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語り得ぬ世界

現実逃避の発展場 Second Impact
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都に咲く向日葵(九十二)

2010-08-02 05:26:14 | 都に咲く向日葵

いろはは部屋の中央に立ち、目を閉じ意識を耳と肌に集中させ、周囲からありとあらゆる音と気配を読み取ろうとした。
廊下を走る音。床がきしむ音。甲賀の下忍どものざわめく声。その中に音にならない気配が混じる。直感的に忍であると思った。だが忍ならば気配も消すが、あえて消す必要のない情況にあるということである。こころがざわめく。
―何が起こっているんだろう…。
いろははさらに意識を集中させる。
その気配がこちらに近づいている。いろはは得物がないのが気になったが、いまは起こっていることを知りたいほうが勝った。

                   ◆

珍之助はすり足で次の襖に近づき、思い切り引き開いた。

それは突然の再会であった。
襖を開けた瞬間、その場に小袖を着た女が一人で向こうむきに立っていた。
そして女は襖の開く音に反応して素早く振り返る。いろはであった。
「!」
いろはは驚愕し息を呑んだ。
「あに…うえ?」
珍之助も驚いて目を見張った。
「いろはっ」
「兄上っ!」
いろはは言うが早いか珍之助の胸に飛び込んできた。
どこかで兄が助けに来ることを期待し、実際に再会の際には何を言おうか考えていたが、唐突にそれが起こると何もかも吹き飛んだ。涙が止まらない。泣きじゃくった。
「待たせてすまなかった」
「あにうえ…あにうえ…」
珍之助は泣き続けるいろはを引き剥がすようにして
「いろは、泣くのは後だ」
冷徹に言い放つ。追っ手が迫っていた。
「正子姫を救い出さねばならぬ。案内してくれ」
いろはは袖で涙をぬぐい頷いたが、せっかくの再会だったのに兄が正子姫を優先したことに一瞬嫉妬し、天真爛漫な正子姫に嫉妬する自分に一瞬とまどいを覚えた。

早くも抜刀した追手二人が並んで姿を現した。
いろはは久しぶりの実戦であったが、兄が隣にいることの安堵感で恐くはなかった。
珍之助はいろはに目配せするやいなや、左側の男に無防備に近づく。間合いは二間(約3.6メートル)ほど。男は少しひるんだ。右の男も珍之助に目がいく。傀儡舞を恐れているのであろう。その隙をいろはは見逃さなかった。右側の男の足元へ素早く足を飛ばし、相手の足をすくうと男はたちまちよろめいた。いろはは目に止まらぬ速さで剣を奪う。そして流れるような動作で袈裟がけに振り下ろした。珍之助もほぼ同時にもう一人の男を突き伏せていた。

いろはは元来た襖を開ける。珍之助はいろはの背に合わせるように次の追手に備える。二人は素早く廊下に出る。
いろはは背中に珍之助の温もりを感じていた。ずっと再会を望んでいた兄がすぐそこにいる。だが、いまは正子姫を救い出すことが第一。それは頭では分かっていたものの、鼓動が早まる。忍としての自分と女として自分がまだらになってこころを急き立てる。

「いろは、後ろは気にするな。兄に任せよ」
「はい」
すぐにいろはの前に下忍の一人が現れた。
まだこころが落ち着いていない。忍としての本能は覚醒しているが、ひどく雑念が混じる。正子姫の救出は第一であるが、この情況では三人とも危うい。いまは退くほうが得策ではないのか…正子姫は黒川党にとっても大事な人質である。手をかけることはあるまい。兄を信じつつも、迷いは生じていた。その迷いはどこから来るものなのか…。
そんな雑念がいろはの初動を遅らせた。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第七十四弾。
ハリケーン “ Temptation ”。ついに再会した珍之助といろは。正子姫の救出に向かうもいろはは複雑な思いにかられ…。
1980年代中盤からLAメタルとして活躍していたハリケーンに加入したのが、後にホワイトスネイクでも活躍するギタリスト、ダグ・アルドリッジ。そのダグが唯一参加したアルバム “ Slave To The Thrill ”(1989、全米第125位)に収録。キレのいい演奏とキャッチ―なメロディがハリケーンの信条であったが、このアルバムでバンドは解散。しかし2001年ハリケーンは再結成する。

「Temptation.mp3」をダウンロード

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都に咲く向日葵(九十一)

2010-05-23 19:51:00 | 都に咲く向日葵

西側に戻るとやや様相が違っていた。傀儡舞を仕掛けた男は闇雲に剣を振るうのではなく、よほど剣の腕前も立つのであろう、屋敷から出てきた男たちを次から次へと屠っていた。地面にはすでに四人の男が無残に倒れている。だが、そんな動きのために取り巻く敵方の人数は二十人ほどに達していた。もはや逡巡してはいられない。珍之助は突入することに決めた。

傀儡が五人目を斬り倒したと同時に、月の光を背後にして珍之助はその背後に忍び寄った。影に重なる。傀儡の剣から血と脂が滴る。刃こぼれを起こしているのは確実で、斬るのもこれが限界だと思われた。珍之助は傀儡を盾に真後ろに立つ。
そこへ「どん」という音ともに傀儡の胸に矢が突き刺さった。それでも珍之助は倒れそうになる傀儡を左手一本で支え、前進する。取り巻く男たちから「おおっ」という恐れが混じった声が上がった。さらに矢が突き刺さる。さらに一本。
濡れ縁が見えた。屋敷はもう目前である。珍之助はそのまま傀儡を前方に放り投げた。取り巻く男たちが飛びすさるのが視界の隅に見えた。ある者は腰を抜かしている。そして素早く弓を持つ男に棒手裏剣を放つと、心臓に突き刺さり男は濡れ縁からもんどり打って転げ落ちた。
周りから「何やつっ!」「賊だ!」「出あえっ!」という声がいくつも響く。
庭先におよそ十人、濡れ縁の左右に三人ずつ。
珍之助は剣を抜かず両手をだらりと下げたまま無言で濡れ縁に飛び上がる。
濡れ縁にいた一人の男が剣を突くようにして突進してきたが、珍之助はひらりとかわすやいなや足を払う。男が前につんのめると、その瞬間珍之助は男の横腹に拳を叩きこむ。次に苦渋の表情を浮かべ仰向けになった男の目を覗きこむ。傀儡舞をかける。
この間瞬きをするほどの短さである。
そして男を庭側に向けて解き放つ。男は傀儡となって庭先で取り巻く男たちに向かって剣を振り上げ突進していった。

