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uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第14話 太平洋戦争

2024-07-14 04:17:18 | 日記

 秀則が企画院専任になるのと同時期、第二次企画院事件と言われた『高等官グループ事件』が起きる。

 1938年の判任官グループ事件での『判任官』とは、秀則の『技師』の上位の官職等級であり、『高等官』は更に上位の官職である。

 調査官及び元調査官である高等官が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者17名を出したのだ。

 『高等官』の任免には天皇の裁可を要し、その高等官を逮捕するという事は、天皇の裁可に異を唱えるのと同様の恐れ多い処断であったと云える。

 それ程財閥・商工省と内閣直属の企画院の権力争いは熾烈しれつを極め、食うか食われるかの権力闘争であった。

 企画院は軍部(主に陸軍)の(実務上の必要性から)全面的なバックアップを受け、この時点では何とか生き延びる事が出来た。

 但しこの事件以降、企画院の主導権は軍部が握る。

 その後、戦争激化のため限られた予算の争奪をめぐり、陸軍と海軍が対立。

 戦争遂行のためには更に強力な権限を必要とし、事件の発端となった商工省と企画院を喧嘩両成敗として両者を軍需省に再編、統一した。

 つまり最終的に軍部による独裁体制の最終的完成を果たし、国家財政をほしいままにする事が出来るようになった。とは言え、まぁ最終的には敗戦を迎え軍は解体、戦後は官僚の天下となったのは前話でも語った通り。

 

 

 秀則の職務は、ひとえに戦争遂行目的に限定されている。

 仏印・タイ視察も朝鮮・中国視察も結局は戦争継続が目的であり、その後の作戦遂行の下準備であった。

 

 嵐のような職場環境の中、秀則は淡々と職務をこなす。

 そしてその翌年の1941年12月、日中戦争が対英米戦争に発展拡大する。

 

 

 

 

 

    太平洋戦争

 

 

 

 この戦争を多くの人が『大東亜戦争』と呼ぶ。

 確かに当初の目的はアジア解放を求める大東亜共栄圏建設構想に基づく戦いである。

 しかし開戦当初から、意図せず戦争の性質が捻じ曲げられてしまった。

 米国を攻撃してしまった事で主戦場が南部仏印から太平洋全域に拡大、本来の作戦とは大きく変質してしまったから。

 だからこの戦争の(目的ではなく)全容を現わすなら『大東亜戦争』ではなく、正確には『太平洋戦争』なのだ。

 

 

 

 

 国や軍の調査機関は大東亜戦争を想定し、開戦へ至るずっと前から戦争への調査・準備をしていた。

 

 それらは仏印・タイに於ける鉄道敷設は可能か?等の調査が主目的であった。

 

 

 

 当時の日本の喫緊の課題は、日本に対する欧米の締め付け『ABCD包囲陣』に対処するため、及び同時にアジア諸地域を欧米の植民地支配から解放するための方策『帝国国策遂行要領』を断行する事。

 

 特に米の強硬な要求に対処するための策であった。

 

 当時のアメリカの国内事情は、まだ国民の多くに第一次世界大戦のトラウマが色濃く残り、ヨーロッパで起きているナチスドイツと戦争に自分達が参戦するのは嫌だという厭戦感が国の雰囲気を支配していた。

 ただルーズベルト大統領とその一派を除いて。

 ルーズベルトは日本にとって到底受け入てられない条件、『ハルノート』を突きつけ脅し、屈伏する事を迫った。

 

 その好戦的なルーズベルト大統領の動きを封じ込めるため、日本はアメリカに対し、戦争回避を目的とした最低限の要求を伝え、交渉の余地を残す。

 

 その主な要求とは?

 

一、米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること

一、米英は極東に於いて帝国の国防を脅威するが如き行動に出でざること

一、米英は帝国の所要物資獲得に協力すること

 

 その回答最終期限を12月初旬に定め、その期限を迎える。

 

 

 

 『帝国国策遂行要領』を実行するにあたり、その内容とは如何なるものか?

 

 

 実際の歴史では山本五十六連合艦隊司令長官率いる連合艦隊が真珠湾を攻撃して日米戦争が勃発したことは誰もが知る事実であるが、実はその陰であまり注目されていないが、日本軍は当日仏印にも侵攻している。

 本当ならそちらが作戦計画の主たる目的であった。

 

 山本五十六の行動は個人的野心による抜け駆けであり、余計な戦闘であった。

 結果その際の奇襲攻撃が『卑怯なり!』との怒りを買い、最悪の結果となる。

 アメリカ国民を大いに怒らせ、日米戦争に参戦させる口実を作ってしまったのだから。

 おかげで兵力を予定していなかった対米対処に割かねばならなくなり、計画は大きく狂ってしまう。

 

 

 ではその大元の『帝国国策遂行要領』とは?

 

 

 計画中の情勢分析では、日米の国力差は如何ともし難く、直接相まみえるのは無謀であり、現時点では自殺行為である。

 したがって、出来るだけ米との戦闘は避け、主たる敵をイギリスに定める。

 イギリスは大英帝国として栄華を誇ったが、その国力は植民地からの補給が生命線であった。

 その補給路を断ち、本来脆弱な体力しか持たないイギリス本国を屈伏させる。

 そんな事、果たして可能なのか?

 それを実現させるためには十分な情報分析と情勢分析が必要。

 

 そのため陸軍上層部は1939年秋丸次郎中佐を中心に、新たな特務機関『陸軍省戦争経済研究所』(秋丸機関)を立ち上げ、総力を挙げ分析した。

 

 

 その分析内容がイギリス主戦論である。

 仏印方面に侵攻するにあたり、通り道であるフィリピンに拠点を持つマッカーサー率いるアメリカ海軍との戦闘は極力控え、どうしても戦わざるを得ない場合でも出来るだけ小競り合い程度に留め、対日参戦にエスカレートさせない。

 そしてイギリスに対しては、英海軍との直接衝突は避け、英輸送船のみを狙い撃ちする。

 ひたすら輸送船を攻撃し本国への補給を断絶させ戦争継続を困難に。

 最終的には英の主たる敵、対ドイツ戦で敗北させる。

 同時に陸地に於いてはタイ・ビルマを攻略、インドに燻る独立運動を支援し、イギリスのアジアの一大拠点を喪失させる。

 そしてインド北東部アッサブ地方からヒマラヤ山脈を空から抜け、中国を支援するアメリカの空路拠点『援蒋ルート』を遮断、蒋介石国民党支援の補給を経ち日中戦争に勝利する。

 更に英を追い出した後の空白に乗じてインド独立を達成させ、日本軍は更に西へ進軍。

 中東サウジアラビアに到達、ソ連の補給路も絶つ。そして中東石油利権を獲得、対米依存を完全に断ち切る。

 

 資源獲得により資源小国としての日本のアキレス腱を強化し日本の国力を高め、米の脅しに屈することなく対峙する状況を作り上げる。

 

 これが『帝国国策遂行要領』計画内容の大筋であった。

 

 

 

 

 ここで何故『帝国国策遂行要領』について解説したのか。

 私(作者)は、自作の他の物語でも度々『帝国国策遂行要領』の概要に触れている。

 どうして同じ事を何度も言うのか?

