梓も感情を出さずに静かに自己紹介を行った。
「梓と申しまする。わたくしは目が見えませぬゆえ、ご面倒をおかけするやもしれませぬが、よろしく頼みます」
梓の言葉に権六は目をむいた。
―これでは自分が『盲目の巫女』であると言っているようなものではないか…。何を考えておられる…。
権六の心配をよそに楓を静かに見据える梓はまるで目が見えているようであった。それに対し楓は梓の見えぬ視線を受け止めながら、氷のような無表情のままであった。その場で時が刻むのをやめたかのように、二人を除く全員に緊張が伝播し、息を呑んで次に起こることに身構えた。
やがて楓は表情を一切変えることなく、深々とお辞儀をしてその場を辞した。梓を除く全員が安堵の溜息を小さくついたのは言うまでもない。
「梓殿、何ゆえ…」
権六は眉をひそめ、やや非難めいた口調で梓を質した。
「盲いていることなどいずれ知れること。それまで隠しておるほうが不自然であろうが」
「はあ、まあそれはそうでござるが…ここにやって来たばかりで、楓の真意が不明な段階で明かさずとも、梓殿なら龍眼を用いれば盲いていることを伏せれましょうに…」
「そんなことに龍眼を用いては清明様に申し開きが立たぬ。それに楓が甲賀黒川と通じておるならいずれ不審な動きを見せるであろう」
「それでは梓殿がまるで囮ではござらぬか…。危険すぎまするぞ」
「わたしのことなら心配はいらぬ。自分の身は自分で守ってみせる」
「はあ…」
梓が涼しい顔でそう言うと権六は頭を掻きながら頷くほかなかった。
その後権六は捨丸にそれとなく楓の行動を見張るように命じた。
◆
それから数日が過ぎた。楓は依然として無表情であり無口であったが、よく働いた。権六が警戒を続けていたものの楓に不審な動きは見当たらなかった。捨丸も何かにつけ楓を見張るともなく見ていたが、黙々と下働きをこなすだけであった。
「権六様、やはり甲賀を出奔したというのはまことではございませんでしょうか」
捨丸は少しずつ楓を信用し始めていた。
「そう決めつけるのはまだ早い」
権六はあっさり首を振った。
「そうでございますかね…」
「なんだ?不服そうだな」
「そういうわけではございませぬが…」
「これぐらいで信用していては、この先すぐにくの一に籠絡されてしまうぞ」
「な、なにを…」
「ま、そのうち室町にでも連れてやる。女子を抱けばそなたも一人前じゃ」
「そのようなことはまだ早よぉございまする」
「ははは、赤くならぬともよい。それも忍の修行じゃ」
「…」
捨丸は俯いてその場を離れたが、楓のことが敵には思えなくなってきていた。
楓が廊下の拭き掃除を行っているとき、珍之助が通りかかった。
「精が出るな」
楓は一瞬手を止めて顔を上げると小さくお辞儀をし、再び拭こうとした。だが珍之助はその場から離れない。
「あの…」
「ん?」
「…」
楓は雑巾を持ったまま無表情に珍之助を見上げた。
「あ、すまぬすまぬ、邪魔をした」
珍之助はすぐに一歩下がった。
「いえ、そうではございませぬ…」
「なんだ?」
「その…わたくしに何かご用でもございまするか?」
「ああ、いや…用というほどではない…が…」
「はい?」
「黒川銀八は、俺の妹のいろはと花山院右大臣家の姫君を拉致しておる。そなた居場所を知らぬか?」
「黒川がお二人をかどわかしたことは存じておりまするが、居場所までは残念ながら…」
「そうか…」
「申し訳ありませぬ」
「いや…。邪魔をした。続けてくれ」
そう言って珍之助は立ち去った。楓は無言でお辞儀をした。
そのとき楓が指を白くさせるほどに強く雑巾を握り締めたことに珍之助は気づかなかった。
珍之助は廊下を歩きながら考えていた。
楓がどこまで知っているのかわからない。知っていたとしても言わぬであろう。その場合、自分の弱みを見せることにもつながる。それでも訊かずにはいられなかった。
しかし楓は知らぬと言った。
―簡単にわかれば苦労はせぬな。
珍之助は気を取り直すように袖に突っ込んでいた両手をすぱっと抜き出し、自室へと向かった。
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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十四弾。
コリー・ハート “ Never Surrender ”。周りの心配をよそに泰然とした梓、謎を秘めたままの楓、そして心に穴が開いたままの珍之助。それぞれの想いが加茂屋で交錯する。
80年代、その確かな歌唱力と甘いルックスで一世を風靡したカナダ出身のコリー・ハート。この胸キュン系の応援歌は全米第3位の大ヒット。2枚目となるアルバム“ Boy In The Box ”(1985)収録。
4.5MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。