goo blog サービス終了のお知らせ 

語り得ぬ世界

現実逃避の発展場 Second Impact
since 2014, The First Departure:2005

都に咲く向日葵(七十二)

2008-12-29 08:00:03 | 都に咲く向日葵

梓も感情を出さずに静かに自己紹介を行った。
「梓と申しまする。わたくしは目が見えませぬゆえ、ご面倒をおかけするやもしれませぬが、よろしく頼みます」
梓の言葉に権六は目をむいた。
―これでは自分が『盲目の巫女』であると言っているようなものではないか…。何を考えておられる…。
権六の心配をよそに楓を静かに見据える梓はまるで目が見えているようであった。それに対し楓は梓の見えぬ視線を受け止めながら、氷のような無表情のままであった。その場で時が刻むのをやめたかのように、二人を除く全員に緊張が伝播し、息を呑んで次に起こることに身構えた。
やがて楓は表情を一切変えることなく、深々とお辞儀をしてその場を辞した。梓を除く全員が安堵の溜息を小さくついたのは言うまでもない。

「梓殿、何ゆえ…」
権六は眉をひそめ、やや非難めいた口調で梓を質した。
「盲いていることなどいずれ知れること。それまで隠しておるほうが不自然であろうが」
「はあ、まあそれはそうでござるが…ここにやって来たばかりで、楓の真意が不明な段階で明かさずとも、梓殿なら龍眼を用いれば盲いていることを伏せれましょうに…」
「そんなことに龍眼を用いては清明様に申し開きが立たぬ。それに楓が甲賀黒川と通じておるならいずれ不審な動きを見せるであろう」
「それでは梓殿がまるで囮ではござらぬか…。危険すぎまするぞ」
「わたしのことなら心配はいらぬ。自分の身は自分で守ってみせる」
「はあ…」
梓が涼しい顔でそう言うと権六は頭を掻きながら頷くほかなかった。
その後権六は捨丸にそれとなく楓の行動を見張るように命じた。

                   ◆

それから数日が過ぎた。楓は依然として無表情であり無口であったが、よく働いた。権六が警戒を続けていたものの楓に不審な動きは見当たらなかった。捨丸も何かにつけ楓を見張るともなく見ていたが、黙々と下働きをこなすだけであった。
「権六様、やはり甲賀を出奔したというのはまことではございませんでしょうか」
捨丸は少しずつ楓を信用し始めていた。
「そう決めつけるのはまだ早い」
権六はあっさり首を振った。
「そうでございますかね…」
「なんだ?不服そうだな」
「そういうわけではございませぬが…」
「これぐらいで信用していては、この先すぐにくの一に籠絡されてしまうぞ」
「な、なにを…」
「ま、そのうち室町にでも連れてやる。女子を抱けばそなたも一人前じゃ」
「そのようなことはまだ早よぉございまする」
「ははは、赤くならぬともよい。それも忍の修行じゃ」
「…」
捨丸は俯いてその場を離れたが、楓のことが敵には思えなくなってきていた。

楓が廊下の拭き掃除を行っているとき、珍之助が通りかかった。
「精が出るな」
楓は一瞬手を止めて顔を上げると小さくお辞儀をし、再び拭こうとした。だが珍之助はその場から離れない。
「あの…」
「ん?」
「…」
楓は雑巾を持ったまま無表情に珍之助を見上げた。
「あ、すまぬすまぬ、邪魔をした」
珍之助はすぐに一歩下がった。
「いえ、そうではございませぬ…」
「なんだ?」
「その…わたくしに何かご用でもございまするか?」
「ああ、いや…用というほどではない…が…」
「はい?」
「黒川銀八は、俺の妹のいろはと花山院右大臣家の姫君を拉致しておる。そなた居場所を知らぬか?」
「黒川がお二人をかどわかしたことは存じておりまするが、居場所までは残念ながら…」
「そうか…」
「申し訳ありませぬ」
「いや…。邪魔をした。続けてくれ」
そう言って珍之助は立ち去った。楓は無言でお辞儀をした。
そのとき楓が指を白くさせるほどに強く雑巾を握り締めたことに珍之助は気づかなかった。

珍之助は廊下を歩きながら考えていた。
楓がどこまで知っているのかわからない。知っていたとしても言わぬであろう。その場合、自分の弱みを見せることにもつながる。それでも訊かずにはいられなかった。
しかし楓は知らぬと言った。
―簡単にわかれば苦労はせぬな。
珍之助は気を取り直すように袖に突っ込んでいた両手をすぱっと抜き出し、自室へと向かった。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十四弾。
コリー・ハート “ Never Surrender ”。周りの心配をよそに泰然とした梓、謎を秘めたままの楓、そして心に穴が開いたままの珍之助。それぞれの想いが加茂屋で交錯する。
80年代、その確かな歌唱力と甘いルックスで一世を風靡したカナダ出身のコリー・ハート。この胸キュン系の応援歌は全米第3位の大ヒット。2枚目となるアルバム“ Boy In The Box ”(1985)収録。

