雑談の達人

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常に全力で戦うのは正しいのか?

2009年05月31日 | スポーツの雑談
夏場所千秋楽で、千代大海と把瑠都の取組が無気力相撲であったとして、九重親方、尾上親方の両師匠を通じて注意がなされたと報道されている。相撲界は一時、八百長疑惑で揺れたことがあったが、筆者の関心はそこにはない。

ここで考えてみたいのは、常に正々堂々全力で戦うことの是非である。日本では、相撲以外の競技においても一般に、単に勝つこと自体よりも、その勝ち方にこだわるところが大きい。例えば、勝負以外の側面が重視される日本的スポーツとして高校野球があるが、松井秀樹5打席連続敬遠に対しては、激しい非難が浴びせられたことは、今も多くの人の記憶に残っているだろう。また、夏の大会は、強豪校も1回戦から予選に出なくてはならないので、弱小校を相手に全力で戦うケースが散見される。そのため、数十対ゼロでコールドゲームという、何とも容赦のない結果となりがちだ。次の試合に向けて戦力を温存しておくことよりも、たとえ弱小でも全力で戦うことが相手への礼儀である、というような理屈が語られる。各校ともエース投手は、過酷な連投が強いられたりする。

他の競技においても、勝負よりも「勝ち方」重視の姿勢は基本的に変わらない。柔道では「一本を取る柔道」が尊いとされる。しぶとくポイントを稼ぎ、時間切れまで粘って優勢勝ちを狙うようなスタイルはあまり良しとされない。ボクシングでも、KO勝ちにこだわる選手が多い。その他にもサッカーをはじめ、いろいろな競技においても、「勝ち負けはともかく、試合の内容的には収穫があった(なかった)」とコメントする(日本人の)監督が本当に多い。どうやら、自分たちの目指すプレー・スタイルが思い通りにできたか否かが、勝負以上に重要らしい。

しかし、勝ち方にこだわったからと言って、勝負に勝てるかどうかは完全に別問題である。むしろ、「勝ち方」にこだわり過ぎて、結局負けてしまった場合の是非について思考停止状態なのではないか(「自分の××(競技名)が出来たので、悔いはありません」が、万能の言い訳として用意されている)。しかし、グローバル・スタンダード的には勝負重視が当然で、勝ち方にこだわるのはほとんど無意味と見なされる。

例えば、陸上競技の予選においては、外国の有力選手は最後の数メーターを軽く流して走ったりする。これは明らかに、来るべき決勝に向けての体力温存策である。「国の代表なのだから、最後まで全力で走れ!」とバカなことを言う者は皆無であろう(日本だと言われそうなのでこわい)。より重要な将来の試合に向けて、当面の試合については敢えて全力で戦わないのも立派な戦略である。(跳躍系の競技においても、決勝進出レベルの記録を出したら、もうあとは跳ばないのが普通だ。あくまで決勝で勝つのが目的であり、予選で世界記録を狙ってもエネルギーの浪費だ。)

相撲の場合は日本の「国技」であり、勝負の結果以上に重要な伝統や価値観があるので、単に勝つだけではダメなのかもしれないが、だからと言って、そうした伝統や価値観において優れているはずの日本人の力士が、外国出身の力士の前に全く歯が立たない現実については、見て見ぬふりをしてもいいのだろうか。

「無気力」が問題視された一番では、千代大海も把瑠都も故障を抱えていたという。千代大海のカド番という事情はあったが、優勝争いには全く関係のない消化試合である。怪我の悪化の危険まで冒して、全力で戦う意義のある一番であったと言えるだろうか。

優秀なアスリートは、より大きな挑戦の舞台を海外に求めるのが当然の時代となった。古き良き日本的価値観の維持は結構だが、世界を相手に戦う以上、せめて国際的な価値観とのダブル・スタンダードを自在に使いこなすことが求められているような気がする。


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