ねねの寺 高台寺

2014年10月21日 | まち歩き

鷲峰山(じゅぶざん)高台聖禅寺

京都東山ねねの道にある高台寺。秀吉の妻、北政所(ねね)が秀吉を弔うために建てた寺、慶長11年(1606)に創建、400年以上の歴史を数える。春は写真のようなしだれ桜、夏の夜には燈明会、秋は臥龍池・臥龍廊を囲む紅葉、いずれも夜間拝観(日没から午後9時半まで)。いかにも京都らしく女性に人気があり、時間をかけて楽しめる寺だ。ごく一部だが見所をアルバムにまとめた。

臥龍廊

 

 

開山堂と観月台

石楠花

 

遺芳庵 

 

 

 

 

 

 

傘亭(左)と時雨亭(右) いずれも重要文化財

わび茶で知られる千利休の意匠で、伏見城から移築された。時雨亭とは土間廊下でつながる。

臥龍池

方丈前庭園の枝垂桜

 


見沼で会える野鳥たち

2014年10月14日 | まち歩き

私のいつもの散歩道は「見沼たんぼ」 芝川、そして見沼代用水の西縁と東縁、ざっと小1時間ほどの散歩で20種くらいの野鳥と出会える。

カルガモの舞(加田屋新田にて)

カルガモが飛ぶのを見て驚いた 鳥だから当然飛ぶのだが その舞はとても素晴らしい

睡蓮とカルガモ(見沼自然公園)

スイレンが咲くころの見沼自然公園は素敵 カルガモたちも華やいで見える

 

 

 

 

 

 

 

カルガモ (見沼代用水西縁)            オナガガモ  (芝川)

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ハシビロガモ (芝川)          ヒドリガモ (芝川)

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ヨシガモ ナポレオンガモ (芝川)

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マガモ (芝川)

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 コガモ ♂ (芝川)          オオヨシガモ ♂ (芝川)

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カワウ(芝川)  芝川にはサギに混じってカワウが遊びにくる

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カワセミ(七里総合公園)

見沼田んぼ一帯の水路では良く見かけるが撮影のチャンスは少ない

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アオサギ(加田屋川)

アオサギ(加田屋新田)

サギの仲間ではいちばん大きいと聞いているが見沼ではあまり大きいのは見ない

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チュウサギの飛行

チュウサギが優雅に空を舞う

チュウサギの食事

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芝川でチュウサギとコサギが仲良く餌を摂っていた

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コサギ(見沼通船堀)

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モズ(見沼自然公園)

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セグロセキレイ(見沼氷川公園)

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ハクセキレイ(見沼氷川公園)      キセキレイ(黄鶺鴒)

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オオバン(見沼自然公園)

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シジュウガラ(七里総合公園)

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カワラヒワ(見沼自然公園)

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メジロ(見沼自然公園)

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旧三河島汚水処分場

2014年09月23日 | まち歩き

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旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設 (国指定重要文化財)

ちょうど1年前の2013年(2013)4月に一般公開されることになった「旧三河島汚水処分場喞Img_00a0349筒場施設」、喞筒とはポンプのことで、ソク-トウまたはショク-トウと読む。1週間前に予約を入れて3月10日に訪ねた。11時の予約だったが道路が混雑していて時間ぎりぎりに到着、玄関前に案内頂く東京都下水道サービスの森さんと清水さんが待っていてくれた。この施設は三河島水再生センターの一角にある。写真、手前は「ろ過機室」、奥が「ポンプ室」、ポンプ室は左右対称の構造で、左の写真のように平面性や直進性を強調した、いわゆるゼツェッシオン様式。外壁の煉瓦タイルは東京駅と同じ品川白煉瓦株式会社」のものが使用されている。最初の近代下水処理場の代表的遺構として歴史的価値から平成19年12月国の重要文化財に指定された。

