雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

八百長は「あ・うんの呼吸」でやるもの。

2011年02月05日 | スポーツの雑談
相撲の八百長で再び世間は大騒ぎだ。八百長けしからんというオーソドックスな意見から、談合だらけの日本社会では八百長は最早文化だとか、百家争鳴だ。筆者は、事前にメールであれこれ調整しないと八百長できないような、力士のレベル低下が問題を引き起こしたと見ている。

例えば、千秋楽。既に勝ち越しを決めている力士の対戦相手が、7勝7敗の成績だったとしよう。どうするか? 言うまでもない。相手に頼まれずとも、八百長の仲介役に言われずとも、絶妙な取り口で負けてやるのである。そして、勝ち星を譲り、窮地の相手を救ってやる。

勝ち星を譲られ、辛うじて勝ち越した力士も、当然相手がわざと負けてくれたことを自ら悟る。そして、口外することはなくとも、その恩を決して忘れない。土俵の内でも外でもよいから、巧妙に何らかの形で、かならず恩返しする。恩返しされた力士の方も、例え例の取り組みから既に10年が経過していても、「あ、あの時の恩返しだな」と察知し、一件落着。何の証拠も残らない。めでたし、めでたし、となる。

ヒール役の史上最強外国人力士がいたとしよう。誰から頼まれずとも、自然と空気を読み、「あ・うん」の呼吸で自分が負けるべき時を理解し、人気の日本人力士にコテッとやられてしまう。これこそが、某外国人力士が引退に追い込まれる最後の日まで、決して理解できなかった「品格」というものだったのである。

思えば、日本人は皆そうやって生きている。貸し借りの帳尻合わせをメールやら談合やらでわざわざ話し合わないとできないのは、みっともないとされるだけだ。八百長が、遥か昭和の昔からあったのは間違いあるまい。ただ、誰に言われることもなく、「あ・うん」の呼吸で八百長が成立しなくなってしまったのは、そうした「美しき日本の伝統」が滅びつつあることを示しているのだろう。

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