いろはは部屋の中央に立ち、目を閉じ意識を耳と肌に集中させ、周囲からありとあらゆる音と気配を読み取ろうとした。
廊下を走る音。床がきしむ音。甲賀の下忍どものざわめく声。その中に音にならない気配が混じる。直感的に忍であると思った。だが忍ならば気配も消すが、あえて消す必要のない情況にあるということである。こころがざわめく。
―何が起こっているんだろう…。
いろははさらに意識を集中させる。
その気配がこちらに近づいている。いろはは得物がないのが気になったが、いまは起こっていることを知りたいほうが勝った。
◆
珍之助はすり足で次の襖に近づき、思い切り引き開いた。
それは突然の再会であった。
襖を開けた瞬間、その場に小袖を着た女が一人で向こうむきに立っていた。
そして女は襖の開く音に反応して素早く振り返る。いろはであった。
「!」
いろはは驚愕し息を呑んだ。
「あに…うえ?」
珍之助も驚いて目を見張った。
「いろはっ」
「兄上っ!」
いろはは言うが早いか珍之助の胸に飛び込んできた。
どこかで兄が助けに来ることを期待し、実際に再会の際には何を言おうか考えていたが、唐突にそれが起こると何もかも吹き飛んだ。涙が止まらない。泣きじゃくった。
「待たせてすまなかった」
「あにうえ…あにうえ…」
珍之助は泣き続けるいろはを引き剥がすようにして
「いろは、泣くのは後だ」
冷徹に言い放つ。追っ手が迫っていた。
「正子姫を救い出さねばならぬ。案内してくれ」
いろはは袖で涙をぬぐい頷いたが、せっかくの再会だったのに兄が正子姫を優先したことに一瞬嫉妬し、天真爛漫な正子姫に嫉妬する自分に一瞬とまどいを覚えた。
早くも抜刀した追手二人が並んで姿を現した。
いろはは久しぶりの実戦であったが、兄が隣にいることの安堵感で恐くはなかった。
珍之助はいろはに目配せするやいなや、左側の男に無防備に近づく。間合いは二間(約3.6メートル)ほど。男は少しひるんだ。右の男も珍之助に目がいく。傀儡舞を恐れているのであろう。その隙をいろはは見逃さなかった。右側の男の足元へ素早く足を飛ばし、相手の足をすくうと男はたちまちよろめいた。いろはは目に止まらぬ速さで剣を奪う。そして流れるような動作で袈裟がけに振り下ろした。珍之助もほぼ同時にもう一人の男を突き伏せていた。
いろはは元来た襖を開ける。珍之助はいろはの背に合わせるように次の追手に備える。二人は素早く廊下に出る。
いろはは背中に珍之助の温もりを感じていた。ずっと再会を望んでいた兄がすぐそこにいる。だが、いまは正子姫を救い出すことが第一。それは頭では分かっていたものの、鼓動が早まる。忍としての自分と女として自分がまだらになってこころを急き立てる。
「いろは、後ろは気にするな。兄に任せよ」
「はい」
すぐにいろはの前に下忍の一人が現れた。
まだこころが落ち着いていない。忍としての本能は覚醒しているが、ひどく雑念が混じる。正子姫の救出は第一であるが、この情況では三人とも危うい。いまは退くほうが得策ではないのか…正子姫は黒川党にとっても大事な人質である。手をかけることはあるまい。兄を信じつつも、迷いは生じていた。その迷いはどこから来るものなのか…。
そんな雑念がいろはの初動を遅らせた。
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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第七十四弾。
ハリケーン “ Temptation ”。ついに再会した珍之助といろは。正子姫の救出に向かうもいろはは複雑な思いにかられ…。
1980年代中盤からLAメタルとして活躍していたハリケーンに加入したのが、後にホワイトスネイクでも活躍するギタリスト、ダグ・アルドリッジ。そのダグが唯一参加したアルバム “ Slave To The Thrill ”(1989、全米第125位)に収録。キレのいい演奏とキャッチ―なメロディがハリケーンの信条であったが、このアルバムでバンドは解散。しかし2001年ハリケーンは再結成する。
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