近代的な下水道へ

明治時代まではし尿は肥料として利用、家庭の雑排水と雨水はそのまま河川に放流れていImg_00a0353た。明治半ばに東京市(現在の区部)の人口は急激にふくれあがり、都市基盤の構築が急がれていた。効率的に下水をまとめて浄化する汚水処理施設が必要となった。行政は最初の汚水処分場の建設予定地を模索していた。このときのエピソードを森さんが紹介してくれた。処理場などの用地買収には通常地元は反対するのだが、隅Img_00a0354
田川中流に面するこの辺一帯(約18万平米)の地主たちは逆に買い上げを要望、比較的安価に用地買収ができるので東京市としては願ったりかなったり、この地に最初の近代的な汚水処理場の建設が大正3年に着手され、大正11年に運転開始された。右は正面から見た西阻水扉室で、左は沈砂池側からで左右2つが並んでいる。阻水扉(ゲート)は流入暗渠から処分施設に下水が入ってくるが、その入口に設置されている。

汚水処分場施設のフロー図  (構内の案内版より)

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東・西阻水扉(そすいひ・ゲート)を通り過ぎた下水は東西2つの沈砂池(写真右)に入る。沈砂池Img_00a0360_2(ちんさち)では下水に混じっている土砂やゴミを沈殿させて除去する。この汚水処理施設は平成11年に施設停止され、雨水が溜まるのを防ぐため沈砂池底部を埋められたが、平成23年に衛生管理上地上部の蓋も建設当時の姿に復元するため撤去された。下水は沈Img_00a0368砂池を過ぎると、写真奥の濾格機室(ろかくきしつ)に入る。濾格機とは下水の含まれるゴミを除去するための鉄製の格子(スクリーン)と、ゴミを連続して掻き揚げるレーキを組み合わせた設備で、写真左は濾格機室の入口のスクリーン。ここで集められた土砂は土運車引揚装置(インクライン)で東側の坂の上に運ばれた。土運車引揚装置用電動機室の建屋は保存されているが、機器類は撤去されて機器の基礎跡は見ることができる。

汚水はヴェンチェリー管を使ってその流速を計測する量水器室を通って、中間阻水扉に向かImg_00a0380
う。これらは地下にあって、右写真のように中間阻水扉手前から地下に入ることができる。地下に入ると暗渠(あんきょ)を見ることが出来る。2系列に分かれて沈砂池を通った下水は喞筒井(ぽんぷせい)接続暗渠により1つになり、阻水扉室を通って喞筒井に流入する。暗渠の中は迷路の様だが、案内してくれるので心配はない。現在ではもっと大きな暗渠もあるが、大正時代に建設されたがその大きさには少し驚いた。

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喞筒井接続暗渠にはポンプにて吸い上げられるためのパイプ(吸入管)が下りてきている。写Img_00a0390真は10号汚水ポンプの真下にある10号喞筒井。(当初は9台であった)10号汚水ポンプは昭和8年から10代目のポンプとして使用された。停電時に逆流を止めるために逆止弁(ぎゃくしべん)を途中に取り付けた。そのため吸入管の先にはラッパ管が取り付けられた構造になっている。すべての喞筒井には整流用にコンクリートの山形ガイド(赤矢印)が設けられている。

喞筒室

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写真は喞筒室内部、10台(当初は9台)の汚水ポンプが並んでいる。当初のポンプは「ゐのくImg_00a0407
ち式渦巻喞筒」であったこのポンプは東京帝国大学教授の井口在屋(いのくち・ありや)博士が発明し、教え子の畠山一清が実用化を進めたもので、世界でも注目を集める画期的な発明であった。のちImg_00a0408
に畠山は井口と「ゐのくち式機械事務所」を設立し、大正8年(1920)には現在の荏原製作所を設立した。現在保存されているポンプは昭和40年代に取り換えられたものである。当初9台のポンプは、口径410、560、760㎜のものがそれぞれ3台ずつであった。写真右は昭和8年に10代目である口径800㎜の10号ポンプ、写真左は「ゐのくち式渦巻きポンプ」大正10年撮影、場内の案内版より転用。