珍之助は屋敷の内部に進もうと濡れ縁の左側へ向きを変える。そこに背後からもう一人の男が剣を振りかぶってつっかけてきた。わざと背を見せたのである。珍之助は腰を落とし、体を回転させ男の足をなぎ払う。あとはさきほどと同じ動作であった。また一人傀儡をつくった。今度は前方に向けて背中を押す。濡れ縁に残っていた男たちは、恐怖に駆られわれ勝ちに奥へと逃げ込んだ。珍之助は剣を抜き、傀儡を盾に屋敷内に入っていった。

傀儡は小刻みに体を震わせながら廊下を前へ進む。それがあまりに鬼気迫る様子であるため、飛び出してくる敵方はすぐにたじろぎ下がっていく。珍之助はその間に素早く廊下両側の部屋を検めていくが、思った以上に部屋数が多い。また傀儡の歩みは決して速くないのでさすがに敵方が増えてきた。

やがて傀儡に対し二人同時に剣を突いてくるようになった。最初は突きをかわしていた傀儡であったが、とうとう腹にまともに突き刺さり、その場に崩れ落ちた。前方に縦に並ぶように五人、後方には同じく三人。挟まれた状態でこれ以上進むことは無理だろう。珍之助は左側の襖を引き開けた。
さほど広くない部屋であったが、さらに躊躇なく奥の襖を引き開ける。追っ手はさらに増えて十人を超えている。だが傀儡舞を恐れてか近接戦を避けているようで、誰も突っかけてはこない。

屋敷の奥に進むことは退路をなくすことでもあり危険な賭けであったが、服部珍之助は二人を見つけることを優先し、わが身を賭けた。

                   ◆

「いろは殿、なにやら屋敷が騒がしいのぉ」
正子姫が古今和歌集の写本巻物から顔を上げた。
「はい…見てまいります」
いろはは立ち上がった。

屋敷の奥まったところにある二人の居室から出て中庭沿いに、いろはは歩みを進める。西側が特に騒々しい。おおかた甲賀者同士の喧嘩であろうとは思ったが、規律の厳しい黒川党で刃傷沙汰の喧嘩など、滅多にあるものではない。
廊下を無言で走り抜ける数人の男を見かけて、いろはの忍としての本能が覚醒した。軟禁中とはいえ屋敷内であれば用事しだいで動けるいろはであったが、それでも一人で所在なげにうろうろすることはできない。ところが、いまは誰にも見とがめられることがない。緊急事態であることは間違いない。全身に緊張がみなぎった。
とにかく状況を確かめる必要がある。いろはは通りがかった部屋の前で左右を確認し素早く襖を開けて入りこんだ。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第七十三弾。
スキッド・ロウ “ Into Another ”。退路を断った珍之助は二人に迫れるのか?!
米国ニュージャージー州出身のスキッド・ロウ3枚目のアルバム “ Subhuman Race ”(1995)に収録。アルバムは全米第35位を獲得。うねりのあるリフとからみつくヴォーカルが印象的でダークなハード・ロック・ナンバー。中間部での計算し尽くされたギター・ソロがかっこいい。

「Into_Another.mp3」をダウンロード

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都に咲く向日葵(九十)

2010-04-10 17:44:23 | 都に咲く向日葵

陽が沈み、半月が青い光を放ち始めた。それでもしばらく気配を殺していた珍之助だが、頃合いと見るや、音もなく杉の巨木からすとんと地上に降り立った。

影が音もなく九条屋敷に忍び寄る。屋敷内に人の気配はするが、屋敷周りに人影はない。素早く西向きの土塀の頂上部に向け垂直に駆け上がるように跳躍する。さらに連続する動作で土塀内側に飛び降りた。着地の際にわざと音を立てる。一旦庭にある松の木の幹の裏側に隠れ、屋敷の動きを待った。必ず動くと読んでいた。
そして珍之助の読みどおり動きがあった。

屋敷から一人の男が現れた。物音に反応し様子を見に出てきたのである。明らかに忍としての動きようである。
珍之助は松の木陰から小石を投げて音を立てた。男は素早い動きで近づいてくる。まさか賊が人だとは思っていないのであろう。猫かいたちとでも考えたのか、腰を下げ、地面を見ながらやや無防備に近づいてくる。
珍之助は音なしで跳躍し、男の前に突然躍り出た。男は驚きのあまり一瞬動作が止まった。珍之助はその一瞬を待っていた。左手で男の口をふさぎ男の目をじっと見据え「傀儡舞(くぐつまい)」の術をかけた。男の顔は見る見る恐怖に歪んでいく。
珍之助は静かに男を放す。男はまだ佇んでいるが、微妙に体が震えている。

次に土塀に沿って北側へ移動する。正門とは逆側である。さきほど同じように小石を投げわざと音を立てる。やはり男が一人出てきた。そして同じように「傀儡舞」をかけた。珍之助は振り返ることなく土塀の内側を東側へと移動していく。

だが背後で大きな叫び声が聞こえた。
珍之助は立ち止り、小さく舌打ちした。
―効きが強かったか。
さらに最初に侵入した西側でも騒ぎ声が上がった。
珍之助は踵を返した。

東西南北の四方で敵方の忍一人に傀儡舞を仕掛けることで混乱を起こし、敵方の人数を分散させ屋敷内の警護を手薄にする作戦だった。あわよくば互いに斬り合いになって人数が減ることにも期待している。だが傀儡舞は制御が効かないため個人差が生じる。珍之助の予想よりも早く暴れだしてしまったので、北側から屋敷内へ侵入することにした。