「Never_Surrender.mp3」をダウンロード

4.5MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十一)

2008-10-19 17:44:37 | 都に咲く向日葵

「拙者は反対でござる」
権六は不機嫌そうに言った。
珍之助と権六と梓が三角形になって座っていた。楓を加茂屋に置くことを珍之助が一存で決めたことに権六は不満であった。
「何か思惑があるに決まっておりまするぞ。あのような甲賀女を置けば必ずや厄介事が起きまする」
「思惑があるなら、あえて引きこむのも手であろうが」
「そもそも色仕掛けにでもかかったのではござらぬのか?」
「ば、ばかを申せ」
「慌てるところを見ると『さもありなん』ではありませぬのか。頭領は女子にはおやさしゅうございまするからな」
「まあまあ権六殿、頭領にもお考えがあってのこと」
梓は苦笑いしながらそう言った。
合流した梓の発案で伊賀服部党では珍之助を頭領と呼ぶことにしていた。一党の結束を固めるためである。
「梓殿は何とも思われぬのか?権六は胸騒ぎがいたしまする。あの女の眼、あれは間違いなく、鬼をも喰らう羅刹女でござるよ」
「確かに怜悧な眼差しではあるが、どこか達観したところもある」
「梓殿までそんな…」
権六は自分が孤立していることに気づき、不満気な気分も萎えてきた。
「黒川の思惑がそこにはあるにせよ、向こうから飛び込んできた手がかりをむざむざ返すこともなかろう。楓もこっちが警戒していることは百も承知のうえだ。泳がして様子を見ればいい。何もなければそれでいいではないか。楓ほどの腕なら戦力にもなる」
珍之助はこれが結論とばかりにきっぱりと言い切った。
「承知…」
権六は不承不承頷いた。
「承知」
梓も胸騒ぎがするのだが、珍之助が言うようにここは状況を受け入れるほうが得策だと考えた。
「権六、店の雑用など楓に指示をしてくれ」
「拙者がぁ?」
権六は思わず顔を歪めた。
「嫌なのか?」
「頭領に逆らうつもりはござらぬが…」
「楓にもそう申し伝えてある」
「はあ…承知ぃ…」
権六のわかりやすい態度に梓は堪えきれずに笑いだした。
「権六殿は正直じゃのぉ。それでは羅刹女に喰われてしまうぞ」
「梓殿ぉ…」
情けない顔の権六に珍之助と梓は顔を見合わせて笑った。

                   ◆

「権六様」
帳場横にいた楓が戻ってきた権六を見つけてさっそくやってきた。
「なんだ?」
権六は目を合わさずに不機嫌そうに答える。
「わたくしめにご指示をくださいまし。何でもやりまする」
「ならば店先の雪を片付けて掃除をし、帳場の廊下を拭き清めてくれ」
「かしこまりました」

楓は帳場で伝票の整理をしていた捨丸に掃除道具の場所を聞き、店先の雪かきと掃除を始めた。
店先の掃除をこなすと、次に楓は帳場の雑巾がけを始めた。冷たい水にたちまち手は真っ赤になったが、楓は気にする素振りも見せず、無言で廊下から調度類まできれいに拭き清めていった。
捨丸は伝票整理の手を止め、そんな楓の後姿を見るとはなしに見ていた。甲賀では上忍であろう楓が進んで下働きをこなすところに感心していたのである。捨丸はそのまま視線を権六に飛ばしたが、権六は苦虫を噛み潰したような顔つきで帳場に座り何か用事をしているが、知らぬ顔を決め込んでいるように見えた。

だが権六は楓の行動に警戒を怠ってはいなかった。
―いずれ尻尾を出すに決まっておる。

楓は拭き掃除を終えると、捨丸に雑巾を干す場所を聞くなどてきぱきと雑用をこなしていく。
楓がそんな真面目な態度を示しても、権六が気になったのは楓が無表情であることだった。およそ感情というものが読み取れない。くの一ならばそうした訓練を施されてきたのであろうが、権六は忍の直感で寒気がする。そこへ梓が現れた。権六は寸でのところで表情に出さなかったが、梓の大胆さに舌を巻いた。

珍之助には「盲目の巫女」について答えを出すようなものだから楓の前に姿を晒すのは慎重にと言われていたが、梓はいずれわかることだからこそこそしても仕方がないと考えていた。それに龍眼を発動させて楓を見通したくもあった。

