雑談の達人

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横綱相撲が国を滅ぼす。

2011年01月25日 | スポーツの雑談
「横綱相撲」という言葉がある。相撲以外のスポーツでも、正々堂々と、正攻法で、見事な勝利を収めた場合に、それを称える言葉として使われる。日本人は、ただ勝つだけでは気に入らないらしい。美しい「勝ち方」が大好きなのである。

それで、何が言いたいかというと、そう。筆者の性根のひん曲がり振りをご存じの読者なら、もう察しがついたことと思う。何を隠そう、筆者は横綱相撲が大嫌いである。相撲で言うと、白鵬は、あまり好きなタイプでない。何といっても朝青龍が好きだった。型破りの強さを誇った彼が、「横綱にあるまじき態度」を理由に追放されたのは、なにやら示唆的だ。

この「横綱相撲信仰」、相撲やらスポーツにとどまらず、現代日本人の深層心理にまで入り込み、恐ろしいほどの強力なイデオロギーとなっている。たまたまの運の良さや奇策、とっさの機転で、奇跡的に修羅場を上手く乗り切った人間を見つけては、舌舐めずりしてやって来て、偉そうに説教したがる輩が後を絶たず、本当にうんざりさせられる。

身近な仕事を例にあげると、発注や在庫管理のトラブルを、筆者が土壇場で辛うじてカバーしたりすると、日本の本社からやってきたお気楽な出張者が得意げに、「そもそも、そういうトラブルが発生しない体制作りを日頃からしておくべきだったのだ。」と説教を垂れてくる。

ここ、中国で仕事をしていると、トラブルなど日常茶飯事である。規則はあってないようなもので、金と権力を持っている人間の考え一つですべてが決まる。事前の予測など出来るわけもない。日々出現する新手のトラブルを、如何に最小限の被害で食い止めるか、七転八倒の毎日だ。

ところが、日本人は、中国に来てまで「横綱相撲」を取ろうとするのである。ご丁寧にチョンマゲを結って、マワシを締めて、汚いケツを晒して、見合って見合って、はっきょいのころうとする。相手は中国人である。塩をまいたり、立ち会ったりしてくれるとでも思っているのだろうか。そんなことをしていたら、後ろから青龍刀でブッた切られて、一巻の終わりである。

どいつもこいつも、何でこんなに「横綱相撲」が好きなのか、とよくよく考えてみるに、実のところ、誰も本気で戦う気などないのだということに気がつく。殺すか殺されるかの真剣勝負に、「横綱相撲」で立ち向かう馬鹿はいない。今日負けたら、死ぬだけだ。「明日の取り組み」はない。どんな汚い手を使おうと一撃必殺で、容赦なく相手を仕留めるしかない。

海外でそんな修羅場に立たされる人間にむかって、国内で安穏としている人間が恥知らずにも「横綱相撲」の大切さを説く。要は暗に「美しく死ね」と言っているようなものだ。これが、世界のあらゆる分野で日本が劣化している原因じゃないかと、最近特に思う。

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