一人の男を十人ほどの男が遠巻きに囲んでいる。
中心で傀儡舞を踊る男は滑稽なまでに刀を振りまわしているが、あまりの不規則さに取り巻く男たちは誰も手が出せない。何が起こっているのかさえ理解できていない。しかし、その不可思議な光景に導かれるかのように男たちは庭に出てきていた。

珍之助は陽動に対し敵方が屋敷から離れれば、闇に乗じて潜入するつもりをしていた。しかし敵方が屋敷に近いところに溜れば傀儡を盾に押し入るつもりであった。言うまでもなく後者のほうが危険は大きい。
庭の木陰から見ても、このままでは後者の作戦を取るしかない屋敷と男たちの距離であった。
やむなく西側へ移動することにしたが賭けでもある。こちらと同じ状況であればもはや突入するしかない。しかも北側は十人ほどだが、西側の人数がもっと多ければ…。
だが迷っている暇はない。いずれにしても見つかるのは時間の問題であった。珍之助は闇の中をひた走る。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第七十二弾。
ガンズ・アンド・ローゼズ “ You Could Be Mine ”。九条屋敷に侵入した服部珍之助。正子姫といろはの救出に向け暗闇を疾走する。
「ターミネーター2」挿入曲でもある、米国のハード・ロック・バンドによるこの曲は1991年にリリースされ、全米第29位、全英3位を獲得。また、この曲が収録されたアルバム “ Use Your Illusion Ⅱ ”(1991)は全米、全英ともに第1位を獲得。映画T2ではバイクのチェイスのシーンで使われたと記憶しているが、その疾走感を表すかのようなエッジが効いたキレのいいロックンロール・チューン。

「You_Could_Be_Mine.mp3」をダウンロード

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都に咲く向日葵(八十九)

2010-03-23 05:26:26 | 都に咲く向日葵

珍之助は九条屋敷の周囲を廻りながら観察を続け、構造を把握していった。
敷地はほぼ正方形。土塀の一辺はおよそ二町半(約280メートル)ある。土塀の高さは一丈半(約5メートル)。食糧庫を含め四つの建物からなり、正門の前にある中央の母屋はひときわ大きく、一辺は半町(50メートル)ほど。全体的に黒っぽい。築造されてから相当の年数が経過しているように思われる。
建物の外側に人影はまったく見られなかったが、物見用の覗き穴が随所に見られるなど侵入者を強く拒むような佇まいに死角は見当たらない。

そのうち杉の巨木を見つけると、珍之助はするすると登り、九条屋敷の正門を見渡せる幹のくぼみに座り込んでから、はやる気持ちを抑えるように腰の竹筒から一口分だけの水を喉に流し込んだ。樹上で器用に侍装束を脱ぎ捨て、その下の黒い忍装束となった。
とりあえず日が暮れるまで人の出入りを見極めることにしていた。
死角のない建物に侵入するときは、半端な策を弄しても仕方がない。陽動を仕掛け突入することにしていた。

陽が傾きだし、風も少し冷たさを増した。見張っている限りやはり九条屋敷への人の出入りは皆無だった。
もう一日様子を見るかどうか悩みどころであった。屋敷内の人数が知りたいが、一日様子を見ても把握できるかどうかわからない。そもそも屋敷の間取りもわからない。おまけに何の策もない状況は無謀極まりないことであったが、ここで逡巡している暇はない。

そこへ屋敷の向こう側から樽が一つ、さらに野菜と米俵二つを積んだ荷車を引いた三人の百姓が現れ、土塀に沿ってぐるりと回ってきて正門の前で止まった。その三人が百姓ではないことは明らかであった。いかにも百姓のように振舞っているが、周囲への目配りなど無駄のない動きに珍之助の目は欺けない。
正門は閂が開いていたのか、開けてあったのか百姓に扮した三人の男は静かに門扉を押し開き、さらに屋敷に沿って裏口へ向かっていった。それでも誰も出てこない。これほどの大きな屋敷で人がやってきたというのに、迎えの者が出ないというのは異様な光景である。しかし、その間あちこちの覗き穴で人の気配が動いたことを珍之助は見逃さなかった。

運び込まれた荷の量から考えても、常駐している人数は二十人を超えるだろうと思われた。あるいは備蓄している食糧を増やすならもっといるのかもしれない。係争の地にある公家屋敷にしては一見無防備な様相である。夜盗、野伏、浪人などが狙わないはずがない。それでもまったくそうした痕跡がないということは、防備が固いということである。徳川の関東における工作拠点であるならば、それなりの手練の忍を相当数配置しているのは当然だろう。一日経ったところで状況が変わるはずもない。
―厄介なことはもとより承知のうえだ。目的ははっきりしている。
正子姫といろはがいる。楓の虚言であることなど万に一つも考えていなかった。確信に満ちていた。たとえ二人がいなかったとしても、目の前の可能性に賭けることに何ら躊躇はない。
「二人を救えるのは俺だけだ」
そう独り言ちた後、ここまでの遠い道のりに一瞬思いを馳せたが、すぐにその思いを封印し珍之助は迷わず今夜襲撃することを決断した。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第七十一弾。
ホワイトスネイク “ Fool For Your Loving ”。服部珍之助はいよいよ九条屋敷へ突入を決意。鉄壁の防備に対し果たして正子姫といろはを救うことができるのか…。
第3~4期ディープ・パープルのヴォーカルを務めたデビッド・カヴァーディル率いるホワイトスネイクとして通算4枚目のアルバム “ Ready An' Willing ”(1980)からのシングルカットは、全英第13位に入るスマッシュヒット。アルバムも全英第6位。バーニー・マースデンとミッキー・ムーディという二人のギタリストを擁したこの時期のホワイトスネイクはブルースに根差したハード・ロック。日本では今でも人気が高い。この後よりヘヴィになって米国進出を果たし、全米で大成功を収めることになるが、バンドの評価としては賛否が分かれた。その後活動休止を経て、2008年にニューアルバムをリリースし、本格的な活動を再開。