 それは太平洋戦争へのくだりに突入するにあたり、どうしても伝えておきたい事があるから。

 

 この戦争でボロ負けした事が悔しくて、負け犬の遠吠え宜しく口癖のように言いたいからではない。

 確かにこの戦争では完膚なきまでに叩きのめされた。

 そして多くの人々を亡くしてしまった。

 この戦争は人命軽視が甚だしかった。

 

 でもこの戦争が後世の人の言う、無計画で無謀で残念だった訳ではない。

 充分に勝算があり、定石通り攻めれば勝てた戦争だったのだ。

 たった一人の司令官の暴走が勝敗を分けたが、この戦いで死んでいった者たちは皆、勝利を確信していた。

 各々の意に添う、添わぬに関わらず、たった一つの大切な命を捧げる結果となったが、それは無謀・無駄な死などでは決してない。

 例え戦闘ではなく、マラリアや飢餓による戦死であったとしてもだ。

 現地の悪条件は敵も同じ。

 そんな苦しい中で共に戦った。

 そう信じて死んでいった人たち。

 

 私は彼らの辿った運命とその命に敬意を表したい。

 そして戦後レジームが、日本人から誇りと自信を奪った現状に訴えたい。

 

 私たちがいじける必要など、どこにもない!

 

 彼らが築いた累々と重なる屍から目を背け軽視することなく、自分の考えに信念と誇りを持った日本人として、先祖から受け継がれてきた強靭な特質を胸に、日本国内及び国際社会の逆風にたじろぐことなく、雄々しく立ち向かう現代の戦士であれ!との思いを込めて訴えておきたいのだ。

 アメリカに潰された産業や自信や誇りを取り戻し、再び立ち上がれ!と。

 

 

 ただし、この戦争中もそれ以前からも過ちはあった。

 日本人が持つ特有の性格からくる歪な精神状態も。

 現在に続き繰り返される悪しき習わしはその都度反省し正さなければならない。

 

 

 

 

 秀彦は11歳になり国民学校初等科5年の年、太平洋戦争が勃発した事で学校教育も戦時体制一色となった。

 

 そんな頃、秀彦はテストの答案用紙を家に持ちかえった。

 それを見た百合子は仰天した。

 何と0点だったから。それは白紙の答案用紙だったのだ。

「秀彦、これは何ですか?」

「この前のテストの結果です。」

「・・・・・。」

 秀彦は学業優秀な子。授業について行けないなんて有り得ない。

 母として頭ごなしに叱ったり、ヒステリックになって詰め寄るのではなく、冷静になにがあったのか聞く事にした。

 でも秀彦は応えようとしない。

 いくら尋ねても頑として話さない。

 

 思い余った母百合子は秀則に相談する事にした。

 秀則が帰宅草々、百合子から聞いた0点事件に驚く様子もなく秀彦に話しかける。

「秀彦、何が聞きたいか分かるな?

 お前にも男としてのプライドがある。

 だから父さんも同じ男として聞く。何があった?」

 長い沈黙の後、秀彦は重い口を開いた。

 その内容とは、

 

 秀彦の同級生たち男の子の遊びといえば、戦争ごっこ一択。

 銃に見立てた棒を抱え突撃するなど、誠に勇ましい。

 

 ある時、級友たちと「どんな武器が一番か」談笑というか、雑談を始めていた。

「それは勿論戦闘機だろ!空を飛びながら『ダダダダ!』だぜ!」

「いや、戦車の大砲の『ズドーン』だろ!」

「戦車?違うだろ!戦艦に決まってるじゃないか!戦艦の主砲からぶっ放される砲弾なんか『ズッド~ン』だぜ!」

「いやいや、僕はどれも違うと思うな。

 戦争は兵隊さんがやるものだ。兵隊さんが戦地に行くのも、武器や食べ物を運ぶのも鉄道が無ければ立ち行かないだろ?

 だから、それらを運ぶ機関車が一番さ!」

「機関車じゃ、直接敵を倒すことはできないよ!大体機関車は武器じゃないじゃないか!

 お前のオヤジが鉄道に勤めているからといって、余計なものをねじ込んでくるんじゃないよ!」

 秀彦以外はウンウン、と頷き同意した。

「余計なもの?君らは本気でそう思っているのか?」

「思っているさ!だって機関車は武器じゃないジャン!」

「人を殺すだけが武器じゃないぞ!兵隊さんたちを一度に早くたくさん運べる機動力が勝敗を決するって知らないのか?」

「機動力って何だ?勝敗を決する?敵をやっつける武器の話をしてんのに、関係ない道具を持ち込むなよ!」

「人を殺す事が偉いんじゃない!皆が力を合わせて勝利する事が大事だって言ってるんだ!国民ひとりひとりが自分に出来ることを精一杯やり抜かなければ、この戦争には勝てない!相手は鬼畜米英だぞ!死にもの狂いで戦わなければ負けちゃうんだぞ!目の前の武器の事だけしか考えない者は負けるんだ!」

 

 そのやり取りを偶然担任の先生が聞いていた。

 そして秀彦の言動には問題があると感じた。

 そして秀彦を職員室に呼び出し、問題発言を叱る。

「秀彦!今は戦時中だぞ。兵隊さんがたくさん戦っている。なのに、人を殺す事が偉いんじゃない?死にもの狂いで戦わなければ負けちゃう?『負ける』を連発していたな。   

 お前のような小国民がそんな軟弱な心構えでどうする!『敵は幾万有りとても』だ!

 明日の朝礼でみんなの前で謝れ!いいな!」

「イヤです!ボクは間違っていない!だから謝りません!」

「貴様!」そう言ってビンタした。

「謝ると言うまでまで他の者たちとの会話を禁ずる!」

 そう言って秀則は先生の厳命により、クラス内で村八分にされた。

 戸惑うクラスメイトたち。

 だが先生の命令とあらば仕方ない。命令を破って話しかけたら、自分も村八分にされる。

 自分たちに選択の余地は無いのが悲しい。

 

 そうしてひと月が経過。問題の小試験の日がやってくる。

 納得のいかない秀彦は抗議の意味を込め、白紙答案を出した。

 ひと月もの間、クラスの誰も秀彦に話しかけてくれない。

 誰も助けようとしない。(内緒で声をかける子はいたが)

 

 

 秀彦はそうした集団同調を強制される理不尽な処分を担任から受け、さぞかし孤独と口惜しさの中、暮らしていたのだろう?父として気づいてやれなかった自分が悔やまれる。

 しかし、だからと言って学校に怒鳴り込むのも親としてどうかと思う。

 

 秀彦が0点の答案を親に見せたら、親がどう思うか?自分が担任として生徒に何をしたか?家族にバレてしまう。

 多分その時点で担任としての指示・命令を後悔し、戦々恐々としているだろう。

 

 秀彦には励ましと、自分が正しいと思う事は顔をあげ正々堂々としていろ!と諭した。

 そして担任の先生宛に、「愛国教育もいいが、教師は聖職である。聖職としてのやり方に深慮と配慮を示す教育を進言する。」との書簡を秀彦に託した。

 さすがに担任も自分がやり過ぎだと感じていたのだろう、それ以降秀彦への村八分は解除された。

 クラスの皆が喜んだ。

 そして机の下で両手を握り、「ヨシ!」とガッツポーズをした。

 皆、鉄道ヲタク二世の秀彦が嫌いじゃないから。

 

 秀彦の0点は0点のままだったが。

 

 

 

 

 

          つづく


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第13話 企画院事件

2024-07-07 04:42:38 | 日記

 1938年(昭和13)5月、戦時統制を目的とした『国家総動員法』が施行される。

 この法律により、日中戦争総力戦のため、政府が国家に於ける全ての人的・物的資源を統制運用する旨が規定された。

 これは日中戦争早期講和失敗により、泥沼化・長期化する事となった事態に対応する施策である。

 

 近衛首相は「この戦争、俺のせいか?」との思いも強く、自身の持つ社会主義思想を実践に活かす、いわばやけくそ的推進の部分も見られる。

 後に(戦後)この法律が治安維持法と並ぶ天下の悪法としての代名詞を冠される事となったが、これは戦争遂行を何としても維持しなければならない(おっ始めたからには絶対に負ける訳にはいかない使命と責任を負った)軍部と、企画院首脳の思惑が一致した施策であった。

 

 企画院首脳の思惑?