梓が帳場の横に腰掛けていると、奥から楓が戻ってきた。
楓は梓を見つけると頭を下げた。
「楓と申します。本日からこちらでお世話になりまする。どうぞよしなに」
楓はやはり表情を変えることはない。権六は梓が盲目であることに楓は気づいていないように思えた。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十三弾。
ブリンドル “ As Long As It's Real ”。伊賀服部党では楓に対し警戒を怠らないが、楓は臆することなく甲斐甲斐しく働く。楓の真意はどこにあるのか。本当に加茂屋に溶け込もうとしているのか…。次回梓と楓の邂逅で…。
カーラ・ボノフ、ケニー・エドワーズ、アンドリュー・ゴールド、ウェンディ・ウォルドマンからなる米国西海岸の超シブめのグループ、ブリンドル。復帰2作目にあたる “ House Of Silence ”(2001)収録のこの曲はカーラのしっとりした歌声が美しい絶品バラード。

「As_Long_As_Its_Real.mp3」をダウンロード

5.2MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十)

2008-10-12 10:26:23 | 都に咲く向日葵

珍之助は念のため梓には席を外させて、一人で楓と対峙した。
「おぬし、黒川銀八とともに行動していたのではないのか?」
「さようでございます」
「出奔したと言うなら、なぜだ?」
「黒川は鬼でございまする。平気で身内を斬り、また斬れと命じまする。忍や武家でない者も拷問にかけ、挙げ句斬れと申しまする。わたくしは幼き頃より黒川に仕える身として命に従ってまいりましたが、これ以上は耐えられませぬ」
楓の表情には迷いも憂いもなく、黒川を拒絶する思いを端的に吐露した。
「忍なら暗殺、拷問は避けて通れぬであろうが」
「伊賀服部党は役目に忠実であっても無駄な殺生はなさいませぬ。特に服部珍之助様は…その…清廉潔白で…おやさしくて…」
楓の表情が初めて動いた。最後の言葉を口にした際には言っていいのかどうかという迷いがあった。珍之助は武蔵屋での遊女小桜としての出会いを思い出した。
「戦乱の世にあっては清廉潔白もなかろう。伊賀服部党も暗殺、拷問に手を染める。やさしさは命取り以外の何ものでもない」
「…」
楓は少し目を伏せた。
「それに、おぬしとは斬りおうたではないか」
「でも…助けていただきました」
「覚えておらぬな」
「かまいませぬ。それでも縋るなら服部珍之助様と決めておりました」
「俺に話とは何だ?」
「ここに置いていただきとうございまする」
「…」
「ご無理を承知でお願いしておりまする。何とぞ…」
楓が畳に額をつけるように頭を下げた。
「忍としてでなくて下女としてでかまいませぬ。台所、掃除、洗濯諸事全般こなしまするゆえ…」
「俄かに信じろと言うほうが無理な話だ」
「二、三日置いてくださり、そのうえでご判断くださいまし」
「あきらめろ」
「では黒川に関する重要なことをお教えいたしまする。それで信じていただきとうございまする」
「どういうことだ?」
「黒川銀八は徳川家康に与しておりまする」
「徳川家康…?」
盲目の巫女を探す黒川が徳川家康に近いことは珍之助にはわかっていた。三書についてどこまで黒川が掴み、こちらが掴んでいるのか、この先の攻防を考えれば緒戦の状況把握は重要な要素である。さすがに楓を全面的に信じることはできないので、手の内を明かすわけにはいかない。珍之助は意外な名前だという風情を装った。
「はい。黒川が石山本願寺に仕えておりまりしたのはご承知のとおり…」
ここで楓は一息ついた。少し間を空けてから静かに言った。
「黒川の究極の野望は闇の世界を支配すること」
「闇の世界?」
「つまりは裏側の世界でございまする。武家が昼の世界の盟主なれば、黒川が夜の世界の盟主。そのためなら主や味方をも平気で裏切り、邪魔とあらば身内をも斬る。それが黒川銀八という男。今は徳川家康殿に付き従い、虎視眈々と闇の世界の支配を狙っておりまする」
「天下には徳川家康ではなく信長様がもっとも近い存在であろう」
「徳川殿は織田の天下のその後を狙っておられまする」
「うむ…」
珍之助は一連の三書のことを思い出した。辻褄が合う。
「黒川はそこに賭けたのでございます」
「しかし、織田と徳川は同盟を結んでおる。表立って敵対はできるまい」
「珍之助様は徳川殿の野望をご存知かと思ぉておりましたが…」
楓は表情を変えることなく、さらりと言ってのけた。
「徳川家康の野望…?」
珍之助は楓がかまをかけてきたのかと考え、咄嗟にとぼけることにした。
―こやつ、どこまで知っておるのか。何かを企んでおるのか…。
「織田信長を裏切るやもしれませぬ」
二人は沈黙した。戦乱の世にあって裏切りはつきものである。今さら徳川の裏切りの可能性など折込済みだ。思わせぶりな言い方でかまをかけてきて、それを外すと至極もっともなことを言う。珍之助は楓に何らかの企図があることを確信した。ここは乗らないほうがいいと判断した。
「されば、黒川銀八を裏切ったおぬしは命を狙われるのではないのか?」
「おそらく…」
「おぬしがここに来れば、伊賀服部党はさらに危険が増すというもの」
「ならば…」
楓は急に珍之助ににじり寄り、
「楓を斬り捨ててくだされ」
正面から珍之助の目を見据え静かに言い放った。
珍之助は目線を外すことなく、また微動だにせず楓を見返したが、ふっと緊張感を解き、少し微笑んだ。
「おぬし、俺が斬らぬと確信しておるな」
「珍之助様なら斬られてもかまいませぬ」
「色仕掛けは通じぬぞ」
「滅相もございませぬ」
楓も微笑んだが、珍之助から涼やかな視線を外さない。
「ここに居たいのか?」
「はい」
「了承したとしても、おぬしを信用したわけではない」
「かまいませぬ」
「ならば勝手にいたせ。仔細は権六の指示に従え」
「かたじけのうございまする」
楓は深々と頭を下げた。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十二弾。
ケイト・ブッシュ “ Wuthering Heights ”。伊賀服部党に飛び込んできた楓。謎を秘めた楓を珍之助はあえて呼び込む道を選ぶ。この先いったい何が待ち構えているのか?!
鮮烈なデビュー曲として英国のシンガーソングライター、ケイト・ブッシュの印象を決定付けたこの曲はケイト20歳のデビューアルバム “ The Kick Inside ”(1978)収録。エミリー・ブロンテの小説『嵐ケ丘』にインスパイアされたというこの曲は4週連続全英No.1、アルバムも全英第3位と大ヒット。ちなみに日本でのデビュー曲は同アルバム収録『天使と小悪魔(原題 Moving )』であり、B面がこの曲であった。

