熊本城 (肥後・熊本市)

2009年12月19日 | お城めぐり

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日本三名城 肥後 熊本城 (銀杏城)

日本三名城の定説とは、名古屋城、大阪城、熊本城の3つを指している。他の説には姫路城や松本城が入ることもあるらしいが、諸説多くとも必ず入っているのが熊本城である。三Am_00242大・・・なるものはいい加減であって訪れる土地によって変わるから面白い。ということで熊本城は間違いなく三大名城ある。熊本城はすでに数度訪ねているが本丸御殿も復原されたこともあって、今秋の旅行最終宿泊地に熊本を選んで最終日に熊本城を訪ねた。トップの写真は宿泊した日航ホテル熊本の部屋から朝撮った。熊本城の印象は先ず城郭の広さ、約98万㎡、周囲5.3km、その中に天守2、櫓49、城門29を持つ。天守は復元であるが多くの遺構があり、宇土櫓(写真・左)など13棟が国指定重要文化財となっている。

大小天守閣

Am_0032天守閣と本丸御殿は西南戦争開戦3日前に原因不明の出火で焼失した。現在の天守閣は昭和35年(1960)清正公350年祭と市制Am_0174s70周年を記念して再建されたものである。天守閣構造は連結式望楼型3重6階地下1階、大天守の高さは約30m、小天守は約19mである。天守閣内部は熊本博物館分館となっており、1階は加藤家時代、2階は細川家時代、3階は西南戦争関連の資料が展示されている。最上階からは熊本市内はもとより阿蘇の山並みを一望できる。

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本丸御殿大広間

Ahimg_0059a総事業費54億円かけて平成15年から始まった本丸御殿大広間復元工事が終わり、平成20年4月から一般公開されています。今回の工事では大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大台所が復元されました。天守閣の南東に位置するAhimg_0059b本丸御殿は慶長15年(1610)頃に加藤清正によって創建されました。藩主の居間・対面所、台所など多くの用途をもつ複数の建物からなっていましたが、西南戦争開戦3日前に原因不明の火災で天守閣とともに焼失しました。本丸御殿の見どころは雅やかな「昭君之間」と地下にある「闇り通路」です。昭君之間(しょうくんのま)は御殿の中でも一番格式高Ahimg_0059cい部屋で、床の間・違い棚や付書院などをもつ書院造りとなっている。壁や襖の絵は前漢時代の話で悲劇の美女・王昭君の物語が描かれています。天井画(右上)60枚も素晴らしいものであり、これらは京都で制作されました。闇り通路(写真左)は本丸御殿が2つの石垣をまたぐように建てられたので、このような地下通路となっています。本丸御殿への正式な入り口で、「闇り通路」と呼ばれました。御殿への入り口が地下通路の構造は全国でもあまり例がないそうです。大広間の南側に面する縁側(写真右)は、「広縁」「落ち縁」「濡れ縁」の3段で構成されており、その幅は6mもあり、すべて檜板で濡れ縁の板厚は9cmあります。

 

 

宇土櫓・源之進櫓・不開門など 国指定重要文化財

Am_0024熊本城には13棟の国指定重要文化財が存在する。本丸の西北にある宇土櫓(写真左)は3層5階地下1階、地上高約19mの櫓で、天守閣並みの大きさを誇ります。本丸を全焼させた西南戦争の火Am_0227の手を逃れ、建設当時の姿を残す貴重な木造の櫓です。重要文化財ですが内部は公開されていて見学することが出来ます。東竹の丸には、高い石垣の上に西南戦争の火災にも焼け残った櫓が立ち並び、国指定の重要文化財になっています。南から田子櫓、七間櫓、十四Am_02182 間櫓、四間櫓、源之進櫓(写真右)、少し間をおいて東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門(あかずのもん・写真左)、平櫓と続きます。櫓はもともと「矢倉」と書いて武器庫から発展したものです。外側には「石落とし」や「狭間」があり、戦える構造になっています。重要文化財の指定を受けているものはこれらの他に、「長塀」と「監物櫓」があります。

 

二様の石垣 工法から分かる建設の時代

Am_0194本丸御殿の南に「二様の石垣」(写真右)が見られるところがあります。ここから田子櫓など重要文化財の櫓群があるあたりは休日でも静かなところでゆっくりとした散歩が楽しめます。熊本城は加藤時代と細川時代に建てられた建造物があり、その違いが石垣に見ることが出来ます。右側の石垣は加藤時代の古い石積みの方法で、隅に同じ大きさの石を積み上げる穴太積(あのうづみ)と呼ばれるものです。左側の石垣は細川時代のもAm_0042 ので、長方形の角石を左右交互に積む算木積み(さんぎづみ)と呼ばれるもので、特徴は勾配が急であることです。天守閣の石垣(写真左)にも違いが見られます。加藤清正は穴太衆と呼ばれる近江の石工集団を使って石垣を組ませました。その技法は「打ち込みハギ」と呼ばれ、石を積みやすく加工して、石の間に割り石を打ち込んで堅牢にして攻め手が石垣を登るのに手がかりを少なくして登りにくくしました。小天守の石垣を見ると急になっていて算木積みであることが分かります。1600年頃は築城ブームで、大天守完成後小天守増築までの間に算木積みが開発されたことが分かります。

 

 


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