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語り得ぬ世界

現実逃避の発展場 Second Impact
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都に咲く向日葵(六十二)

2008-06-01 10:10:00 | 都に咲く向日葵

黒川銀八の方針もあって、正子と違い比較的自由に屋敷内を歩けるいろはではあったが、銀八や左源太がやってきたときに使う上忍の居室に立ち入ることはできなかった。しかし、今回は見張りの者には左源太に呼ばれたと嘘を言い、障子の前から声をかけた。
「ごめんくださいませ。いろはでございまする」
いろはの来室を予想していたかのように、驚くことも訝ることもなくすぐさま左源太の応答があった。
「入られよ」
「失礼つかまつりまする」
いろはがそっと障子を開けると、上座に座る左源太がにこにこしながら優雅に手招きしていた。色男気取りが…と内心毒づきながらも、いろはは堪えて頭を下げた。とにかく脱出の機会を窺っていると思われないようにしないといけない。正子の小さな願いの芽も摘んでしまう。
「望月殿にお願いしたい儀がございまする」
「これはこれは…いろは殿があらたまられて何事でござるか?」
知って聞きおって…と再びいろはは内心で毒づいた。
対する左源太はどこまでも涼しい顔である。
「本日姫様の外出をお許しいただきましたこと、まことに恐悦至極に存知上げまする。なお、姫様におかれましては今少しお望みがございますれば、何卒お聞き入れいただきたく…」
いろはにとって慇懃無礼に過ぎるほどの態度は、人質としての立場をわきまえざるを得ないとはいえ相当の皮肉を込めたものであったが、左源太はまったく動じる様子はなかった。
「そのことでござったか。姫様におかれましては、一所に囲われていては息も詰まりましょう。本日は気候も暖かでありますので特別にお許しいたした」
囲っておるのはその方らではないか…といろははまた内心で毒づいた。
「それで、今少しのお望みとは?」
「この御屋敷、所在はわかりませぬが、時折潮の音が聞こえまする。となれば、海に近いところかと…。姫様は都暮らしゆえ、海をご覧になられたことがございませぬ。姫様は海が見たいとご所望あそばされておりまする」
「ふむ…」
左源太は考え込むような仕草を見せる。
もったいつけよってからに…といろはは何度目かの毒を吐いた。
「わかり申した」
「まことでございまするか」
「いかにも。姫様を屋敷近くの浜にお連れ申そう」
「かたじけのうございまする」
いろは、努めて不承不承という態を見せないよう頭を下げた。つまらないことで左源太に気が変わられても困る。正子姫の悲しむ顔は見たくない。それに自分も海を見たかった。囚われの身の日常に少しでも風を通したかった。
「ではわたくしも用意を…」
「いろは殿も行きたいのでござるか?」
「え?」
「姫様はここのところ塞ぎがちなご様子でござるが、それにひきかえ、いろは殿は元気がおありなだけに外へお連れすると危険でござるからなぁ…。よもや脱出の機会を窺っているとは思わぬが…」
「なにっ!」
思わず鋭く言い返してしまった。
「ははは、冗談冗談。いろは殿も海が見たいのでござるな」
「…」
いろはは自分の顔が耳朶まで真っ赤になっているのがわかった。海が見たいということも含めて左源太はすべてお見通しであり、いろははいいようにあしらわれたのだ。悔しくて恥ずかしかった。
「気分を害されましたか?」
それすら予想していたとばかりに左源太は落ち着き払っている。
「…」
いろはは一言も言い返せないことが情けなかったが、言い返す言葉が見つからず、ただ睨み返すしかできなかった。
「失敬失敬、いろは殿もお連れいたす」
「…」
「困ったなぁ。怒らせてしもうたか…これもお二人を見張るという拙者の役目ゆえご勘弁願いたい」
左源太は人懐っこい笑顔を困ったようにしかめ、頭を掻いたが、その仕草が兄を思い出させて、いろはは目を逸らした。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十四弾。
クリスティン・マクヴィー“ Friend ”。正子姫に海を見せるため、あわよくば脱出を図るため、不本意ながら左源太に頭を下げるいろは。しかし内心まで見抜いている左源太の方が一枚上であった。
元フリートウッド・マックのクリスティンのソロ・アルバムとしては3作目、前作から実に20年ぶりに当たる“ In The Meantime ”(2004)から。2003年マックは黄金期のメンバーで再結成しツアーも持たれたが、そこに彼女はゲストのみの参加であり合流はしなかった。でも、やさしく深いメロディの彼女のソロ作品がメンバーのソロ作の中でもっともマックらしいと言われる。マックの屋台骨を支えていたのは実はこの人。

「Friend.mp3」をダウンロード

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都に咲く向日葵(六十一)

2008-05-25 17:21:12 | 都に咲く向日葵

「いろは殿、朗報じゃ」
正子がいる座敷にいろはが入るやいなや、彼女が嬉々として大声をあげた。
「いかがなされました?」
退屈じゃ、が口癖になっていた正子だけに、いろははよほどの良い報せなのだろうと思い、そして期待した。
「驚くでないぞ。今日は外へ出てもいいそうじゃ」
「まことでございますか?」
さすがにこれにはいろはも驚いた。庭先に出るのも許されなかったのに外出を許されるとは。
「うん。さきほど望月殿が顔を見せ、そのように言うていった」
正子が満面の笑みを浮かべた。これほどまで正子が喜ぶことはこれまでなかったと言っていい。いろはにとってもそれは単純に嬉しいし、久々に外に出られるのもありがたいが、外出の許しで喜ばなければいけないということは、あらためて囚われの身であることを思い知ることでもある。
「どうした?いろは殿は嬉しゅうないのか?」
鬱陶しい表情をしていたのであろう。いろはは正子に鋭く指摘された。
「あ、いえ…いろはももちろん嬉しゅうございます」
「だろう?うふふふ。どこへ行こうかのぉ」
「どこへでも行けるというものでもございますまい」
「なぜじゃ。望月殿は『本日は外へ出てもかまいません』と言うた」
「それは…われわれは幽閉中の人質の身でありますゆえ、自由があるわけではございませぬ」
「人質…」
正子の表情が急に曇った。いろはの一言で現実に引き戻されたのだ。いろはは正子のそんな態度に慌てた。
「あ、いえ、姫様…。どこへでも行けるというわけではございませぬが、いろはが望月殿に掛け合って、姫様の行きたいところへ行けるよう取り計らってまいります」
「まことか?なら、正子は海へ行きたい。時折ここにも潮騒が聞こえてこよう?海が見たいのじゃ」
「承知いたしました」
海が見たいという正子の希望は予想できたことであった。風向きの加減で潮騒が聞こえるとき、正子が寂しげに耳を傾けているのをいろはは何度も見たことがある。
いろは自身も海を見たかった。夜半、遠くに聞こえる潮騒に心がさんざめいていた。変化のない日常に唯一届く外からの気配が潮騒である。その先に広がる海に思いを馳せたことは一度や二度ではない。くの一になったとはいうもののずっと実戦から遠ざけられていて、伊賀と京を往復するぐらいであったし、海や湖としては近江の瀬田から琵琶湖を見たぐらいである。それはそれで琵琶湖の大きさにいろはは感動したが、海がどのようなものか想像がつかない。各地を転戦して海を見て、渡ったこともある父や兄の話ではあれより広いというが…。
「いろは殿は海を見たことがあるのか?」
「いえ…ございませぬ」
「そうか、ならばそなたも見たいであろう」
「はい」
「海とはどんなであろうな…」
「想像もできないほど青くて広いと兄上が申しておりました」
「珍之助殿が…」
言ってからいろはは、しまったと思った。思わぬ外出許可と海への期待感に、いろはは動揺していた。
ここしばらく、二人の間では兄の話題を何となく避けていた。兄の存在は二人にとっていわば希望の象徴でもあったが、人質という境遇が日常化してきたことでその希望も薄らぎ、兄の話題はひどく非現実感があった。口に出せば出すほど虚しく聞こえる。兄にはもちろん助けに来てほしいが、いくら兄でももう無理ではないかと思えてきた。
『どんなときでも希望は失うな』と兄によく言われてきたいろはは、囚われの身になっても体がなまらないように、梁や壁を使ってできる伊賀流の鍛錬を夜半密かに欠かさなかった。肉体の練成を欠かさない一方で、精神は知らず知らず日常に蝕まれていた。正子がどう思っているのかわからないが、少なくともいろはは自分がそう考え始めているような気がしていた。正子も口に出さなくなったということは同じかも知れない。それは『絶望』という名の現実が首をもたげようとしていることを意味していた。そんな中で口にする兄の名前は、非現実的な希望よりも現実的な絶望を思い知らされる鍵になる。しかも激しい恋慕の情という矛盾に引き裂かれながら。