喞筒室の二階デッキに展示スペース(写真右)があり、この下水処理施設の建設に関わった技術者・中Img_00a0470島鋭治や米元晋一の紹介。「なぜ三河島が最初なんだろう」というタイトルで、中島鋭治は第一区(日本橋・京橋など台場沖にImg_00a0430_2
放流)をやりたかったが台場に送る5フィート(1524㎜)の鉄管5本にも疑問がたくさんあって、まとまっている第2区(下谷・浅草など荒川・現隅田川に放流)からよかろうということで、第2区を最初に着手したと紹介している。また昭和8年の東京市役所が改良下水道の利用と題したポスターの展示(写真左)があり、絵の中に水洗トイレが描かれていた。アンクルサムは昭和20年後半に小学生だったが、周りはすべて「汲み取り式トイレだったと記憶している。

旧三河島汚水処分場喞筒場施設の見学

見学には事前予約が必要で、必ず下記の問合せ先に申し込みしてください。駐車場は狭いので出来るだけ公共交通機関で、都電荒川線なら「荒川二丁目」で下車すると徒歩3分です。見学可能日は平日(年末年始と火曜日・金曜日を除く)と土日・祝日です。

電話 03-6458-3940 三河島重要文化財見学受付

 


下水処理センター

2014年04月01日 | まち歩き

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さいたま市下水処理センター (さいたま市浦和区大原)

さいたま市はほとんどの地区の下水処理を埼玉県下水道局(埼玉県下水道公社)に委託してImg_00101いるが、浦和区大原に市直轄の下水処理場を持っている。その歴史は古く昭和41年に施設が出来て大宮駅東側の区域の下水処理を開始した。その後人口増加で処理量が増大したので、昭和56年に現在の下水処理センターが建設された。見学を申し込み、3月25日に案内して頂いた。最近の処理場は上部を公園にして、処理場の大Img_00102半は地下施設となっているが、この施設は小規模であるが、汚泥処理も行っているので、その下水処理の全体フローがよく分かる。現在このセンターには大宮駅東側に当たる大門町、宮町、東町、高鼻町、堀の内町、天沼町を含む南部処理区の下水を処理している。計画水量は1日当たり23,000立方メートル(実績約15,000立方メートル)、計画処理人口は17,400人(実人口10,800人)、処理は標準活性汚泥法である。(写真左は中央監視室、写真右は最初沈殿地)

 

下水処理のフロー (標準活性汚泥法)

 

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この施設の大きな特徴は汚水処理と併せて汚泥処理(下段のフロー)を持っていることであImg_00103る。通常汚泥処理はいくつかの処理場の汚泥を集めて処理するので、汚泥処理施設を持った下水処理場は少ない。ここでは下水処理と汚泥処理の二つを見学することができる。まず汚水処理のフローImg_00105から、流入された汚水は沈砂池で大きなゴミや砂を沈めて取り除く。次にポンプ(写真左下)で最初沈殿地に送られる。ここでは混ざっている沈みやすいものや浮かびやすいものを取り除く。曝気槽(ばっきそ・写真左)う)では活性汚泥をImg_00106水に混合し、空気を送り込み微生物に酸素を与え、下水の汚れを除去する。最終沈殿地(写真右)は活性汚泥を沈めて、上澄み水と汚泥に分ける。消毒設備は上澄み水(処理水)を消毒して、河川に放流する。ここでは柴川に放流されている。また一部はオゾン処理などをして、新都心ビルのトイレ用の水に再利用されている。次に汚泥処理はまず濃縮槽で汚泥を時間をかけて沈殿させて濃くする。消化槽では水蒸気であたためて微生物を分解するとメタンガスが発生する。集めたガスはボイラーの燃料として再利用されている。脱水機ではローラーで圧縮して水分を取って、かたまり(脱水ケーキ)を作る。現在脱水ケーキはセメントの材料として再利用されている。