 

 実は企画院、東京帝大卒業後、京都帝大に進学して以降、左翼思想に傾倒していた近衛首相の意向に沿った人事が色濃い。

 企画院メンバーの中には、左翼思想の他、進歩的発想を持った者たちが多く登用され、後の共産党活動家やリーダーとして活躍したものも多く含まれている。

 故に左翼的政策を国家統制の名の下、大っぴらに実行できる下地を利用したとも言えるのだ。

 もちろん秀則のように思想的背景とは無縁の者たちが大多数を占めていたが、それでも革新的発想を実行できる人材の牙城であったのは間違いない。

 

 

 企画院ができる少し前、2.26事件が起きているが、この事件とも深い関りがあった。

 と云うのもこの事件、軍部内の主導権争いであり、皇道派が統制派に対して勢力巻き返しのために起こした右翼クーデターである。

 この結果は東条などを中心とした統制派が勝利を収めたが、実はどちらが勝っても軍部が政権(実権)を握るよう、仕組みが整っていた。

 クーデターに負け、多くの将兵が処断されたが、それに同情的な近衛が大赦を画策するほど、当時の右翼と左翼には垣根が薄かったとも言える。

 思想は180度違うが、国家統制による平等な分配を目指すという点に於いて、両者は一致しているからである。

 (実際2.26皇道派の掲げた主張は、戦後GHQの施策が進めた革新的政策である『財閥解体』や『不在地主制度の廃止』など、当時の革新的政策と驚くほどよく似ている。GHQは後にレットパージ(共産主義者公職追放)を実行するだけあって、決して左翼などではないが。)

 国をどうするか?その方法論は右翼も左翼も革新もなく、国家の発展を進める際の障壁となる旧態依然とした格差や、社会矛盾を正さなければ発展が望めない時の改革の施策は大差ないのかもしれない。

 

 以上のことから意外なことに日中戦争の最中の政府内は、同床異夢の異なる勢力がしのぎを削って主導権を握ろうとする不安定な集合体であった。

 

 

 

 

 

 こんなどんどん暗くなる統制的社会情勢の中、百合子が第3子を産む。

 

 またも男子であり数日後、『康三』と命名する。

 三男で健やかに育てとの願いから健康の『康』の字と三男の『三』から康三。

 三番目の息子ともなれば、命名も多少安直になっても仕方ない。

 

 僕は勿論喜んでいるが、心の中のどこかに(次は女の子でも良かったな)との思いがよぎった。

 満面の笑みを浮かべて喜びを表現しているのに、勘の鋭い百合子は、

「ホントは女の子が良かったですか?」と大胆にも聞いてくる。

 家の中、やんちゃな男の子が二人で縦横無尽に駆け回る環境に居たら、気が休まる暇はない。

 だからつい、そういう想いが湧いてくるのも確か。

「イヤイヤ、決してそんな事はない!こんなに玉のようにかわいい男子を産んでくれて、心から感謝しているよ!ありがとう。

 そして百合子、でかした!」

 そう言ってねぎらう僕。

 その心に嘘がないのもホントの気持ちである。

 それを聞いて百合子は水色の笑みを浮かべた。

 

 新生児の康三を飽きもせず、ずーっと眺める秀彦と早次。

「康三、いつも寝ているね。つまんない!」

「早く起きて僕の顔を見てくれないかなぁ~」

「ダメですよ、起こしちゃ!赤ちゃんは寝るのと泣くのがお仕事なんですからね。

 それに今はまだ生まれたてだから、起きていても目は見えていないのよ。

 だから見ているようで、秀彦も早次も見てはいないのです。

 だからね、そっとしておきましょうね。」

 

 ウン!と頷くふたり。

 でも無言のままいつまでも可愛い弟を眺め続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 そんな平和で幸せな影山家とは裏腹に、秀則の職場には突然の災害級の嵐が吹き荒れた。

 

 企画院事件である。

 

 企画院と軍部と公安のパワーバランスが崩れ瞬間、企画院から次々と逮捕者が出たのだ。

 それも、その波は二度に渡って。

 

 一度目は1938年10月、京浜工業地帯労働者研究会の一斉検挙(世に言う「京浜グループ」事件)これを第一次企画院「判任官グループ事件」という。

 二度目は1940年10月、企画院発表の「経済新体制確立要綱」が赤化思想として攻撃され、原案作成にあたった中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者17名の第二次企画院「高等官グループ」事件。

 一度目に検挙された判任官と二度目の高等官の力が削がれ、近衛内閣のブレーンである政策実行部隊の企画院解体(1943年)のキッカケとなった。

 そもそも企画院は国の重要な政策の企画・実行策定を担う人材の集まりであり、特に予算や法のエキスパートである官僚の発言力が強く、その分野においては素人である軍部は主導権を握れないでいた。

 だが、それでは官僚のひとり舞台だったかと云うとそうではない。

 官僚に対抗できるもうひとつの勢力が存在したから。

 その勢力とは財界。

 当時の日本は財閥が資本を独占しており、三井・三菱・住友・安田・五代の資本力、工業力等が実際の産業や国策の実行を支えていた。

 そしてその財界と結託していたのが内務省。

 

 軍部は官僚に実質的に追従する立場にいて、企画院の政策遂行には協力的だったが、そこに待ったをかけたのが財界と治安維持を司る内務省(公安)勢力という図式だった。

 

 

 1940(昭和15)第2次近衛内閣が提出した「経済新体制確立要綱に関する企画院案」に対し、小林一三商工大臣らの財界人らが「赤化思想の産物」であると非難、企画院はアカの巣窟と断じ対立の挙句、商工次官として実質的官僚の代表だった岸信介が更迭される。

 そして原案は骨ぬきとなり、更に平沼内務大臣の方針によって企画院調査官・職員が共産主義者として検挙されることとなった。

 

 

 ただこの事件により共産主義者が排除されるという組織変容はあったが、官僚の持つ主導権はまだ健在であり、後の動きとして太平洋戦争後半の敗色が見え始めた1943年(昭和13)、「軍需会社法」によって企業の利益追求を事実上否定、企業目的を利潤から生産目的に政策を転換させるという財界に対する画期的勝利を得た。

 その直ぐ後(1943年)の企画院廃止、一年後に敗戦を迎える。

 そして省庁改変を経て形を変えながら経済官僚はGHQの公職追放でもほぼ生き残り、戦前の強力な統制政策を転換する。

 そして行政指導・許認可制度、優遇税制・政策減税、予算手当てや補助金などを駆使、大蔵省・通産省・経済企画庁に渡って戦後の国家を牛耳る事となるしぶとさを見せた。

 

 

 それら企画院の大騒動を尻目に、秀則は着々と自分の足場を固めていた。

 

 1939年(昭和14)仏印へ約二週間、1940年(昭和15)3月タイへ二、三週間、更に朝鮮・中国まで足を延ばし企画院技師兼鉄道調査員の資格で視察した。その時は軍部から参謀本部の小森田中尉が同伴している。

 何故参謀本部が?

