西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

8月6日という日

2008年08月06日 13時48分00秒 | 短歌
 63年前の今日、父は広島の宇品港にいた。

 兵隊だった父は、朝、当番で辺りを巡回していたという。

 空襲警報が止んだ後、しばらくして1機のB-29が飛んできた。それが、エノラ・ゲイだった。

 やがてそのB-29が、何かを投下した。投下物は、すぐにパラシュートを開き、フワリフワリと、空に浮かんでいたのだそうだ。

 父は、それを眺めていた……。

 次の瞬間、辺り一面、オレンジ色の光に包まれた。

「熱っ!」

 全身に酷い熱さを感じた父は、その場で爆風に倒れた。咄嗟に耳と目を手で塞ぐ「伏せ」のポーズで、爆風が治まるのを待ったのだという。

 翌日、父は3km程離れた爆心地に入り、救援活動に従事。

「兵隊さん、この仇は絶対にとって下さい!」

 大怪我を負いながら、父にそう懇願する被害者もいたようだ。


 戦後当初……、父は自分が被曝者であることを認めようとはしなかった。あの惨状を目の当たりにした父にしてみれば、「本当の被曝者はこんなもんじゃない」といった思いであったのではないかと想像される。

 とは言え父は、やはりそれが原因ではないかと思われる症状に度々悩まされていたことも、実際あったらしい。
 しかし自分の将来を考え、また生まれてきた私たち息子の将来を憂慮し、その事実をなるべく認めようとはしなかったとも聞いている。

 そして、私が病弱だった原因が、原爆の影響ではないかと、その都度深く心配をしてくれていたそうである。

 その後何年も経って、父が母からの再三の勧めによって、被爆者手帳を受ける気持ちに前向きになったこともあったのだが、時既に遅し。複数の証言者が必要という条件を満たすことが困難と分かり、結局父は、生涯正式に被曝者と呼ばれることはなかった。


 毎年8月6日になると、そんな父のことを、そして僅かだが父が話してくれたことを、思い出している私である。



 ヒバクシャと呼ばれぬままに亡き父の語りし宇品の熱さを想ふ