uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助‼ ~自由死すとも退助死せず~(9)

2020-12-08 03:24:32 | 日記


   



(写真出典:Wikipediaより画像を拝借)
 





このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…

皆さま、お疲れ様ですつい最近まで30℃近い日々だったのが一気に10℃下がってま、今は20℃前後寒い地方では10℃以下になってるところもありま...

#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…

 

 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。






  
   第9話 容堂公
 
 退助と象二郎の主君である山内容堂公。

この容堂と云う名は世間によく知られているが
実は安政の大獄により
蟄居の命令が下り、
それにより隠居させられた後の号である。
山内豊信(とよしげ)が本名であり、
隠居後の号を名乗るにあたって
『忍堂』と称するはずだった。

彼は自分の性格を自覚している。
短気で意に添わない事柄に腹を立てる事が多く、
「時局は腹の立つ事ばかり」
と嘆いていたという。
そうした性格の自戒から
忍(しのぶ)心を持てとの意味を込め、
自らの号を忍堂とするつもりでいた。
しかし水戸藩 藤田東湖の勧めで『容堂』と改める。
「この大変な時局、
忍耐より寛容の心が大切でありましょう。」
との進言を受け入れ、
「自ら寛容になれ」
と言い聞かせるべく『容堂』としたのだった。

だがここでは今後『豊信公』として統一する。


豊信公は武芸に秀でている。
写真に見る容姿からは意外に感じるかもしれないが、
軍学は北条流、他に弓術、馬術、槍術、剣術、居合術を学び、
特に居合では18歳にして目録を得るほどの達人であった。

退助や象二郎などの家臣たち数人が稽古に参加したが、
七日七夜ぶっ通しの苛烈なしごきに
最後までついてこられたのは
退助たち僅か2~3人に過ぎなかった程である。
退助や象二郎が豊信公に気に入られ
その後重用されたのは、
普段からの度重なる稽古付き合いと、
人格・能力・人を引き付ける個人的な魅力が
認められたからであろう。

特に豊信公は退助が好きだった。

憎めない奴。

とにかく下の者たちの間で人望がある。
本人は豪胆粗野でありながら、
誰に対しても公平で尊重する姿勢や、
弱い者をいたわり全力で守ろうとする性格は、
誰しも無条件でついて行きたくなる。

困ったことに退助は時々問題を起こす。
直情的な彼は
行動も考え方も急進的であった。
過去の度重なる喧嘩騒動の他、
日増しに強まる尊王攘夷への傾倒ももそのひとつ。
幕府に忠誠を誓う豊重にとって厄介な思想である。

だが何故かそんな退助でも
守ってやろうとの想いが
豊信公にはある。
短気な藩主にしては不思議ではあるが
大のお気に入りなのだ。

「こりゃ!退助!!」

問題を起こす度、平伏する退助を厳しく叱るが、
その目はいつも優しかった。


今日も豊信公による稽古の日。
あまりの激しさで家臣たちヘロヘロの状態だが、
豊信公は息ひとつ乱れていない。

家臣たちは決して口には出さないが
その超人的様(さま)にいつも心の中で
「殿は本当に人なのか?」
と訝(いぶか)る気持ちが湧いてくる程であった。

そんな家臣の心のうちを見抜く豊信公は
時として意地悪な鬼と化す。

「退助!もう一本!!」

(あぁ、また名指しだ)
一瞬表情を曇らせた退助に、
「秘儀、蛇の剣を見せてみよ!」
と所望する。

「殿、ご無体な!
昔の戯言をいつまでもいつまでも
ねちねちとおっしゃられるなんて
まっこと人の上に立つ者の所業とは思えませぬ。」
口をとがらせ、ブツブツと呟くように
もはや少年ではない退助が言う。

稽古を重ねるにつれ、
そんな口答えができる間柄になっていた。
殿様に対し、こんな言動は下手をすれば、
(人により)打ち首ものの反抗と見なされる。
だがそんな無礼もどこ吹く風の豊信公は
狡い笑顔で
「何をグタグタ申しておる!
土佐の男ならグヅグヅせず早よせんか!」
と有無を言わせない。

仕方なく
「恥ずかしながら、・・・イザ!」と構え
舌をピロピロし始め、
身体をクネクネ
右足を擦り出そうとすると、
「隙あり!!」
鋭い殿の竹刀が退助に打ちかかる。

寸でのところでかわし
二の太刀に備える退助。
間合いを保ち、
スリ足の幅を心持ち狭める。

お互い呼吸を止め、
我慢比べが続く。

堪らず退助が
構えを中段から上段に引き上げようとした瞬間、
溜めた呼吸が乱れ、
軸足である左の踵(かかと)が浮く。
間髪入れず豊信公が
素早い足捌きで一挙に間合いを詰め、
鞘の位置から斜め横に切り上げる動きで
退助の胴を決める。

(しまった!早い!!)