 それは秀則に思想的背景が見当たらないとはいえ、企画院技師としてマークされていたから。

 それともう一つ。

 今後の戦争の行方によっては、鉄道輸送が成否を決する可能性が高く、作戦の策定に大きく作用するかもしれないため。

 実際この後も企画院事件の余波を受けて、高等官グループの元職員である満鉄調査部員が検挙されている。

 このことから影響は同調査部にも波及。これを満鉄調査部事件という。

 国家統制と治安維持の名の下、企画院メンバーは徹底的に監視の対象とされたのだった。

 だが秀則はこの機会をチャンスと受け取り、各国、各地域の実情を意欲的に見学した。

 それは後の鉄道行政に生かすべく、俯瞰的視点を養う必要があったから。

 決してこの視察は物見遊山ではないのだ。

 

 ここからは余談になる。

 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後の世界では、南部仏印地域での日本軍の侵攻は目覚ましく、予想を超えた勢いで進軍した。

 そこで問題になったのは、映画でも有名になった『泰緬鉄道』建設に軍部がどう関わるか?等の課題を想定し、秀則がせっかく戦時下での鉄道建設計画の立案を任されたのに、その計画の下準備等が生かされなかった事。

 物資輸送の動脈確保が、如何に戦争の作戦遂行の死命を制するかが重要なのだから。

 なのに実際の歴史を見ると、インパール作戦等、物資補給(兵站)の失敗は明らかである。

 というか、この作戦に於いては、参謀本部ははなから兵站輸送を想定していない。

『兵站は現地調達を旨とする』とし、パラシュート部隊に対し、補給路が設けられてはいないのだ。

 その結果は歴史が示す通り。

 作戦に参加した兵の中から夥しい程の餓死者を出し、作戦は失敗している。

 秀則がいくら輸送路の充実確保に奔走しようとしても、作戦参謀に無謀な作戦を策定する無責任な者が居れば、傷ましい結果を産む。

 

 秀則の不幸は軍部の中の有能な人物と出会えなかった事。

 せっかくの鉄道利用の治験を活かせず、多くの犠牲者を出してしまった。

 

 これらは1940年当時の秀則から見た『後の世』の話。

 

 

 話を秀則が無事視察を終え、帰宅した時に戻す。

 

 

 

「ただいま。」

「あなた、お帰りなさいませ。」と百合子。

「お父さん、お帰り!」

「秀彦、早次、元気にしてたか?」

「うん!ボクたち、ケンカしないでちゃんと康三のお世話をしてたよ!」

「そうか?偉いな!」と云いつつ、(本当か?)と確かめるように百合子に目をやる。

 残念ながら百合子は視線を逸らす。その様子から子供達の留守中を察した。

 だがそれには触れず、

「父さんは満州で、ド偉い機関車開発の計画を聞いてきたぞ!

 夢のような超特急が数年後にできるそうだ。」

 今年10歳になる秀彦は目を輝かし、

「夢の超特急?それって凄いの?どんな感じ?」

「それはな、物凄くカッコよくてな、そして物凄く早く走るんだ。

 アメリカにもヨーロッパにもない、超華麗な機関車なんだぞ。

 満州は遠いけど、その汽車が出来たら家族みんなで乗りに行こう。」

「ワ~イ!楽しみだな!」

 飛び上って喜ぶ秀彦たち。

「あなた、そんな開発計画、口外しても良いの?」と百合子が不安げに聞いてくる。

「多分、大丈夫だろう。具体的な詳細まで明かした訳ではないし。

 夢のような計画があるくらいなら、知っていても問題ないレベルだしな。」

 

 だが、秀則一家がその新開発の列車に乗る機会はついぞ無かった。

 戦争が激化し、満州まで渡航するには幼子を連れた一家には難しい情勢だったから。

 

 その新開発計画の超特急が完成し、運用されるのは1943年。

 その機関車の名は『アジア号』といい、当時の世界最高レベルの傑作だった。

 この最新鋭機は何と!島村と彼の父が開発に参加している。

 完成した時の彼の鼻高々の自慢話を、後に嫌という程聞かされたのは言うまでもない。

 

 

 

 当の秀則はと云うと、仏印・タイの視察から帰還後すぐに鉄道調査部技師から外れ、企画院専任となる。

 

 第二次企画院「高等官グループ」事件が1940年10月に起きたが、そのタイミングの人事だった。

 嵐が吹き荒れる職場に敢えて身を投じざるを得ない秀則。

 

 正直、逃げ出したい想いを胸に、理想と信念と大切な家族を支えに踏ん張り続けようと思った。

 

 政治的思想とは無縁な自分は、軍部や公安に臆する必要は何もない。

 そう気持ちを奮い立たせるのであった。

 

 

 

 

 

     つづく

 


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第11話 島村の愚痴

2024-06-23 04:51:23 | 日記

 秀則一家が家族旅行から一週間ぶりに帰る。

 おアキさんにお土産を持参して。

「ただいま、おアキさん。留守中変わりはありませんでしたか?」

「旦那様、奥様、お帰りなさいませ。

 特に何もございませんでした。お帰りになられるこの瞬間までは。」

 帰ってくるなり騒々しい秀彦と早次を見て、ため息交じりにそう言った。

「ねぇねぇ、おアキさん!海ってね、とっても大きいんだよ!海の向こうはね、また海で、そのまた向こうもまだまだ海なんだ!そのずーと向こうには雲がモクモクってこ~んなに広がっているんだ!ね、凄いでしょ?

 ほんでもって、大っきな波がザッバーンって何度も何度もやって来るんだよ!ボクは『ワ~!』って慌てて逃げても、凄っごい速さで追いかけてくるんだ。

 おアキさんにもみせたかったなぁ~!

 あ!そうだ!これこれ!」

 そう言ってリュックの中から四つ折りにした画用紙を取りだして、秀彦が描いた海の絵を見せる。

「アラアラ、お上手だこと!この絵の下の砂浜に居るのは家族の皆さまですか?」

 麦わら帽子を被った人の姿が大小並んでおり、まるで単純化された記号に見える。

 それにしても入道雲が大袈裟なくらい大きい。

「そう、これがお母さんで、こっちのいちばん大きいのがお父さん。このちっちゃいのが早次だよ。夏休みが終わったら、この絵を学校に持っていくんだ!夏休みの宿題だよ。」

「そうですか、良かったですね。宿題の絵をチャンと描けて。」

「他にもこんなに描いたんだよ!」

 そう言って他の画用紙を3枚ほど見せる。

 人間らしき記号が真ん中に居る虫取りの絵に花火の絵、それに芝生の上で一家がお弁当やおにぎりを食べている絵もある。

「こんなに描かれるのなら、来年の宿題は絵日記がよろしいようですね。」

「絵日記?」

「そうですよ。その日あった出来事を絵と作文で描くんです。」

「へぇ~、それ面白そう!」

もう来年の夏休みも家族旅行に出かける想像をする秀彦であった。

(だけど、お母さんに叱られた時のことも書かなきゃダメ?

そんなの嫌だな。恥ずかしいし。)と思い浮かべ、真剣に悩む秀彦であった。

 

 早次はその間、ずーっとふたりの会話を聞いていたが元気なのは最初だけ。

 直ぐに百合子に抱っこをせがみ、たちまち夢の中に入ってしまった。

 

 こうして藤堂家の家族旅行は無事終了。

 またいつもの都会の喧騒と、繰り返される日常に埋没してゆくのであった。

 

 そして約3か月後。

 百合子が第3子の妊娠を告げる。

 その辺の具体的なやり取りは、もうこれで3度目になるので敢えて省略する。

 え?聞きたかった?

