名城めぐり 現存天守

2016年01月11日 | お城めぐり

名城めぐり 12の現存天守

お城めぐりは昔から好きだった。本格的にと考えたのはJALの機内誌「SKY WORD」に掲載された坂東三津五郎の紀行記事を見てからである。もともと写真撮影が好きなので、お城は絶好の被写体なので、とりあえず日本全国にある70城を目標に回っている。基本的には公共交通機関を使って、周辺の城下町の名残も楽しんでいる。天守は現存、復元、復興、模擬と分類されるが、現存は江戸時代以前から現代まで保存されている天守で全国に12ある。それらは弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・宇和島城・松山城・高知城である。

撮影のポイント まずは天候。天気予報を見て日程を決める、直前に悪く変わると(交通費のキャンセル料のこともあるが)思い切って中止をする。一番狙いたい構図を考えて、晴天でも逆光は台無しになるので、東からが良い構図だと午前中に現場に行けるように段取りする。

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彦根城 国宝 複合式望楼型 3重3階地下1階 滋賀県彦根市

現存天守12城の中で国宝に指定されているのは、姫路城・松本城・犬山城、そしてこの彦根城の4城である。井伊直継が1622年に築城、天守は3重3階、1層目に並ぶ切妻破風は大小、奥行きも持たせている。2層目の唐破風、金の装飾、3層目の華頭窓も美しさを引き出している。井伊直継が1622年に築城、天守は3重3階、1層目に並ぶ切妻破風は大小、奥行きも持たせている。2層目の唐破風、金の装飾、3層目の華頭窓も美しさを引き出している。

     詳しくは 彦根城 (別名・金亀城) をご覧ください 

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松本城 国宝 複合連結式層塔型5重6階 長野県松本市

5層6階の大天守は2重の渡櫓で乾小天守と連結、東に2重の付櫓と朱塗りの廻り縁を廻らせた月見櫓、威容と美しさを兼ね備えて大変美しい。撮影で気を使っているのはまずはお天気、予報を分析して晴天が一番だが出来るだけ雲が少ない日を狙い、あとはメインの構図で逆光にならない時間帯を選ぶ。

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姫路城 国宝 連立式望楼型 5重6階地下1階 兵庫県姫路市

天守が現在も存在する、いわゆる現存天守は12城。中でもこの姫路城は国宝に指定されている。日本一美しい城の代表的な存在である。JR姫路駅から歩いて15分ほどだが、城内は極めて大きくざっと見るだけでも1時間では足りないくらいだ。現在大天守の補修工事中で、すべて工事が終了するのは2015年3月になる。 

詳しくは 姫路城 (別名・白鷺城) をご覧ください

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犬山城 国宝 複合式望楼型3層4階(地下2階) 愛知県犬山市

木曽川の畔の標高80mにある犬山城は室町時代の1537年に築城された。3層4階地下2階の望楼型、付櫓がある複合式天守は南北に唐破風、東西に千鳥破風、天守はとても魅力的だが天守最上階からの眺望も素晴らしい。木曽川の畔で夕日が映える犬山城は最高だ。 

詳しくは 犬山城 (別名・白帝城) をご覧下さい

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高知城 重要文化財 望楼型4重6階 高知市

山内一豊が土佐に入国、2年後の1603年に築城した。現在の天守は大火で焼失、寛延2年(1749)に再建されたもの、高知城には天守のほか15棟が重要文化財に指定されている。その中で本丸御殿も現存で全国でも貴重な存在である。ちなみに現存御殿は、高知城のほかに、掛川城(二の丸御殿)、二条城(二の丸御殿)、川越城(本丸御殿の一部)である。 