「Wuthering_Heights.mp3」をダウンロード

4.1MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(六十九)

2008-10-04 07:35:43 | 都に咲く向日葵

天正四年正月。京の都には寒波が押し寄せ、内裏をはじめ洛中洛外とも一面の雪化粧が施され世界が一変した。純白の化粧は都に蠢く欲望や欺瞞、陰謀といったどす黒い蟲をも覆い隠したように見えた。

加茂屋の前に積もった雪を掻き出していた捨丸は、虚ろな眼差しで店の前に立っている女を見つけた。
「あの…もし?」
捨丸は寒気で紅潮した頬を膨らませ、横から近づき女に声をかけた。
捨丸はまだ十二歳、服部党の下忍となるべく修行も兼ねて、伊賀の里から加茂屋に奉公に出されていた。来年の春には下忍として服部党に加わることになっている。
女は都全体が雪で白く覆われるほどの寒さの中でも薄手の小袖に手荷物だけという身なりで、捨丸も最初は怪しんだのだが、漆黒の髪に彩られた雪の精と見紛うばかりの色の白さに里の姉を思い出し、警戒心は和らいだ。捨丸の姉は今年で十八、とてもおとなしい感じがするが、里では評判の美しい女で捨丸も鼻が高かった。しかも器量の良さだけではなく、弟にはやさしい姉であった。捨丸にはこの美しい女に姉の面影を一瞬見てとれた。
「もし?」
再び捨丸が声をかけると、女はようやく振り向いた。
「どうかないさましたか?加茂屋に何か御用でも?」
「はい…。こちらに服部珍之助様がいらっしゃるかと…」
さすがに捨丸の警戒心が一気に首をもたげた。里以外の者で頭領の名を口にする者が突然来るなど考えられない。いや、そもそも里の者でもここで頭領の名を口にするはずもない。
「どちら様で?」
「楓と申しまする。珍之助様に御目もじいたしとう存じまする」
「楓様…?」
捨丸は楓という名に思い当たる人物はいない。
「どちらの楓様で?」
「甲賀の楓でございまする」
「なにっ?!」
ここを知る甲賀者とは佐吉の命を奪った黒川党ではないのかと捨丸はすぐに思い至ったものの、自ら名乗るということはそうでもないのかとも思う。捨丸はしらばっくれて追い返すべきかどうか迷ったが、姉の面影を持つことが最後は決め手になった。
「しばし待たれよ」
捨丸は女の脇を駆け足ですり抜けて加茂屋の中に飛び込み、帳場にいた権六に仔細を告げた。
今度は権六が驚く番であった。
「甲賀の楓だとっ!」
権六が表に飛び出すと、そこには楓が表情も変えずにその場に佇んでいた。
「おまえは小桜…」
かつて武蔵屋で遊女として現れた小桜が楓という名の甲賀のくの一であることを権六は珍之助から聞いていた。しかも忍としては凄腕であると。
楓は無表情のまま「珍之助様に御目もじいたしたい」と繰り返した。
「甲賀者が何を企んでおる?!」
珍之助も権六も佐吉や絹を拷問にかけたのが楓であることを知らない。だが佐吉には楓に死臭が纏わりついていることが本能的にわかる。暗殺者のそれである。
「確かにわたくしは甲賀者でございまするが、黒川党から逃げてまいりましたゆえ、もはや甲賀の里には戻れませぬ」
「なんだとっ?!そんなことが信じられるわけがなかろう!」
「されど…信じていただくしかございませぬ。服部珍之助様に御目もじ叶いませぬか?黒川銀八のことでお話ししとうこともございまするが…」
楓は坦々と話す。権六や捨丸のほうが顔が紅潮し、興奮状態であった。そのうち騒ぎを聞きつけた数人の伊賀者が加茂屋から出てきて楓を取り囲んだ。中には抜刀した者もいる。しかし楓は一向に動じない。
「権六様…」
捨丸が居たたまれずに権六の袖を引っ張った。
「うむ…」
権六が力ずくででも追い返そうとしたとき、店先の騒ぎに珍之助が「何事だ?」と訝しげに現れた。
珍之助は楓を見て、さすがに驚いた。
「おぬし…」
「お久しゅうございまする」
楓が神妙に頭を下げた。
「服部珍之助様にお会いするため甲賀を出奔しこちらに参りました」
「この俺にそれをそのまま信じろと申すのか?」
「御疑念ごもっともでございまするが、ぜひわたくしの話をお聞きいただきとうございまする」
楓が淀みなくそう言うと、珍之助はさして迷うことなくきっぱりと「わかった。中に入れ」とだけ言って、楓を加茂屋に招き入れた。楓は表情を変えずに珍之助に続いて加茂屋に入ろうと一歩踏み出すと、取り囲んでいた下忍たちは後ずさりするように一斉に道を開けた。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十一弾。
ラヴァーボーイ “ Dangerous ”。加茂屋に現れた甲賀のくの一、楓。美しくも危険な匂いのするこのくの一の真意はどこに?!
カナダのハード・ロック・バンド4枚目のアルバムとなる “ Lovin' Every Minute Of It ”(1985)からブライアン・アダムスのペンによるパワー・バラード。ラヴァーボーイのリード・ボーカル、マイク・レノは80年代を代表するサウンドトラック・アルバム「フットルース」の中で『パラダイス』という曲をアン・ウイルソン(Heart)とデュエットしたことでも有名。