 ・・・ヤッパリ止めとく。

 だって今は戦時中の非常時なので。

 イチャイチャした惚気のろけ話は軍人さんに叱られそうだし。

 

 

 そして百合子から妊娠を告げられたのとほぼ同時期の10月25日付、秀則に新たな人事異動の命令が下る。

 それは鉄道調査部技師として、更に企画院技師を兼任するというもの。

 

 企画院?

 

 それは戦争遂行をスムーズにするため、国家経済の企画・調整を担当する内閣直属の事務機関。

 

 日中戦争が勃発したすぐあとの10月25日、内閣資源局と統合してできたのが企画院。

 第34代近衛文麿内閣の時に発足された機関で、国家総動員機関及び、総合国策企画官庁としての機能を併せ持ち、重要政策・物資動員の企画立案を統合した強大な機関である。

 

 戦時下の統制経済諸策を一本化し、各省庁に実施させる機関であり、国家総動員法(1938年(昭和13)5月5日)制定以降はその無謬性を強めている。

 

 つまり秀則は鉄道省に籍を置いたまま、内閣中枢の最高機関での活躍を求められる存在となったのだ。

 

 企画院での彼の身分はやはり技師。

 企画院内では一般的に帝大出身者のポストである。

 やることは今までと大きな違いは無いが、鉄道省内でのものの見方と論理と、企画院の非常時での国家全体を俯瞰した見地の論理は違う。

 企画院では内閣が直面する様々な事情が直接見え、軍の動向、それらを見据えた先手先手の政策を奏上しなければならない。

 

 

 時は内蒙古に自治政府が成立、11月には9カ国条約会議開催。(日本は不参加)

 日中戦争とはいえ、日本、中国の二国間戦争の枠を超え、欧米列強が中国に加担する図式が会議にて決定された時期であった。

 孤立する日本。

 まさに国家非常事態の危機感満載の雰囲気が充満していた。

 

 

 

 僕は戦争の是非とは関係なく、自分がどんどん政府の中枢に引き込まれていく危うさと不安が増してきた。

 僕は鉄道が大好き。

 だから趣味も志しも鉄道に傾倒したのは当然である。だから真っ直ぐに鉄道省に入った。

 なのに、いつの間にか自分が望んだ訳ではない戦争遂行政府の中枢に居る事に違和感を覚える。

 もちろん僕は普通の一般的な日本国民として、日本のためになるならこの身を捧げるつもりである。戦争遂行も厭わない。

 だが、何故か釈然としない。

 自分の夢や理想が、いつの間にか戦争に利用されるという事実に。

 その純粋な気持ちを、心ならずも理想とは違う現実に引っ張られるのは、何かが違う気がする。

 鉄道経営は、もっと人のための楽しい存在であるべきだろう。

 兵員や軍需物資を最優先に遅滞なく輸送するのが至上命題だなんて、僕が夢見てきたのと違う。

 こんなこと他人に言ったら甘いと非難され、非国民と罵られるだろう。(当時は『非国民』と非難するのが流行りだった)

 だから決して誰にもこの気持ちは打ち明けられない。

 

 だけどヤッパリ、自分の信念は曲げられない。

 

 鉄道は人的総合力の結晶である。

 運営にあたるすべての部署・人員が心と力を合わせ、足並みをそろえて邁進するのが理想で円滑な鉄道運営である。

 だから皆が納得し、希望を以って仕事をする職場環境が大切であり、命なのだ。

 明日の食事にも事欠くような劣悪な賃金・経済環境や、差別や不当なパワハラが横行するような職場環境では経営は絶対にたちゆかない。

 だからと言って過度な保護や、権利の乱用を奨励するべきとも言っていない。

 今できる事を、誰もが納得できる常識的の範囲で最大限努力すべきなのだと言っている。

 

 職場をタコ部屋にしてはいけない。

 働く者の人権を蹂躙してはいけない。

 誰もが出来得る限りの最高な技術習得の機会を閉ざされてはいけない。

 

 この世の中は、あまりにも人の命と権利が軽い。

 下層民の生活環境が劣悪過ぎる。

 

 自分にはそれらを改善する力はない。

 でも、せめて鉄道環境だけでも理想を実現したいのだ。

 

 海外視察で見てきた諸外国も、日本の現状も僕の目からみたらまだまだ途上にある。

 だが本当なら、人種差別も貧富の差の階層差別も鉄道には要らない。

 

 日本国内にも貧困層は多く存在する。

 更に朝鮮・満州の労働環境を見ても、決して褒められたものではない。

 

 確かに日本人の中には自分はエライのだと勘違いして、現地の人間を見下す輩は意外と多い。

 ただ自分は日本人というだけで、支配者階層と思い違いをしている者たち。そんな自分に一体どれだけの力があるというのか?威張れるだけの実力と根拠があるのか?そう問いたい。

 そんな輩には、日本がアジアで先遣を切って走る民主国家の主権者となるべき、自覚ある市民としての意識改革の努力が足りないとの誹りを肝に銘ずるべきであると思う。

 だから半島労働者の扱いも、満州での人材発掘も人権をおざなりにしてはいけないのだ。

 もちろん朝鮮人や満州の中国人の間には反日思想が渦巻いているのも事実である。

 そして彼らの労働意欲がそのせいで損なわれていることも。

 

 実際、戦争が終わった後世(今現在)で、中国人や朝鮮人がありもしない日本による残虐行為や人権に関わる差別をでっち上げ、歪曲し日本を執拗に攻撃している。

 どれだけ理詰めでかれらの言いがかりを論破しても、一向に意識と主張を変えることは無い。

 それが彼らの本質であるのも確か。

 後世だから言えることだが、彼らには関わるべきでなかった。

 つくづくそう思う。

 

 だが、今はそんな後悔している場合じゃない。

 気を取り直して敢えて言うが、それらダメな部分が彼らの民族全ての意識であるとは言えない。

 純粋に意欲と良識と理想を持った者も存在するから。

 職場と仕事に無気力や悪意を持つ者は排除しなければならないが、崇高な理念や志し、努力を惜しまない者たちは正当な評価を受けるべきだと思う。

 それが僕の基本スタンスである。

 その考えが絶えず企画院の同僚たちや軍部との衝突を産む。

 今は戦時の非常時であり、そんな悠長な意見を受け入れている場合でない!と。

 

 

 

 秋の深まるある日、島村と飲む機会を設けた。

 島村は大層腐っている。

「島村、どうした?何か気にくわないことでもあったか?」

「ああ、気にくわないね!お~い、おねぇさん、ジャンジャン酒を持ってきてくれ!」

 手招きしながら女給さんに注文する。

「何だか荒れてるな。今は戦時中だってこと、忘れるなよ。深酒は禁物だし。」

「これが飲まずにいられるか!ってんだ!」

「何をそう怒ってるんだ?仕方ないから僕が聞いてやる。何でも言ってみぃ?」

「随分上から目線でいうな。

(気を取り直して)おぅ!今日は俺の愚痴を聞いてくれ。こんな事話せるのはお前だけだしな。」

「愚痴を打ち明けられるのは僕だけ?友は僕だけか?お前って本当に友達が少ないな。」

「ほっとけ!人付き合いが下手で不器用なお前に言われたくない!」

 お互いの交友関係の狭さを熟知した昔からの友同士、無駄に傷口に塩を塗るおバカなふたりであった。

「実はな、俺が2年前開発したD51が機関士の間で不人気でな。」

「ほぅ、不人気?まるでお前のようだな。

 人気のないお前が作るのだから作品も不人気なのは必然だろ?」

「やかましい!俺は不人気なんかじゃないわ!巷で鉄道省の『大河内傳次郎』と呼ばれているこの俺様を捕まえて、人気が無い?何が不人気なもんか!」

「大河内傳次郎?そんな根も葉もない出鱈目な評価を誰がした?有り得ないだろ?」

「エェ~い!そんな事はどうでもいい!話の本題はD51だ!」

「そうだったな・・・。D51だったな。で?D51がどうした?」

「あれはな、単式2気筒過熱式のテンダー式蒸気機関車でな、俺としては傑作だと思っているんだが、勾配線を担当する各機関区の連中から、D51形じゃなくて前世代のD50形の配置を要求してきたんだ。半ば公然と受け取りを拒否してきたんだよ。」