「珍之助殿が見た海を正子も見たいのぉ…」
正子が少し翳りを含んで呟いた。近頃は天真爛漫な正子の表情が曇ることが多くなった。いろははそんな正子を見るのが辛い。そんな弱気を振り払うように元気よく宣言した。
「そうでございますね。では、海を見に行けるようさっそく望月殿のところへ行って参りまする」
いろはにとっては、いけ好かない望月左源太との交渉には溜息が出るが、ここは正子が喜ぶ姿と海を見たい気持ちが勝った。それに外に出れば相手の隙を突く機会も増えよう。屋敷の中でも機会は窺ってはいるが、どうしようもなかった。だが、外に出れば警戒に当たる下忍の数も限られる。脱出の好機が到来するかもしれない…。しかし、逃亡する意志を感じ取られてはいけない。まずは海に行きたいという正子の希望を左源太に伝えるにあたって特に慎重にしないといけない。
―果たして脱出できるだろうか…。
万一機会が訪れても、正子を連れて逃げることができるかどうか。運良く脱出できたとしても、金も食糧もない着の身着のままで京まで無事にたどり着けることができるのかどうか…。いろはには全く見通しが立たなかった。それだけにいざ機会が訪れた場合、咄嗟に決断できるかどうか自信がないが、そのときは何かを信じてやるしかない。
『どんなときでも希望は失うな』
いろはは日常に萎える気持ちを抱え、迷いながらも自分を奮い立たせるしかなかった。
「では失礼いたしまする」
「うん、頼んだぞ」
正子の声はどことなく無理して軽やかに言っているように聞こえ、いろはは少し胸が痛んだ。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十三弾。
ディクシー・チックス“ Cowboy Take Me Away ”。囚われの身である正子姫といろはに突然許された外出。二人は一時の希望を求め、海をめざす。
2枚目のアルバム“ Fly ”(1999)収録。男のロマンに対する女のアンサーソングと言われている曲。切ないメロディが心を打つ。

「Cowboy_Take_Me_Away.mp3」をダウンロード

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都に咲く向日葵(六十)

2008-05-24 09:39:10 | 都に咲く向日葵

珍之助は朝餉をかき込むようにして平らげた後、権六に梓のところへ行くと言い残し、加茂屋を飛び出していった。
梓もそんな珍之助の行動を予想していたのか、珍之助がいつもの合図を施して庵治寺に入ると、間を置かずに巫女姿で現れた。珍之助の正面に座る。
「待っておったぞ、珍之助」
「うむ。おぬしに訊きたいことがあって来た」
珍之助は、大樹寺の過去帳が寺創建以前のものであること、松平氏の出自が陰陽師の賀茂氏であること、絹の霊が示唆した過去帳に隠された蟲毒の秘密、寄進帳にある源姓の代々宗主、そして源姓改竄を求めていた密書、百足毒などについて推測も挟みながらわかったことを詳細に話した。松平氏の出自が陰陽師賀茂氏であると聞かされたとき、普段冷静な梓にしては珍しく驚いたように眉が動いた。
「どうだ?」
「とんでもない話だな」
「信じろというほうが無理かもしれぬが」
「わたしは信じるぞ」
梓は間髪入れずに答えた。
「そうでないと困る」
言葉ではそう言いながら珍之助は確信に満ちたような梓に安堵した。
「蟲毒の秘密に気づかなければ全体像がわからなかったであろう。それでも推測でしかないが…」
「絹のお蔭だな」
「ああ」
あのとき絹の霊が気づきを与えてくれなければ断片的にしかつながらなかったであろう。今一度珍之助は心の中で絹に感謝した。