「Dangerous.mp3」をダウンロード

3.3MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(六十八)

2008-09-29 06:22:28 | 都に咲く向日葵

「そんなこともあったな」
珍之助がしみじみと言った。
梓は龍眼を発動させて珍之助の表情を見たくなったが、やめておいた。珍之助が竹中半兵衛の一件のどこまでを思い出しているのかわからない。
庵治寺の薄暗い堂内でさらに梓は続ける。
「実際襖が開いて銃口に狙われたときは怖かった…」
「うむ。俺も怖かった。後にも先にも完膚なきまでの負けを思い知らされたのはあのときだけだ」
「その後永禄七年には竹中殿は酒色に溺れる主人、斎藤龍興を戒めるため、わずか十六名の手勢で稲葉山城を占拠された。織田方の城明け渡しの要求を無視し、すぐに己が主人に城を明け渡したものの、斎藤家から近江浅井家に出奔なされた」
「あのお方らしいやり方じゃ。野心があるのかないのかようわからぬ」
珍之助は懐かしむような風情で頷きそう言った。
「一龍斎様は柴田殿の命とはいえ、もともと竹中殿を斬ることが惜しいと思っていたところに、木下藤吉郎殿が斬らんでくれと言ってこられた。ならば、と一龍斎様は成長の糧にもなるようにと我らを向かわせる策を講じられたということだな。その後の柴田殿からのお咎めは厳しかったが、一龍斎様はのらりくらりとかわし、木下殿は御屋形様に柴田殿の独断専行をご注進なされこの件は落着した」
「永禄十年、木下殿が竹中半兵衛重治を家臣として召抱えたいと御屋形様に上申した際、御屋形様は大笑いし、柴田殿は歯軋りをし、木下殿はしてやったりという表情だったとか」
梓はずっと疑問に感じていたことを口にした。
「今から思えば、もしや一龍斎様と竹中半兵衛殿は通じておられたのではあるまいか…」
「まさか…。父上からそんな話は聞いたこともない」
「わたしもまさかとは思うが…通じていなかったとすれば、何ゆえ我らを生かして帰したのか…」
「聞いてみたいものだ」
「竹中殿はいかがいたしておられる?」
「羽柴秀吉殿と近江長浜城におられるはずだ。ただ病がちだということを聞いた」
「そうか…」
「どうかしたか?」
「いや…」
梓はこの稀代の軍師との再会が叶わないであろうと何となく予感めいた思いがしていた。それが半兵衛の病のせいなのか、自分自身の寿命なのか今はわからない。そんな思いが梓を少し不安にさせた。
そのような梓の様子を珍之助は違うことに捉えていた。
「伊勢大河内城では稲葉山城の教訓を生かしきれなかった…」
「もうそのことは言わずともよい。何事もすべてうまくいくはずがない。竹中半兵衛殿に出会わなければ二人とも大河内城で命を落としていたかもしれぬ。教訓とは体に刻まれておるものよ」
梓は苦笑いを押し殺しながら、この珍之助の素直さも竹中殿にもらった教訓だと感じていた。
「そうだな。すまぬ…。あ、それと…」
珍之助が何か思い出したように言った。
「なんだ?」
「もう一つ詫びねばならぬことがあった」
「何をだ?」
「いや…その…」
急に歯切れが悪くなった珍之助はもじもじしだした。
「ん?詫びられるようなことがあったとは思えぬが…」
「ならばよい。大したことではなかった」
「自分から言い出しておいて…こっちも気になるではないか」
「まったく覚えはないのか?」
「ないが…」
「だったらよいではないか」
「おかしなやつだな」
「もうよい」
「なんだ?なにを拗ねておる?」
「拗ねてなどおらぬ」
「ふふふふふ…」
「な、何がおかしいっ」
「なんでもない」
梓は途中から半兵衛にむきになって言い返したあのことだろうと気づいていたが、わざととぼけて珍之助の真正直な反応を楽しんでいたのであった。
「珍之助」
「なんだ?」
「久し振りに膝枕をしてやろうか?」
「な、何を言い出す!」
梓は思わず龍眼を発動させて珍之助の表情を垣間見た。
「そなたは相変わらずだのう…はははは」
「もう行くぞ」
珍之助は怒ったようにそう言うとすっくと立ち上がった。
「わかった。黒川一党の探索が厳しくなっておるなら、これ以上ここに留まるわけにいかない。御社に迷惑をかけてしまうかもしれぬ。これよりわたしも加茂屋へ行く」
「うむ」
「身辺整理も済ませ清明神社には暇乞いをしておいた」
「そうか…すまぬな。ではすぐにでも…」
「待ってくれ。この装束では目立って仕方がない」
そう言うと今度は梓が立ち上がり、おもむろに巫女装束をするすると脱ぎ始めた。珍之助は慌てて後ろを向く。
「巫女に身を転じて十年近く経ち、まさか服部党に復帰するとは思いもよらなかった」
そういう梓の声はどこか高揚したような響きであった。
「此度はかなり危険を伴うぞ」
「もとより覚悟はできておる。賀茂の怨念を鎮めねば主上をはじめ、この世は大変なことになる」
「だが無理はするな。俺がおぬしの目となる」
「わかった」
―頼もしくなったが、熱いところは全然変わっておらぬな。
梓は嬉しくなった。これから起こるであろう諸々のことにまったく恐怖感は湧かない。
「行こうか」
その声に珍之助が振り返ると、梓は浅黄色の小袖を着て、武家の娘に見紛うばかりであった。その美しさに珍之助は思わず息を呑んだが、慌てて咳払いをしてごまかした。
「行こう」
二人は庵治寺を密かに出立した。京の都は陽が傾き始め、雪が舞っていた。
梓は珍之助の肘を掴み、珍之助は梓の歩幅に合わせるように歩く。終始無言の二人であったが、寄り添うようにゆっくりと都大路を歩いていった。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十弾。
REOスピードワゴン “ Keep On Loving You ”。梓が服部党に復帰した。激烈な戦いが待っていることを二人はわかっている。それでも二人の間に流れる空気は悲壮感ではなく、十年前と変わらぬ信頼とどこか温かい思いやりであった。
竹中半兵衛編を締め括るのは “ Hi Infidelity ”(邦題:禁じられた夜、1980)からの先行シングルで1981年3月には全米No.1を獲得したミディアム・バラードの名曲。通算11枚目となるアルバムは15週連続全米No.1、1000万枚を超える売り上げとなる80年代を代表するビッグヒット。

「Keep_On_Loving_You.mp3」をダウンロード

3.1MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント (2)

都に咲く向日葵(六十七)