「Fool_For_Your_Loving.mp3」をダウンロード

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都に咲く向日葵(八十八)

2010-03-22 07:47:22 | 都に咲く向日葵

珍之助は背負ってきた行李を捨て、修験者の恰好から地侍へと素早く装いを改めた。弁丸は黙って馬に跨っている。珍之助もすぐさま弁丸の後ろに跨ると「はぁっ!」という気合とともに街道を下り始めた。

「弁丸、さきほどのそなたの投擲は見事であったが、忍の技を修練しているのか?」
馬上で珍之助が話しかけると、弁丸は前を向いたまま首を振ったが返事はなかった。首を振ったことが「否」という返事なのだろう。警戒しているのか、もともと無口なのか珍之助には判断がつかなかったが、話しかけ続けることにした。
「真田といえば、武田家の乱波(らっぱ)とも関わりが深いであろう。腕の立つ忍が多かったのではないのか?」
弁丸は一呼吸置いてぽつりと喋った。
「真田ではお爺様の代から忍を召抱えておる。上杉や北条の間者なんぞに負けぬ技者たちじゃ。その一人に手裏剣の投げ方を習った」
弁丸の口調がどこか誇らしげに聞こえた。
「ほぉ、それだけで…侍の倅にしておくのは惜しいな」
そう言って珍之助は笑った。
「ためらうことなく投げたのがよい」
「ち、父上に必ず避けるはずだから思い切りいけと耳打ちされた…」
少し口ごもるのは、さすがに悪いと思っているのか。
「よいよい。お父上の申すとおりじゃ。そのようなときは決してためらうな。でなければ己が危うい」
弁丸はかすかに頷いた。
「おまえは伊賀者の頭領なのか?」
「そうだ」
「…」
馬上で揺られながらも弁丸がきゅっと身を固くしたのがわかった。

やがて街道の分かれ道に来ると、弁丸は馬の首を右に向けさらに走る。
「このあたりが沼田庄だ。父上が北条と争っている。このあたりの土豪らはいまでこそ真田に与しておるが、いつ裏切るかわからぬ」
道は細くなって緩やかな丘を登っていく。弁丸は頂きで馬を止めた。
「あそこに見えるのが九条という公家の館じゃ」
弁丸は指さした。土塀に囲まれた大きく重厚な屋敷が見える。珍之助は、屋敷自体は手入れが行き届いているように見えるのに、どこか崩れたような印象を受け、全体に禍々しい空気に包まれているような気配を感じた。
「気色の悪い屋敷だと思っていた」
弁丸もそうした気配をずっと前から感じていたようだが、珍之助はこの少年の勘の良さにあらためて感心した。
「案内はここまででよいか?」
「うむ。助かった。弁丸、礼を申す。父上殿にも良しなに伝えてくれ」
「わかった」
珍之助はひらりと馬からと飛び降りた。
弁丸はようやく振りかえったが、顔が紅潮している。
「その…機会があれば忍の技を教えてもらいたい」
「興味があるのか?」
「まあな」
弁丸は恥ずかしそうに横を向いた。
「承知した。そなたは筋がいいからな」
「うん」
「ははは…」
横を向いたままの弁丸が十歳の少年らしい恥じらいを見せたのが珍之助には愉快でたまらなかった。
「さらばじゃ」
珍之助は丘の雑木林の中に飛び込んでいったが、弁丸はその影が見えなくなるまで、馬上でしばらく見送った。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第七十弾。
ハート “ Never ”。服部珍之助と弁丸の触れあい。忍に憧れる少年、弁丸は後の真田幸村(信繁)。ちなみに、兄源三郎は真田信幸(信之)である。
美人姉妹であるウィルソン姉妹を中心としたハートの結成は1972年にさかのぼる。通算8枚目 “ Heart ”(1985)からのシングルカットは、MTVブームにも乗り妹ナンシー・ウィルソン(G&Vo)を前面に出したPVが大好評、全米第4位を獲得。アルバムは全米第1位。

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都に咲く向日葵(八十七)

2010-02-22 05:29:42 | 都に咲く向日葵

「近頃上州沼田あたりで武田でも上杉でもない忍が何やらこそこそ動き回っておる」
腰をかけるなり、いきなり男が切り出した。
「わしは小県を守り、沼田を切り取らねばならぬ。おぬしが織田でも毛利でもかまわぬ。わしは真実が知りたい。駆け引きしている余裕はない」
「そこもとは武田方か?」
「うむ。わしは真田昌幸じゃ。あっちが上の倅で源三郎じゃ」
源三郎は馬の首を撫でながら、はにかむように少し笑顔を見せた。
「先ほどは失礼したが、手裏剣を投じたのが下の倅の弁丸じゃ」
弁丸はにこりともせず涼しげな顔で珍之助を見つめている。
「こら、服部殿に頭を下げぬか!弁丸!」
弁丸は不承不承という態でさっと頭を下げた。
「この兄弟、年は一つしか変わらぬが性格が真逆での…」
昌幸は首筋を掻きながら苦笑いした。
「いやいや、まだ年端もいかぬのに、兄は荒馬を見事に鎮め、弟は手裏剣を正確に投擲する。お二人の行く末が楽しみでござるな」
「そうかの」
昌幸はまんざらでもなさそうににこりと笑った。
「ああ、いやいやそんなことはどうでもいい。先の話の続きじゃ。ええっと…」
「真実を知りたいと」
「そうじゃ、それそれ。ははは」
人懐っこく笑うので珍之助も思わず笑ってしまったが、昌幸はすぐに鋭く突いてきた。
「おぬしの目的はなんじゃ?」
「人を探しており申す」
「人?」
「右大臣家の姫君、くの一…甲賀者に拉致され、沼田におると聞き申した」
「ふむ…。何事か知らぬが、込み入ってそうじゃな。ならば沼田で跋扈しておるのは甲賀者か?」
珍之助は一瞬迷ったが、隠しても無駄であると思った。
「甲賀、黒川銀八。風魔もおるやもしれませぬ」
「風魔?ならば浜松の徳川の仕業か?」
「いかにも」
「上杉は?北条は?」
「どちらも関係ござらん」
「ふん…」
昌幸は考え込んだ。
「忍の動きは小県と沼田には関係なきことか…。じゃが徳川はいけ好かぬ」
「徳川は嫌いでござるか?」
昌幸は吐き捨てるように言う。
「設楽が原以降、徳川は織田の威を借り武田の領国である駿河に侵入を繰り返しておる。おおかた甲州金山を狙っておるのじゃろう」
―武田が滅び、あの豊富な埋蔵量を誇る金山を徳川が押さえることにでもなれば、松平親忠の野望が実現しかねない。徳川の当面の目標は織田方と組んで甲斐を切り取ることであろう。
珍之助はあらためて妖怪のような松平親忠の狙いの恐ろしさを思った。そして真田昌幸が徳川嫌いであることで決心した。
「真田殿、お聞きいただきたいことがござる。信ずるも信じぬもそこもとしだい。信ずるならお力をお借りしたい。信じぬのならお忘れいただき、拙者のこの先のことは捨て置かれたい」
昌幸は複雑な表情を浮かべ、珍之助を覗きこんだが、ぽつりとつぶやいた。
「わかった。話されよ」
珍之助は三書のこと、蟲毒を操る松平親忠のこと、徳川の野望、正子といろはの救出のこと、そして自らは織田方であることなどすべてについて語った。
その間昌幸は言葉を挟まずにただ聞き入っていた。