詳しくは 高知城 (別名・鷹城) をご覧下さい

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松江城 国宝 複合式望楼型4重5階 島根県松江市

実に堂々とした天守閣、廻りの景観も素晴らしいので時間を忘れて見てしまう。天守最上階からは宍道湖を眺めることが出来る。城下にも見どころがたくさんあり、いずれもスケッチがしたくなるような素晴らしさである。松江城と城下を見学するだけでも1日かけた価値は十分にあった。ずっと重要文化財だったが2015年7月8日に天守1棟が文科省により国宝にしてされた。

詳しくは 松江城(別名・千鳥城) をご覧ください

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丸亀城 重要文化財 複合式層塔型 3重3階 香川県丸亀市

亀山(標高66m)を利用して築城された丸亀城、白漆喰に千鳥破風・唐破風を施した天守の高さは15メートル、現存天守ではもっとも小さい。麓から山頂まで4重に重ねられた石垣は60メートルと日本一高く、三の丸石垣だけで22メートルあり、日本一美しい石垣とされている。 

詳しくは 丸亀城(別名・亀山城) をご覧ください

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宇和島城 重要文化財 複合式層塔型3重3階 愛媛県宇和島市

籐堂高虎が慶長元年(1596)に築城した宇和島城、現在の天守は伊達宗利が寛文6年(1666)に建てられた。縄張りのものは築城の名手と言われた籐堂高虎のものを踏襲している。天守からは美しい宇和島湾が望める。

詳しくは 宇和島城(別名・鶴島城) をご覧ください

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(備中国) 松山城 現存天守 重要文化財 岡山県高梁市

全国で12ある現存天守、中国地方には2つ存在する。備中松山城(岡山県)と松江城(島根県)だ。備中松山城はJR岡山駅で伯備線に乗り換え備中高梁(たかはし)駅で下車する。山城で途中までバスかタクシーを使う。鞴(ふいご)峠から松山城まで20分ほどだがかなり急な坂道が続く。実に見どころが多い城郭だが、また街にも素晴らしい観光スポットがある。

詳しくは 備中松山城 高梁城 (岡山県・高梁市) をご覧下さい

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(伊予国)松山城 現存天守 重要文化財 愛媛県松山市

伊予松山城には大天守はじめ21棟の重要文化財がある。大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、小天守・隅櫓などを廊下で結び、武備に徹した建造物群は代表的な連立式城郭である。

詳しくは 伊予松山城(別名・金亀城) をご覧ください

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弘前城 現存天守(御三階櫓) 重要文化財 青森県弘前市

2代藩主津軽信枚が築城した天守は本丸南西隅に5層5階のもので、若松城に匹敵するものだったが、寛永4年(1627)落雷の出火にて焼失。その後200年近く再建されることは無かった。文化7年(1810)9代藩主津軽寧親が幕府に三層櫓の新築を願い出て、現在の御三階櫓(天守)が建造された。高さは14mほどで規模は小さい、入母屋屋根に二の丸に面する側には切妻破風出窓を設けて格式もあるが、本丸側装飾もなく幕府に遠慮したのだろう。

詳しくは 弘前城(別名・鷹岡城) をご覧ください

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丸岡城 現存天守 重要文化財 福井県丸岡市 

全国で12ある現存天守、北陸地方にただ一つあるのが「丸岡城」、しかも現存天守閣でもっとも古く、1576年(天正4年)に柴田勝豊が築城した。その前年織田信長は北陸の一向一揆を平定するために大軍をもって丸岡の東北4Kmの豊原寺を攻め寺坊をすべて焼き払った。信長はこの恩賞として柴田勝家に越前之国(現在の福井県嶺北地方)を与え、北ノ庄(現在の福井市)に築城を命じた。勝家は甥の勝豊を豊原に派遣させて豊原城を構えたが、翌年丸岡に移り城を築いた。これが現在の丸岡城である。

