
昨年の秋からずっと咲き続けている我が家の山茶花。。。
山茶花は椿のように、花ごと地面に落ちず、花びらがハラハラ涙のように散ってゆく。
新年を迎えると、すぐ今日の日がやって来る。。。
毎年、私がどっと沈む日である。。。
私の父は千葉県館山市で生れ横浜市鶴見区で育った。
勉強することが好きだった父は横浜市の翆嵐高校卒業して東京大学に入学した。
娘の私も同じ大学に入ることを期待して大学に通いやすい場所の土地を、わざわざ購入したのだった。
その娘は勉強が大嫌いで遊ぶこと食べることに日々夢中だった。
机になかなか向かわない娘に対して父は『まっ、健康で素直な優しい子に育ってくれればいいさ。』と自分に言い聞かせて、
私が小学生の頃に大きな期待は失せたようだ。
もうひとり優秀な子供がいたから良かった。
もうひとりも、父の大学には行か(け)なかったが。兄は私の大~好きな大学、都の西北~♪に行った。
父は勉強のほか、スポーツも万能だった。
青春を共にした父の友人が、ご自分の若かりし頃のことを文集に載せる機会があった時、父のことを載せてくださった。
『忍足生徒は県立横浜二中時代に柔道二段を取っており内股の華麗さは群を抜いていた。』と。
数年前その文集を読む機会に恵まれ、とても嬉しかった。
父と私は、とても仲が良かった。
父は猿のような真っ赤な顔でこの世に生を受けた私を見た瞬間に、
『いつか、この子と腕を組んで銀座を歩くんだ。そして一緒にお酒を呑むんだ。』と目を細めたそうだ。
よく女の子は思春期を迎えると父親を男性として意識するようになり整髪剤の香りにも敏感に反応してしまい拒否反応を示すことがあると言われているが、
私は、そういう時期が全くなかった。
高校生になってB・Fが出来た時は、門限を夕方6時にされて、門限を数秒でも破るとニコニコ優しい父親が鬼のような形相になった。
休日は門の外で仁王立ちして私の帰りを待っていた。
早過ぎる門限について何度も喧嘩になったが、多分、父親のヤキモチだったんだろうなって大人になってから気付いた。
父は、いつの日も悩み事相談室になってくれて的確な助言をしてくれていた。
父が病気になるまで、父は私の良き理解者でありアドバイザーであった。
父には散々心配をかけて来たのだが、父が病になってからは立場は逆転した。
父が病となって8年が経過した平成13年末から、父の体調は急激に悪化した。。。
家族全員で父を励まし続けた。
身体の弱い母親に代わって私は病室に寝泊まりして父の世話をした。
平成13年の暮れ、病室で元気のない父を笑わせようとして
『パパ~!私はパパに散々心配かけたけど、パパに、今こ~んなに仕えてるんだから今までのことは帳消しだからねぇ~。』と言った。
父が笑った。
笑いながら『ま~だまだだ!!お前のことは、今までずっとずっと心配し続けて来たんだからなぁ。』と言った。
二人で笑ったが、結構この言葉は私の心の中で刺さったのだった。。。
そうして、その翌年の1月9日、父はこの世を去った。。。。。。。
もっともっと父には迷惑をかけて欲しかった。心配をかけて欲しかった。もっともっと私を困らせて欲しかった。
父は家族に迷惑をかけずに逝ってしまった・・・・。
最期の最期まで父は家族思いだった。
初恋の女性だった母を出逢った日から永遠の別れが来る日まで心から愛し、家族を愛して逝った・・・。
最愛の父を失って、私は声を失った。冬から春にかけて患ってしまった・・・。
父が亡くなって今日で9年になる。。。。。
父が大好きだった『良い日旅立ち』『さとうきび畑』今年こそは泣かずに歌えるように頑張ろうと思う・・・。