「…というわけでござる」
「沼田のどこじゃ?」
「は?」
「大納言家の姫君と服部殿の妹御が拉致されている先じゃ」
「九条家の別邸」
「土地鑑はなさそうじゃな。案内してやろう。弁丸、馬を連れてまいれ」
弁丸は頷き小走りで馬に向かう。源三郎が馬の手綱を放すと、弁丸はひらりと跨ると軽快に走っていった。
「真田殿は信じていただけるのでござるか?」
「わからぬ。織田の忍の話を、それもそんな突拍子もない話をいきなり信じろというほうが無理であろう」
「いかにも…」
「じゃが…武田家に危機が迫るなら捨て置けぬ。それに」
「それに?」
「服部殿はなかなかおもしろい。忍とは思えぬ」
昌幸はかっかと笑った。
「武田と織田は敵対しておるが、そなたが徳川の野望を阻止しようというなら利害は一致する。そもそもわしは徳川家康が大嫌いじゃ」
また昌幸は笑った。

弁丸が手綱さばきも見事に二頭の馬を操って戻ってきた。
「沼田へは弁丸に案内させよう」
そういう言うとすっくと立ち上がり、一頭の馬に跨り源三郎を手招きする。そして珍之助のほうを向いた。
「千番坊殿、御用心召されい」と馬上から人懐っこい笑顔を見せ、真田昌幸は源三郎を連れて街道を帰っていった。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十九弾。
スターシップ “ We Built This City ”。真田昌幸の助けで服部珍之助は正子といろはの救出に走る!
スターシップの歴史は1965年に結成された当時流行だったサイケデリック系のジェファーソン・エアプレインにさかのぼる。1974年にはエアプレイン解散を受けてジェファーソン・スターシップと改名。さらに1985年バンドは分裂し名称使用権の訴訟も経て、グレイス・スリックを擁したグループがスターシップと名乗ったという実に紆余曲折のバンド。それでもスターシップとして “ Knee Deep In The Hoopla ”(1985)からシングルカットのこの曲は全米No.1に輝いた。

「We_Built_This_City.mp3」をダウンロード

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都に咲く向日葵(八十六)

2010-02-13 17:25:51 | 都に咲く向日葵

服部珍之助は京都所司代村井長門守の許しを得て、大坂の仕置きは権六に任せ単身上野国へ向かうことにした。

京から近江を経て中仙道に入り美濃を通過した。信濃は西方より織田方の圧力が強まりつつあるとはいえ、いまだ武田勝頼の支配下にある。珍之助は馬を捨て中仙道から外れ、修験者に身をやつして険しい山道から信濃にわけ入った。馬を捨てても、その健脚たるや鬼神のごとき速さである。京の都からわずか五日で信濃に到着した。

翌日には千曲川を越え信濃小県まで来た。沼田まであとわずかの距離である。珍之助は怪しまれないよう歩みを緩めることにした。

目的地の上野沼田を見下ろす峠にある小さな祠の前で肩箱と錫杖(しゃくじょう)を置き、腰を下ろした。上野国沼田は上杉謙信の支配地であり、国境を接する信濃国小県は武田勝頼が支配する。まさに武田上杉がせめぎ合う最前線である。

