goo blog サービス終了のお知らせ 

親愛なる日記

僕が 日々見つめていたいもの。詩・感情の機微等。言葉は装い。音楽遊泳。時よ、止まれ!

おはようサンライズ

2009年01月16日 | うたかたの日々


正月の惰性的な生活リズムを修正するために、朝5時起き・夜11までには寝るを慣行することにしてみた。

冬場の早朝は寒くて暗くて困ったものだけれど、ラジオから流れるアリアとかなんとかを聴きながら珈琲用のお湯を沸かすいくばくかの時がなかなか良い。

朝はすべてが生まれたてだ。

煙草を買いに外に出てみると空気がぱりっとして新鮮なきゅうりみたいで美味しい。

と、いう訳で通勤中のあなたも、楽園にいるあなたも、まどろんでいる君も

おはよう!

今日も一日何とかやっていきましょう。







------------------------------------------------------------

今朝の一曲はケリージョーフェルプスです。

kelly joe phelps beggar's oil









宵っぱりなあなたに、心ばかりのメッセージを

2009年01月15日 | うたかたの日々
本日の一曲 ida

Ida - The Weight of the Straw



携帯で見ている人はごめんなさいね。

気分はアイダ。

なんでだろう、彼らの曲は、アラジンのストーブがよく似合う。

ちらちらと青い火をみながら、暖かい珈琲を飲みたくなる。

と、いう訳で…おやすみなさい。

あなたに、いい夢が訪れますように。

今日日

2009年01月11日 | うたかたの日々
今日び、今日という日を今日日と表現するだろうか、といういうのが本日のお題だ。

いや、そうではない。

今日は珍しく、我が土地に友人がやってきて、しかもそれは満月の日で。

僕的にはテンションの高い日なのです。

と、いうわけで

わぉ~ん!

と、とりあえず叫びつつも、一先ず冷静になってなにかを考えてみよう。

と、そう思う訳ですよ。

なんといっても、もう彼は眠ってしまっていて、新聞配達員は元気に動きはじめている今、そんな時間に語ることはそうないもんです。

え、?もっとましなことを言えって?無理無理。


どう言っていいだろうか。今日の宵はなんだかむしろこれでもういいんだという種類の酔いであって、それ以外の誰にも邪魔されずにすむ無垢な酔いなんだよ。


君には、あるいは、あなたには、わからないかもしれないけれど。


しずしずと染み渡る満月の光の先に見えるものにあなたがたどり着くところはもうない。


もうない。


残念だけれど、厳しくも、そういっておかなければならない。


それが一つの規律だからだ。


あなたがそこに入るためには、しなければならない-それはある種とるにたりない-ことがあるのだけれど、もちろんそれに君は気づかない。

しょうがないよ、それも運命なんだから。


あきらめて、眠ったほうがいいよ。

いい加減、気づいたほうが、いい。

自分が何をなすべきなのかを。




それを知ったときには

あたたはやっと、自分を知る。(限定的ではあるが)

