史跡 弘前城 現存天守 青森県弘前市
追手門
今回は弘前城を訪ねた。2度目の訪問だが前回は業界の旅行での訪問だったので、初めての訪問みたいなもの。羽田からJALで青森空港に着いたのが正午前、さっそくトヨタレンタカーで車を借りて弘前に向かった。今回は弘前城、久保田城、横手城を2泊で訪ねる予定だ。弘前の桜は例年5月GWがシーズン、混むので5月第3週を選んだが、今年は関東は例年より早く、東北は例年より遅かったので、桜も見ることが出来た。弘前には空襲や火災がなかったので、弘前公園には天守(御三階櫓)、3つの隅櫓(丑寅櫓、辰巳櫓、未申櫓)と5つの城門(北門、南内門、東内門、追手門、東門)が現存で残っている、すべてが国の重要文化財だ。公園南にある追手門(重文・写真)から入場することにした。三の丸枡形にある櫓門で、慶長16年(1611)に建造、一層目の屋根が高く配しているのが雪国の特徴だろう。枡形の南面の土手にはシダレ桜が綺麗に咲いていた。追手門から杉の大橋に向かう左手にある市民広場に咲いていた枝垂れ桜(写真下)は見事だった。
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南内門 辰巳櫓 羊申櫓
南部氏に仕えていた大浦為信が小田原征伐での功が認められて文禄3年(1594)に4万5千石の所領となり津軽と改姓。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、家康より2千石の加増となり弘前藩となった。津軽藩と呼ばれることが多いが津軽藩は通称である。さっそく鷹岡(現在の弘前城の位置)に築城をここ見たが亡くなり、築城は中断された。慶長14年(1609)2代目藩主津軽信牧は築城を再開した。堀越城や大浦城からの転用した材料を使い、1年1ヶ月の短期間で慶長16年に鷹岡城を完成した。現在残っている遺構のほとんどがこの期間に造られている。南内門(写 真右)は二の丸南側の枡形にある櫓門。1層目は重厚な造りになっており、2層目には物見や鉄砲狭間があり二の丸への侵入を拒んでいる。辰巳櫓(写真左)は二の丸東南(辰巳)に位置している隅櫓、3層3階で1層目と2層目は四軒四方の同寸法で3層目は一回り小さくなっている。入母屋造り、銅版葺き、中堀側には鉄砲狭間が設けられている。羊申櫓(写真右)は二の丸南西(羊申)に位置している隅櫓、辰巳櫓とほぼ同じような構造、物見と攻めてくる敵を攻撃する役目で、美観より実用的な目的で建造されたとみる。
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弘前城天守 御三階櫓 弘前城資料館
2代藩主津軽信枚が築城のときに、本丸南西隅に5層5階の天守を建てた。これは福島の若松城に匹敵するものだったが、寛永4年(1627)落雷の出火にて焼失。その後200年近く再建されることは無かった。文化7年(1810)9代藩主津軽寧親が幕府に三層櫓の新築を願い出て、現在の御三階櫓(天守)が建造された。高さは14mほどで規模は小さい、入母屋屋根に二の丸に面する側には切妻破風出窓を設けて格式もあるが、本丸側(写真下段左)には装飾的な要素はなく窓が単調に並んでいるだけの形状である。幕府に遠慮して華美に出来なかったのではと想像できる。東日本では唯一の現存天守閣として、同じく現存する3つの隅櫓と5つの城門とともに国の重要文化財と指定されている。
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北門(亀甲門) 丑寅櫓 東門 東内門 与力番所
与力番所以外すべては慶長15~16年に建造され、現存しているもので国の重要文化財に指定されている。北門(亀甲門)・写真右は2代藩主信牧が大光寺城(青森県平川市大光寺)の城門を慶長16年(1611)に弘前城追手門として移築したもので、戦いが一度も無かった弘前城で唯一実戦の刀傷などが残っている。他の門と比べて規模が大きく、2層目に狭間がない。丑寅櫓は二の丸北東(丑寅)にある隅櫓、窓の出格子も塗装はなく他の櫓同様に素朴なものである。東門は三の丸東に位置、東内門は二の丸東に位置している櫓門で全く同じような構造をしている。弘前城の与力番所(写真左)は12の主要な場所に設けられていた。現在の番所は他の場所に移築されていたが、昭和54年に再度現在の場所に移築復元された。
丑寅櫓 東内門 東門
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