「勝負あり!」
との声に
「参った!」と
退助が負けを認める。

「まだまだやのう。」
仁王立ちの豊信公の高笑いが道場に響いた。



退助の名誉のために一言。
彼は決して弱くはない。
無双の剣を持ち、
その力は後の討幕の戦(いくさ)で証明される。

しかしここでは
対戦前の心理戦での常套手段を得意とする豊信公。
幻術(人の心を惑わす術)を使うが如く、
退助の恥ずかしい過去をほじ繰り出し
弱点を導き、そこを突く。
(第5話の御前試合参照)

増してや相手はわが主君。

退助の性格では忖度はありえない。
でも本気で突けるはずもない。

そこに手加減があったとは思えないが
躊躇する心理は働いた筈である。

豊信公と退助の対戦を眺めていた象二郎が、
「クッ、クッ!」と笑う。

「何を笑う?」
殿と退助が同時に象二郎に問う。
「殿、この退助はんは子供の砌(みぎり)、
私と喧嘩をするとき、いつも私の苦手な蛇を持ち出し
私を脅すのです。
だから今日は痛快でなりません。
殿、もっともっと、退助はんに蛇の型を申し付け下さい。」
「よし、分かった!!
退助、余(よ)の大事な象二郎を虐めるなど
不届き千万!
余が成敗してくれようぞ!!」

「殿~ぉ・・・。」
情けない顔の退助であった。



そんな豊信公は
退助の祝言に際し、格別の計らいで
数々の祝いの品を贈っている。

それは厚い信頼の証であり、
大のお気に入りの証でもあった。

そんな豊信公と退助の間柄を見せつけられ、
嫁となるお里は目を丸くする。
「まぁ!」
元々お嬢様育ちで勝気な新妻ではあったが、
お殿様のお声めでたい旦那様に
相応しい妻であろうと
心新たに気負うのだった。

そんな妻を可愛いと思いながら、
心のどこかで持て余し気味の退助。

明日は免奉行着任の挨拶に登城するという日。
不安と希望で一杯の退助であった。


 つづく

こりゃ!退助‼ ~自由死すとも退助死せず~(8)

2020-12-04 13:31:15 | 日記
 

 







このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…

皆さま、お疲れ様ですつい最近まで30℃近い日々だったのが一気に10℃下がってま、今は20℃前後寒い地方では10℃以下になってるところもありま...

#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…

 

 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。








 第8話 象二郎と云う男

 退助の親友象二郎は、
退助とお里の祝言の日、
限界を超えて酒を浴びた。

 本来象二郎は下戸である。
生涯無理して酒を飲んだのは
退助の祝言前日と当日だけである。

 つまり象二郎は自分のためには一滴も飲まず、
退助のために命がけの無理をしたのだ。

 実はこの象二郎、その後
土佐藩の藩政改革とその後の維新、
新国家形成に於いて退助に負けず劣らずの
多大な功績を残している。

退助の遠縁にあたり、
吉田東洋を義理の叔父に持つ、
後藤正晴(馬廻格・150石)の嫡男として
高地城下片町に生を受ける。

少年期にその父を亡くした象二郎は、
後藤の家督を継ぎながら
東洋に元に身を寄せ、
小林塾に通う。
そこで中岡慎太郎、岩崎弥太郎、福岡孝弟
らと共に学ぶことになる。

後に中岡慎太郎は象二郎を称し、
「西郷(隆盛)は一日に15里歩むと云えば
必ず15里歩み、
象二郎は20里歩むと大法螺吹いて
実は16里しか歩めない。
しかし結果に於いて
象二郎は西郷より1里多く歩む男である」
と高く評している。

性格の豪胆さと、不正・卑怯を憎み、
身分の上下を気にしないところは
退助に似ている。

ふたりの違いは
その場の空気を読み、
細かい機転と配慮が利く象二郎と、
破天荒だがどこか憎めず
下の者に慕われる退助。

 実はこの物語の作者である私は、
主人公を退助にするか
象二郎にするか迷ったほどである。

正義感が強いのは二人に共通するが
直情的な思考の退助は尊王攘夷の急先鋒であり、
思慮深い象二郎は公武合体論者である。

三国志の登場人物に喩えると
関羽と張飛の様な関係か?
但し兄貴分の退助が張飛で
弟分の象二郎が関羽であり
そこが逆転しているが。

しかし考え方の根っこは同じところにある。

つまり藩も日本国も、外国に負けない
富国強兵政策を一刻も早く実行し、
外国勢力を撥ね退ける事に尽きる。
そのための具体的方策で議論を重ね、
時を費やす日々であった。
象二郎は東洋の小林塾に通い、
広め・深めた見聞知識を
退助に弾丸のように浴びせ続ける。