そこに馬が一頭駆けてきた。珍之助は目を合わさずやりすごすつもりであったが、馬上の「はぁっ!」という掛け声とともに、馬は蹄の音も高く祠の前で立ち止まった。修験者の装いの珍之助が顔を上げると、その馬には武者らしき男が鞍の前後に、年の頃は十歳ぐらいの男児二人を乗せていた。
珍之助は無表情に目礼をした。
先に男児二人が器用に飛び降りると、武者が静かに降りてきた。男児の一人が馬の紐を引く。振り回されることはないのかと少し心配になったが、どうしてどうして男児は堂々と馬の口に結われた紐をしっかり引いており、馬も実におとなしい。
「見なれぬ修験者殿だが…どちらの御仁かの?」
武者は訝っているのだろうが、どこか人懐こい。だが警戒心は体全体から醸しだされている。
珍之助は錫杖を手に油断なくゆっくりと立ち上がり、あらためてお辞儀をしながら答えた。
「拙者、熊野権現にて修行をいたす千番坊でござる。諸国を巡りながら出羽三山へ向かっており申す」
「さようでござるか。このあたりは武田上杉が切り取り合う地。上杉方の間者が山伏姿に身をやつし、小県を徘徊しておりまする。よもや…」
と武者はそこで言葉を切った。武者の表情が先ほどとは一変して険しくなっている。鋭い眼光で珍之助を覗き込んだ。
「…」
珍之助は相変わらす無表情のまま次の言葉を待った。
そのときだった。珍之助は瞬間的に左頬に気配を察知し、咄嗟に左手を出した。棒手裏剣を人さし指と中指の間で捕まえた。
それを見た武者がおもしろそうに言った。
「ほぉ…鮮やかな手さばき。とても修験者とは思えぬが…」
男児の一人が珍之助の左側、馬の陰に立っており、右手に棒手裏剣を持っていた。
「はてさて…何の余興かわかりませぬが、童を使った物騒なことは御免こうむりとうござるな…」
珍之助はさも慌てたように装ったが、武者は意に介さなかった。
「おぬしを遠めで見かけたときから、不思議な氣が流れておった。ゆえに試させてもろうた。悪く思うな。予想通りの結果じゃ。千番坊とやら、おぬし修験者ではなかろう。忍だな?」
「…」
珍之助は表情を変えずに沈黙した。
「修験者を装うということは遠路京の都か大坂あたりから来たようじゃな。ということは上杉や徳川、北条の間者でもないか。何者だ?織田か毛利か?」
「…」
珍之助は沈黙を守ったが、白を切りとおせそうもないことは明らかである。白を切っても間違いなく詰めてくるだろう。忍に敏感なのは、このあたりが武田と上杉の最前線という地勢が影響しているのであり、この武者にとって領内で忍を見つけたなら死活問題に直結することは容易に想像がつく。
珍之助は腹を括った。
「千番坊とは仮初の名。拙者は伊賀の服部珍之助と申す」
「伊賀者か。ならば織田か?」
「主の名はご勘弁いただきたい」
「ははは…まあよい。忍なら当然じゃな。それにしても名乗るとは意外じゃの。伊賀者だとなぜ名乗る?」
「白をきるのは簡単だが斬り合いになる。そこもととは斬り合いたくない」
珍之助はちらりと二人の少年を見やった。
その視線の先を理解した武者に人懐っこい笑顔が戻った。
「わしとて斬り合うつもりはない。わしは無闇に殺生沙汰を起こさぬ。それにしても、おぬし、忍なのに冷徹な殺気が感じられぬ。不思議な男よの」
そういうと男は珍之助の前にどっかと座り、珍之助にも座れとばかりに目で促した。釣られるように珍之助も腰かけた。男児は立ったままである。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十八弾。
マイケル・ジャクソン “ Black Or White ”。正子姫救出編が始まりました。服部珍之助は京を離れ、遠く上州沼田へ。果たして正子姫といろはを救えるのか?!
もはや説明不要。7週連続全米No.1を獲得したこの曲は、“ Thriller ” のPVを監督したジョン・ランディスが再び監督し、CGを活用したPVでも有名。この曲を収録した“ Dangerous ”(1991)も4週連続全米No.1を獲得し、全世界で3,100万枚以上売れたとされる。栄光があまりに大きかったがゆえに孤独だったマイケルの冥福を祈ります。

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都に咲く向日葵(八十五)

2010-02-12 05:33:43 | 都に咲く向日葵

楓が少ない荷物をまとめ、ひっそり加茂屋を出て行こうとしたとき、梓が声をかけた。
「楓、これを持って行きなされ」
梓は金子と捨丸の命を奪わなかった懐刀を取りだす。
「これは…」
楓は驚き、手が出なかった。見かねた梓が楓の手を取って握らせた。
「…かたじけなく存じまする」
楓は深々とお辞儀をした。
「どこに参るかわからぬが、道中必要であろう」
「黒川は服部党には敵いませぬな」
楓が穏やかに言うと、梓も静かに返した。
「情けは身を助けるが、仇にもなる。明日をも知れぬ戦乱の世にあっては仇になるほうが多かろう。服部党はみなそれを知っている。それでも信じることに賭けることは必要じゃ。信じて己が背を預けるは、己が命を預けるも同義。頭領はそれで死線を潜ってきた。己の生き様を信じておられる。そんな頭領をわれらは信じておる。それだけのことじゃ。それで黒川との対決に勝てるほど甘くはない」
「黒川党は恐怖で縛られておりまする。信義も憐憫もございませぬ。ですが、服部党によって人の拠り所は恐怖ではないことを思い知りましてございまする」
「われらとて答えなど持ち合わせておらぬ。いずれにしても、そなたとはまた会えるような気がする」
「ならば、助けていただいたこの命、大事にせねばなりませぬな」
「行くあてはあるのか?」
梓はやさしげに問うた。
「ありませぬ。抜け忍となった以上、もはや甲賀の里にも戻れませぬ。それに黒川党の追っ手があるやもしれませぬゆえ、しばらくは放浪いたす所存」
楓は視線を落とす。
「行くあてがなくなれば、またここに戻ればよい」
その言葉に楓は思わず顔を上げた。視界がぼやけているのは気のせいか…。

