ネモフイラ
ピンクの薄い薄いシフオンのような花弁を優しく広げる。
真中の黄色い花芯が色鉛筆でかいたような可愛い形をしている。
花すきの祖父と花すきの祖母。
このお花は祖母との思い出。
祖母もお花が好きだった。
名前も「花子」と言った。
家に行くと真っ先に花畑に連れて行ってくれた。
いつもいつも、行くとまずは花畑だった。
花が咲いていなくても、虫に葉を食べられた。と葉を一緒に見たり、種をまきたての
こんもりした今にも出てきそうな土をみたり、猪に掘り起こされたと言っては、
掘られた球根を拾ったり。
時にはトマトやスイカを獲ってくれてその場でポーンと割って食べさせてくれた。
石垣に足をほおりだしてブラブラさせながら、大切に育てて咲かせた花が目の前に広がり
青く高い空を眺めながらスイカの種を
畑に飛ばすのが、自分に帰れるひと時たっだ。
祖母は膝が悪かったので少し後ろに祖父が作った木の椅子に腰かけていた。
少し、後ろから色んな話をきいてくれた。
泣きながらスイカを食べた夏もあった。
好きな人ができて照れながら相談をしたこともあった。
祖母の祖父との恋愛してきた話や祖父が浮気した話も聞かせてくれた。
一般的に苦労と言われる苦労以上の苦労やつらいことを体験してきた祖母なのに
どんな話を聞いてもシアワセそうに話してくれた。
祖母が泣いたことをみたことがない。
母が6歳の時には家も全焼した。
祖母は小さい時に両親を亡くして、おばさんに育ててもらったらしい。
自分のことを「みなしごハッチ」やってん。
といっていた。
だから、今ほどのシアワセはない。といつも言っていた。
戦時中も本を暗い中で良く読んでんと話してくれた。
祖母は本が好きだった。
きっと、もっと学びたかったんだろう。と
ふとした時に感じていた。
祖母から勉強しなさい。と言われたことは一度もなかった。
いつも正直な人だった。
そして楽しい人だった。
祖母と言うより年の離れた大親友だった。
祖母は「畑しとっても、外人さん通ったら英語で案内できるような人がかっこいいと思うね」
と子供のころの母に言っていたらしく、母もそれを私に何度となく聞かせてくれた。
母と私にとって、自然とその姿が世界中で一番格好いい象徴になっている。
そして、英語を選択していくきっかけとなった。
田舎者で畑を耕し続けた祖母だけど、田舎のおばあちゃん。と感じたことはなかった。
そんな、祖母が祖父が他界した後、私と隠居で話をしていた時。
祖母が自分が他界するときに棺に入れてほしい、思い出の品々を説明しながら準備し始めた。
冗談かと思いながら、集めてきた品々が本当に思い出の品々だったので
真剣にきいた。ちょっと気持ちが重くて冗談を交えた。
その日、たまたま持っていたノートに祖母の生い立ちを聞いてメモした。
子供には言えないことを孫の私が伝えるお役目をいただいた。
その6年後、祖母の旅立ちの時がきた。
まさか、あの袋があの場所にあるのか?と
私は外孫なので内孫の従兄に当時のことを打ち明けた。
従兄は快く開けてくれた。
その戸袋を開けてみると、
いっしょに入れた思い出の品々が当時のままの場所に入っていた。
みんなで袋を開けて思い出に涙した。
生い立ちメモもそのまま読んだ。
子供の知らない祖母の人生や思いも書かれていた。
みなしごハッチからはじまった、祖母の幸せな人生が詰まっていた。
6年前に今日のこの日を見ていたんだ。
祖母が畑一面に種をまいたピンクの優しい花があった。
集金にきたK電の人が花すきの祖母を思って種を持ってきてくれたいう。
久しぶりに祖母を訪れた日のことだった。
学生だった私は結婚をし、祖母も祖父と別れ
環境の変化が心の距離を作っていた。
何がこんなに冷たくしてしまったのか。
会うたびにさみしい気持ちになり、
あんなに、通っていた祖母の処に足を運べなくなっていた。
そんな時にそのピンクの花が心の距離をもとに戻してくれた。
さみしい。
祖母が花を見てさみしそうに感じたのは初めてだった。
2人はお互いさみしかったんだと気がついた。
心の距離を教えてくれた薄いピンクの花びらの「ネモフイラ」
今も分けてもらった種が芽を出し、花を咲かせてくれる。
この花だけは、見るとさみしい気持ちになる。
祖母との思い出「ネモフイラ」
