上野城 (三重県伊賀市)

2012年03月04日 | お城めぐり

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伊賀上野城 白鳳城 伊賀文化産業城 (三重県伊賀市上野町)

伊賀は山に囲まれた小さな盆地、そのほぼ中央の丘に建てられた伊賀上野城。天正13年Iga05(1585)筒井定次が三層の天守を築いた。秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、政権の継承者としての地位を確立、定次の失政を理由に改易、藤堂高虎が伊予今治城から伊賀の城主として移り、新しく縄張りを指示、本丸を30mの高石垣で囲み筒井故城を大拡張した。竣工寸前の大天守は慶長17年Iga01(1612)の暴風雨で倒壊、そのうち豊臣方が大阪夏の陣で滅亡したので城普請は中止、未完成のまま江戸時代を過ごした。現在の天守は昭和10年(1935)、地元の名士・川崎克氏が私財を投じ、純木造Iga04の天守を再建、伊賀文化産業城を称した。再建計画時に鉄筋コンクリート様式を進言するものがあったが、桃山形式の木造建築として昭和7年に再建工事に着手した。模擬天守ながら、木造であることにこの城の価値観を感じる。現在では木造では建築許可が下りないであろう。当然内部の階段も木製であることがうれしい。写真下は秀吉より藤堂高虎が拝領、一族の藤堂良重が大阪夏の陣で着用したと伝わる「唐冠形兜、“忍者の里”らしく天守の壁に忍者が・・・、天守最上階では伊賀盆地が見渡せる。

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高石垣と武具蔵(武器庫)

何といっても注目したいのは、高さ30mもある藤堂高虎の高石垣である。長年ずっと日本一とIga1002言われてきたが実際は大坂城が日本一であるが、規模の違いもあって伊賀上野城の方が大きく感じる。天守閣を出てIga1001_2案内板に沿って進むと高石垣を上から見ることが出来る場所に出る。(写真左)手すりもないのでちょっとスリルがある。南側の面には三重県立上野高等学校の校舎が見えるがその一角に現存の「武具蔵」(写真下の赤枠)を見ることが出来る。同高等学校の敷地内にあるが、白鳳門に向かう途中に校門があるので事務室にお願いすれば旧武具蔵を見ることが出来る。右の写真は西側の堀から見た高石垣。

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旧三重県立第三中学校明治校舎) 現三重県立上野高等学校

Iga0301上野高等学校には現存武具蔵のほかに、由緒ある建築物がある。明治33年(1900)に建てられた白亜の洋風木造校舎、旧県立第三中学校である。三重県指定有形文化財の指定を受けているが現在も使われていて内部は見学できない。しかい外観は現存武器庫と同じように事務室にお願いすれば見学できる。由緒ある学校で、校訓は明治41年に制定された「自彊不足」(たゆまぬ努力を続ける)、校歌は山口誓子の作詞である。

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国史跡 旧崇廣堂 

伊勢津藩第10代藩主・藤堂高兌が津の藩校・有造館の支校として、文政4年(1821)に創建Iga1201されたのが崇廣堂である。伊賀上野城から白鳳門を出て右に、上野高等学校の前を過ぎると通りを一つ挟んで旧崇廣堂がある。正面の表門は創建当時のもの、べんがら塗で赤門と呼ばれ通用門として使用されてきた。表門の右に薬医門の形式の門があり、藩主が臨校のとき使用した「御成門」である。創建から約30年経った頃に大地震(安政の伊Iga1202賀地震)があって大きな被害があり、講堂を除くほとんどの建物は倒壊したが翌年より復興されたそうです。創建当時の建物は講堂、北控所、表門、御成門、母屋、玄関などです。中でも講堂(写真左)は7軒4面(畳72枚)、入り母屋造りで庇(ひさし)は高く、軒も短くなっているのでとても大きな講堂ですが、比較的に中は明るい感じです。藩校の生徒たちは講堂正面の3つの階段から出入りしていました。有恒寮は当時講堂への出入りは16歳以上とされていたので、9歳から15歳までの子弟の学寮として使用されていた。母屋や講堂の正面にあたるこの位置にあるのは?と思ったが、明治になってこの場所に移築されたそうです。

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     表門(赤門)             御成門              有恒寮

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     講堂正面              講堂内部              中庭

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旧小田小学校本館

明治14年(1881)に建てられた旧小田小学校本館は現存する小学校校舎としては県下最古Iga1101の建物です。木造洋風二階建、寄棟造、桟瓦葺、ポーチは切妻造、壁は漆喰仕上げ、延べ274㎡。正面ポーチにはエンタシス風の柱を用いて階上階下ともに吹き放ちになっている。設立当初の学校名は「啓迪(けいてき)學校」、正面玄関の上部には啓迪学校と書かれた額がある。啓迪とは教え導くこと、類似語は教導、過去に漢検1級の試験に出たというから難しいが、全国には同じ名前の学校がいくつIga1105かある。大きな屋根の上のあるのは太鼓楼。内部1階には当時の教室を再現してあり、2階には創建当初の明治時代から使われていた教科書や卒業証書(写真右)など貴重な資料が多く展示されている。2階バルコニー内側には数枚残っていたギヤマンの色ガラスを元にして復元された窓(写真右端)がある。旧崇廣堂から歩いて10分足らずの場所にあるが、案内も少なく大変分かりにくいので「ひかり保育園」の隣にあるので、この保育園はよく知られているのでこれを目標訪ねるのがコツ。

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武家屋敷 入交家住宅

Iga02江戸時代の武家屋敷はその多くが藩が所有した住宅を藩士に貸し与えた現在の社宅のようなもの。藩士の身分や俸禄に見合った住宅に住んでいた。入交(いりまじり)家住宅は寛政(1789年~1800年)の頃、入交勘平が屋敷替えによって拝領した屋敷です。その敷Iga03地に主屋・長屋門・表屋・土蔵・味噌部屋(現存せず)・米蔵(現存せず)などの建物があり、主屋の南側と東側には庭園や畑があった。展示室には城下町の絵図や入交家に伝わる甲冑などが住宅の説明とともに展示してある。この通りには昔ながらの商人の住宅も残っており、少し進むと寺町の通りに出る。寺町で一番北にある「上行寺」(じょうぎょうじ)は藤堂家の菩提寺で歴代の墓碑がある。

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伊賀上野の散策は、伊賀鉄道「上野市」がスタート地点なら、まず入交家住宅、寺町・上行寺と訪ね、上野公園に向かい、上野城、高石垣(上から見る)を回って、上野高等学校にある旧武器庫や明治校舎を見物して、藩校・旧崇廣堂、旧小田小学校本館、そして高石垣を下から見て上野市駅に戻るコースがよいと思う。省略をしたら途中に俳聖殿、伊賀流忍者博物館、芭蕉翁記念館を加えて回ればほぼ一日コース、帰りは歩いて伊賀上野に出るなら開花寺によって日本一低い三重塔を見るのも一興かと思う。

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       寺町               上行寺            忍者博物館

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       俳聖殿            芭蕉翁記念館           開花寺


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