ヨアンナにとって影となり日向となり、自分たち孤児院や青年会のメンバーの後ろ盾となり庇護してくれた大使館を喪失することで、心の中の最後の砦を失った敗残兵のような気持ちに陥っていた。
またひとつ私の大切なものが消えてゆく・・・。
見るも無残にやせ細り、生気のない彼女を見て、フィリップは大そう心を痛めた。
「おお、ヨアンナ!今のあなたの姿を見ていられません!
どうか私に貴女《あなた》を守らせてください!
私はあなたの事を深く思っています。
どうか、どうか、その闇から連れ出させてください!」
後先《あとさき》考えず、思わず心の叫びが声に出てしまった。
彼女はしかし、大きく頭《かむり》を振り、
「お心遣いありがとうございます。
でも申し訳ないのですが、もう暫《しばら》く放っておいてください。
私は今、無くしたものの弔《とむら》いをしています。
幼い頃シベリアでの逃避行で両親を亡くし、友を失い、大切な日本の想い出の彼を私の身代わりの犠牲で失い、心の縁《よすが》だった日本の大使館のひとたちが去っていきました。
もう少しだけ私の心をあの方たちに添わせてください。」
フィリプはヨアンナの一滴《ひとしずく》の涙を見たような気がした。
杉原千畝が敏郎の墓参りに来た日以外、来る日も来る日も窓辺に座り、外を眺めるでもなく涙に暮れるヨアンナ。
そんなヨアンナにフィリプは、つかず離れずそっと見守る事にした。
ヨアンナは毎日瞼《まぶた》に焼き付いた同じ光景を見ていた。
思い出していたのではない。
見ていた。
敏郎の最後の時、彼の身体は自分の腕に支えられ空を見つめていた。
彼の瞳は茶色だが、空の深い深い青が映る。
その時敏郎とヨアンナには確かに天使の詩《うた》が聴こえていた。
姿までは見えない。でも確かに聴こえていたのだ。
ドイツ軍に摘発され、銃声や叫び声が鳴り響く中だったのに、あれだけの喧騒が一切聞こえない。
代わりに鐘の音と天使の歌声が優しく耳を包む。
そんな同じ情景が絶えずヨアンナに語りかけるように、繰り返し繰り返し見えた。
ヨアンナは自分を責め続けていたが、あの詩《うた》の意味は何だろう?
敏郎の魂が天使に誘《いざな》われ、青空に吸い込まれていくような不思議な感覚。
私はそれを目撃していたのか?
暫くして敏郎の瞳は永遠に閉ざされた。自分の腕の中で。
ヨアンナは思った。
彼の記憶は永遠に自分のもの。
彼を連れ去った天使たちの行き先は、多分あの空の向こう、あのお方の座《おわ》すところ。
私は彼の写真を一枚も持っていない。
愛する人の写真は無い。・・・それは父も母も。
でも私の瞼に焼き付き、記憶に残っている。
私の大切な人は、そうやって永久に存在し続けるのだろう。
そしてその中に敏郎も加わった。
天使の詩《うた》と共に。
フィリプが我慢強く通っていたある日。
ヨアンナの視線が自室の窓の横にある壁の古い数枚の写真から離れず、ジッと見つめ続けている姿を目撃した。
フィリプはヨアンナがその写真たちと会話しているように感じた。
やがて彼女の表情にほのかに赤身を帯びた生気が戻ってきた。
そして彼女はゆっくり向き直り、フィリプに言った。
「この写真は日本とお世話になった福田会《ふくでんかい》の人たちの写真です。
幼い頃私が日本に滞在したころは、もう両親はこの世に居ませんでした。
だから勿論《もちろん》この写真には写っていません。
私は父の写真も母の写真も、持っていないのです。
でもこの懐かしい写真たちを眺めていると、何故か父と母を思い出します。
そしていつも私を励ましてくれます。
優しく包み込み、悲しさや苦しさを和らげてくれます。
だから今までずっと写真を見て、父と母を思い出していました。
私の父と母が私に言うの。
もう泣くのはおよしなさい。
あなたに涙はふさわしくない。
あなたがこの世に生を受け神から授かった使命は、周りの人々を明るい陽の光のように照らす事なのだから。
だからいつまでもあなたが塞《ふさ》いでいたら、皆が不幸になってゆくの。
だからそろそろ顔を上げ前を見て、自分の目の前に見える道を信じて歩みなさい。
神様も、そしてまわりの皆もそうする事を待っているのだから。
私は自分をそんな風に思った事はありません。
でもそれが父と母の願いなら、その期待に応えたい。だからもう嘆きという闇と霧をかき分けて歩き出します。
ご心配をおかけしました。」
少しだけ笑顔を見せ約束してくれた。
但し、敏郎の事は口に出さなかった。
誰にも触れてもらいたくないから。
「貴女《あなた》にはご両親が見えていたのですね?
きっと優しく立派な方だったのでしょう。」
「ええ、そうです。
父も母もシベリアでサヨナラしたけど、いつも私を見守り、応援してくれていると信じています。
父はある日食料を調達するために母と私を置いて出たきり帰ってきませんでした。
それから何年も経ってから、伝え聞きで父の最後の消息を知りました。
父は身に着けていた大切な腕時計と交換して、やっと手に入れた食料を地元の暴漢に襲われ奪い取られてしまいまったそうです。
そしてその時必死で抵抗し、命までも奪われたと。
最後まで私と母の名を呼びながら息を引き取ったそうです。
その様子を目撃した知人は、自分の保身から助ける事ができなかったと。
巻き添えをくい自らも負傷し、数日間動けなかったそうです。
私に父の消息を教えてくれたその方は、シベリアで一緒の人でした。
児童救済委員会の人が私を助けに来てくれるまで、私の面倒をみてくれました。
私に何度も何度も言おうとしたけど、事実を伝えることができず、その罪の意識から私を最後まで面倒みてくれたそうです。
そういったことから自分たちが命がけで工面した僅かな食料を、私にも分け与えてくれたと打ち明けてくれました。
申し訳なくて、私たちに顔向けできなくて、真相を打ち明けられずにいたと。
遥々(はるばる)私の居るヴィイヘローヴォ孤児院まで来てくださって、涙を流しながら何度も何度も「済まない」と謝り続けて・・・・。
あの時は皆辛かったです。
父の死も知らず、いくら待っても父は帰らず、諦め先へ進みながらも、お金もなく食料と交換できる物も尽き、とうとう母は私の行く末を案じながら父の待つ天に召されていきました。
自分は何も食べず、極寒の中、暖もとらず私を守り続けた最後でした。
父の死を看取ったあの方が戻って来たとき、既に私の母は息を引き取った後だったそうです。
母の最期を見て孤児になった私を、あの方と他の大人たちが守りながら、イルクーツクまで連れて行ってくれました。
今私がこの世に生きていられているのも、たくさんの人たちが手を差し伸べてくれたおかげです。
(だからその結果)父は死して私を見守り、加護の手助けをしてくれたのだと思っています。
私は父に恥じないよう、母に恥じないよう、お世話をしてくださった皆さんの心に応えられるよう、生きてゆかねばなりません。」
フィリプはそれを聞き涙を流す。
ヨアンナはただの一度も敏郎の死に触れていない。
彼女は心の奥底に秘めていようと決心しているようだ。
そんな健気なヨアンナが愛おしい。
フィリプは彼女をサポートし、生涯を捧げる決心をした。
例え彼女の愛を得られず、永遠に結ばれなかったとしても。
つづく