詳しくは 丸岡城(別名・霞城) をご覧ください

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日本全国名城めぐり

2014年11月30日 | お城めぐり

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日本全国お城めぐり 天守閣・櫓・石垣・武家屋敷・城下町

お城めぐりは昔から好きだったが、本格的に回ってみようと思ったのは、JALの機内誌「SKY WORD」に掲載された坂東三津五郎の紀行記事を見てからである。彼の公式HPのプロフィールにも趣味のトップに日本お城と書いている。もともと写真撮影が好きなので、お城は絶好の被写体なので、とりあえず日本全国にある70城を目標に回る予定である。基本的には公共交通機関のみを使って、周辺の街を回り城下町の名残を見て楽しんでいる。このページは見出し(索引)で、各ページに詳しく紹介している。これから訪問予定のお城についてご質問があれば、左の「メッセージ」から連絡ください。分かる範囲お調べします。

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1. 犬山城(白帝城) 平山城 現存天守 国宝 愛知県犬山市

2. 彦根城(金亀城) 平山城 現存天守 国宝 滋賀県彦根市

3. 姫路城(白鷺城) 平山城 現存天守 国宝 兵庫県姫路市

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4. 丸亀城(亀山城) 平山城 現存天守 重要文化財 香川県丸亀市

5. 伊予松山城(勝山城) 平山城 現存天守 重要文化財 愛媛県松山市

6. 熊本城(銀杏城) 平山城 復原天守 現存櫓多数 熊本県熊本市

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7. 掛川城 平山城 日本初の木造復原天守 現存二の丸御殿 静岡県掛川市

8. 高知城 平山城 現存天守 重要文化財 熊本県熊本市

9. 宇和島城 平山城 現存天守 重要文化財 愛媛県宇和島市

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10. 岸和田城 平城 復興天守 大阪府岸和田市

11. 大坂城 平城 復興天守 現存櫓など多数 大阪府大阪市

12. 和歌山城(虎伏城) 平山城 復原天守 岡口門と続塀(現存) 和歌山県和歌山市

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13. 岡山城(烏城) 平山城 復原天守 月見櫓(現存) 岡山県岡山市

14. 備中松山城(高梁城) 山城 現存天守 重要文化財 岡山県高梁市

15. 松江城(千鳥城) 平山城 現存天守 重要文化財 島根県松江市

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16.丸岡城(霞ヶ城) 平山城 現存天守 重要文化財 福井県坂井市

17.伊賀上野城(伊賀文化産業城) 山城 模擬天守 高石垣 三重県伊賀市

18.岩国城(横山城) 山城 復原天守 山口県岩国市

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19. 江戸城(千代田城) 富士見櫓(現存) 東京都千代田区

20. 鶴ヶ城(若松城) 外観復元天守 福島県会津若松市

21. 大洲城 木造復元天守 4つの現存櫓(重文) 愛媛県大洲市

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22. 今治城 (模擬天守) 日本三大水城 復元された鉄御門 愛媛県今治市

23. 福岡城 南多門櫓(現存・重文) 鴻臚館跡展示館 福岡県福岡市

24. 唐津城 (模擬天守) 天守から見る絶景は! 福岡県唐津市

 

今後の掲載予定(取材済) 白河小峰城、忍城、小田原城、浜松城、名古屋城、岡崎城、清州城、岐阜城、大垣城、富山城、越前大野城、長浜城、福知山城、伏見城、広島城、福山城、岩国城、小倉城、島原城、飫肥城、高松城、松本城、上田城、土浦城、中津城


