雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

「それは…、仲間です!」orz

2010年11月04日 | スポーツの雑談
「いろいろな人から『斎藤は何か持っている』といわれますが、きょう確信しました。それは…、仲間です!」
早稲田の斎藤佑樹投手の発言が、あちこちで感動を呼んでいるようだ。

筆者も、斎藤投手には「何か持っている」ような気がしていたのだが、「週刊少年ジャンプ」のヒーローのような古色蒼然とした発言に、猛烈にガックリしてしまった。天才アスリートかもしれないが、やっぱり22歳の男の子に過ぎないようだ。

明らかに「何ももっていない」筆者ではあるが、彼のような「何か持っている人」に、こんなつまらない発言をしてほしくなかった。彼の言う「仲間」とは、その圧倒的多数は、筆者と同様の「何ももっていない人」であるのは間違いない。
でも、彼はあっさりと「何も持っていない」凡庸な「仲間」のところに降りてきてしまった。それが残念でならない。大学とは、最早そういう場所に成り果てたのだろう。この先、彼は自分が誇る「何も持っていない」、はっきり言って「仕様もない」仲間たちに、終生足を引っ張り続けられることだろう。

「何か持っている人」は、持っているが故の孤独感、苦悩、理想、そして使命感を抱え、前人未到の境地を切り開くべく戦ってほしかった。そのような意味でこそ、サッカーの本田圭佑選手は、ワールドカップの試合で「僕は何かもってるかな」と発言したのだ。事前に誰もが予想しなかった日本代表のベスト16を実現し、一躍英雄になった後も、くだらないテレビ出演のオファーを全て拒否した。本田選手は「持っている」者としての自覚と責任に目覚め、孤高の道を歩み出したのだ。取るに足らない「仲間」との馴れ合いは、遥かなる高みを目指すのに邪魔でしかない。

斎藤投手は、「持っていたはずの何か」を、早慶戦の勝利ですべて使い果たした、あるいは、自ら投げ捨てた。そんな気さえ感じさせる、ガッカリ発言であった。

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