拝啓 名もなき君
喜ばしいことに、君の前に広がる庭園は春の息吹でいっぱいだ。
そこはとてもいいところだね。
君に会いにいくのを、春を感じる言い訳にする気はないけれど、そんな理由もあればこそ、君も気兼ねせずにすむかな、なんて。
いや、そもそも気兼ねなんかしないか。
僕らはあれからいろいろあってね、住む場所も変わったんだよ。
今は静岡というところにいるんだ。
いや、なに君が住んでるところの方がよっぽど立派さ。
ここは僕が育った町だから、多少暮らしやすい、その程度の理由だよ。
このあいだは突然訪ねていったから、驚いたかな。
ごめん、ごめん。驚かすのが好きなんだ。
朝起きたら、とっても天気が良くって、ああ、これは、今日行かなくっちゃ。
って思って、気がついたら電車に乗ってた。
春の陽気が、まばらに座る乗客たちを眠りに誘ってね、みんなどこかうとうとしているんだよ。
でも、僕は眠らないさ。
なんとなく、眠っちゃいけない気がしたんだよ。
君に会いに行くのに、意識をストップさせないで、なんとなくひと続きのまま会うのがよいだろうと、そう思ったんだよ。
そうだね、長い時間をかけて来たわりに、すぐ帰っちゃったって言うんだろ。
まあ、怒らないでくれよ。
いい大人が一人でぶらぶらしていていい場所でもあるまいしねえ。
君に届けるものがあったのさ。
気がついただろう。
何も役にはたたないけどね。
まあ、それだけなんだよ。
僕もなんの役にもたたないけれど、また会いに行くよ。
じゃあね、ばいばい。