「陰陽師の賀茂氏について教えてくれ」
珍之助の要請に梓は頷き、静かに語り始めた。
「賀茂氏の始祖は神代に遡る。八咫烏(やたがらす)に化身し、神武東征の際、神武天皇を熊野から大和へと導いた賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と伝わる。いわば神の末裔だ。藤原摂関家全盛の御世になってから、陰陽術に優れた宗家の賀茂忠行が天文道・暦道・陰陽道の三部門を統括し、陰陽博士として朝廷に叙任されたのが賀茂氏の陰陽師としての始まりとされる。その後、密教、修験道などを融合させることで独自の陰陽道を確立させたのが賀茂氏だ」
「大層な家柄ではないか」
「役行者も賀茂一族だ。安倍清明は賀茂忠行に見出された弟子である」
「まさに大陰陽師ではないか。それがなぜ没落した?」
「諸説ある。まずは安倍氏の台頭だ。天文博士など陰陽師の主要な地位を占める安倍氏からは力のある陰陽師が多く輩出されるようになった。帝の前で覆物の中身を百発百中で当てたほどの賀茂忠行ではあったが、子孫は血が薄れていったのかも知れぬな。力のない陰陽師ほど無意味なものはない。安倍氏が重用されるのは必然だ」
「しかし、八咫烏に賀茂忠行…それほどの賀茂氏ならそれなりの力量を持った者も出てきたであろうに」
「忠行の嫡子、保憲も優れた陰陽師であった。しかし、その後学問としての陰陽道を究めてからの賀茂氏は朝廷内の保身に走った」
「そういうことか」
「しかし、陰陽師としての本来の超越した力を失ってしまっては帝の信も失う。やがて朝廷の中でも地位は下がっていった。ここから先はあくまで噂話であるが…」
「なんだ?」
「逆恨みした賀茂氏は時の帝をはじめ、関白、太政大臣ら朝廷の官吏を呪詛したとされる。どうも歴代帝に呪詛をかけていた節がある」
「なにっ!?」
「証拠はない。順徳帝の皇子でもあった仲恭帝は祖父帝・父帝が起こした承久の乱のあおりを受け、時の幕府執権に在位短く廃位させられ、失意のうちに御歳十七で崩御あそばされた。その死は原因不明の病により毒が全身に回ったとされる」
「毒?」
「うむ。他にも謎の死を遂げた帝や公卿はおわす。朝廷での地位が下がり、名誉も収入も失った賀茂氏は陰陽道では禁忌とされる鬼道に手を出し、裏で呪殺を請け負っていたとの説もある。帝に疎んじられた賀茂氏が闇夜の世界に生きることになったのはむしろ自然な流れだ。賀茂が畏れ多くも主上を呪詛している…そんな噂話が常に朝廷周辺でまことしやかに流れていたという。しかし証拠はない。呪いなだけに何ら確たる手がかりが残るはずもない。そこに目をつけた公卿が現れた。出世競争が仕事の公卿なら競合相手を呪い殺すぐらいの輩もいるだろう。賀茂氏にとっても金になるうえ、公卿の弱みも握れる。おそらく賀茂氏は財力を蓄えつつ、虎視眈々と復権を狙っていたのであろう」
「呪詛の方法は毒なのか?」
「賀茂氏は鬼道の中でも蟲毒を操るのが得意だったとされる」
「蟲毒…」
「そなたの話とつながってきたな」
「…」
珍之助は腕組みをして唸る。さらに梓は続けた。
「安倍氏の話に戻るが、朝廷内で陰陽師としての地位を確立する安倍氏はその後南北朝の争乱期には土御門氏を名乗り、帝の側に仕え続ける。土御門氏は京に留まり北朝の帝に仕えた。賀茂氏には南朝方からの誘いがあったらしいが、断り京に留まっている。帝を呪う賀茂氏にとっては北朝も南朝も同じことだったのだろうな。あるいは北朝勝利の帰結を察知していたのかもしれぬ」
「賀茂氏の目的が復権なのか復讐なのかわからぬな…」
「どちらもだろう。ただし、単純な陰陽師としての復権ではないような気がする。もっと大掛かりな…」
「まさか朝廷そのものを…」
珍之助は溜息をついた。
「しかし、賀茂氏にとってはそれにはまだ力が足りなかったのであろう。そんな野望…すべて推測ではあるが…野望の前に立ち塞がったのが安倍氏の流れを汲む土御門氏だ。帝への呪詛の察知していたと考えるのが自然だろう。呪詛には呪詛返しで対抗し、帝を護ろうとしたと言われている」
梓は一息つくように少し身じろぎし、言葉を続けた。
「土御門氏の陰陽師は呪詛の源を探り当て、それが賀茂氏であることを暴露する。賀茂氏は土御門氏との陰陽術対決に敗北したのだ。賀茂氏は術具や陰陽道の書物などを没収されたうえ朝廷、都から放逐され、陰陽師としてのすべてを失うことになる。鬼道も土御門氏によって封印されたという。当然呪殺を依頼するような公卿も寄りつかなくなった。残された道は…」
「町の占い師か…」
「ふむ…まあ、そういったところだ…」
「どうした?」
珍之助が訝しげに訊く。
「いや、なんでもない」
珍之助は真面目に答えたつもりであろうが、陰陽師と対比させるその表現がおかしかったので、梓は思わず吹き出しそうになったのであった。
―生真面目なところは十年前と変わっておらぬな。
梓はそんな珍之助が嬉しかった。

「その後も賀茂氏は呪術師として細々と生計を立てていたのであろうが、賀茂信光は違った。密かに陰陽道を究め、そして武芸にも秀でていた。術師としての力量は不明だが、それなりの能力を備えていたのではないか。土御門氏の封印を解いたのも信光だと思われる。過去帳に『陰陽師』と記されていたのがその表れだ」
「武家となった経緯にも陰陽術が絡んでいるのかもしれんな」
「十分考えられる。幕府政所執事伊勢貞親に仕えたとされるが、術をやって見せたのかも知れぬ。政所執事なら賀茂信光の出自も知っていたであろう。朝廷と違ってさほど気にもならなかったのではないか。それでも帝を呪った一族を私設陰陽師として抱えるわけにもいかず、武芸も使えたから武家として召し抱えたのであろう」
「だが、賀茂信光には一族再興の強い志があった」
梓が言葉を継いだ。「しかも恨みをもって」
「そう考えて間違いないな。伊勢貞親の家臣を足がかりに、将軍足利義政公の命で三河国額田郡の国人一揆を平定した功績で西三河に地歩を築くことになったとされている。信光は時代が武家の世となったことで、公卿としての陰陽師ではなく、武家として賀茂氏再興を図る決心をしたのであろう」
「しかも信光には賀茂忠行の血を引くだけあって、陰陽師として術を操る能力も備えていた…」
「武力と術力を併せ持てば一族再興はおろか守護大名にもなりうる。いやそれどころか…」
「武家の棟梁たる…そこでおそらく…」
「賀茂氏に伝わる鬼道で蟲毒を作ろうとした…ということか」
「賀茂氏は封印されていた鬼道を密かに子々孫々に伝えていたのであろう。賀茂氏の蟲毒はあらゆる毒素や怨念を飲み込んだ百足から抽出したものだと言われている」
「百足…それでは…」
「そうだ。密書にある百足毒とはやはり賀茂氏の蟲毒なのだ」
「かつて信光が仕えていた伊勢貞親は管領の毒殺を謀ったとされている…。過去帳にもそのくだりがあった」
「信光が関与していることは間違いない。それでも信光に咎めがなかったのは蟲毒で脅しでもかけたのであろう」
梓がそう言うと同時に、すきま風が堂内を抜けていった。
締め切った堂内でも洩れ射す日光で日が高くなっているがわかる。だが堂内は冷えてきている。雪でも舞っているのだろうかと珍之助は思った。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十二弾。
ウィッシュボーン・アッシュ“ Ballad Of The Beacon ”。梓の口から紡がれる陰陽師賀茂氏の栄華と没落、そして暗闇。輪郭がより明確に浮かび上がってきた。
4枚目となる“ Wishbone Four ”(1973)から、現在でもライブで演奏される名曲。牧歌的な雰囲気の中にもツイン・リードギターとベースが絡みあう旋律が美しい。メンバーのマーティン・ターナー自身によるリマスター・バージョンから。4枚組アンソロジー“ Distillation ”(1997)収録。

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都に咲く向日葵(五十九)

2008-05-18 09:13:19 | 都に咲く向日葵

その書状は熱田社の宮司に宛てたものであった。花押で封印されていた形跡があることから密書であることは間違いなかったが、その内容は珍之助を仰天させるに十分なものだった。

『父祖の代より御社に寄進を行ってきた松平家宗主として物申す。清和源氏の流れを汲む松平家代々宗主の御名は源姓をもって寄進帳に記されるべし。努々違うことなかれ。不審なきよう本多平八を遣わせる由開帳致し候らえ。万一源姓と違わば後刻御社に天罰下り候百足毒の如し 永禄四年三月朔日 源朝臣元康 花押』

書状を置いた珍之助は一度目頭を揉み、もう一度書状を読んだ。さらに二度ほど読み返し、その内容が意味することをゆっくり咀嚼するように考えた。

清和源氏の流れを汲む松平家宗主は熱田社に代々寄進を行ってきたが、当然寄進帳には源姓が記されているはずである。よもや源姓でないということはないであろう。本多平八郎忠勝を使者として送るので寄進帳を開帳するように。万一源姓でなかった場合は、熱田社に天罰が下るであろう。それは百足の毒のようなものである。といったことが書かれてあった。署名は源朝臣元康、つまり松平元康、即ち徳川家康である。日付は永禄四(1561)年三月、桶狭間で織田信長が今川義元を討ち取った翌年であり、家康が信長とのいわゆる清洲同盟を結ぶ前年である。

