在イタリア、ソムリエワインノートとイタリア映画評論、他つれづれ appunti di degustazione

ソムリエ 20年、イタリアワインのテイスティングノートと、なぜか突然のイタリア映画評論、日本酒、日本茶、突然アートも

Non essere cattivo イタリア映画 意地悪しないで

2015-10-30 14:26:10 | 何故か突然イタリア映画
Non essere cattivo 意地悪しないで



今年もさる賞の審査のための上映会が始まった。
と言ってももう2週間前から始まっていたのだが、仕事やらなんやらで行けず、今年の最初の映画がこれになった。
かなり重たい、考えさせられると言うより、不条理を見せつけられたような気分になった映画であった。

今年の9月のベニス映画祭の審査外の参加作品である。
こちらのさる賞にも審査外で参加することになっている。
というのが、監督が亡くなってしまっているからである。
今年の5月、つまりこれが最後の作品になってしまった。

監督はクラウディオ・カリガーリ、ドキュメンタリーを手がけ、短編ものを作り、長編もので80年代に話題になったのが「中毒なる愛 L’amore tossico」だそうだ。
社会的問題を多く取り上げ、特に若者のドラッグ中毒の問題をあからさまに描いている。
映画上映後行われるインタヴューには亡き監督の友人の某監督が出席。この作品の構想を一緒に練ったということだそうが、亡き監督は映画化を切望し、10年かけて実現させたということらしい。

場所は1995年のオスティア。ローマ近郊の海に面した町である。確かに、今から20年前はこんな雰囲気も持っていたような気がする。
幼馴染の二人の少年(25歳から30歳くらい)は、他の友人もそうだが、お酒を大量に飲み、安っぽい車を乗り回し、ドラッグをやり、日雇いの仕事はろくになく、お金を手にするのに小さな商店のちっぽけな強盗を繰り返し、盗みをし、ドラッグの密売もしたりして生きている。

なんでドラッグなんてものに手をだすのか、と考えるのは単純で、生まれ育った環境によってはそれも当たり前となるというか、そうでもしないと生きていけない、という不条理が見て取れる。つまり、自分に全く関係ない世界ではなく、もし万が一、自分が同じような環境で生まれていれば?というのを考えさせるだけの部分を持ち、この映画にはその説得力がある。
そして、こういう世界は、過去だけの話ではなく、ここまで荒んだ生活ではないかもしれないが存在していて、現在までも続いている問題である。
ドラッグに手を出す若者が絶えない今も、一人でも多くの人にわかって欲しい、というのが監督からの最後のメッセージのような気がする。

最後は、二人の少年のうちの一人が、強盗に入った商店の親父にピストルで打たれ、死亡と同時に逮捕。
もう一人の少年は荒んだ生活から足を洗い始めていた頃。
亡くなった少年の彼女は妊娠していたらしく、1年後、父と同じ名前の乳飲み子を抱えて生きる、というところで終わる。
つまり、現状をあからさまに描くが、そこに希望を託している。

こういうドラッグの世界をほとんど見たことのない私には、リアルな場面がかなり興味深かった。
錠剤を潰し、粉をトランプのカードを使って 分けたり、お札(懐かしいリラ札)を手早く丸めて鼻から吸い込む、その手つき、手さばき、表情がかなりリアル。

映画は13歳から、つまり13歳以下は禁止となっているが、これは正しいような気がする。
つまり、それ以下の、まだ大人のやることを、ただカッコイイというより、カッコイイような気がするだけで真似をする年齢の子供たちが見たら完全に真似するような気がするからである。それだけリアルで、説得力のある作品だった。



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