「そりゃまた豪気な話だな。何でまた受け取り拒否を?」

「それなんだ。D51の何が気にくわない?って聞いたら、ボイラーの重心が極端に後方に偏っているんだってよ。しかもその傾向を助長する補機配置のせいで、動軸重のバランスが著しく悪いし。って言うんだ。」

「専門的な事はよく分からんが、そのバランスの悪さが致命的ってことか?」

「致命的って・・・、開発者の前なんだからもう少し気を使ってくれないか。

 要するにそれが原因で列車牽き出しの時に空転が頻発するんだってよ。

 その上更に軸重バランスの悪化の辻褄合わせで、運転台の寸法を切り詰めて狭くしただろって指摘してきたんだ。

 しかもテンダーの石炭すくい口の位置が焚口に近過ぎて、窯たき乗務員に劣悪な環境での乗務を強いてるって言うんだ。

 そんなの仕方ないだろ!」

「ヤッパリよく分からんが、要するに使いにくく、狭くてダメってことか?」

「おいおい、身も蓋もない容赦ない言い方だな。」

「でも彼らの言い分はそういうことだろ?」

「まぁ、そう言っちゃ、そうだけど・・・。」

「事前に試運転とかしなかったのか?」

「勿論したさ!俺だって入省時の新人時代は窯たき修行から始めているし。」

「じゃぁ、何でクレームが来たんだ?

 動力性能だけを追求し過ぎたんじゃないのか?」

「ある程度の欠点があるのは事前に分っていたけど、そんなの許容範囲だし。それに軍の要求には逆らえないだろ?開発には期限があったし。」

「軍の我儘と横暴には困ったもんだな。その辺はよ~く分るよ。

 でもな、だからって使えないものを造るって本末転倒だろ?

「使えないって・・・」

「現場から受け取り拒否されるって、そういうことじゃないか?

 厳しいこと言うけど、ダメなものはダメ、出来ないものはできないってキッパリ主張しなきゃ。

 軍の要求なんて、理詰めで対抗しなきゃ押し切られるだけじゃないか。」

「気合と根性で凝り固まった筋肉脳の軍のお偉いさんたちに理詰め?無理!」

「まぁ、確かに。」(そこで納得するんかい!)

「でもここで問題点が浮き彫りにされたのだから、これをラッキーと思わなきゃ。」

「ラッキー?」

「またはチャンスさ。」

「チャンス?」

「だって改善点を指摘されて使えないと云うのなら、いい機会じゃないか?

 それを錦の御旗に堂々と改良できるだろ。

 軍も流石にそれじゃ文句も言えないし。」

「それもそうだな。藤堂、お前100年に一度は良い事いうな。」

「100年に一度かい!」

「お前がそんなに老獪な策士だとは思わなかったよ。」

「企画院の魑魅魍魎ちみもうりょうの中でもまれていたら、自然とそうなるよ。」

「そういゃ、奥さんも策士だったな。お前も苦労してんだな。」

「ここで愛する妻の百合子を引っ張り出すな!」

「よくも俺の前で『愛する妻』なんて恥ずかしい事、堂々と口に出せるな!」

「実は百合子は今、三人目を妊娠中なんだ。」

「お盛んな事で。

 ヤッパリお互い苦労するな。」

「そうだな・・・。」

 

 

 お開きにして家に帰ると、妻がまだ起きている。

 百合子をマジマジと見つめていると、

「何ですの?」と恥ずかしそうに聞いてくる。

「百合子、愛してるよ。」と囁く僕。

 

「バカ!」

 

 

 

 

 

 

     つづく

 


サムネと内容は全く違うよ。でもね、言いたい事はここに紹介するに値すると思います。

2024-06-18 16:12:00 | 日記



ホンダやトヨタの不正問題の本当の原因は「あの人物」だということをご存知ですか?【ゆっくり解説】





 サムネイルと具体的内容には齟齬があるというか、完全に別内容であり、意図的な釣り釣りタイトルである。

 本当の内容に即したタイトルは、動画サムネ下部にある大文字部分「ホンダやトヨタの不正問題の本当の原因は「あの人物」だということをご存知ですか?【ゆっくり解説】』である。


 だが制作者が敢えて釣り釣りタイトルにしたのは、何某かの事情があるのだろう。
 つまりYouTube 運営が当局に忖度し、弾圧によるアカウント規制を回避したとか?

 この動画で取り上げている自動車業界と監督省庁の問題が、如何に国民に対し不利益を与えているかを訴えている問題回であるから。

 動画内で主張している内容は、実はそっくり財務省や他の行政機関・省庁にも当てはまる。
 だが肝心の解決策は提示されていない。

 だからこれを見て私は『ママチャリ総理大臣』で主張してきた立法・行政・マスコミの膿《うみ》を排除し、真の民意を反映させる方策は、ネット直接民主制の実現で解決できるのに、と強く思った。


 議員・大臣・官僚等の特権階級は、崇高な理念や志しなど一切持ち合わせず、一般の国民の利益や幸福の実現など欠片も考えてはいない。
 自分に関わる利権や利益誘導だけである。
 その特権階級の太鼓持ちに過ぎないマスコミはまさに『マスゴミ』としか評価できない。

 現行制度で適材適所に有能な人員配置ができないのなら、いっその事、常識と良識と責任感のある一般的な労働者を期間限定で配置してはどうだろう?

 少なくとも東大卒業の秀才だが自己中で、プライドの塊の悪人よりずっと良い仕事ができるだろう。

 日本の戦後政治史で、東大や他の有名大学出身者が、国家レベル単位の内政・外交問題で特筆できる目立った業績をあげた者はひとりもいない。
 むしろ国民が汗水流して積み上げ、世界第2位まで経済規模を押し上げた成果を、常に崩し続け足を引っ張ってきた。
 バブル崩壊後の有様を見たら、誰でもそう感じるだろう。



 だからこそ今、広く国民に意識改革と行動を呼びかけ促したい。










 業務連絡(?)

 奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜第11話は今度の日曜日早朝にUPする予定ですが、なかなか良いアイデアが浮かばず苦戦しています。
 もし日曜日の朝まだ最新回がUPされていず遅れているようなら、サボっているのではなく苦悶しているのだとご理解ください。

 あらかじめ遅れた時の言い訳しておきます。

 ゴメンチャイ!!




奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜 第10話 初めての家族旅行

2024-06-16 05:39:30 | 日記

 秀則が視察で海外に出発したのは、2.26事件で軍部が実権を握る暗い世相の始まりの頃だった。

 世界恐慌の混乱からいち早く脱した日本(といっても好景気を迎えられた訳ではない。庶民の生活は貧しいままで、国家経営がどん底から這い上がったというだけ。)しかしその一番の功労者である高橋是清がクーデターの犠牲になるなど、アメリカの人種差別の批判などしている場合ではない程の、政治の世界に理不尽な暴力がまかり通っていた。

 結果、軍の要求は即ち国家の施策となり、鉄道省の役割も戦争準備の総動員体制構築が急務となる。

 

 秀則は海外視察から帰ってすぐの1937年6月、鉄道省本省の運輸局運転課への配属となった。

 そして翌月の7月7日盧溝橋事件勃発。小競り合いの末、翌8月に入ると戦闘が本格化しだす。

 ついに日本は帝国陸軍の派兵を決定、人員、物資の輸送の軍事優先体制が敷かれた。

 如何に効率よく人員・物資の輸送を円滑に進めるか?

 秀則が所属した運輸局運転課は、その技量が問われる重責に直面した。

 

 

 秀則は相変わらず多忙を極めたが、気晴らしに視察の仲間だった島村秀雄、松平仁、三木正之と時々集う事にしている。

 本省近くの小料理屋に久しぶりに集まってみると、それぞれが職場の不満を抱えていた。

 酒が入るとたちまち当たり前のように愚痴の発表会となる。

 

 先頭バッターは島村。

「俺が開発したTX型(後のいすゞ車トラックの原型)は軍用車として高い評価を得てはいるが、(自分で言うか?)俺は本来蒸気機関開発技術者だ!どうして何でも屋のようにあっちもこっちもやれ!って言われるのか納得できない!」

 島村は酒で頬を赤くしながら目が座っている。

(あれ?こいつって、こんなに酒癖悪かったか?)と思い乍ら僕は

「国産自動車の開発プロジェクトには、お前が積極的に手をあげたんじゃなかったのか?」

「そんな訳無いだろ!

 俺はあの当時、蒸気動車の開発に携わっていたんだぞ!

 それなのに上司の命令一下で仕事を中断して、商務省主導の自動車開発に出向させられてよ、鉄道省代表として国内自動車メーカーに共同参画したんだ。

 そんなのってあるか?

 おれは同じ内燃機関でも蒸気機関のエキスパートだぞ!それまでのガソリン内燃機関なんて専門外だし、知るか!って思っていたのに。

 まぁ、俺の専門は確かに部品の中でもシリンダーだったから、ガソリンエンジンのシリンダーだって技術や知識は全くの無関係ではないけどもな。

 でもよ、俺は鉄道の技術畑として自信とプライドをもって今までやってきたんだ。

 鉄道省に採用された最初の仕事は、蒸気機関車の石炭小僧だったんだぞ。

 帝大卒の技師の俺が、機関車の運転席の隣でエッチラ・ホッチラ石炭を窯に放り込む仕事からやっているんだ!運転手に「ホラ!もっと早く石炭をくべんか!」って叱られながらよ。

 分かるか?この俺が黒煙で顔を真っ黒にしながら汗を流している姿を!」

「お前の顔が真っ黒になったのなら、精悍に見えてさぞかし女に持てただろう?」

「やかましい!」

 皆に笑われて憮然とする島村。

「いいじゃないか、あんなキレイな奥さんに愛されていたら、それで充分だろ?」

「話を逸らすでない!何が女にモテるだ!俺の言いたかった本質はだなぁ・・・」

「分かった!分かった!そこまでして蒸気機関車開発に情熱を燃やしていたという事だな?アンタはエライ!」

「分りゃ良いんだ。分りゃ。」

「ところで松平君は島村と同じ技術畑だけど、順調そうじゃないか」

「何が順調なもんか!ボクだって省営自動車(国鉄バス)を国産車にすべく島村さんと同じ道を辿ってきたんだから。

 蒸気機関車技師を一体何だと思っているのか、上の考えを疑うよ。」

「まぁ、仕方ないさ。内燃機関の知識と技術を持っているのはこの国じゃ君たちが一番だからな。」

「それに軍がおっぱじめたこの戦争で、僕たちの存在は引っ張りだこになってくるしな。」

「なってくるじゃなくて、もうなってるし。」

「そうだな、僕らは同じ技師でも技術者じゃないのにあっちこっち飛びまわされているもんな。影山さんなんて軍の無理難題にどうやって応えているのか不思議に思うよ。」

と三木。

「そうだな。僕らは内地担当なのに、樺太・台湾や半島、満州の規格にも合わせた輸送体制を組まなきゃならないなんて、無茶を言い過ぎだよ。」と僕。

「僕はまだ樺太には行ったことないけど、樺太も満州も極寒の地の運営なんて、南国台湾と同じにはできんだろ?

その辺が分かってないんだよ!上も軍も!」

「大体、考えてもみろよ、軍需物資の輸送を極限の状態まで効率化しろと簡単に要求するけど、それには各部署の緻密な連携と習熟した技術や知識が満遍なく総ての人員に高度に行き渡っていないと、必ずどこかでほころびの穴ができるんだ。

 口の欠けたコップに水を注いでも、欠けた部分からこぼれ出して満杯にはならんだろ?

 そんな簡単な理屈が理解できない者が上に居るのが嘆かわしいよ。」

 

「何だか皆、渡航中の船の中の愚痴と同じ事を繰り返して言っていないか?

 不満は海外渡航する一年前と変わっていないんだな。」

「でもな、戦争が始まる前と実際におっぱじまった後じゃ、仕事の内容は変わらなくてもシビアさは格段に厳しくなったぞ。」

「そうだな。『・・・で、いつまでに出来るか?』から『○×日までに必ずやれ』だもんな。奴さんたち、『これは軍の命令だ!』で総て完結できると思ってるんだ。」

「俺たちって海外に何しに行ったんだろうな?」

 

 こうして愚痴の洪水に呑まれながら夜は更ける。

 

 

 

 僕が家に帰ると、百合子がいつものように温かく迎えてくれる。

「あなた、お帰りなさいませ。」

「ああ、今帰った。子供たちはもう寝たか?」

「ええ、こんなに遅い時間じゃ、秀彦も早次もとっくに寝ましたわ。」

「ここんとこ、子供たちの顔は週末の休みにしか見ていない気がする。」

「お仕事多忙のようですもの、仕方ありませんわ。」

「あぁ、疲れた。もう寝る。」

 百合子は僕の様子を探るようにジッと見てくる。

 僕が兄と話してから、少しは吹っ切れたのかと確かめるように。

 

 戦争が始まってからは、次第に国内の雰囲気が戦争一色になってきた。

 国民精神総動員が叫ばれ、検閲が強化される。

 巷では大陸の花嫁・暴支膺懲ぼうしようちょう(横暴な中国(支那)を懲らしめよという意味)の標語が飛び交う様になった。

 「共匪追討」(共産主義の悪党を討て)や「抗日絶滅」が当然のようにキャッチフレーズとなる。

 このように国民の戦闘精神を鼓舞するスローガンがそこかしこに目立つようになり、同調圧力が強くなったのもこの頃からだった。

 

 

 

 一方アメリカではルーズベルトが精力的に動く。

 日中戦争がはじまると中国人排斥法を廃止(日本人排斥法はそのまま)、蒋介石を支持し膨大な軍事借款を行う。

 同時に工業都市デトロイトを軍需産業の一大拠点として発展させ、その後の第二次世界大戦へと続く戦争準備に邁進した。

 それらは総て対日戦争準備の為であった。

 