中津城 大分県中津市

2013年11月10日 | お城めぐり

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中津城と黒田官兵衛 大分県中津市

2013年2月中旬に中津城を訪ねた。日帰りを考えたが、北九州空港から中津の街には結構移動が不便で、東京からでは無理と判断して中津で1泊した。こちらは中津城以外目的がなA_nakatsujo_105かったが予想外に訪ねるところが多く1泊した値打ちがあった。北九州空港に降り立って、中津城のパンフレット、「2014年大河ドラマ・黒田官兵衛」と1年も前なのに書かれている。来年は中津の街も賑やかになることだろう。1泊するので羽田空港を14時過ぎの便で北A_nakatsujo_102九州へ、バスでJR日豊本線朽網駅に向かう。朽網は難読な名前であるが「くさみ」と読む。バスとの連絡が悪く空港で約1時間待たされた。朽網からJRで中津駅に着いたのが18時過ぎであった。駅には大きな横断幕やたくさんののぼりで「大河ドラマ・黒田官兵衛決定」と紹介されA_nakatsujo_103ていた。中津城は今治城と高松城と並んで、「日本三大水城」の一つに数えられている。朝早く城の北側から訪ねたが、ここも埋め立てが進んで周防灘の海岸線は1キロ先だった。まず目についたのが本末北側の石垣(写真右)、目地が斜A_nakatsujo_104めに通るところがある。四角く加工された石が黒田の石垣、左に自然石が積まれているのが細川時代の石垣だ。本来黒田の時代も自然石のはず、官兵衛は築城の際に川上の福岡県上毛町の唐原山城(国指定遺跡)の石(神籠石・こうごいし)を使って築いた。お城の南にある南部小学校にも大手門の石垣の一部(写真左)が残っている。赤線部分が黒田時代の石垣、大手門周辺に使われた大きな石は威容を示すだけA_nakatsujo_110に奥行きはなく薄いものです。黒田時代の石垣はこのほかに本丸南に穴太積みの技法が使われた石垣を見ることができる。南小学校にはもう一つ遺跡がある。西側にある薬医門で、奥平中津藩家老の生田家の門である。明治4年福沢諭吉の建議でここに西日本有数の英学校である中津市学校が設立された。「天は人の上に・・・・」で有名な「学問のすすめ」はこの市学校を設立するときに、学問の重要性を説くために諭吉によって書かれたもので、翌年発刊されると空前のベストセラーになった。この生田門は学校にお話しすると中に案内頂いてみせてもらった。

 

福澤諭吉旧居 福澤諭吉記念館

中津城から東へ約300mに、福澤諭吉旧居があり、その敷地内に記念館がある。諭吉は天保A_nakatsu_fukuzawa_001_3 5年(1835)に大阪の中津藩蔵屋敷(現在の福島区福島1丁目)で、下級武士・福澤百助の二男として生まれた。1歳6ヶ月のときに父と死別したので、母子6人で中津に帰郷した。儒学者白石照山の塾で学んでいたが、19歳のときに蘭学を志して長崎に遊学、翌年大阪の緒方洪庵の適塾で励んA_nakatsu_fukuzawa_002 だ。安政5年(1858)に藩命で江戸中屋敷の蘭学塾の教師となった。これが慶応義塾のはじまり。中津市学校開設にあたって明治4年から中津の若者のために書いた「学問のすすめ・全17編」、340万部も読まれたといわれる。福澤記念館には諭吉に関する興味深い資料などが展示されている。中津市では2月下旬から3月はじめまで、ひな祭りが街をあげて行われる。福澤旧居の屋敷にも立派な雛飾りがなされていた。最近どこでもつるし雛が飾られているが、ここでは柳川と同じように「さげもん」と呼ばれている。

 

大江医家資料館 村上医家資料館

解体新書は杉田玄白著ということで知られているが、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵は明和8A_nakatsu_murakami_001 年(1771)に江戸・小塚原(現在の南千住)刑場で解剖を見学して、翌日から中津藩中屋敷の前野良沢の屋敷でヨハン・アダム・クルムス(独)の解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取りかかった。解体新書の翻訳の中心は前野良沢であったが、著者とA_nakatsu_murakami_002 して知られていない。翻訳が完全ではなかったので、学究肌の良沢は名前を出すのは潔しとしなかったといわれている。このように中津の蘭学は良沢にはじまり諭吉に終わるが、その間に多くの蘭学者や蘭方医を生み出した。写真は大江医家資料館で、代々藩医を勤めた大江家に伝わる貴重な資料が展示されている。村上医家資料館とともに中津市歴史民俗資料館・別館として保存・公開されている。

