、岩崎きみ。明治35年7月15日生まれ。
母親は、岩崎かよ。

女の子が母親姓なのは、私生児だからです。
父親は「刑務所暮らしが長かった人」だそうです。

故郷で暮らすのに肩身が狭かった未婚の母・かよは、2年後、幼いきみを連れて北海道・函館に渡り、知人の紹介で鈴木志郎と結婚しました。

志郎は、当時「ユートピア」建設を目指していた社会主義系の新聞「平民新聞」の記者でした。
志郎は間もなく、北海道留寿都町に開設された開拓農場「平民者牧場」への入植を決意します。

彼に人生を託したかよも一緒に行くことにしましたが、当時、北海道での開拓労働は命がけの仕事でしたから、3歳の幼子を連れて行くのは危険すぎました。

そこでかよは、やむなくきみを、子供に恵まれなかったアメリカ人の宣教師夫妻の養女に出したのです。

ところが――。


そうまでして挑んだ留寿都での開拓に、志郎・かよ夫婦は失敗しました。
開拓小屋を火事で焼失してしまったばかりでなく、
かよは、生まれ故郷から呼び寄せた弟まで、過労で亡くしてしまったのです。


開拓を諦めた志郎は、札幌の小さな新聞社に就職し、かよも、志郎との間に生まれた子供と共に移りました。
その札幌で、同じ長屋に住む、ある、夫の同僚記者夫婦と出逢い、やがて家族ぐるみの付き合いが始まったそうです。


そして、しばらく経ったある日。
かよは、その友人夫婦に、別れて以来片時も忘れたことがなかった幼いわが子への思いを、打ち明けたと言います。

黙って聞いていた友人記者が、やがてそれを題材にして書き上げた詩が、この「赤い靴」なのです。
そして、その友人こそが、野口雨情――。


雨情が「赤い靴」を書いたのには、もう1つ理由があったと言われています。
実は雨情自身もまた娘を2歳で亡くし、同じような辛い経験をしていたからという……。

「♪ しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた…」

童謡「しゃぼん玉」は、その彼自身の悲しい思いが込められた歌なのだ、と言われています。


ともあれ、
そうして童謡「赤い靴」は生まれたのです。

ところが――。


赤い靴の女の子・きみは、実は、異人さんに連れられて海を渡ってはいなかったのです。

きみを養女に迎えた宣教師夫婦に、間もなく、アメリカに戻るよう本国から命令が来たのだそうです。
しかし――、
6歳になっていたきみが、
当時不治の病とされた結核に、罹っていました。


アメリカへの長い船旅に、結核を患った幼い子を連れていくのは無理――
というので、宣教師夫婦は結局、きみを東京・麻布の孤児院に預け、帰国してしまいました。


その孤児院の1室で3年間の闘病生活。
しかし、病状は快復せず、
きみは結局、わずか9歳で、天に召されました。

そして、
母親かよは、
そのことをまったく知らないまま、
年を重ね、やがて亡くなったのだそうです。


現在、
きみが旅立つはずだった横浜「メリケン波止場」がある山下公園に「赤い靴をはいてた女の子」像があります。
きみが預けられた孤児院跡の東京・麻布十番には「きみちゃん」像があります。
かよと志郎が開拓に挑んだ北海道・留寿都にも「母思像」があります。

それだけでは、ありません。
もう1つ、
きみが生まれた故郷・静岡県不二見村、現在の静岡県清水区「日本平」頂上には、



「赤い靴」の母・かよと娘・きみの「母子像」がありました。


そのことを、
また、
童謡「赤い靴」の陰に、こうした事実に基づく悲話があったことをも、

私は今回偶然に訪ねて、
初めて知ったのです。


私が週末に出掛けるのは、
ほとんどの場合、所用のついでに立ち寄る、行き場所や目的を予定しない気ままな小旅行です。

けれども、
そうして訪れた先々で、
必ずと言ってよいほど思いがけない何かに出逢います。

そして、
帰ってからそのことをもう少し調べ直してみるたびに、
自分はこれまで、
どれほど多くのことを「知らない」まま馬齢を重ねてきたのかと、
恥ずかしく思ったりするのです。


天にも昇る…

2006-11-07 | つれずれ
今週は、
先週末に立ち寄った静岡「日本平周辺」ネタを引っ張らせていただきます。

さて、
「日本平」は標高308mの頂上から見下ろす眺望が有名です。
空気が澄んだ晴天なら、
正面に富士山、遠くに南アルプスや伊豆半島、眼下には焼津港や静岡市街地が広がる大パノラマを、
また、夜にはきらめく夜景を楽しめる絶景ポイントですが、
その日は残念ながら少しカスミがかかっていて、遠景を望むことはできませんでした。

それでも、
眼下はこの通り。



やはり素晴らしい眺めです。


快適な日本平ロープウエイを駆け上がり、頂上の駐車場で車を降りてまず目に飛び込んでくるのは、



この鉄塔群です。
静岡県内の放送局がそれぞれ建てたアナログ放送のテレビ塔と、共同のデジタルテレビ用タワーの合わせて6本が、
天を衝くように並んでいます。
観光地にこの光景も、少し珍しくありません?


そんなテレビ塔を広角レンズに収めようと見上げていると、
「バタバタバタバタバタ……」
突然聞こえてきた爆音に驚きました。

その爆音源は……これ。



でっかい「竹トンボ」=ヘリコプターです。

行方を追っていると、
……ん?
自分も小高い山頂に居るとはいえ、ずいぶん低空を飛んでいるじゃないですか。
しかも旋回しながら。

あれっ?
旋回しているうちに、さらに低くなって、
おおっ、すぐ近くの山陰に消えたぞ。
墜落?……じゃなさそうだから、ということは近くに着陸したの? なぜ?


車を、そちらの方向に少し動かすと、発見しました。
すぐ近くの「日本平ホテル」の駐車場に、



ヘリコプターが下りているのを。

どうして?と、さらに近づいてから、
そばに停められていたワゴン車の貼り紙に気付きました。



遊覧飛行の案内でした。なるほど。


たった5分間の遊覧飛行で、料金は大人5000円也。
高いです。
もったいないです。
だから――、



ジャジャーン!
乗っちゃいました。テヘヘ。


だって、
近くに居た受付のお兄さんに、とりあえず声を掛けたんですよね。
「5分間で5000円? 高いよねえ。でも、乗りたいんだけどさ」って。
大阪人以上にケチな名古屋人の面目躍如です。

すると、
腕時計にチラッと目をやったお兄さんが、
言ったんですよ。
「うーん……。4時の終了間際だから、ま、いいっか、3000円で。でも、ほかの人には内緒ですよ」。

まさにソフトバンクの上を行く、いきなりの「予想外割引」。
それで、決まりです。

だって、
飛行機なら、この先まだ乗る機会はあるでしょうが、
ヘリコプターに乗れる機会なんて、
たぶんもう一生ないんじゃないですか? よほどの散財を覚悟するか、
それとも、
事故に遭ってドクターヘリで運ばれない限りは。


というので、
ご覧の通り。



さらに、




文字通り、あっという間の5分間でした。
でも、3000円なら、この程度で充分満足です。
何しろ、さっき観てきたばかりの「久能山東照宮」を



こんなふうに上空から見下ろすことができるとは思いませんでしたから。


それにしても、です。
地上に無事生還してから思い出しました、ある古諺を。
いわく、
「馬鹿と煙は、高い所へ上りたがる」。

なるほど、
昔の人は、
ホントよく言ったものです。