 当時ヨーロッパではナチスドイツが隆盛を誇り、アメリカにとって第一の脅威と見なされていた。

 しかしルーズベルトの考えは違う。

 確かにナチスドイツは脅威ではあるが、彼の頭の中での仮想敵国は常に日本であった。

 ナチスがヨーロッパで覇を唱えてもアメリカにはさして利益的影響はない。

 だが日本は違う。

 更に彼はガチガチの人種差別主義者であり、黒人差別を放置してきたのも彼である。

 そうした彼の思考の中では、消去法で敵が見えてくる。

 黒人はアメリカ建国以来の奴隷資源であり、その供給が人道的批判に基づく国際環境の変化で持続できなくなると、清国から代替労働力を苦力クーリーとして受け入れた。

 更にそれに続く日本人入植者の移民。

 これらは総て白人優位社会に於いては奴隷同様にしか見なしていない。

 その中でも黒人は無力な存在であり、次第に増えた中国人と日本人には排斥法で圧迫を加えた。

 だがその後の経緯を見ると、個々の中国人は労働意欲に欠け、向上心が見られず民度も低い。

 それに対し、日本人は驚異的なスピードで成功を収めてくる。

 寝る間を惜しんで働き続ける日本人の民族性は、やがてこのアメリカの支配権を取って代わる存在として脅威なのだ。

 現に一般のアメリカ人が日本人を嫌う理由に『働き過ぎる』からと答えている。

 自分たちには真似のできない労働意欲と、明確な努力目標を掲げてどんどん自分たちの領域を浸食してくる日本人。

 

 たかが有色人種のくせに!

 働き過ぎは彼らにとって美徳ではない。

 それが日本人には理解できなかった。

 

 それに加え日本は、列強各国が野心を持っていた中国に一番食い込む手ごわい相手である。

 そう、アメリカも中国に対し、利権の野心を持っていたのだ。

 忌々しいライバルとしての日本。

 

 アメリカは日清戦争直後から仮想敵国の照準を日本に定めていた。

 というか、実はアメリカはペリー来航の時から対日戦争を企図している。

 (実に驚くべき思考であるが、出会った当初から相手を敵とみなし、屈伏させる企てを持っていたのだ。)

 幾度となく改訂を重ね、戦争の計画を策定してきた。

 

 その計画とは『オレンジ計画』。

 それは【カラーコード戦争計画】のひとつ。当時の交戦可能性の高い五大国を色分けし、戦争プランを策定したものである。

 

 その中でもオレンジ計画は、アメリカが単独で日本と戦う場合、どのような作戦行動をとるべきか?あらかじめ立てたプランであった。

 

 これは大まかに三案が存在した。

 

 第一案 フィリピン、グアム等、西太平洋植民地領土を要塞化、陸・海軍を展開する。

 第二案 緒戦に於いて日本軍の攻勢に西太平洋領土を持ちこたえさせ、カリフォルニアでの艦隊を編成、グアムとフィリピンのアメリカ軍を救援、西太平洋に出動、日本海軍決戦のため日本列島近海へ進撃、日本艦隊と決戦を行う。

 第三案 ハワイを起点として、日本軍の拠点ミクロネシアの島嶼を艦隊戦力にて順次占領しながら反攻し、グアムとフィリピンを奪回するという兵站重視の長期戦案。

 

 これらの具体的プランが日本本土侵攻作戦の具体的前哨戦プランとして1921年

 から既に立案され存在していた。

 

 (これは1930年代当時から見た近未来の話であるが、史実では第一案、第二案は要塞化に莫大な費用がかかるため実質的に没となり、残る第三案が採用される形となったが、ほぼ計画通り実行された。)

 

 

 秀則がアメリカに抱いた印象は、決して的外れなものではなかったと云える。

 

 

 

 

 この時代の世相を考えると仕方ないが、どうしても殺伐とした内容になってしまう。

 ここで気分転換に再度藤堂家の生活の様子に視点を移そう。

 

 

 秀彦が小学校に入学する頃、早次はまだ1歳だが、あんなにいつも母親にしがみつい

ていたのが嘘のように活発なヤンチャ坊主になっていた。

 

 今まで多忙を極めた僕だが、一念発起!ここで一発、休みでもとってやろうじゃない

か!

 戦争が何だ!イチイチ軍の都合に振り回されていて堪るか!

 

 強引に1週間の休暇をとり、葉山など湘南方面の宿に連泊しようと思い立った。

 丁度秀彦は初めての夏休み。早次もひとりトコトコ歩けるようになったから、もう大丈夫。

 ようやく旅行に連れ出せる程成長したので、これを機に家族旅行と洒落込もう。

 百合子とも新婚以来久しぶりの旅行だし、秀彦も早次もまだ海を見た事が無い。

 汽車と乗り合いバスを乗り継いで、予約した海辺の旅館に辿り着く。

 もう夕方だが、子供たちは初めて見る海に感嘆の声をあげる。

 夕日に照らされた海を窓辺から眺め、

「今日はもう遅いから、明日の朝にでも海岸に行ってみましょうね。」と百合子が言う。

「え~!これから見に行っちゃダメなの?ボク、楽しみにしていたのに。

 だって海だよ!こ~んなに広いんだよ!

 早くいかないと、目の前の海がどっか行っちゃうよ!」と秀彦。

「海は何処にもいきませんよ。」と呆れた百合子がピシャリという。

 ぴょんぴょん跳ねながら抗議する秀彦。

「それに長旅で疲れたでしょ?もうすぐ夕食だし、お腹も空いたハズよ。」

 と見透かしたように畳みかける。

「そう言やボク、お腹が空いた!」

「ほらね。海は明日の朝一番に行くとして、今夜は美味しい御飯を食べてゆっくり休みましょうね。」

「ウン!分かった!!」

 

 まだまだ反抗期の遠い、素直な秀彦であった。

 早次は持参した飴を百合子から与えられ舐める。それだけでご機嫌。

 

 こんな良い景色なら、お手伝いさんのおアキさんも連れてくれば良かったと思った。

 といっても、旅行前に一緒に行こうと誘ったが、

「あたしゃ結構です!」と断られる。

「この歳で遠出だなんて、途中で行倒れになってしまうじゃありませんか。

 あぁ、考えただけで身がすくみます。だからそんなのまっぴら御免です!」

「ハハハ!行倒れ?おアキさんは大袈裟だなぁ!そんな訳ないじゃないですか。

 それにもし、おアキさんが行倒れたとしても、見捨てて放っておいたりしませんよ。

 ねえ、百合子。」

「そうですよ。日頃からこんなにお世話になっているおアキさんに感謝の気持ちを現わせるのは、こんな時しかないのですから。ね?一緒に行きましょうよ!」

 と気持ちを込めて言う。

 かたくななおアキさんはそれでも固辞する。

「あたしゃ家でしっかりお留守をお守りしますので、どうぞご安心なさってご旅行に行ってください。無事の帰りをお待ち申しておりますので。

 あぁ、でもひとつ。出来ましたらお土産にお団子でもいただけたら申し分ございません。

 図々しいとは思いますが、それを楽しみにお留守番させていただきますので。」

「おアキさんはヤッパリお団子やお餅系がお好きなんですね。

 分かりました。それでは留守を宜しく頼みますね。」

 と言ってひとり残してきたのだ。

 

 夕食を終え、騒々しくはしゃぎまわる子供達。

 

 移動疲れから草々に就寝したが、翌朝の目覚めるのが早い事!

 

 早次が僕の布団の上から腹のあたりを右から左へ、でんぐり返しを繰り返えす。

 秀彦は布団の中で夢心地の僕を激しく揺り起こす。

 こんな時の子供達は情け容赦がない。

 秀彦は僕が起き上がるまで「ねぇ、海行こう!」とせがみ続ける。

 

 僕はリフレッシュするつもりで家族旅行を計画したのに、返って人生に疲れてしまったようだ。

 

 

 

 

 

    つづく