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西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

コップ5杯の夕食よりも

2012年11月04日 12時26分00秒 | エッセイ
 私はこれまで、あんな夕食を体験したことがない。後にも先にも、あの日食した病院食、そのたった一度だけのことである。

「はい、おまちどおさま! 夕食ですよ!」

 入院していた私の病室に、看護師さんが笑顔で運んできてくれたトレーには、5つのコップが載っていた。食堂や喫茶店などでよく見るのと同じタイプのコップで、形は5つとも同じだったが、中身の色がそれぞれ微妙に色違いではあった。白濁色の少し透明度が違うものが2つと、あとは黄色っぽいのと茶色っぽいのとオレンジ色のと、それで5つ。勿論、全部液体。他には何も載っていなかった。

 もう十六年も前のことになる。仕事で単身、香川県の高松に住み始めて、二ヶ月ほど経った頃。急性の扁桃腺炎で熱が下がらず、医者に「二、三日泊まっていきなさい」と言われ、しばらく入院することになった。慣れない土地でのハードワークに、体が悲鳴をあげてしまったらしかった。そして入院して初めて出された食事というのが、そのコップ5つだけの夕食であった。
 それまで既に何度か入院経験のあった私だが、さすがにこれには驚いた。喉が腫れて酷く痛むので、刺激物や固い物を避けたメニューになることを想像してはいたものの、せいぜいお粥や玉子、豆腐なんかが並ぶのだろうと思っていたら、出てきたのは何と5色色違いの水、水、水、水、水。食欲も一気に失せた。

 単身生活をしていた中での急な入院だったため、身の回りの世話をしてくれる人もいないといった状況。それに入院した病院は、大きな病院ではなかったので院内に売店もなく、パジャマや下着といった着替えや洗面具の調達など、買い物もままならず、勤めていた会社の同僚には随分と世話を掛けた。

 そんな世話の掛けついでに、ひとつだけ頼みごとをした。ファーストフード店のハンバーガーを買ってきてほしいと、お願いしたのである。まさかコップ5杯の食事ばかりが何日も続いた訳ではなかったが、それでも毎日の病院食はあまり口に合わず、どうしても他の物が食べてみたくなったのだ。しかし、同僚である事務員の女性は、私の希望を聞くなり、やや怪訝な顔をして言った。

「ハンバーガーですか? そんなの美味しくないでしょ」

 無論、私としてもハンバーガーがジャンクフードであることは十分認識もしていたし、正直なところ、それほど大好物と言えるほどの食べ物でもないのは確かだったが、食事制限がないとはいえ、自由に食べる物を選ぶことができないという状況下にある入院患者としては、その時理屈抜きに食べたくなった物が、有名ファーストフード店のハンバーガーだったのである。それなのに「美味しくない」のひと言で片付けられてしまったのには、ちょっぴり切ない気分にさせられた。

 頼みごとをした翌日、同僚の女性は病室にやってきて、ひと通りの業務連絡をした後、忘れていたことを思い出したかのように、自分の持ってきた手提げバッグの中から、ファーストフード店の小さな紙袋を取り出した。紙袋には、ハンバーガーが1個だけ、入っていた。たった1個? 私には少々不満な数ではあったが、それより入院初日に、腹いっぱい胸いっぱいになりながら無理やり流しこんだ、あのコップ5杯の水の不味さを思えば、数が少ないぐらいの不満は、すぐに消えた。何よりも食べたくて食べたくて仕方がなかった、念願のハンバーガーに有り付けたことで、幸せな気持ちでいっぱいになった。

 ジャンクフードと呼ばれ、高価なご馳走でも何でもない、手軽なファーストフードのハンバーガー。しかしながら、私はあの日泣きそうになるぐらい美味しかったハンバーガーの味を、今でも忘れることができない。





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