珍之助はこれにより先の寄進帳が改竄されたものであることを確信した。松平元康の代になって源姓を名乗り出したことを隠蔽し、源氏の嫡流であることは父祖の代より公然たる事実であるということを証拠として残しおこうとしたのであろう。改竄の確認役として本多忠勝という徳川家譜代の家臣の中でも最も勇猛果敢にして知略に富んだ忠臣を送り込むとしており、秘匿されてきた寄進帳を見せろと恫喝しているわけである。しかも、書状の末尾には万一源姓でなければ熱田社に天罰が下るとある。さすがに武力をもって恫喝できないからであろうが、神宮に天罰が下るとは完全に見下している。神をも恐れぬ罰が下されるということか。天罰とは百足の毒のような猛毒であるらしい。

端的に要求を書かれたものであるが、あからさまに恫喝している。それだけに熱田社側に是非を考える余地はない。家康の強い意志が見てとれる。
また、密書の日付からすると、信長の台頭をいち早く察知していたと思われる家康は信長との同盟を画策しつつも、織田信長の手前、松平氏が源氏の嫡流であることを急ぎ既成事実化しようとしていたのではないかと思われた。桶狭間の合戦があった永禄三年の時点では松平元康は今川義元の配下であり、今川軍の尾張攻めの前線拠点、尾張大高城を守備する一武将である。桶狭間の戦後のどさくさで今川軍撤退後の三河岡崎城に入城していたとはいえ、この頃は信長も松平元康という武将をさして気にも留めていなかったと思われる。しかし、父祖の旧領で急激に地歩を固め、三河一国支配をめざす松平元康は、駿河、三河を脅かす武田信玄に対抗するためにはどうしても織田信長と同盟を結ぶ必要があった。同盟を結んでから信長の国元である尾張熱田でこのような動きを取って万一信長に知られるところになれば、不信を招くことは避けられない。まして織田氏は平氏の流れを汲む一族である。

中でも珍之助は『天罰下り候百足毒の如し』が気になった。熱田社への恫喝としては、永禄年間から数々の武勲をあげ若くして猛将として天下に聞こえる本多忠勝を使者に送るというだけでも十分効果があるであろうが、“百足毒”という一見場違いとも取れる恫喝までもが書かれている。熱田社は“百足毒”の意味を知っていたのかもしれないと珍之助は思った。それは本多忠勝がやって来るよりももっと恐ろしいことなのである。
―蟲毒につながった。
“百足毒”とは蟲毒を操る呪詛であることは間違いないであろう。珍之助は陰陽術におよる呪詛を熱田社に差し向けることの暗喩であろうと考えた。

熱田社は大樹寺以前の過去帳を含め、松平氏の出自や一族の秘密を知っていた可能性が高い。この三書を持っていた熱田社の権宮司の存在がそうである。権宮司が独断でこれらの証拠を集めていたのかどうか今のところわからない。もしかしたら熱田社が家康に対抗すべくこうした証拠を集めようとしていたのかもしれない。この密書にしてもよくぞ残っていたと思う。本多忠勝が寄進帳を検めに来たとき織田信長への口止めとともに、密書の返却を迫ったであろう。だとすれば、巧妙に書き写したものを返したということか。宮司の次位に連なる権宮司とはいえ、一人でそこまでできるものなのかどうか。しかし、それも今のところわからない。仮に熱田社が松平家の出自や蟲毒の秘密を知っていたとしても、寄進帳の改竄という事実からして家康に屈服したのは間違いない。蟲毒を操る陰陽術になす術がなかったということであろう。この三書の使いようによっては家康の首を取ることにつながる。ただし、それには権力と武力が必要だ。熱田社の権宮司ではそこのところが無理なのは仕方ない。

珍之助は三書を元の文箱に戻した。
三書によっていろいろなことが判明したが、解けない謎も残っている。
―梓に訊かねばならぬことがたくさんあるな。
明朝、梓の元へ行くことにしてこの日は床に就いた。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十一弾。
ドゥービー・ブラザース“ Long Train Runnin' ”。熱田三書の全貌が明らかになった。珍之助が挑むことになるのは想像を絶する相手。勝機があるのか?!
70年代アメリカン・ロック不朽の名作“ The Captain And Me ”(1973)から。ライブでは必ず終盤に配され盛り上がる初期ドゥービーズ定番の名曲。ちなみに、ドゥービー(doobie)とはカリフォルニア州で麻薬を意味する俗語。

「Long_Train_Runnin.mp3」をダウンロード

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都に咲く向日葵(五十八)

2008-04-26 20:04:25 | 都に咲く向日葵

居室の中がしんしんと冷え込んできた。珍之助は思いを巡らせる。
松平信光が陰陽師、賀茂信光であったのは間違いない。何かのきっかけで陰陽師から武家に転身し、やがて三河国松平郷に定着した。そこで、信光は何らかの目的をもって我が子を殺し合わせることで蟲毒を作ろうとした。恐らく陰陽道の術を用いたのであろう。しかしながら、生き残り蟲毒となったのは我が子ではなく、賀茂氏出身の養嗣子である松平親忠であった。その嫡流が徳川家康である。
また、こうしたことを記した大樹寺の過去帳が実は寺創建前の文書の原本であると思われた。大樹寺は恐らくすでに過去帳を書き換えており、これは廃棄されるものであったと思われる。松平氏の菩提寺でもあるこの寺の性格と、寺は親忠が建立したという経緯を考えれば、このような過去帳は親忠にとって何ら益になることはない。だからこそ内容の信憑性は高い。
だが、これらはいずれも憶測にすぎない。
珍之助は小さく溜息をついた。

次に珍之助は熱田社の寄進帳を開いてみた。尾張国熱田社といえば草薙剣を御神体とする天下有数の神宮である。これは枚数にして七枚。寛正年間から永禄年間までそれぞれの寄進帳から一部を取り外したもののようである。個々に朱印が押されているのでやはり原本である。
もっとも古いもので寛正四年。賀茂信光名の寄進である。賀茂姓から松平姓に変わる前ということになる。その後親忠、長親、信忠、清康、広忠と松平氏宗主が続くが、珍之助は目を見開いた。親忠以降、すべて源氏姓を名乗っているのである。金子の嵩も半端ではない。
最後の一枚は今から十年前の永禄八年のものである。織田信長や近衛関白家が金三十貫寄進していた。大層な額である。その横に金五十貫の寄進元があった。織田信長より多いその寄進元は『源朝臣家康』と書かれてあった。家康は元康と名乗っていた時のものと合わせて三度寄進している。
―松平氏は武家の棟梁たる源氏の出自であると言いたいのか…。
翌永禄九年、松平家康は従五位下三河守に叙任されたとき徳川に改姓した。家康が先祖から百年来の松平姓をいともあっさり徳川に改姓したのは、元は源氏であるから松平姓に執着はないということなのかもしれないと珍之助は考えた。
武家が源氏の出自を名乗ること自体はよくあることである。地方の小豪族でも源氏の嫡流を勝手に名乗る氏族はいくらでもいる。領地争いにおける優位性を血統で訴えるためである。
しかし、戦乱の世にあって天下取りにもっとも近い織田信長の盟友である徳川家康が源氏の正統であることを名乗る意味はそうした地方の領地争いとは遥かに意味が違う。事実上消滅した足利幕府に替わって、源氏の正統を訴えることの意味。しかも織田氏の出自は平氏である。ここに珍之助は徳川家康の野望が透けて見える気がした。

