おせんタヌキはおミヨちゃんに寄り添っていた。
慎太郎の戦死の報を受け、悲しみに暮れるおミヨちゃんを痛々しくて見ていられないから。
慰めの言葉もなく、ただ寄り添うしかない。
幾日もただ、さめざめと泣き続けるおミヨちゃんに、おせんタヌキはお地蔵さまにすがり、どうしたものかを問う。
しかし生きとし生けるものにとって、この世は諸行無常。
痛みに耐え時が過ぎるのを待つばかり、との答えしか出てこない。
おせんタヌキはあれだけお世話になったおミヨちゃんに何とか力になりたい、元気になって欲しいと心から願う。
でも亡くした者は帰らない。
おミヨちゃんもそれくらい分かっている。しかし後から後から溢れ出る涙と悲しみは当人もどうする事も出来ないのだ。
おせんタヌキはただ寄り添うだけしかできない自分の限界を痛感する。
そんな時お山が動き、多くのタヌキたちが戦争を止めようと出征する事を決した。
もうこれ以上の犠牲は御免だ!
ご恩あるお里の人間のために戦いに出ようというのだ。
そう、今こうしている間も犠牲者が出続けているのかもしれない。
私はおミヨちゃんに 寄り添っているだけでよいのか?
おミヨちゃんのような戦争未亡人が増え続けるのを見ているだけ?
早くに戦争未亡人と云う犠牲者になってしまったおミヨちゃんには悪いが、これからでも遅くはない。 この戦いを止めるために私も協力する事が、恩あるお里の人々のお役に立てられる唯一の行いなのではないか?
私には能力がある。
これは決して己惚れなどではなく、確かに他のタヌキたちより卓越した妖術の能力とお地蔵さまから受け継いだ神通力を備えているのだから。
今こそこの能力を活かすべきなのではないか?それがお里の人たち、しいてはおミヨちゃんの安息に繋がるのかも?
もちろん戦いが終わったからといって、慎太郎さんが帰ってくる訳ではない。しかしいくさが終わればその分だけでもホッとするだろう。
意を決したおせんタヌキは自らも出征する決意をする。
自分も連れて行って欲しいとお山のリーダー五右衛門タヌキに頼み込み、特別な許しを得た。
もちろん出征は本来男の仕事。女タヌキの おせんまで出征するなど想定外であり、願いを耳にした当初は全く相手にしていない五右衛門タヌキであったが、おせんタヌキがあまりに熱心に訴えるのと、他のタヌキどもを圧倒する卓越した妖術の能力と、他の者には無い神通力という特殊なスキルを兼ね備えたおせんタヌキなら、きっと目覚ましい活躍を見せ、尚且つ味方のタヌキたちの犠牲も抑えてくれるだろうとの思惑から、特別に随行を許可した。
そうした経緯がありおせんタヌキも出征する事になったが、流石に実際の戦闘で銃を持たせる訳にはいくまい。
おせんタヌキは陸軍ではなく、海軍への所属として取り計らった。
但し、まだ若すぎる おせんタヌキは女であり、単独では征かせられない。
心許ないが、気心が知れたあのデコボココンビの尚五郎タヌキと庄吉タヌキも補助に付け、セットでの出征とした。
いよいよ出征の日。
おせんタヌキはおミヨちゃんに最後の別れを言うため、お地蔵さまの隣にお地蔵さまモドキとして鎮座、心づくしの木の実を供え、暫しの別れを仄めかせた。
無言の別れではあったが、その意図はおミヨちゃんには伝わる。
コクリと頷くと、「お元気で、そしてご無事で。」と手を合わせてくれた。
おせんタヌキは五右衛門タヌキから、今後おせんタヌキが成すべき命令を聞いている。
それは海軍の秋山参謀長からの直々の伝達による命令で、来るバルチック艦隊との決戦を前に、できる限り航行妨害する事であった。
1904(明治37)10月15日、ロジェストヴェンスキー提督率いるバルチック艦隊が、母港のリバウ(現ラトビア リエバーヤ)を出港する前に何としても辿り着かなければならない。
おせんタヌキは自分にしかできない神通力で尚五郎タヌキと庄吉タヌキを伴い、一日千里を走る術を使う。
今まさに出航せんとする艦隊に間に合うと、旗艦「スワロフ」に潜入しロジェストヴェンスキー提督の部屋にて調度品やマトリョーシカに化け、機会を伺う事にした。
ジッとしているのが苦手な尚五郎タヌキと庄吉タヌキ。
下半身をモゾモゾさせ、「なあ、尚五郎タヌキ、用を足す時はどうするんだ?」
「そんな事知らないよ。自分で何とかしろ!」ヒソヒソと話しているが、おせんたぬきがフゥ、とため息をつき、
「その時は私が幻術で、お二人の姿を変わり身の術を以って身代わりを置くから大丈夫。いつでも言ってくだされば用を足せます。
食事も私が食糧庫に忍び込んで調達できるからご心配は無用よ。」
「それは有難い!そん時はヨロシク頼むよ。やっぱり流石おせんタヌキ殿よ。」
「ホント頼もしい。おせんタヌキ様々だな。」
などと云っているが、幾日も何もせずただじっとしているのは、ふたりのタヌキにとって思いもよらない苦行であるのを知るのは時間がかからなかった。
特にロジェストヴェンスキー提督が在室中には。
全く手のかかるふたり。
そんな中、おせんタヌキは出航早速、ある術を施した。
そして出航から1週間が過ぎ、その術の効果が表れる。
約100ほど先行していた工作船「カムチャッカ」の機関が故障し、艦隊の航行から脱落した。