ぷかぷか

2009年01月01日 | うたかたの日々
青空が高い。


煙が吹き上がる。早朝。

寒ければ寒いほど、空気が冷たければ冷たいほど、うまい一服。


言葉を乗せず、ただただ漂う。

ぷかぷか。

人にはどれだけの音楽が必要か

2008年12月26日 | うたかたの日々
おおかたの人にとって音楽がたいした意味を持たない

それはこれまでになんとなしに気づいていたことだけれど、無視してきた事実だ。


と、いうことでタイトルにした「人には」という部分はやめとこう。

「私には」の方がしっくりくる。

私にはどれだけの音楽が必要なのだろう。


何時間何曲の音楽を聴くことができるのか、という疑問もあるけれど、どれだけの瞬間、音楽に感動し、心を動かされるか という点の方が重要だ。


それはただの気分さ、と君は言う。

そう、それはただの想い。


その想いをどれだけ持ち続けていられるか、また、想いの種類が増えれば増えるほど聴かねばならない音は、その可能性は増殖してゆくではないか。



はて今ここはどこ

2008年12月21日 | うたかたの日々
髪を切る。

髪を切れども誰も気付かぬ程度に髪を切る。

店を出て、向かいの和菓子屋におもむろに入る。
先日、友人から聞いたところによると、さる店にはヒトミチヤンという可愛い女子高生がバイトしているという。

そのヒトミちやんが滅法可愛いらしく、絶対ボヤ好みだと、そう彼は言う。

いやいや僕は女子高生などは論外。君がなんと言おうが僕の知るところではないのだ。と、ひとしきり糾弾した数日後、おもむろにその和菓子屋に訪れた私。


店はドラ焼き専門店でガラスケースには数々のドラ焼きが並ぶ。

そこで、僕は「ひとみ」というネームプレートをさげた50過ぎのオバちゃんからドラ焼きを5つ購入して家路についた。


ふかふかのドラ焼きはとてもおいしい。

今度あいつに会ったらたっぷりお礼を言わなけりゃな。

と思う12月。

今宵 彼らに祝福を

2008年12月15日 | うたかたの日々
ある月の満ちた夜に男の子が産まれた。

不安そうに見守る父と娘の祈りが届き、男の子はその体に似合わない大きな産声をあげる。

妻と夫は抱き合い、娘はその小さな頬に涙を浮かべて。


月はにっこりと笑う。とても静かな夜。

今夜、君は太陽だ。

今夜、君達は銀河だ。


また一つ星が生まれ、夜空を少しだけ明るく照らす。

僕は遠いところにいて、その瞬きに目を細める。


ありがとう。

よく、がんばったね。

ありがとう。

また、酒が飲めるね。

ありがとう。

ありがとう。






次はケーキを食べながらお墓を掘る歌です

2008年11月17日 | うたかたの日々
音楽を客観的に語ることに全く興味がない。

僕の趣味はこれこれこういうタイプだから…と恋人を選んだことはない。

それと同じように、その時々に必要な音楽がある。

先日のレイチェル・ダットのライブは、僕を、そこに居ながらそこではない世界に連れて行ってくれた。

場所の効果もあるのだろうか。

今回のライブは静岡の駅から歩いて程近いところにあるお寺の本堂で行われた。

小奇麗な土の塀に囲まれた比較的新しいお寺で、整然とした境内を横切っているとなんだかライブというより、何かの法事に来てしまったような不思議な感覚にさせられる。

体の芯が少しだけしんとなる。

本当にここでライブなんて行われるんだろうか…。と、思ってしまうくらい静かだ。

先を見やると、寺の本堂の玄関が見え、そこから暖かい光が漏れている。入るとお香の香りに包まれた。お寺というよりも高級旅館みたいな玄関だな、と思った。

受付を済まし、靴を脱ぎ、磨き上げられた檜の廊下を横切り真新しい畳の香る大広間に入る。

既に部屋の半分くらいは人が入っている。

と、言ってもゆとりたっぷりに敷かれた座布団の上に皆座っているものだから、混みあっているというよりも、何とか埋まっている感じかな。

部屋の中央辺りの座布団を確保した僕らは、なんとも不思議なこの空間にしばらくぼんやりとしてみる。

僕の想像しているお寺とは全然違う、なんというか新興宗教的な綺麗さで満ちている。

総ヒノキの壁と棚上げされた天井。達磨の掛け軸や、龍の彫刻が巻きついた壷やら、何やら。

好奇心でトイレに行くふりをして廊下を歩き回ってみたら、僕達のいた広間の正面にはさらに広い中庭があって、それを取り囲むように廊下がずっと続いている。

ライブが始まってしまったので、慌てて戻る。
















予兆

2008年10月30日 | うたかたの日々
すべての予兆、その恣意性の前にうずくまる。猫のように。丸くなって。

突然眠れなくなり、どうしてかわからないが昔殴った男のことを思う。

若く非力なその男のことを思う。

今、思えば彼の敵意は僕そのものよりも、彼の外部そのものにあったのではないだろうか。突然、そんなことを考える。


僕の記憶という名の海に浮かぶ島たち。

2008年10月29日 | うたかたの日々
さて今宵、月はその輝きを伏せ、静かに時が過ぎ行くのを待っている。

あるはずの思い出を掻き消し、迷いを頭の隅から追いやりつつも。


書かねばならぬことを書かずにいる。

誰をはばかる訳でもないが…、書けない理由があるのだ、それなりに。


だからこうして代用品の言葉で埋める。

さりとて、さりとて。





嘘とそうでないもの

2008年09月21日 | うたかたの日々
いろいろ書き飛ばすことにして


僕達はある山の中の、あるBARのカウンターにおり、そこでは青い服の女の子が僕らに上等なウイスキーのテイスティングをさせてくれるという。

残念だが、君らに顔をお見せすることはできない。

BARには似つかわしくない太陽の香りが漂う、ボウモアが好きな人だった。


話を、こんなところから始めてしまって、一体何を言っていいやらよくわからないけれど、

つまり、僕が思うことは

記憶など、実に都合がいいものだなあということ、かな?



僕は写真が好きだ。


でも、僕が写真を撮ることは、記念ではなく、僕の都合の良い記憶を残すことなのかもしれない。

写真は嘘をつく。

一方で写真は嘘ではない。


その認識の乖離が僕の中でとてもシュールだと感じている。


ホワイ

2007年12月11日 | うたかたの日々
なぜ?

という問いに答えることほど難しいことはない。

答えをそう、単純化してもいいけれど、

答えを聞きたいわけじゃないんだろうから。



なぜ?

という問いが、果たしてなぜを聞きたいのかがわからないのだから、よっぽど応えに窮するのだ。


いざ酔いの語りにさしたる展望もなく

2007年10月11日 | うたかたの日々
弱く惨めでも、そこに言葉を着せれば 立ち直れる。そんな気がしないか。

言葉を信じている。そう朝日新聞は言うかもしれないが、僕の場合、言葉は鎧であり、信じるものではなく、身に纏い、本質を飾るものである。いわゆる虚飾とも違ってそれは装いなのだ。

今日は何を着て行こうかと思案する婦女子のごとく、言葉は選ばれ、飾り付けられていくものだ。

好きな言葉があり、好きな語り口があり、好きな音節があり、好きな響きをただおいもとめて僕は語り、それが内容を欠いていても別にそれでいいのではないかと思う。小説であっても論文であっても同じで、それは音楽を聴くのと同じように感じ取る種類のものなのだ。

衣装一つでハイにもローにも変身できる。それが言葉であり、装いの音といってもいい。

だから僕は音楽を愛し、言葉を愛す。

そんな再確認に至る、この夜。

だから?って。

それはそのうち。