2008-09-28 07:37:06 | 都に咲く向日葵

一方の梓は、どこか飄々とした半兵衛のことが敵に思えなくなってきていた。見た目は三十歳前後と思われる色白痩身の、それも美男子と言ってもいい容貌であるが、落ち着き払った態度、所作とともにその語り口はひどく老成している。そんな不調和が興味深い。それでも味方であれば、これほど頼もしい軍師はいないであろう。
「どの時点で我らに気づいておいでか?」
「そなたらが稲葉山城に侵入せしときよりじゃ」
「なにっ」
今度は珍之助が声をあげた。珍之助を抑えるように梓が訊いた。
「侵入者がここに来るかどうかわからぬと思いまするが…それより以前に手薄な警護で我らに気づいた者がおったとは思えませぬが…」
「なにゆえ警護が手薄かと申さば、人がおらぬだけよ。あっははははは。稲葉山城は天然の要害である。ゆえに侵入するのは忍以外に考えられぬ。御屋形様の寝所はともかく、人の配置も少なめにしてある。そのほうらはここまで何の抵抗にも遭わなかったであろう」
梓が頷いた。
「この城にはわざと忍を通す道を作ってある。忍なら必ずその侵入口を選択するような配置にしておるのじゃ。ただし一つの分岐がある。あちらへ行かば御屋形様の寝所、こちらへ行かばこの半兵衛の寝所というようにな」
「…」
「そこに不寝番の見張りを配置しておる。それも夜目の利く小姓をな。抵抗せずにただちに知らせよとだけ申し付けてある。その小姓が一報をもたらしたのじゃよ」
「しかし、それでは危険すぎまするぞ。小姓の足より忍の足のほうが速ようございまする」
「見張りの小姓は足の速い小姓に知らせるだけじゃ。そやつは凄いぞ。おぬしら忍に負けぬ脚力じゃ。しかも侵入せし者には巧妙に遠回りをさせるような普請になっておる。侵入せし者が目的地に着いた頃には、すでにこちらに知らせが届いておるという寸法じゃ」
やはり半兵衛は嬉しそうであった。
「そこまで我らに打ち明けてもよろしいのか?」
「かまわぬ」
「大した自信だな」棘を含んで珍之助が揶揄する。
「ならばこれを見よ」
半兵衛が鋭く口笛で合図をすると、背後二方の襖が一斉に開き、十数名の城兵が姿を現した。珍之助も梓もその場に凍りついた。一方の城兵は鉄砲を構えている。複数の銃口がいずれも二人を捉えていた。火縄から立ちのぼる薄煙が生々しい。二人とも息苦しくなった。半兵衛の次の合図で二人が蜂の巣になるのは確実である。それよりも二人を驚かせたのは、忍である自分たちに気配も火薬の臭いすらも気づかせないほどの周到ぶりである。
「こういうことだ。自信には常に裏づけというものが必要なのだ」
半兵衛の物言いはあくまで穏やかであったが、珍之助は気圧されるほどの闘気を感じてたじろいだ。
「刀をおさめろ」
梓もその闘気を察知したのか珍之助に向かって言った。
珍之助は梓の言葉に無言で刀を鞘に納めた。それを見た半兵衛はまた合図をすると、襖が一瞬で閉じられ、城兵はその向こうに姿を消した。そして半兵衛は感心したように呟いた。
「ほぉ…。おぬしら、なかなか良い関係じゃな。背を預ける者同士、そんな信頼がなければ命がいくつあっても足らぬ。くの一が年上か…。しかも恋仲でもあるな…」