しかし、ずっと腹の中にわだかまっていたことが堰を切りだした。
「…お言葉は嬉しゅうございますが…わ、わたくしは服部党の佐吉殿や絹殿に手をかけっ…」
最後は自分でも驚くほどの悲痛な叫び声であった。忍でもないのに絹の凄まじいまでの執念を思い起こす。
「言うな。そなたにとってはそれが役目。立場が変われば我らとて同じこと」
「梓さまっ」
楓の胸が熱く高鳴る。
「頭領も感づいておられるじゃろう。だが何も申されぬ。それがすべてじゃ」
「申し訳ありませぬ…」
楓はまた深々と頭を垂れた。服部珍之助ならそれぐらいお見通しなのは当たり前であった。それすら気づかぬ自分の愚かさを恥じた。
「それでも行くあてがないなら服部党はそなたを受け入れる。なぜなら忍は技量だけではない。信義を解し、大義を重んじることで生まれる矜持がさらに忍を強くする。そなたは今苦しみながらも畜生道から解脱しようとしている。頭領はそんなそなたを見捨てることができぬお人じゃ。後悔するなら前を見よ。ともに闘うことで恩に報う手もある」
梓が穏やかにそう言うと楓は首を振りながら言った。
「服部党を裏切ったこの身、しかも、わたくしは甲賀者。黒川の配下としてただ殺戮に明け暮れておりました。信義もなければ大義も持ち合わせておりませぬ」
「頭領とともに戦乱の世を終わらせる礎となることが大義じゃ。信義は、そなたが実感したであろう」
梓は楓の手を取った。
「梓さま…」
「楓、あれを見よ」
加茂屋の玄関先に捨丸が少し居づらそうにぽつんと立っていた。
「捨丸さん」
楓は自然と頭を垂れた。土間に水滴が落ちた。
「捨丸もそなたを信じておる。はじめはどうであれ、そなたは最後には救うたのじゃ。その信義は忘れぬ。それが服部党である」
「はい…」
「行くがよい」
「ありがとうございました。拾うていただいた命、いずれ必ず恩義に報いまする」
楓は梓に一礼し、最後に捨丸にも一礼し、加茂屋を後にした。
珍之助の着物と同じ匂いのする風が通り抜けた。思えば甲賀史上最強のくの一とも評された自分は、不思議な空気をまとう男と出会ったときから忍としては綻び始めていたのである。だが、それは救いの道でもあったのだ。楓は確信していた。
通りに出てから楓はもう一度振り向き、加茂屋に向かって深々とお辞儀をして歩き始めた。これまでの罪による罰はいくらでも受ける。服部珍之助のためならこの命いくらでも捧げる覚悟はできている。だが、その前に楓には行かねばならないところがある。
五月の京の日差しはどことなくやさしげに楓の背を温めていた。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十七弾。
ホイットニー・ヒューストン “ Call You Tonight ”。楓編の最終回でした。漂流していた楓はようやく岸にたどり着いた。生まれ変わった楓に期待。
7年ぶりのディーヴァ復活のアルバムで初登場全米No.1を獲得した “ I Look To You ” (2009)からのファースト・シングル。80年代のような高音は失った。だが、スランプや薬物、離婚など苦しみぬいた末に復活した彼女は、それ以上に多くのものを得た。抑制の効いた歌唱が逆に涙なしには聴けなくさせる。間違いなく彼女にとって最高傑作の曲。

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都に咲く向日葵(八十四)

2010-02-11 13:17:38 | 都に咲く向日葵

楓は上野国沼田にある関白九条家の荘園屋敷に黒川一党が正子姫といろはを拉致していると告げた。
「上州とはまた遠路であるな…」
珍之助は、二人が上州まで連れて行かれたであろう道中を思うと、ひどくやりきれない気分に襲われた。絶句する珍之助に楓が逆に問いかけた。
「このわたしを信じまするのか?」
楓はどこか悲しげでさえあった。
「信じる」
珍之助はあっさり言いきった。楓は明快な返答に思わず瞬いた。
「頭領…」
権六は辛うじて「罠でござる」という次の言葉を飲み込んだが、不安さは顔に出ていた。そして権六は助けを求めるように今度は梓を見やった。
「頭領、その根拠は?」
梓が静かに問う。
「九条家は松平の頃より任官奏上で便宜を図ってまいった。徳川になってもその関係は続いておろう。それに上州沼田といえば、上杉と武田が覇権を争う地でもある。争乱の地ならば人を隠すには格好の土地」
「しかし、頭領…」
権六は忍として技量の高い楓が簡単に口を割ると思えなかった。
「ここで偽りを申しても楓に何ら利するものはない。そもそも黒川には忠誠心で仕えているようにも見えぬ。役目を果たすことが第一なら、捨丸を刺し、三書を持って今頃浜松か沼田へ向かっておるだろうに。捨丸の命を取らなかった時点で楓は黒川を裏切ったも同然」
珍之助はここまで一気に喋ってから息を継ぎ、
「まあ、何より忍としての勘が俺に囁くのだ」
そう言って、はははと乾いた声で笑った。
梓もつられて笑いながら「御意」と言い、権六は何やらあきらめ顔で頷いた。
それを見た楓は頬が熱くなるような感覚を覚えたが無言のままでいた。沙汰はまだ下っていない。そんな楓の心情を見透かしたように珍之助が告げた。
「楓、今そなたを斬ることはたやすいが、くの一ではなくなった年端もいかぬ娘を斬っては気分が悪い。縄を解くので好きにしろ」
え?という声とともに、楓は珍之助を見返した。
「頭領、それはあまりに寛大が過ぎまする…」
権六がさすがに苦言を呈する。
「何やら憑物が落ちたようじゃ。楓を斬っても何の得にもならぬ。無用な殺生をせぬのが服部党の定め。権六、おぬしも忘れたわけではあるまいて」
珍之助が飄々と述べると権六はまだ何か言いたそうであったが、梓が「頭領の沙汰のとおりじゃ」の一言でその場は収まった。

楓の縄が解かれた。
龍眼で楓の一部始終を見守っていた梓は、黒川党最強の忍の表情にどこか安堵感が漂い、鉄仮面の下から年相応の娘子の表情が時折顔を見せることに気づいていた。

楓も自身に変化の兆しを感じていた。こころの奥底に重しをつけて沈めたはずの人としての感情がふわりと浮かび上がろうとしていた。
ただし、それは痛みをも伴う。
急激に佐吉と絹に関する記憶と後悔、そして恐怖の念が膨らんできた。役目とはいえ、服部珍之助に二度までも助けられたというのに、また裏切った自分があまりに情けない。いっそ斬られたほうがよかったかもしれない。死に対する恐怖はない。だが、人を傷つけることに恐怖を感じ始めていた。
佐吉と絹の件は詫びて許されるものでもないであろう。それでも詫びねばなるまい。だが、楓はそれによって服部珍之助に決定的に見放されるのも怖かった。