梅本亜祐子
ピンクの薄い薄いシフオンのような花弁を優しく広げる。
真中の黄色い花芯が色鉛筆でかいたような可愛い形をしている。
花すきの祖父と花すきの祖母。
このお花は祖母との思い出。
祖母もお花が好きだった。
名前も「花子」と言った。
家に行くと真っ先に花畑に連れて行ってくれた。
いつもいつも、行くとまずは花畑だった。
花が咲いていなくても、虫に葉を食べられた。と葉を一緒に見たり、種をまきたての
こんもりした今にも出てきそうな土をみたり、猪に掘り起こされたと言っては、
掘られた球根を拾ったり。
時にはトマトやスイカを獲ってくれてその場でポーンと割って食べさせてくれた。
石垣に足をほおりだしてブラブラさせながら、大切に育てて咲かせた花が目の前に広がり
青く高い空を眺めながらスイカの種を
畑に飛ばすのが、自分に帰れるひと時たっだ。
祖母は膝が悪かったので少し後ろに祖父が作った木の椅子に腰かけていた。
少し、後ろから色んな話をきいてくれた。
泣きながらスイカを食べた夏もあった。
好きな人ができて照れながら相談をしたこともあった。
祖母の祖父との恋愛してきた話や祖父が浮気した話も聞かせてくれた。
一般的に苦労と言われる苦労以上の苦労やつらいことを体験してきた祖母なのに
どんな話を聞いてもシアワセそうに話してくれた。
祖母が泣いたことをみたことがない。
母が6歳の時には家も全焼した。
祖母は小さい時に両親を亡くして、おばさんに育ててもらったらしい。
自分のことを「みなしごハッチ」やってん。
といっていた。
だから、今ほどのシアワセはない。といつも言っていた。
戦時中も本を暗い中で良く読んでんと話してくれた。
祖母は本が好きだった。
きっと、もっと学びたかったんだろう。と
ふとした時に感じていた。
祖母から勉強しなさい。と言われたことは一度もなかった。
いつも正直な人だった。
そして楽しい人だった。
祖母と言うより年の離れた大親友だった。
祖母は「畑しとっても、外人さん通ったら英語で案内できるような人がかっこいいと思うね」
と子供のころの母に言っていたらしく、母もそれを私に何度となく聞かせてくれた。
母と私にとって、自然とその姿が世界中で一番格好いい象徴になっている。
そして、英語を選択していくきっかけとなった。
田舎者で畑を耕し続けた祖母だけど、田舎のおばあちゃん。と感じたことはなかった。
そんな、祖母が祖父が他界した後、私と隠居で話をしていた時。
祖母が自分が他界するときに棺に入れてほしい、思い出の品々を説明しながら準備し始めた。
冗談かと思いながら、集めてきた品々が本当に思い出の品々だったので
真剣にきいた。ちょっと気持ちが重くて冗談を交えた。
その日、たまたま持っていたノートに祖母の生い立ちを聞いてメモした。
子供には言えないことを孫の私が伝えるお役目をいただいた。
その6年後、祖母の旅立ちの時がきた。
まさか、あの袋があの場所にあるのか?と
私は外孫なので内孫の従兄に当時のことを打ち明けた。
従兄は快く開けてくれた。
その戸袋を開けてみると、
いっしょに入れた思い出の品々が当時のままの場所に入っていた。
みんなで袋を開けて思い出に涙した。
生い立ちメモもそのまま読んだ。
子供の知らない祖母の人生や思いも書かれていた。
みなしごハッチからはじまった、祖母の幸せな人生が詰まっていた。
6年前に今日のこの日を見ていたんだ。
祖母が畑一面に種をまいたピンクの優しい花があった。
集金にきたK電の人が花すきの祖母を思って種を持ってきてくれたいう。
久しぶりに祖母を訪れた日のことだった。
学生だった私は結婚をし、祖母も祖父と別れ
環境の変化が心の距離を作っていた。
何がこんなに冷たくしてしまったのか。
会うたびにさみしい気持ちになり、
あんなに、通っていた祖母の処に足を運べなくなっていた。
そんな時にそのピンクの花が心の距離をもとに戻してくれた。
さみしい。
祖母が花を見てさみしそうに感じたのは初めてだった。
2人はお互いさみしかったんだと気がついた。
心の距離を教えてくれた薄いピンクの花びらの「ネモフイラ」
今も分けてもらった種が芽を出し、花を咲かせてくれる。
この花だけは、見るとさみしい気持ちになる。
祖母との思い出「ネモフイラ」
梅本亜祐子