更に運悪く視界不良の濃霧に覆われる。機関の駆動不良は術の効果であるが、それ以上の細工も艦隊全体に成している。
それは艦隊乗組員たちの意識。即ち相手の脳に直接働きかけ、不安を煽る術。この術は効果が表れるまで時間がかかる。丁度出航から1週間が経過した頃から乗組員たちの精神が不安定になってきた。
何かちょっとしたきっかけで怯えるようになり、過剰反応するようになる。
そんな時、艦隊の隊列から脱落していた「カムチャッカ」から無線が打電された。
「我日本の水雷艇と思われる艦8隻より追跡さる。」
その直後通信が途絶え、緊張が走る。「スワ!敵の攻撃か?!」全艦戦闘配置につく。
時は夜。濃霧の中、極度の緊張から乗組員たちは過剰すぎる反応を見せた。
周囲の状況が全く分からない。必死で探照灯を灯し探索を続ける。
すると突然目の前に小型の蒸気船を発見、直ちに砲撃を開始した。
それに慌てたのは砲撃を受けた小型船。彼らは近辺で漁をする漁師たちであった。
必死で攻撃するな!と大声で訴える。
だが砲撃は一向に止まず、一隻二隻と撃沈された。
漁師たちは堪らず獲ったばかりの魚を掲げ、「自分たちは漁師だ!攻撃を止めろ!」と叫び続ける。
だが異常な極度の緊張による混乱を来たした艦隊乗組員たちには届かず、それどころか事もあろうに同士討ちまで始めた。
その結果バルチック艦隊所属の防護巡洋艦「アウローラ」、「ドミトリー・ドンスコイ」が被弾。
同士討ちで味方に被害がでた事を知り、司令官のロジェストヴェンスキー提督がようやく間違いに気づき砲撃の中止命令を発した時は、多数の死傷者を出していた。
しかも最初に日本の水雷艇と誤認され被害を受けた小型船の正体が、イギリス近海で漁をしていた、ただの漁師たちであったとその後に知る。
しまった!
でもよく考えたら、日本の小型水雷艇がはるか彼方の日本から外洋を渡り、ここまで来られるものか?
小型の水雷艇にそんな能力がある筈もない。
いくら夜間の濃霧だからと云って、確認不足の状況誤認も甚だしい。
「アンタ達、バカ?」そう言われても仕方ない程の、考えられない大チョンボだった。
でもそれこそが、おせんタヌキの術の真骨頂である。
そのおかげで思わぬ死傷者を出してしまったが、本来氷山などを誤認させて混乱を引き起こすための術であるのだから、期待した以上の効果を発揮したと云える。
それにしても、小型の漁船が日本の水雷艇?
やっぱりお粗末にも程があるだろ。
但し、そんな醜態を演じたバルチック艦隊を少しだけ弁護すると、当時日本はイギリスと同盟を結んでいる。そんな日本がイギリスの力を借りて世界各地に海軍を展開する可能性は否定できない。
いつ探索船に出会うか分からないと極度に警戒していた。
その結果、ロシアはスパイ(エージェント)を多数雇い航路上を警戒させていた。
しかしそのエージェントたちは決してロシアへの愛国心から仕事を買って出たのではない。
彼らの殆どは金目当てであった。
当然お金をせしめるには情報を提供する必要がある。
だから嘘でもガセネタでも構わず「日本の水雷艇を発見した」と各地から届いていたのだった。
(その中には旗艦「スワロフ」に潜入していた おせんタヌキからの偽情報も多数紛れ込んでいたが。だってそんなに偽情報が集まるのなら、もっと派手に展開した方が豪気でしょ?)
そうした事情もあって、彼らには戦々恐々とする下地があった。そこに おせんタヌキが付け込み幻術と神通力を以って混乱を引き起こし、更に増大させたと云うのが事の真相でもある。
だが、おせんタヌキは少しやり過ぎたかと思った。
作戦の目的は達し成功を収めたが、反面、思わぬ犠牲者が出た事に心を痛め、後悔する。
無関係な人達を巻き添えにしたことは意図しない結果であるが、これも戦争が招く悲劇。
心からの祈りを込めて合掌する おせんタヌキたち一行であった。
おせんタヌキは思わぬ犠牲者が出た事に、心を痛めた。
無関係な人達を巻き添えにしたことは意図しない結果であるが、これも戦争が招く悲劇である。
心からの祈りを込めて合掌する おせんタヌキたち一行であった。
この時の騒動が想像以上の効果を見せている。
この事件は被害を受けたイギリスは大々的に報道、激高した世論が連日ロシアを責めた。
その結果、重大な国際問題に発展し、英露関係が一触触発の険悪な状態に陥る。
元々イギリスは日本と同盟関係にあったが、報復に必要以上の妨害工作をバルチック艦隊に浴びせ、その後の航行が難を極めさせた。
イギリスは当時世界各地の要衝を確保しており、ロシアのバルチック艦隊の寄港を阻止、水や食料、しいては燃料の補給の一切を拒否する。
特に艦隊の石炭燃料の補給ができないのは痛手だった。
イギリスは無煙石炭を独占していたため、イギリス支配以外の港で補給を受けられるのは煙が濛々と出る石炭のみ。
結果、バルチック艦隊の行く手は立ち込める煙により常に所在を明かし続け、位置を日本に知られたのだった。
また蛇足ながら、この騒動では無駄に数千発の砲弾をも浪費している。
数千発?え!その数、間違ってない?
いいえ、数千発です。
呆れた。
これらの結果を引き出したのは おせんタヌキたちの成果であり、無関係な犠牲者を出すというマイナス面があったにしろ、戦争に勝利する大きな要因となったのは確かであった。
つづく