第2期下水道事業実施計画 

汚水処理の普及について第1期下水道事業実施計画最終年度(H25末)に90.7%、次の第2期実施計画(案)では平成29年度に普及率を92.7%としたいと考えている。第2期実施計画では浸水対策(雨水管や貯留施設の整備)、地震対策(下水道管の耐震化、マンホールの浮上防止、処理センター管理棟やポンプ場の耐震化)などを考えていて、また処理プロセスについても高度処理も検討していくとしている。

今回見学で、具体的にどのくらい汚水がきれいになっているか数値でお聞きした。流入汚水のレベルは、BOD160~170 ㎎ / ? が処理後の放流レベルでは、BOD10 ㎎ / ? となっている。この施設にはJICAの事業で、日本の下水処理を学ぼうと海外からの見学も増えているそうだ。

下水処理センター見学には

見学日は月曜日~金曜日(祝日・年末年始を除く)、時間は9~11時、13時30分~16時、申し込みは電話(048-643-4302)  見学所要時間は60分(ビデオ放映による説明、施設見学、顕微鏡で微生物観察) 場所 さいたま市浦和区大原5-14-1 最寄バス停 東武バス 観音前下車 徒歩10分

見学案内HP http://www.city.saitama.jp/001/009/006/p022190.html

 

 

 

 

 

 


弘前 ぶらり歴史散歩

2013年05月25日 | まち歩き

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歴史の街 弘前 趣きのある建物 ぶらり散歩

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弘前学院外人宣教師館

弘前には1泊するので、ぶらりと趣きがある建物をゆっくりと散策することにした。まず最初にHirosaki230honda_2「弘前学院外人宣教師館」を訪ねた。弘前学院の生い立ちは明治19年本田庸一(写真左)の推奨によって、弘前教会堂内に女学校(来徳女学校)を開設されたことから始まる。津軽藩士だった本田庸一は明治3年に藩費で横浜に遊学、宣教師バラより英語を学んだ。バラから洗礼を受けて、明治7年に米国メソジスHirosaki230johningト監督協会教師のジョン・イングを夫人と共に東奥義塾に就任させ、自らも同校の教師となった。本田とイング夫妻の協力によって弘前を中心に津軽地方にキリスト教の伝道が始まった。明治22年弘前女学校となり米国から派遣される婦人宣教師のもとに学校運営がなされるようになりミッションスクールとして発足。その後次々と派遣される校長や宣教師は日本家屋で生活したが、外人にとって不自由であったので、宿舎として建設されたのが、弘前学院宣教師館である。建築されたのは明治39年(1906)、創立20周年の節目であった。

外人宣教師館は正門を入ってすぐ右側にある。見学は宣教師館の斜め向かいにある学校法Hirosaki231hirosakigakuin人本部(1階)に申し出ると案内頂ける。とても親切に内部を案内頂いて感謝している。この西洋館の設計施工者は、地元のクリスチャン棟梁の桜庭駒五郎、木造2階建、屋根Hirosaki232hirosakigakuin寄棟造、鉄板葺、建築面積159㎡。旧学院本部構内(中瓦ヶ町)に建設された。昭和47~49年に稔町に全面移転したため、一時は解体処分することも検討された。明治時代の代表的な建築物として、全国的にも注目されていて昭和53年1月に国の重要文化財にHirosaki233hirosakigakuin指定された。その年の7月から昭和55年3月まで2年近くかけ現在の場所に移築復元された。上下階とも中央に中廊下を設け、南側には半円の広がりを持つ応接室(1階)、談話室(2階・写真)、その他に1階には玄関、集会室、書斎、食堂、厨房、浴室、2階には寝Hirosaki234hirosakigakuin室2室、物置、階段室がある。2012年7月に㈱グラフィック社から出版された「ビジュアル資料 明治・大正・昭和 西洋館&異人館」(著者・伊藤隆之、B5版304頁、2940円)、全国の著名な西洋建築が300頁に渡ってフルカラーで紹介されているが、弘前学院外人宣教師館がトップに掲載され、しかも表紙にも掲載されている。左は学院で頂いた宣教師館のしおり、右は弘前市発行の弘前散策資料。