象二郎の通称は
藩主山内豊信(容堂)が
「(重用する)吉田東洋に象(かたど)れ」
との意を込め
賜った名前という程である。
その後学問と知識の重要さを肌で感じた退助は
阿波出身の学者若山勿堂に
当時の儒学と兵法の最高峰、山鹿流兵学を
学んだほどの影響を受けた。


 
 
祝言の席上、
象二郎は退助への祝辞は
「祝着!!」
とだけ言い、満面の笑顔でコクリと頷く。
酔った赤ら顔で挨拶もそこそこに、
新妻となるお里に向かい、
「里殿、この度はお招きいただき、
誠にめでたく恐悦至極に存ずる。
 本日のおまさん(里殿)は
目が覚めるほどの美しさ、
退ちゃんが羨ましかぁ。
ほんま幸せ者ぜよ。」
とふらつき乍ら上機嫌で言った。
「あら、いつもの私は?」
「・・・そりゃ、そのぉ、・・・あれだ・・・。
いつも美しかぁ。」
突然額から汗がにじみ出でる。
声が裏返り、シドロモドロになる象二郎。
お里は目を細め、疑いの眼差しを露わにし、
「取って付けたお言葉ですこと。
ホントにそう思ってくださっているのかしら?
まぁ良しとしましょう。
どうせこの後もいつものように朝まで
議論を交わすお心積もりでございましょう?
飲めないお酒、
あまりご無理をなさらないでくださいまし。」
退助に対するときのような
容赦ない追及を象二郎には向けられない。
この辺で許しておこう。そう思った矢先、
よせばよいのに退助が口を挟む。
「おまはん(お里)が美しかどうかは、
あまりに主観の問題じゃけ、
議論にならんじゃろ。
なぁ象二郎!カッ、カッ、カッ!!」
お里の地雷を踏む高笑いだった。
本日2度目の冷たい空気が流れる。
「退助様、どうせ私は・・・」
間髪入れず言葉を遮り象二郎が
「今宵の月のような、楚々とした美しさが
お里殿の持ち前の魅力と存ずる。
そこに退ちゃんも惚れたと言うとりましたぞ。」
「あら、今宵の月の事が
よくその前にお分かりになっていましたのね?
さすが天下国家の将来を見通すお二人。
頼もしい旦那様で私は幸せ者でございます。」
祝言の席だというのに
痛烈な皮肉のカウンターパンチだった。
聴いていたお里の父、林弥太夫が堪らず
「この辺でやめとけ、たいがいにせえよ。」
とお里を窘(たしな)めた。
白無垢の肩をすぼめたお里。
気の強さと相手を追及する性格は、
綺麗な娘と成長し、見た目の姿が変わっても
変わらないらしい。


退助が蟄居中、
象二郎は東洋の推挙もあり
郡(こおり)奉行に任ぜられている。
本来ならば退助が就任するハズであった。

郡奉行とは、領内の農民衆の訴えの裁きや、
徴税、その他諸々の捌きが仕事である。
いわば行政長官と裁判官の役目というところか?

人望と人格と見識と公平なバランス感覚が求められる
誰でもできるポストではない。

小規模な江戸町奉行と思い、
大岡越前や
遠山の金さんを連想するとよい。

その数年後復活した退助は象二郎とは違う役職
「免奉行」(税務官)に就任している。

退助の就任の内命が下ったのを契機に、
ここが引き時と、
持病が悪化した父正成が隠居を申し出た。
隠居申請の後、僅か数か月後死去。
お里との婚儀は、父存命中にとの
急ぎの仕儀とあい成ったのである。
家督を継いだ退助であったが、
蟄居の時の咎(とが)がもとで
家禄を300石から220石に減ぜられる。

収入が減っても変わらず経費は掛かる。
その状況の変化を忖度し、
退助の姉のような存在で初恋の相手でもある
お菊が出て行った後も変わらず奉公していた
両親の父太右衛門と母の春が
乾家の職を辞し、隠棲を申し出た。

退助にとってお里との婚儀は
父の隠居・死去と、
お菊の消息を完全に断ち切る
契機にもなってしまった。


お里と所帯を持っても
心の奥底に棲むお菊の面影が消えない退助。
心に冷たい隙間風が吹くのを感じた。

しかし時代は容赦なく進む。
退助を求めるうねりは
立ち止まるのを許してはくれなかった。

藩主豊信(容堂)が新婚の退助を呼び出す。


  つづく