神社仏閣への寄進元と金子の嵩が記された寄進帳は本来秘匿されている。門外不出だ。まして三種の神器の一つを祭神とする熱田社なら時の帝でも見ることはできない。信仰心に関わる神聖なものという理由で秘匿されているが、それだけではない。おおよその相場というものはあるだろうが、寄進の内容を晒してしまうと寄進元の財力や寺社の資産が知られてしまうから寄進帳が出ることはないのである。寺社の信用にも関わる。そういう意味では出自を晒す過去帳も秘匿されるべきものである。ところが、それらがここにある。松平氏の出自が陰陽師、蟲毒と化した松平親忠。そして松平親忠以降の源姓での寄進。
珍之助は腕組みをして考え込んでしまった。

さらに寄進帳をよく見てみると、源氏姓を名乗る歴代松平氏宗主とともに『賀茂親忠』と書かれた寄進元がある。それも必ず松平氏宗主の後に記載されている。
―賀茂親忠?松平親忠のことではないのか?
珍之助は訝ったが、『賀茂親忠』の名は、家康の父、広忠の代まで何度も散見される。松平親忠であるとも断言できないが、賀茂と松平との関係を考えれば、一族であることは容易に想像できる。しかし、百年近くにわたって松平氏宗主が寄進しているので『賀茂親忠』が同一人物とは思えない。
―わからないな…。
過去帳と寄進帳。この二つにどんな関係があるのか。その鍵は陰陽師賀茂氏にあると思われる。珍之助は残りの酒を飲み干すと、最後に残った、密書と思われる書状を開いた。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十弾。
ドリーム・シアター“ Wait For Sleep ”。しだいに明らかになっていく松平氏代々の野望。果たしてその目的とは…?!
バンドの出世作“ Images And Words ”(1992)から神秘的なピアノの旋律が印象的な小品。バンドはこのアルバム以降プログレ・ハードの雄としての地歩を確実に固めていき、今や孤高の領域に君臨する。

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都に咲く向日葵(五十七)

2008-04-06 12:19:32 | 都に咲く向日葵

開いた部分をあらためて見ると、寛正六年から七年にかけての三河国の出来事や風水害の中に、松平信光のことについて次の記述があった。
『寛正七年松平和泉守信光嫡子悉く没す 京賀茂氏養嗣子に家督不譲』
珍之助は、この部分を端的に事実を書いただけだと思い、目を通した時には特段気にならなかった。自らの嫡子が全員死に、一族でもある賀茂氏から迎え入れた養子が残ったものの、信光は家督を譲らなかったということだ。嫡子が死んで悲嘆にくれる信光が簡単に養子に家督を譲らなかったのは理解できる。
―お絹はこれを指摘したかったのか…。特に重要ということなのか。しかしこれが何を意味するというのか…。
ただ、寛正七年の記述は、他の項に比べて過去帳という性格からして少し意味合いが違うような記述が多い。土佐国で蝗が大量発生して飢饉になったことや大きな台風が九州に襲来したこと、伊豆国の地震のことなどが書かれている。また都では幕府政所執事であり、将軍足利義政に大きな影響力を持ったとされる伊勢貞親が管領の毒殺を謀り、流罪になったことなども書かれていた。後に応仁の乱を招く端緒でもある。しかし、これらは三河国とは無関係である。気になりだすと不自然な記述が多いうえに、さらに不自然なことに、蝗大量発生と管領毒殺未遂のくだりの『蝗』『毒』に朱書きでレ点が付されていた。珍之助は最初に読んだときは気がつかなかった。
―蝗と毒…。虫、毒…蟲毒?
蟲毒とは、様々な虫を入れた壺を土中に埋め、中で喰い合い、殺し合いをさせ、生き残った虫から毒を作るというものである。毒にもなるが、呪詛する相手に取り憑かせることもできる最強最悪の毒である。
珍之助はますます混乱してきた。これらが何かを接点にしてつながるとでもいうのか。

珍之助はおもむろに立ち上がり、居室の隅から別の文書を取ってきた。伊賀服部家に伝わる三河国に関する史書『三河縁起』である。伊賀服部家では日本各国の大まかな歴史、主な神社仏閣の成り立ち、歴代国司・守護職、有力豪族などについての文書を編纂している。各国に散った伊賀者や修験者から寄せられた情報をまとめたもので、そのうちの三河編ということである。
珍之助が大樹寺に関する記述を探すとすぐに見つかった。
大樹寺は、正式には『成道山松安院大樹寺』と称し、創建は文明七(1475)年、松平親忠によるとあった。松平氏の菩提寺でもある。
―文明七年ということはちょうど百年前。賀茂信光が松平信光を名乗った寛正六年から十年後…。この時点では大樹寺が創建されていなかったではないか。ではこの過去帳は大樹寺のものではないということか。
珍之助はさらに『三河縁起』を繰り、松平氏の系譜を見つけた。松平親忠は永享三(1431)年生まれ、信光の三男とされている。創建時には四十四歳であった。ただし家督を継いだのは信光の死、長享二(1488)年なので明応十(1501)年に亡くなる親忠にとっては晩年のことである。
―三男とあるが、信光の嫡子はすべて亡くなっていると過去帳にある。過去帳を信じるならば、親忠が養嗣子であり、松平氏と祖を同じくする賀茂氏から迎え入れられた人物ということになる。

珍之助はあらためて過去帳をよく観察した。すると表紙と中身の紙質が微妙に異なっていることに気づいた。寺の創建時期からして過去帳の中身はすでに書かれていたものであり、大樹寺が過去帳を引き継ぐ際に書き直したものではなく、そのまま綴じたものだと思われる。松平氏の菩提寺でもある大樹寺ともなれば、過去帳は必ずや書き直される。そして松平氏の都合の悪い記述は抹消される。あからさまに松平氏の出自を書いたものなど残すはずもない。ましてや嫡子が全員亡くなってことや養嗣子への家督移譲を渋る様を残すはずもない。
―これはもしかしたら大樹寺が過去帳を書き直す前の原本なのかも知れない。
それでも謎は残る。絹が示した項の“蟲毒”を想起させるレ点。他項との関係性を考えればわざわざ三河国と関係のないことを記すことは、何かを伝えようとしたのか、何かを隠蔽しようとしたものかもしれないと珍之助は考えた。編者が伝えたかったことを後世の誰か―熱田社の権宮司かもしれない―が気づき、レ点を振ったのであろう。
珍之助は『三河縁起』を繰ったが、信光の子に関しては親忠しか記述がなかった。松平氏によって意図的に隠されているとしか思えなかった。
―蟲毒。封印された全嫡子の死、生き残った賀茂氏の養嗣子。まさか松平信光は我が子を使って蟲毒を作ろうとしたということか。そして養嗣子である松平親忠が最強最悪の蟲毒そのものだとでもいうのか…。恐ろしい話だ。大樹寺そのものは松平親忠が創建している。つまり大樹寺を被せることで松平氏の出自はもとより自身の過去をも消し去り、改ざんしようとしたのかもしれない。松平信光は陰陽師として生きた蟲毒を作るつもりが、手に負えない妖怪変化を生み出してしまい、恐ろしくなって家督を譲らなかったのかもしれない。
蟲毒づくりは単純に最強の虫が生き残るだけではない。虫たちは殺された虫の怨念をも喰らいながら、生きるために戦い続ける。怨念は積み重なり、毒となって汚泥のごとく沈殿する。その殺し合いの連鎖の頂点に立つ虫が抱える毒。
珍之助は事の不気味さに寒気がし、立て続けに盃を空けた。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第三十九弾。
エイジア“ Go ”。陰陽師でもあった松平信光が作ろうとした生きた蟲毒。そこから生まれた怪物。徐々に現れる怨念の輪郭。謎解きは続く。
“ Astra ”(1985)収録。80年代前半に世界を席巻したエイジアだったが(2枚のアルバムはともに全米No.1)、3枚目となるこのアルバムは全米67位と失速。商業的失敗により解散する。その後メンバーを替えての復活を経て今年2008年オリジナルメンバーによるアルバムがリリースされるのに合わせ、来日も実現する。この曲はMTV全盛の頃に短編映画並みに凝った映像のPVが作られたが、曲自体も以前よりハードさを増した佳作である。