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    薬草園                       村上医家資料館

 

 


弘前城 青森県弘前市

2013年05月24日 | お城めぐり

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史跡 弘前城 現存天守 青森県弘前市

追手門

今回は弘前城を訪ねた。2度目の訪問だが前回は業界の旅行での訪問だったので、初めての訪問みたいなもの。羽田からJALで青森空港に着いたのが正午前、さっそくトヨタレンタカHirosaki_115otemonーで車を借りて弘前に向かった。今回は弘前城、久保田城、横手城を2泊で訪ねる予定だ。弘前の桜は例年5月GWがシーズン、混むので5月第3週を選んだが、今年は関東は例年より早く、東北は例年より遅かったので、桜も見ることが出来た。弘前には空襲や火災がなかったので、弘前公園には天守(御三階櫓)、3つの隅櫓(丑寅櫓、辰巳櫓、未申櫓)と5つの城門(北門、南内門、東内門、追手門、東門)が現存で残っている、すべてが国の重要文化財だ。公園南にある追手門(重文・写真)から入場することにした。三の丸枡形にある櫓門で、慶長16年(1611)に建造、一層目の屋根が高く配しているのが雪国の特徴だろう。枡形の南面の土手にはシダレ桜が綺麗に咲いていた。追手門から杉の大橋に向かう左手にある市民広場に咲いていた枝垂れ桜(写真下)は見事だった。

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南内門 辰巳櫓 羊申櫓

南部氏に仕えていた大浦為信が小田原征伐での功が認められて文禄3年(1594)に4万5千Hirosaki_116minamiuchimon石の所領となり津軽と改姓。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、家康より2千石の加増となり弘前藩となった。津軽藩と呼ばれることが多いが津軽藩は通称である。さっそく鷹岡(現在の弘前城の位置)に築Hirosaki_112tatsumiyagura城をここ見たが亡くなり、築城は中断された。慶長14年(1609)2代目藩主津軽信牧は築城を再開した。堀越城や大浦城からの転用した材料を使い、1年1ヶ月の短期間で慶長16年に鷹岡城を完成した。現在残っている遺構のほとんどがこの期間に造られている。南内門(写 真右)は二の丸南側の枡形にある櫓門。1層目は重厚な造りになっており、2層目には物見や鉄砲狭間があり二の丸への侵入を拒んでいる。辰巳櫓(写真左)は二の丸東南(辰巳)に位置している隅櫓、3層3階で1層目と2層目は四軒四方の同寸法で3層目は一回り小さくなっている。入母屋造り、銅版葺き、中堀側には鉄砲狭間が設けられている。羊申櫓(写真右)は二の丸南西(羊申)に位置している隅櫓、辰巳櫓とほぼ同じような構造、物見と攻めてくる敵を攻撃する役目で、美観より実用的な目的で建造されたとみる。

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弘前城天守 御三階櫓 弘前城資料館

2代藩主津軽信枚が築城のときに、本丸南西隅に5層5階の天守を建てた。これは福島の若Hirosaki_110tenshu松城に匹敵するものだったが、寛永4年(1627)落雷の出火にて焼失。その後200年近く再建されることは無かった。文化7年(1810)9代藩主津軽寧親が幕府に三層櫓の新築を願い出て、現在の御三階櫓(天守)が建造された。高さは14mほどで規模は小さい、入母屋屋根に二の丸に面する側には切妻破風出窓を設けて格式もあるが、本丸側(写真下段左)には装飾的な要素はなく窓が単調に並んでいるだけの形状である。幕府に遠慮して華美に出来なかったのではと想像できる。東日本では唯一の現存天守閣として、同じく現存する3つの隅櫓と5つの城門とともに国の重要文化財と指定されている。