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十六弾。
キャリー・アンダーウッド “ Wasted ”。楓への寛大な沙汰。信じることが服部党の信条。楓はもう殺人機械ではない。
デビュー・アルバム“ Some Hearts ”(2005)からシングルカットされ、いきなりビルボード・カントリーチャート1位に輝いたこの曲は、キャリーの圧倒的な歌唱力を堪能できるミディアム・ナンバー。2007年グラミー賞最優秀新人賞も受賞。このアルバムは超名作。

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都に咲く向日葵(八十三)

2010-02-06 12:18:55 | 都に咲く向日葵

だが、捨丸は目を開けることができた。
楓は本能的に懐刀を繰り出したものの、捨丸に刀が当たらぬよう咄嗟に角度をつけて飛ばしたのである。本能と理性がせめぎ合い、瞬間的な差でほんとうにぎりぎりの角度となったが、辛うじて捨丸の横を通過した。風切音は捨丸の左の耳の横をかすめるように飛んで行った懐刀が残したものであった。
「楓さん…」
捨丸はもう一度同じ言葉を発した。急に動悸が激しくなり息苦しい。
「…」
楓の体から殺気が抜け、手からは三書がこぼれ落ちた。
「ずっと…ず…っと…騙していたんだね…」
「…」
「ひどいよ」
「すま…ぬ」
振り絞るように楓が呟いた。
「だが…」
楓は言い訳を言おうと顔を上げたが、捨丸は目を合わさない。楓は言い訳が空を切ることに気づいたが、同時に役目に関して言い訳などしたことがなかった自分が、言い訳をしようとしていることですべてが終わったと悟った。
そして捨丸と無言で向かい合う時間が流れた。捨丸はかすかに泣いていた。

どれほどの沈黙だったのか、二人にその感覚が失せかけてきたところへ梓が帰ってきた。人の気配とただならぬ雰囲気に梓は龍眼を発動させた。
「そなたたち…いかがいたした?」
捨丸の背後の壁には懐刀が突き刺さり、楓の足元には三書が落ちている。
「申し訳ありませぬ」
ようやく楓が動き、頭を下げた。捨丸も呪縛が解けたように大きく息を吐きだした。楓が言葉をつなぐ。
「斬り捨ててくだされ」
「そなた、抜け忍したのではなく、もともとそれが目的で服部党に潜り込んだのか?」
梓が三書を指した。捨丸に合図して拾わせ、受け取った。
「はい」
「黒川の差し金か?」
「いかにも。さあ斬ってくだされ。もはやまこと甲賀黒川党へは戻れませぬ」
「斬ることはたやすいが、そなた捨丸の命を取らなんだ」
「え?」
捨丸が驚いたように顔を上げた。
「ならばそなたの命を取るわけにはいかぬ」
楓は梓の言葉に耳を疑った。梓は捨丸のほうを向いて言った。
「捨丸、楓ほどの手練の忍なら、この距離で外すはずがない。忍の本能で体が反応したのであろうが、相手が捨丸だったので咄嗟に外したのであろう。それ自体おそろしいばかりの技じゃ」
「そんな…」
捨丸の頬をまた涙が伝わったが、この涙はさきほどよりしょっぱかった。
「情けは要りませぬ。斬ってくだされ。斬らぬと言うなら自ら絶つまで」
「まあ待て。頭領がおられても同じことを言うはずじゃ。服部党はむやみに殺生いたさぬ」
「…」
楓は鼻に服部珍之助の匂いを感じた気がした。
「いまここでは斬らぬが、このまま捨て置くわけにもいかぬ。頭領が帰られるまで縛らせてもらう。その後の処遇は頭領に決めていただく」
「…」
「よいな?」
「はい」
楓が膝をついた。
捨丸は安堵のため息をついた。

知らせを受けて大坂より戻った服部珍之助は、後ろ手に荒縄で縛られ、舌を噛まぬようさるぐつわをはめられた楓を前に複雑な表情であった。
「捨丸の命を取らなんだことには礼を言う。しかし、まさか大胆にも服部党に入り込むとは…。三書を奪うためなのか?」
楓は珍之助を見て小さく頷いた。
「黒川が徳川家康に与していると申しておったが、三書探索は黒川が行っているというのか?」
再び楓が小さく頷いた。
珍之助は楓に近寄り、膝をついてさるぐつわを解いた。
「黒川はどこまで知っておるのだ?三書がもつ意味もか?」
「はい…」
「徳川、いや賀茂の怨念、野望もか?」
「いかにも。ゆえに徳川家康と取引し闇の世界の支配者として君臨いたしたいのだと」
「そうはさせぬ」
「…」
楓は頭を下げた。
珍之助は立ち上がりながら聞いた。
「あらためて問う。花山院家の姫君と妹いろはの所在を知っておるなら申せ」
楓は見上げるように珍之助を見やったが、そこには冷徹なくの一の目はなく、女のそれであった。しかし感情を押し殺して言った。
「申し上げます。が、それがまことのことかどうかわかりませぬぞ」
「なんだとっ!頭領のお情けをなんと心得るっ!」
ともに戻った権六が刀の束に手をかけた。
「まあ待て、権六。確かにまことかどうかはわからぬ。だが信じるか信じないかは俺が決めることだ。申してみよ」

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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十五弾。
スパンダー・バレエ “ Highly Strung ”。連載再開です。楓の秘密が暴かれた。珍之助は正子姫、いろはにたどり着けるのか…。
80年代前半、イギリスから沸き上がったニュー・ロマンティックスの流れから登場したスパンダー・バレエ。その通算4枚目となる“ Parade ”(1986)から2枚目のシングルカット。キレのいいリズムが印象的なナンバーは全英第15位をマーク。全米5位内に入った“ True ”というバラードで有名な彼らだが、珍的にはこのアルバムが最高傑作。

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