雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

赤ちゃんは行動を分類しない。「楽しく生きる」ことで一貫している。

2010年11月07日 | その他の雑談
池田信夫氏が「アゴラ」に寄せたエントリに大いにインスパイアされた。我々大人は日々の生活を、朝の支度、通勤、仕事、休憩、食事、娯楽など、行動を適当にカテゴライズして退屈な毎日をやり過ごしているが、今2歳の筆者の娘にはそれがない。食事も、着替えも、お風呂も、遊びも、オムツ替えさえも、すべて「楽しく生きる」ことの一環なのだ。

無垢な子どもという神話-『哲学する赤ちゃん』

例えばウチの娘の場合、食事をしていて見たこともない食材が並ぶと、とりあえず食べるのは後回しにして、突付き回したり、握りつぶしたり、別の皿に移し変えたりして、いろいろ実験を試みる。また、絵本を読んでやるとストーリーそっちのけで、憶えたばかりのひらがなに異常に執着してみたりする(「い、い、い、いちごのい!!」と絶叫したりする)。オムツ替えの時でさえ、お尻を振って抵抗してみた後、リズムよくお尻を振り出して鼻歌を歌いだしたりする。

もちろん、「類型化された行動の処理速度」という観点からは、ものすごく効率が悪い。本当にイライラさせられる。しかし一方で、毎日が楽しくて仕方がないという感じが全身から漲っていて、つまらない大人になってしまった身からすると、見ていて非常にうらやましくもある。

大人は効率的だが、迅速な処理を優先するあまり、行動を徹底的に類型化し、単調で退屈な時間を延々と過ごすよう強制されている。考えてみれば、仕事のオンとオフを何故分けるのか、仕事なのか遊びなのか境がわからないようなことを生業としている人こそ、最も幸せではないのか。国語、算数、理科、社会などと、何故科目を分けて勉強するのか。英語で算数を勉強したっていいはずだ。理科を勉強していて、天動説を信じていた中世ヨーロッパ人の世界観に俄然興味がわき、そっちを調べまくるようになっても良いではないか。しかし、そんな発想を普通の大人に期待するのは無理だろう。

ところで、公教育というのは、結局のところ効率優先の「カリキュラム」に沿って行われるものであり、「行動の強制的類型化」に他ならない。池田信夫氏が紹介した書籍の主張が正しいのであれば、横断的に、脱類型的に、自由な思考の下で行動できる乳幼児に対し、単に今の就学年齢を引き下げて早期教育を施したところで、本当にその可能性を延ばすことになるのか、多少疑問の残るところだと思う。

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