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旧東奥義塾外人教師館

弘前公園のすぐ南に旧東奥義塾外人教師館がある。寛永8年(1796)に弘前藩9代藩主津Hirosaki_261軽寧親は「稽古館」と名付けた藩校を設立、明治の廃藩置県で稽古館は津軽家の私的な施設として存続、明治5年に稽古館を母体に菊池九郎らによって「東奥義塾」が創立さHirosaki_262れた。世界に向けて新しい時代を担う人材育成のため教育を実施、米国メソジスト監督教会の宣教師・ジョン・イングを始め、同教会から次々と外人教師が来日着任した。明治23年に外人教師用の住宅が建てられたが32年に焼失、現在の教師館は明治33年に再建されたもの。設計は米国メソジスト監督教会本部で、当地のクリスチャンだった棟梁が建設に従事した。イギリス積の煉瓦基礎や煙突と窓枠のグリーンが西洋館をイメージさせている。床面積は280㎡を比較的大きい。東奥義塾のキャンパス移転で弘前市に寄贈され、のちに県重宝に指定された。写真は2階の書斎と主寝室、子供部屋にはブランコなども設置されており、厚遇されていたことがよくわかる。1階はサロン・ド・カフェ・アンジュというレストラン・喫茶になっている。

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旧弘前偕行社 弘前厚生学院記念館

この地は津軽藩政時代には「九十九森」と呼ばれた鷹狩場で、19世紀初め9代藩主寧親がHirosaki_270別邸と庭園を造った。明治37年(1904)に弘前に駐屯していた陸軍第八師団の将校や准士官の親睦組織である弘前偕行社の新築が計画され、設計は当時陸軍施設を一手に引き受けていた弘前を代表する棟梁・堀江佐吉であった。津軽寧親別邸跡地にルネサンスHirosaki_271風デザインを基調とした木造平屋建、東西方向約50mの規模を有した第八師団弘前偕行社が完成した。玄関ポーチに翼棟を広げたデザインは、旭川(第7師団)、金沢(第9師団)、善通寺(第11師団)、豊橋(第15師団)、岡山(第17師団)など現存している各偕行社の建物と共通している。中でもこの旧弘前偕行社は旧Hirosaki_272旭川偕行社(旭川市彫刻美術館)と並んで優雅で立派な建物だ。終戦後偕行社は解散、昭和20年9月に弘前女子厚生学院が移転のちに大蔵省から払い下げられ使用してきたが、弘前厚生学院記念館として自主的に保存することになった。修復には設計者の流れをくむ堀江組が行い、現在も随時補修作業が行われている。見学には申し出ると案内頂ける。当日は館長さんに案内頂いた。現在も記念館は授業など教育活動に使われている。旧第8師団時代をしのばれるものも多く展示されて大変興味深い。平成13年に国の重要文化財に指定されている。

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旧弘前市立図書館

旧東奥義塾外人教師館の隣に、八角形の双塔を持つ洋風の3階建ての建物がある。明治Hirosaki_27639年に地元の棟梁・堀江佐吉が設計・施工、東奥義塾敷地内建てた「旧弘前市立図書館」で、弘前市に寄贈された。昭和6年まで市立図書館として利用されたが、図書館の移転で堀江家の子孫に払い下げられ、市内富野町に移築された。かっては下宿屋や喫茶店として使われたこともあったが、平成2年市制百周年記念施設の一つとして、現在の場所に復元された。平成5年に青森県重宝に指定されている。入館自由・休館日はない。

 

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