「何を知ったことを言うっ!」
珍之助が鋭く言い返した。
「そうむきになるな。むきになるのは図星であると言っておるようなものじゃ。そういうときは当たっておっても素知らぬ顔で受け流すものよ」
「梓とはそのような仲ではないっ!何とも思うておらぬわっ」
「妙なところで正直じゃな、おぬし。恋仲とまではいっておらぬということか…。相思相愛だが、互いにまだ…まあよい。ははははは…」
半兵衛は嬉しそうに笑い出した。
梓は半兵衛に言われるまでそんなことを考えたこともなかった。珍之助はむきになる悪い癖が出ているとは思ったが、半兵衛に指摘されて自分のことをあからさまに否定しているように聞こえ、ひどく憂いた気分になってきた。
珍之助を見ると、かっかしているのが容易に見てとれる。忍頭巾に隠れて表情まで窺えないが、目が動揺しており、状況は我々にとって決定的に不利であることすら忘れてしまっている。
梓自身も違う意味で動揺していたが、ここは引くべきであり、今が潮時であると直感した。
「引き挙げるぞ」
梓は珍之助に向かって静かに、しかし強く言ったが、珍之助は動こうとはしなかった。
「珍之助っ!」
「…」
珍之助の悔しい気持ちがわからないわけではない。だが勝負はすでについていると梓は素直に敗北を認めていた。一龍斎の命もある。梓は、半兵衛と対峙して動こうとしない珍之助の元につかつかと歩み寄り、思いきり左の頬をひっぱ叩いた。
「いっ…」
突然の出来事に珍之助は唖然とするほかなかったが、憑物が落ちたように肩から力が抜けた。梓は半兵衛に向き直り頭を垂れた。
「竹中半兵衛重治殿、失礼つかまつった。我ら、伊賀服部党にて、このほうが服部珍之助、頭領服部一龍斎の倅にして服部党の正統後継者でございます。わたくしは藤林梓と申しまする」
「ほぉぉ、服部一龍斎の息子か…」
「我らこれにて退散いたしまする。稲葉山城の忍普請は戻りましても口外いたしませぬゆえ、信用していただきとうございまする」
「なかなか律儀な忍よの。ま、自慢の忍普請があろうともこの城はやがて織田の手に落ちるであろうが…」
「え…」
「まあよい」
半兵衛はどこか上機嫌に見えた。それが梓には不思議ではあったが、悪い感じはしなかった。一龍斎が言ったことの意味が何となくわかってきた。
「服部殿」
一転して半兵衛が真顔で珍之助の名を呼んだ。
「…」
もはや珍之助に突っかかるほどの余力はなかった。
「そなた、この半兵衛に虚を突かれたとはいえ、最初に斬ることができたはず。なぜ斬れなかったのかよく考えられよ」
珍之助は父一龍斎の言葉、前夜出くわした木下藤吉郎の言葉、どれも意味深長なる響きであったことを思い出したが、それとどうつながるのかわからない。
「珍之助、引き揚げるぞ」
「あ、うむ…」
今度は素直に頷く。
「御免」
梓は半兵衛に目礼するやいなや天板が空いた四角い小さな穴めがけて器用に飛んだ。珍之助も躊躇いがちに半兵衛に目礼をし、梓に続いて同じ穴へ吸い込まれるように飛び込んで消えた。
二人は、半兵衛が目を細めて見送り、その後懐の書状を灯明の火で焼き捨てたことを知らない。