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都に咲く向日葵(五十六)

2008-04-05 21:26:42 | 都に咲く向日葵

加茂屋に戻った珍之助は、居室にこもり、権六に人払いを命じて梓から預かった文箱を開けた。蓋を脇に置き、無造作に出して並べてみる。
過去帳、寄進帳、そして密書。梓が持っていたこの三書はいったい何を意味するのか。“盲目の巫女”を追い求めているという黒川銀八は、おそらくこの三書を探索しているに違いない。この三書を巡る暗闇を思うと、未知の深い森に入っていくときのような不安な感覚と不吉な予感が走る。珍之助はそんな弱気に抗うように、ぱんと両頬を叩いてから三書の一つを取り上げた。

まずは三河国大樹寺の過去帳。
過去帳といってもその中のほんの一部だ。二十枚ほどが束にされ紐で綴じられている。表紙には寛正六(1465)年とあった。大樹寺の朱印も押されている。寛正六年に記述された過去帳ということなのだろう。
―寛正六年ということは…今から百十年前か…。
珍之助はゆっくり記述をたどり始めた。

過去帳を繰っていくと次の記述が目に留まった。
『寛正六年神無月、陰陽師賀茂信光、駿河国より来たりて三河松平郷に居を置き、松平信光を名乗る』
―陰陽師?松平?松平信光とは徳川家康の祖ではないか…。ということは…松平氏は元々陰陽師の家系だったのか…。いや、待て、賀茂信光は確か八代将軍足利義政公に仕えた武士だったはず。賀茂信光の出自が陰陽師の賀茂氏…。賀茂氏といえば律令の時代より朝廷に仕えた大陰陽師だ。足利義満公にも庇護されていた賀茂氏だったが…賀茂氏傍系の土御門氏に取ってかわられ、突然朝廷、室町幕府中央から消えた。そのとき何が起こったというのだ…。その賀茂氏と松平氏、そして徳川家康がどうつながるというのか…。
この一文に珍之助は言いようのない胸騒ぎを覚えたが、これが何を意味するのかまではわからない。前後に関連する記述も見当たらない。

珍之助は過去帳に一とおり目を通した。ここにあるものは松平信光に関する記述が中心であり、気になる箇所がいくつかあったが、考えがまとまらない。
珍之助は過去帳を一旦閉じて床に置くと、風が起こったのか灯明がゆらりと揺れた。目頭を揉む。絹が亡くなってから加茂屋の居室で酒を飲むことはすっかりなくなったが、久し振りに飲みたくなった。
珍之助は階下へ行き、権六に酒と肴を頼んだ。酒はすぐに用意され居室に届けられた。
「お絹のようにはまいりませんが…」
権六が神妙な面持ちで頭を下げ、退室して行った。
珍之助は傍らに絹が座り微笑んでいるような気がして、一杯目の盃をいつも絹が座っていたところに向かって少し持ち上げ、一息で飲み干した。
絹はいろはに隠れて目立たなかったが器量もよく、またよく気がつき、何事にも要領がよかった。そんな絹を横に飲む酒は、いつも珍之助にとって心地いいものだったが、その絹もいまはもういない。

珍之助が盃に二杯目を注いだそのとき、再び灯明が揺れた。
風もないのに灯明が揺れ続けるうち、絹がいつも座っていたところに薄ぼんやりと人の影が浮かんできた。影は瞬く間に絹の輪郭を現したが、蜉蝣のようにとても儚く見えた。その透けるような絹が少々心配そうな表情でこちらを向いている。
「お絹…」
絹は、声をかけた珍之助を見て頷き、床に置かれた大樹寺の過去帳を指さしてから、灯明の陰の中に沈むようにゆっくりと消えていった。
珍之助が床に視線を落とすと、閉じて置いたはずの過去帳が開いていた。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第三十八弾。
スティックス“ Crystal Ball ”。時代を遡ること百年。松平氏の出自の秘密がしだいに明らかに。そして絹が知らせようとしたものとは…。
“ Crystal Ball ”(1976)収録。80年代に大ブレイクするスティックスが、その前夜ともいうべき時期に発表した傑作アルバムからのタイトルチューン。その後のブレイクを予感させるメロディの美しさと曲構成が素晴らしい。

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都に咲く向日葵(五十五)

2008-03-26 07:32:04 | 都に咲く向日葵

「ああ、退屈じゃ。いろは殿、正子は退屈で死にそうじゃ。ほんに退屈じゃ」
正子は掌をひらひらさせながら物憂げに話す。
「姫様、少しはご辛抱なさりませ。何度『退屈』と申されてもどうにもなりませぬ」
向かいに座るいろはがたしなめるが、いろは自身も退屈を持て余していたので、言葉に勢いがなかった。
「いろは殿、そうは言うても退屈なものは退屈ではないか。やはりここから抜け出すしか手がないのではないか」
「くの一であるいろは一人ならともかく、姫様をお連れしてここから脱するのは危険すぎます」
「正子は足手まといだと申すのか」
「左様でございます」
いろははきっぱり言った。
「…」
正子はふくれて横を向いたが、いろはは意に介さずさらに言い足した。
「一つ間違うと二人とも命を落としかねませぬ」
「だったら、いろは殿一人が逃げて、珍之助殿をお連れしてくればいいではないか」
「いろはが逃げた時点で姫様に危害が及ぶやもしれませぬ」
「だったらやはり正子を連れて逃げてたもれ」
「姫様…」
いろはは首を振るように溜息をついた。
ここに連れて来られて一月近くになる。連れて来られる際、二人ともまる二日間目隠しをされ、後ろ手に縄をかけられていた。その状態で籠に乗せられていたのでここがどこかわからない。屋敷の周りには背の高い松が密集しており、見通しが悪い。だが、どこか遠くから潮騒が聞こえることがある。海に近いのは間違いないようだ。須磨か、丹後か…いろはは思いを巡らせたが、結局どこかわからないままでいる。雪が積もりだせば丹後だと思えるが…。この大きくない屋敷から一歩も出ることは許されていなかった。来て早々に逃亡を考えなくもなかったが、屋敷にはそれなりの数の下忍が配されている。正子が足手まといになることは明白だった。

