黒川銀八の方針もあって、正子と違い比較的自由に屋敷内を歩けるいろはではあったが、銀八や左源太がやってきたときに使う上忍の居室に立ち入ることはできなかった。しかし、今回は見張りの者には左源太に呼ばれたと嘘を言い、障子の前から声をかけた。
「ごめんくださいませ。いろはでございまする」
いろはの来室を予想していたかのように、驚くことも訝ることもなくすぐさま左源太の応答があった。
「入られよ」
「失礼つかまつりまする」
いろはがそっと障子を開けると、上座に座る左源太がにこにこしながら優雅に手招きしていた。色男気取りが…と内心毒づきながらも、いろはは堪えて頭を下げた。とにかく脱出の機会を窺っていると思われないようにしないといけない。正子の小さな願いの芽も摘んでしまう。
「望月殿にお願いしたい儀がございまする」
「これはこれは…いろは殿があらたまられて何事でござるか?」
知って聞きおって…と再びいろはは内心で毒づいた。
対する左源太はどこまでも涼しい顔である。
「本日姫様の外出をお許しいただきましたこと、まことに恐悦至極に存知上げまする。なお、姫様におかれましては今少しお望みがございますれば、何卒お聞き入れいただきたく…」
いろはにとって慇懃無礼に過ぎるほどの態度は、人質としての立場をわきまえざるを得ないとはいえ相当の皮肉を込めたものであったが、左源太はまったく動じる様子はなかった。
「そのことでござったか。姫様におかれましては、一所に囲われていては息も詰まりましょう。本日は気候も暖かでありますので特別にお許しいたした」
囲っておるのはその方らではないか…といろははまた内心で毒づいた。
「それで、今少しのお望みとは?」
「この御屋敷、所在はわかりませぬが、時折潮の音が聞こえまする。となれば、海に近いところかと…。姫様は都暮らしゆえ、海をご覧になられたことがございませぬ。姫様は海が見たいとご所望あそばされておりまする」
「ふむ…」
左源太は考え込むような仕草を見せる。
もったいつけよってからに…といろはは何度目かの毒を吐いた。
「わかり申した」
「まことでございまするか」
「いかにも。姫様を屋敷近くの浜にお連れ申そう」
「かたじけのうございまする」
いろは、努めて不承不承という態を見せないよう頭を下げた。つまらないことで左源太に気が変わられても困る。正子姫の悲しむ顔は見たくない。それに自分も海を見たかった。囚われの身の日常に少しでも風を通したかった。
「ではわたくしも用意を…」
「いろは殿も行きたいのでござるか?」
「え?」
「姫様はここのところ塞ぎがちなご様子でござるが、それにひきかえ、いろは殿は元気がおありなだけに外へお連れすると危険でござるからなぁ…。よもや脱出の機会を窺っているとは思わぬが…」
「なにっ!」
思わず鋭く言い返してしまった。
「ははは、冗談冗談。いろは殿も海が見たいのでござるな」
「…」
いろはは自分の顔が耳朶まで真っ赤になっているのがわかった。海が見たいということも含めて左源太はすべてお見通しであり、いろははいいようにあしらわれたのだ。悔しくて恥ずかしかった。
「気分を害されましたか?」
それすら予想していたとばかりに左源太は落ち着き払っている。
「…」
いろはは一言も言い返せないことが情けなかったが、言い返す言葉が見つからず、ただ睨み返すしかできなかった。
「失敬失敬、いろは殿もお連れいたす」
「…」
「困ったなぁ。怒らせてしもうたか…これもお二人を見張るという拙者の役目ゆえご勘弁願いたい」
左源太は人懐っこい笑顔を困ったようにしかめ、頭を掻いたが、その仕草が兄を思い出させて、いろはは目を逸らした。
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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十四弾。
クリスティン・マクヴィー“ Friend ”。正子姫に海を見せるため、あわよくば脱出を図るため、不本意ながら左源太に頭を下げるいろは。しかし内心まで見抜いている左源太の方が一枚上であった。
元フリートウッド・マックのクリスティンのソロ・アルバムとしては3作目、前作から実に20年ぶりに当たる“ In The Meantime ”(2004)から。2003年マックは黄金期のメンバーで再結成しツアーも持たれたが、そこに彼女はゲストのみの参加であり合流はしなかった。でも、やさしく深いメロディの彼女のソロ作品がメンバーのソロ作の中でもっともマックらしいと言われる。マックの屋台骨を支えていたのは実はこの人。
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