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北門(亀甲門) 丑寅櫓 東門 東内門 与力番所

与力番所以外すべては慶長15~16年に建造され、現存しているもので国の重要文化財にHirosaki_119kitamon指定されている。北門(亀甲門)・写真右は2代藩主信牧が大光寺城(青森県平川市大光寺)の城門を慶長16年(1611)に弘前城追手門として移築したもので、戦いが一度も無かった弘前城で唯一実Hirosaki_121yorikibannsho戦の刀傷などが残っている。他の門と比べて規模が大きく、2層目に狭間がない。丑寅櫓は二の丸北東(丑寅)にある隅櫓、窓の出格子も塗装はなく他の櫓同様に素朴なものである。東門は三の丸東に位置、東内門は二の丸東に位置している櫓門で全く同じような構造をしている。弘前城の与力番所(写真左)は12の主要な場所に設けられていた。現在の番所は他の場所に移築されていたが、昭和54年に再度現在の場所に移築復元された。

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       丑寅櫓              東内門                東門

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城めぐり 城郭用語

2013年04月05日 | お城めぐり

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                                       大坂城

城めぐりが楽しくなる 城郭用語事典 (天守)

お城の専門用語は難しいものが多く、その違いも分かりにくい。アンクルサムの城めぐりは5年ほどで回った城郭は70城あまりでまだまだ初心者だが、最近城郭で使われる言葉が少しSiromeguri_011分かるようになった。一番大きな分類として、山城・平山城・平城と分かれるが戦国時代初期に多くみられるのが「山城」、軍事的に防御に優れるが居住には不便なため山麓に居住区を設けると、城は守れても城下は守れないという不都合もある。時代が進むと権威のSiromeguri_012示すことから小高い丘に天守を築く平山城が多くなり、近世になると城郭は政務を執り行う目的が強くなり平城が多くなる。山城である備中松山城や竹田城址を訪ねたがちょっとしたトレッキングも楽しめた。写真は備中松山城で高梁の標高430mの臥牛山にある本丸には麓から1時間ほど山道を登る。本丸近くになると石垣群が見えると爽快な気分になれた。

天守の形態 望楼型 層塔型 南蛮型

天守は城の象徴で、それぞれに特色を活かした造りになっている。概ね天守は土塁や石垣Siromeguri_021_maruokaが積まれた天守台に座っている。大きな天守の天守台は中を空洞にして地下階として使われている例が多い。望楼型は入母屋造りの櫓の上に望楼を載せた形態で、関ヶ原の戦いが起きた慶長5年(1600)年頃までの城に多い。望楼は下層階の梁の上に載る形で造られ、望楼は物見としての役割から、廻り縁をぐるりと巡らしているものが多い。福井県の丸岡城(現存天守)Siromeguri_013は1階部分に2階・3階の望楼が載る構造で、その接合部に大きな千鳥破風を設け、黒い板壁など初期天守の特徴がよく出ている。層塔型は上下層が一体となっている形態。望楼型では天守の高層化に適していないが、通し柱を通した層塔型が多く建てSiromeguri_014られるようになる。上層は下層より小さく、床面積が次第に小さくなる。望楼では接合部を覆う大きな破風が必要だったが、写真の宇和島城のように層塔型では比較的小さな破風を持ち、廻り縁を持つ形は少ない。上層階が下層階より大きく張り出しているような形態を唐造型(南蛮型)という。あまり例はなく確認されているのは3城(小倉・高松・岩国)だけ、写真は小倉城だが、創建当時は無破風の層塔型で最上階が下層より広くなっている。

天守 独立 複合 連結 連立

天守の構成形式は、独立式・複合式・連結式・複合連結式・連立式と5分類される。

  • 独立式 天守が完全に独立しているもの
  • 複合式 天守に小さな櫓が付属しているもの
  • 連結式 天守に小天守などを渡櫓で連結されているもの
  • 複合連結式 3つ以上の櫓を連結するもの
  • 連立式 天守と小天守に複数の櫓が連結して天守曲輪を構成するもの