黒川銀八は正子の輿入れを予告していたが、それ以降何の沙汰もなかった。滅多にこの屋敷にも姿を現さない。いろはは正子に戦略上の価値があるのだろうと感じているが、敵方の忍である自分が生かされ、幽閉の身とはいえ屋敷の中で自由が許されているのかがわからなかった。銀八の意思のほかならないだろうが、いろははいくら考えても理解できなかった。それよりも、とにかく兄のもとへ帰りたかった。正子の口癖が『退屈』であるように、いろはは溜息が癖のようになっていた。

正子は『退屈』と言うのが口癖になっていたが、連呼することで紛らわしているだけである。内心寂しくて仕方がなかった。いろはがいなければと思うとぞっとする。黒川銀八は、自分の輿入れ先は信長の子息ではないと言う。結局は政争の具にされる身なのだろう。相手は誰なのか、それすら聞かされていない。何とか自由の身になって服部珍之助のもとへ行きたい。願いはそれだけであり、それが支えでもあった。

「いろは殿、珍之助殿はいつ助けに来てくれるのであろうか」
この問いかけを正子は何十回と繰り返している。
「兄上も必死になって探しておいでのことと存じます」
この答えもいろはは何十回と繰り返している。
いろははよく喧嘩せぬものだと自分でも思う。相手が自分とは身分・出自の違うやんごとなき公家の姫君であることももちろんだが、屈託のない正子ゆえのことだろう。裏表のない正子のことが羨ましくもあり、どこか惹かれるのである。そんな正子を守ることが自分の役目であると思っていた。
―自分も少しは我慢を覚えたということを兄上に知らせたい。
それが今のいろはの支えであった。

いろはは縁側に立ってみた。頬をすぎる風が冷たい。時折雪が混じるようになってきた。常緑の松の葉が黒色に見える。そんな枯れた風景の中では結局我慢も何もなかった。どうしようもなく寂しかった。
―兄上…。
人懐っこく笑う兄がたまらなく恋しかった。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第三十七弾。
ダン・ハートマン“  I Can Dream About You ”。正子姫、いろは、それぞれの想い、それぞれの寂しさ。異郷の地でひたすら服部珍之助を待ち続ける彼女たち。
曲は映画『ストリート・オブ・ファイア』のオリジナル・サウンドトラックから(1984)。

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都に咲く向日葵(五十四)

2008-03-22 10:19:37 | 都に咲く向日葵

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第三十六弾。
ジョン&ヴァンゲリス“ Anyone Can Light A Candle ”。向日葵シリーズは「大いなる野望編」がスタート。盲目の巫女の謎が明かされていく。そこには血を遡る野望と怨念が躍り、欲望と憎悪の蟲毒が突き刺さる。混沌の中から伊賀服部党は抜け出せるのか。正子姫といろはの救出は叶うのか。服部珍之助と黒川銀八の最終決戦の火蓋が切って落とされる。
イエスのヴォーカルであるジョン・アンダーソンとギリシャ出身のキーボード・プレーヤー、ヴァンゲリス・パパサナシューのコラボレーション4作目から。ヴァンゲリスはイエスでは1974年のリック・ウェイクマン脱退時の後任としてのオファーもあった。“プログレ”で括ってしまうにはもったいないほどの静謐で美しいメロディが印象的なナンバー。“ Page Of Life ”(1991)収録。

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天正三年十二月。京の都にも雪が舞い始めた。
服部珍之助は配下の伊賀者に正子姫といろはの行方を捜させたが、いっこうに手がかりが掴めなかった。京周辺にはいないかもしれないと思い始めていた。
珍之助は、甲賀者に知られている加茂屋からの撤退を考えていた。いつなんどき襲撃を受けるかもしれない。資金や帳簿、文書といった主だった物は庵治寺の地下に移し終えてある。ただ、表面上とはいえ商いをいきなりたたむわけにもいかないので、しばらくは警戒を続けながら様子を見ることにしているのであった。

二階の居室で大の字になって寝転んでいる珍之助の元に、雪がちらつく窓の外から一羽の文鳥が舞い込んできた。白黒まだらの美しい文鳥である。梓の式神であった。
「凝ったことをする」
起き上がった珍之助は、式神である文鳥の柄まで考える梓に舌を巻きつつも苦笑いした。
文鳥はとんとんと跳ねて珍之助の前で、ぱっと鳥型の折り紙に戻った。梓から庵治寺に来てくれという合図であった。

珍之助が庵治寺の本堂で待っていると、すぐさま巫女姿の梓が現れた。合言葉を交わし、いつものように静かに本堂に入ってきたが、脇に黒い文箱を抱えている。
「何かわかったのか?」
「そうだ。あ、いや、多分であるが…」
いつになく歯切れの悪い梓に珍之助は意外な気がした。美しい梓の顔に困惑が影を落としていた。
「どういうことだ?」
「思い当たるのはこれしか考えられんのだが…正直言ってよくわからん…とにかくそなたに見てもらいたい」
そう言うと梓は文箱から黄色い油紙、に包まれた三つの紙の束を出した。
灯かりをともし、珍之助が手に取って見ると、一番上には『大樹寺戒名帳』とあり、どうやら過去帳のようであった。もう一つは『熱田社寄進帳』とある。どちらも朱印が押され、原本のようであった。さらに一番下にもう一つあった。それは書状であったが、花押とともに封印されていた形跡がある書状である。
「過去帳に寄進帳、どちらも門外不出だろう。それに何やら密書のような書状…何だこれは?穏やかではないな」
「見てのとおりだ。わたしが熱田社に身を寄せておったとき…今から五年ほど前だが…権宮司がわたしに託したのだ」
「権宮司?」
「権宮司のこともこの文箱の存在自体も失念しておった。自分の持ち物をあらためて整理していて見つけたのだが、これまで開けることもなかった。わたしの持ち物で、巫女になって以降人から預かった物はこれしかない」
「その権宮司は何と言っておぬしに託した?」
「何も…。この文箱を預かってくれとだけ一言。一応中身を聞いたのだが、大したものではないが、旅に出るので預かってくれと言うておった」
「なぜおぬしに?」
「その権宮司、わたしに懸想しておった…」
「懸想?」
思わず珍之助は大きな声をあげた。
「ははは…めしいたわたしのどこが気に入ったのかわからんが…何かと気にかけ、面倒を看てくれた。よく旅に出ておったが、器量平凡で目立たぬ男ではあった」
梓がどこか嬉しそうに言ったのが、珍之助はおもしろくなかった。
「ふん…それでは懸想かどうかわからぬではないか」
「何を怒っておる?」
「怒ってなどおらぬ」
「一度誘われたことがある…」
「行ったのか?」
珍之助は思わず身を乗り出した。
「行かぬ」
「そうか…」
珍之助は安堵の溜息を吐いた。梓はその雰囲気を察知してか、少し微笑んだように見えた。
「それで大方恋文の類であって、めしいたわたしには読むことができないことを承知で、自分の想いを一方的に綴ったものを押し付けたのだろうと思ったのじゃ。開ける気にもならんかったのはそのせいだ」
「その権宮司は?」
「戻ってこなかった。行き先も聞いておらぬ。そのうちわたしも霊脈を辿るために熱田社を離れた。だから失念しておった」
「失念するほどのことだから龍眼を使うこともなかったということか…」
「そういうことじゃ。龍眼とてこれらの中身までは読めぬ。仮に読めたとしても、過去帳に寄進帳、それに謎めいた書状では、熱田社の権宮司と何も結びつかぬ。興味もなければ、詮索もせぬよ」
「おぬしに託すにはそれなりの意図があったのではないのか?その…懸想していたからだけではあるまい…」
珍之助が最後は言いにくそうにしていたのが梓にはおかしかった。
「懸想していたから預けたのではあるまいか。戻ってきたら呼び出すきっかけにもなる」
「なっ!」
それほど“懸想”をまず否定したいのかと梓はむきになる珍之助がますますおかしかった。
「ははは、冗談じゃよ。めしいているから中身を読むことはないと思ったのであろう。隠し場所としては安全だ。何せ本人が何を持っているのかさえわからぬからな。ということは…今さらではあるが、それだけ重要なものなのかもしれぬ」
「俺もそう思う…」
だったらそう言えばいいのに…梓は笑いをこらえながらその一言は飲み込んだ。

