数日後シベリアの中心地バイカル湖のほとりイルクーツクにたどり着いた。
そこは長く弾圧の続くポーランド人の流刑地だった。
ようやく同族の多く住む安息の地にたどり着いたと思ったら、そこもたどり着くまでの行程と同様、苦難の連続だった。
ロシア革命に続く内戦で食料の配給は滞りがち。
重労働と飢えと寒さは変わらず、死にゆくものたちは後を絶たない。
実際当時の革命後建国間もないソビエト社会主義共和国連邦は、続く戦乱と無謀で無能な農業政策、天候不順により極端な不作が続き、餓死者2000万人とも云われるピンチを迎えていた。
更に追い打ちをかけるように、共産勢力への警戒と敵視で、有力な列強各国は次々とシベリアへ出兵、当然のように食料救援は拒否された。
国際的に孤立し何処からも救援を望めないロシア人たち自体が、極めて危機的状況にあったのだ。
そこに追い打ちをかけるように、懲りることなく始まったこの新たな戦争。
ポートランド・ソビエト戦争が破壊の牙をむいたのだ。
長い支配から独立を果たしたばかりのポーランド。
一方革命後の混乱でまとまりのないロシア。
いずれも経済が破滅状態で国民生活が困窮を極める中での両者の争いだったのだ。
そんな戦争がヨアンナ一家の悲劇を生んだ。
ロシア人から見て敵国人と罪人であるポーランド人。
以前から徴用されていたポーランド独立運動の政治犯や、愛国者などの好ましからざる敵の外国人に、施しが行き届くわけがない。
更にヨアンナのような親と死別した難民孤児たちは悲惨で、空腹で身を寄せる場所もなく、ただちに救済しなければなないほど切迫していた。
ヨアンナたち一行はようやくたどり着いたイルクーツクの地も、けっして安住の地とではない事が分かった。
街は難民で溢れかえり、自分たちの居場所はどこにもない。
やむなくその周辺の地に分散し、それぞれ自らが生き永らえる手立てを見つけるしかなかった。
しかしそんな厳しい状況の中であるが故、ヨアンナ達孤児には誰も親身に面倒をみてあげられず、その日その日を生きるのがやっとだった。
路頭に迷うヨアンナ。
もう彼女に愛情を注ぐものは愚か、今日の、明日の心配をしてくれる者はいない。
僅かに道連れの同郷者が見かねてギリギリのところで助けてくれるだけだった。
その時ヨアンナは悲しい習性を身に着けた。
大人の顔色を窺い、食べ物を分けて貰えるか悲愴漂う表情でただ立ちすくみ、ひたすら待つのだ。
戦争孤児特有の悲しい習性の臭いだった。
やっと見つけた僅かな食料に、先を争い群がる大人たち。
幼いヨアンナに分け与える食べ物など、どこにもない。
こんな時は非情にも弱い者から死んでゆく。
空腹と寒さで震えていても、誰も気に留めない。
そんな環境下に居続けると、次第に視界が狭くなる。
例えばこんな状況を想像してみて欲しい。
海などで水中深く潜ると、水圧で身体全体が押し潰されそうになる。
特に頭が締め付けられ視界が段々狭まり、暗くなってくるときのような、ある意味それに似た症状に襲われる。
もう、立っていられない。
大人でもそうなのに、ヨアンナはどうして生き続けられるのか?
両親と永遠の別れを体験し、未来に何の希望の光もあたらない。
そうした追い詰められた状況に陥った時にだけ、やっと僅かな施しを受けられた。
死と隣り合わせのヨアンナたち孤児は、明日は見いだせない絶望の淵に居た。
つづく