仕事で使う資料を借りに、いつもより遠い図書館へ出掛けました。
借り出した帰り、ふと思い立って、そこからさらに車で5分ほど走った「ある場所」に立ち寄ってきました。
それが、
ここです。
ただの、アパートです。
でも、
私にとっては、
ただのアパートではありません。
気が付くともう、30年余の歳月が経ってしまったんですよね。
20代半ばで結婚し、家内と初めて住んだ、ここがそのアパート。
そう、
「スイート・ホーム」です。
まだ、取り壊されずに残っていました。
2階の、向かって右から2番目の部屋でした。
6畳1間に、3畳ほどの台所。
トイレはあっても、風呂はありませんでした。
いわゆる「若気の至り」で少し無理な結婚をしましたから、
親からの援助はほとんどありません。
もちろん、貯金も限りなくゼロに近い状態でした。
ですから、
洗濯機とコタツは実家から持って来ましたが、
ちゃぶ台も、テレビもない新婚生活が、ここから始まりました。
その30余年前のアパートが、
まだ残っていました。
かつて「○○荘」だった名前が、
現在は「コーポ○○」と一見ハイカラに変わっていましたが、
外観はほとんど変わっていません。
ずいぶん変わっていたのは、周囲の風景です。
向かいの民家はほとんどが建て替えられ、
当時はまったく無かったマンションも、あちこちに出来ていました。
というより、
私たちのアパートの前も、
ほとんど同じタイプの2階建てアパートだったのに、
今ではご覧の通り、
小洒落たマンションに建て替わっています。
早い話、
私たちが住んでいたアパートだけが、
取り残されたように、
昔のままなのです。
その奇妙さが、
嬉しいような、
寂しいような……。
アパートの前の道の、向こう側の突き当たりは川の堤防です。
その堤防への坂を上り、
堤防道路を数百メートル歩き、
向こうに見える、いまはコンクリート製になった昔の木橋を向こう岸に渡ったさらに先に、
銭湯がありました。
冬の、身を切るような木枯らしの中を、
夏の、うだるような暑さの中を、
ハネムーン・ベビーで生まれた娘を代わる代わる抱きながら、
この道を、何度通ったでしょうか。
その後に生まれた息子はもちろん、
いまや男ばかり3児の母になった娘にも、
自分がこのアパートに住んでいた記憶は、おぼろげにさえないそうです。
でしょうね、
2歳と少しで引っ越したのですから。
だからこのアパートは、
私たち夫婦だけの、懐かしい思い出の場所――。
久しぶりに訪れて、
いろいろなことを思ったのです。
たとえば、
こういうように夫婦には夫婦だけの思い出の場所があるということを、
父親や母親という人種は、最初から「父親」や「母親」だったわけではないことを、
彼らにもそれぞれ「男と女」の時代があったことを、
そうした若い男女が、期待と不安が入り混じった思いをそれぞれの胸中に仕舞い込みながらおぼつかない足取りで一緒に暮らし始め、
喜びや悲しみを分かち合い、
時には絶望的な思いをも乗り越えて、とにかくいま、ここに居ることを――。
さらに、
こうも思うのです。
そういう事々を、
自分の父や母がどういう人生を歩んできたかの歴史を、
子供たちも、知っておいてよいのではないか――と。
いま私自身が、
もう亡くなってしまった父・母に、少しずつ、しかし確実に近づきつつある年齢になって初めて、
父親を一人の男として、
母親を一人の女として、
見たり、理解したりしてやらなかったことの申し訳なさを、
済まなく思い、
悔やんでもいます。
借り出した帰り、ふと思い立って、そこからさらに車で5分ほど走った「ある場所」に立ち寄ってきました。
それが、
ここです。
ただの、アパートです。
でも、
私にとっては、
ただのアパートではありません。
気が付くともう、30年余の歳月が経ってしまったんですよね。
20代半ばで結婚し、家内と初めて住んだ、ここがそのアパート。
そう、
「スイート・ホーム」です。
まだ、取り壊されずに残っていました。
2階の、向かって右から2番目の部屋でした。
6畳1間に、3畳ほどの台所。
トイレはあっても、風呂はありませんでした。
いわゆる「若気の至り」で少し無理な結婚をしましたから、
親からの援助はほとんどありません。
もちろん、貯金も限りなくゼロに近い状態でした。
ですから、
洗濯機とコタツは実家から持って来ましたが、
ちゃぶ台も、テレビもない新婚生活が、ここから始まりました。
その30余年前のアパートが、
まだ残っていました。
かつて「○○荘」だった名前が、
現在は「コーポ○○」と一見ハイカラに変わっていましたが、
外観はほとんど変わっていません。
ずいぶん変わっていたのは、周囲の風景です。
向かいの民家はほとんどが建て替えられ、
当時はまったく無かったマンションも、あちこちに出来ていました。
というより、
私たちのアパートの前も、
ほとんど同じタイプの2階建てアパートだったのに、
今ではご覧の通り、
小洒落たマンションに建て替わっています。
早い話、
私たちが住んでいたアパートだけが、
取り残されたように、
昔のままなのです。
その奇妙さが、
嬉しいような、
寂しいような……。
アパートの前の道の、向こう側の突き当たりは川の堤防です。
その堤防への坂を上り、
堤防道路を数百メートル歩き、
向こうに見える、いまはコンクリート製になった昔の木橋を向こう岸に渡ったさらに先に、
銭湯がありました。
冬の、身を切るような木枯らしの中を、
夏の、うだるような暑さの中を、
ハネムーン・ベビーで生まれた娘を代わる代わる抱きながら、
この道を、何度通ったでしょうか。
その後に生まれた息子はもちろん、
いまや男ばかり3児の母になった娘にも、
自分がこのアパートに住んでいた記憶は、おぼろげにさえないそうです。
でしょうね、
2歳と少しで引っ越したのですから。
だからこのアパートは、
私たち夫婦だけの、懐かしい思い出の場所――。
久しぶりに訪れて、
いろいろなことを思ったのです。
たとえば、
こういうように夫婦には夫婦だけの思い出の場所があるということを、
父親や母親という人種は、最初から「父親」や「母親」だったわけではないことを、
彼らにもそれぞれ「男と女」の時代があったことを、
そうした若い男女が、期待と不安が入り混じった思いをそれぞれの胸中に仕舞い込みながらおぼつかない足取りで一緒に暮らし始め、
喜びや悲しみを分かち合い、
時には絶望的な思いをも乗り越えて、とにかくいま、ここに居ることを――。
さらに、
こうも思うのです。
そういう事々を、
自分の父や母がどういう人生を歩んできたかの歴史を、
子供たちも、知っておいてよいのではないか――と。
いま私自身が、
もう亡くなってしまった父・母に、少しずつ、しかし確実に近づきつつある年齢になって初めて、
父親を一人の男として、
母親を一人の女として、
見たり、理解したりしてやらなかったことの申し訳なさを、
済まなく思い、
悔やんでもいます。