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  松江城 複合式望楼型      熊本城 連立式望楼型     松山城 連立式層塔型

現存天守

天守などの区別に、現存・復元・復興・模擬がある。現存天守は全国で12、400年ほどの時Aainu110を刻んだ貴重な存在。多くの天守は明治6年に太政官から発せられた「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」、つまり「廃城令」、陸軍が軍用として使用するものと大蔵省に売却財産として処分に分けられた。それでも20の天守が残っていたが、空襲などで8つの天守が無くなり現存天守は12となった。各地で望まれて天守が再建されたが、復元・復興・模擬と分類されている。写真は現存最古と言われる国宝・犬山城天守。

外観復元と木造復元

復元(復原)の多くは外観復元、つまり図面や写真などの資料で少なくとも外観が以前の通りA_oozujou007_tenshu01に復元されたもの、太平洋戦争の米軍の空襲で焼失した天守に多い。本来の天守は木造であるので、文化庁ではRC構造(鉄筋コンクリート)で外観復元したものは復元と言わず、木造復元のみ「復Nagoya元」としている。木造復元は建築基準法・消防法などの制約があって、数は少ない。一番古いものは白河城御三階櫓が1990年に復元、1994年には掛川城天守、2004年には大洲城天守が復元された。内部まで木造で復元されているので、木のぬくもりを感じる階段を上るとき良さを感じる。木造復元は5城(白河小峰、掛川、白石、新発田、大洲)、外観復元は11城(名古屋、大垣、広島、和歌山、松前、熊本、若松、岡山、福知山)。写真は大洲城内部と外観復元で最初の建造となった名古屋城。

復興天守と模擬天守

復興天守の解釈は難しい。多くの捉え方を参考にすると、もともと天守は存在した、しかし図Kishiwada_2面や写真などがなくその形状がはっきりとしない。他の城を参考に想定して建てられたもの。全国で大坂、岸和田、岐阜、岡崎、小倉、小田原、岩国、島原、福山、越前大野、高島、忍、長浜、高田の14城とされている。復興天守の中では岸和田城(写真右)が傑作だと思う。もともと5層の天守だったが予算の都合で3層となったそうだが、私は気品があって素晴らしい天守だとKaratsu思っている。模擬天守は現存・復元・復興以外のものすべてである。模擬天守は多くは博物館や資料館などとして利用されている。模擬天守は地元でも、「あれは展望台みたいなものですから」と軽視されていることが多いが、模擬天守はその国の藩主になったらこんな天守を建てたいという思いを感じて素晴らしいものが多い。その中の1つが唐津城、唐津湾を望むこの地に藩主だったらきっとこのような天守を建てたいと思う気持ちが伝わるような天守だ。

破風(はふ) 入母屋破風 千鳥破風 唐破風 切妻破風

天守を重厚にさらに美しくさせている破風にはいくつかの種類がある。分かりにくいのは入母Hafu屋破風と千鳥破風、入母屋破風(写真①)は名前の通り入母屋造りの屋根に付属する破風で、屋根の両端を結ぶ線を底辺として二等辺三角形の形状をした破風をいう。構造上最上層には入母屋破風が付いている。千鳥破風(写真②)は形状はよく似ているが破風の両端は屋根の端と一致していない破風で、2Shimabaraつ並んだものは比翼千鳥破風と呼ぶ。写真③では右側が木に隠れているが2つ並んでいる。唐破風(写真④)は中央部が弓型で、左右両端が反り返った曲線状の破風で、要所に配置されて装飾性を増している。切妻破風は屋根の三角形が飛び出した形状。破風が全くない城もある。写真の島原城は最上階の入母屋破風を除けばまったく破風が使われていない珍しい存在、小倉城も破風がなかったが、再建のときに景観を考えて破風が設けられた。

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     切妻破風(彦根城)        唐破風(犬山城)        千鳥破風(宇和島城)

 

 

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