「大樹寺とはどこの寺だ?熱田社と同じ尾張か?」
「いや三河だ」
「三河…徳川殿と何か関係があるというのか…」
「徳川家康に仕えておる伊賀者がおったであろう。そこから探ることはできぬのか?確かそなたと同じ服部家の…」
「半蔵だ。服部半蔵。うちの分家筋だが、たいそうな野心家だ。特に親しいわけでもない。音信もないので里から出奔したのに等しい。忍でいうと、徳川殿は相模北条家の御庭番である風魔党を引き抜いたとも言われておる。半蔵も生き残りに必死なのであろう。伊賀者ではあるが、伊賀の人間ではなくなっておる。たとえ同じ伊賀者であっても織田方から探りを入れてきているとわかれば、こちらが利用されてしまう」
「それでは致し方あるまいな…」
「これを借りるぞ。まずはじっくり読んでみる」
「もとよりそのつもりじゃ。唯一の手がかりかもしれん。そなたに預ける」
二人には開けてはいけない箱の蓋を開くことになる予感があった。それでも開けなくてはならない。間違いなく全ての謎は今こちらの手にある。梓は見えない目を珍之助に向け、密かに龍眼を解放した。珍之助の身体全体を覆うように漲る力の輪が見えた。そしてその表情には固い決意と覚悟を見て取り、梓は龍眼を閉じた。

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都に咲く向日葵(五十三)

2008-03-16 08:02:52 | 都に咲く向日葵

「お絹はまだ十七だぞ…この世には神も仏もおらぬのか…忍でもない若い娘がなぜこのような憂き目に遭わねばならぬ…人の情けもこの世にはあらぬのか…」
絹を抱き、問わず語りの珍之助に梓が後ろから声をかけた。
「戦乱の世をつくりだしたのは結局人…。神仏はお怒りなのじゃ。確かにお絹には気の毒なことをした…。だが、神仏は決してお絹を見放していたわけではない。そなたは気づいておらんと思うが、絹は我らが着く直前にこと切れておったのじゃ」
「えっ?」
思わず珍之助は梓のほうを振り向いた。
「お絹は最期にそなたに抱かれることを望んでおった」
「…」
「その想いが天に通じ、すでに息のないお絹をあそこまで動かした。どうしてもそなたに伝えたかったのであろう。甲賀者のこと、櫛のこと、そなたへの想い…」
「お絹…」
珍之助はあらためて絹を見た。腫れあがり痛々しいにも関わらず、絹の目が安らかに閉じられていることに気づいた。
「だが俺はお絹を助けることができなかった。守ってやることができなかった」
「自分を責めるな。服部党の頭領として厳しい現実に晒され、苦しい選択を強いられることは何度でもある。嘆き悲しむ前に、いま、そなたが頭領としてすべきことを考えろ」
「すべきこと…?」
「そうだ。甲賀者はどうやらわたしを捜しておるようじゃ。佐吉殿の機転のお蔭で時間稼ぎができる」
「おぬし、心当たりがあるのか?」
「正直言ってわたしにもわからぬ。甲賀者の周辺には結界が張られており、辿ることもできぬ…。霊脈に導かれるまま転々と流浪の旅を送ってきただけのこの身に思い当たる節もない…」
「しかし、甲賀者がおぬしを捜すというには意味がある…。いずれにしても、このままではおぬしにも危険が及ぶ。加茂屋に来ぬか?」
「それでは服部党を巻き込んでしまうぞ」
「いろはと右大臣家の姫君が拉致され、佐吉親子が殺された。しかも、黒川党と思われる甲賀者がおぬしを捜しているともなれば、これは伊賀服部党の戦いだ」
「わかった。だが、わたしはまだ甲賀者に見つかっていない。今一度身を隠して身辺を整理する。そなたはいろはの救出に全力を傾けてくれ」
「そうする」
珍之助は絹の亡骸をそっと床に置いた。
「絹を葬ってやりたいが…できることなら佐吉とともに葬ってやりたい」
「うむ」
梓は懐から五芒星が描かれた紙を取り出し、低い声で何やら呪文のようなものを唱え、九字を切った。すると五芒星の紙はたちまち一羽の白い文鳥に化身した。文鳥は瞬く間に飛び立ち視界から消えた。
「式神か…」
「権六の元へ向かわせた。佐吉の骸を連れてくるはずだ」
「そうか。かたじけない」
それきっり珍之助は沈黙を守り、梓も声をかけることはなかった。

やがて二つ刻を過ぎると梓の言ったとおり、青ざめた権六が下忍三人とともに佐吉の骸を籠に載せて運んできた。そして権六は絹の亡骸を見て、誰憚ることなく泣き崩れた。

その後、珍之助は屋敷に火をかけ、佐吉親子を化野の丘陵に葬った。
最後に二本の急ごしらえの卒塔婆を立て、珍之助は膝をついて合掌した。その傍らで静かに佇んでいた梓がそっと珍之助の背中に触れると、その広い背中はわななくように小さく震えていた。

珍之助が立ち上がると、泣き続けていた権六や下忍たちはゆっくりと振り向き、仰ぎ見た。珍之助は己に言い聞かせるかのように一言一言を噛みしめながら話し始めた。
「我々は佐吉という大きな柱を失った。いろはもいまだ戻らぬ。これからは苦しい戦いを強いられよう。だが、ここにおる梓が服部党に復帰する。神通力を持つ梓が加われば千人力だ。決して敗北することはない。いつまでも泣いておっては、最期の最期まで伊賀の忍として意地を見せた佐吉も絹も喜ばぬ。感傷にふけるのは今このときまでとする。信長様に仇なす輩が蠢き始めた。今こそ信長様の天下取りのため我等の存在を賭すときじゃ」
権六は着物の裾で泪を拭うと頷いた。
珍之助が丘の上から里に振り返ると、一条の煙が立ち登っているのが見える。屋敷はすでに全焼した模様で、煙は白く細いものに変わっていた。煙を中心に上空を鳶が名残惜しむかのようにゆっくり旋回している。
陽が大きく傾いてきた。秋の深まりとともに日が短くなってきている。珍之助は絹からもらった櫛を取り出すと、右手でぐっと握り締めてから懐に戻した。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第三十五弾。
アラン・パースンズ・プロジェクト“ Brother Up In Heaven ”。佐吉・絹編の最終章を飾る美しいメロディは天空まで突き抜ける。次章では梓を巡り大いなる野望がその全貌を現す。“ On Air ”(1997)収録。

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