稲葉山城を出た二人は、無言のまま元来た山間の険しい道を辿って美濃と尾張の国境をめざしていた。
途中二人が渓流の河原の大きな石に並んで腰掛けて休息を取ったとき、梓が口を開いた。
「竹中半兵衛、なかなかの人物であったな」
「うむ…」
「なんだ?鼻っ柱を折られて拗ねておるのか?」
「拗ねてなどおらぬ…」
言い返す珍之助にいつもの勢いはない。
梓は竹筒の水をぐいっと一口飲むと、それを珍之助に投げて寄越した。同時に言葉も投げかける。
「一龍斎様が言うておられたことがわかったような気がする」
「『迷わば帰れ』か?」
「そうだ。竹中半兵衛重治、斬ってはならぬ男であったということだ。一龍斎様はこうなることを予見しておられたのであろう。試練とも言うておられた。そなたも半兵衛殿に『なぜ斬れなかったのかよく考えろ』と言われたであろう。そなたの本能もそれに気づいて、体を動かさなかった。そう考えれば説明もつく」
「試練だか何だか、もうどうでもよい」
梓の言葉に反応することなく珍之助は投げやりに言った。
「珍之助」
梓は突然珍之助の頭を抱えるようにして、膝枕をした。
「梓…」
珍之助は驚いたように梓の顔を下から見上げたが、梓がやさしげだが、どこか悲しげでもある眼差しで微笑んでいた。そんな梓を見ると、不思議な安心感もあって何となく起き上がることができず、おとなしくされるままにした。
「そなたが自信を砕かれたように、わたしもとても落ち込んだ」
「城兵の気配はまったく読めなかったからな」
梓は自分の落ち込みがそのことではないと言いたかったが、その言葉は呑み込んだ。
そして、しばらくの沈黙の後に珍之助がぼそりと呟いた。
「何となく疲れた」
「そういうときもある」
「それに…」
「それに?」
「おぬしの一撃はこたえた」
梓は珍之助の忍頭巾をそっと取り、やさしく頭を撫で始めた。
「しょうがないやつだな…」
梓も忍頭巾を外した。頬に当たる風は心地いい。渓流の音が小さくなったような気がした。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十九弾。
FM“ Closer To Heaven ”。竹中半兵衛の器量の大きさに打ち負け、傷心のまま稲葉山城を離れた珍之助と梓。だが、寄り添う二人の間に流れる空気は決して敗者のそれではない。
バンド通算4枚目でBon Joviの呪縛(80年代当時の各レコード会社はチャートを席捲したBon Joviの柳の下、二匹目のドジョウを狙っていた)を解かれ、本来のブルージーな味わいを取り戻した“ Aphrodisiac ”(1992)からファンの間でも人気の高いバラードの名曲。佳曲揃いのこのアルバムによりバンドは日本でもブレイク。

「Closer_To_Heaven.mp3」をダウンロード

5.9MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(六十六)

2008-09-27 01:14:57 | 都に咲く向日葵

珍之助と梓に与えられた服部一龍斎の命令は「竹中重治を斬れ。ただし迷わば帰れ」というものであった。真意を図りかねた珍之助が「何に迷うのか。剣の使い手ということか」と訊ねても、父は「言葉どおりである。そのほうらの目と腕で確かめよ」と言うだけであった。
訝しげに沈黙を続ける二人に一龍斎は笑いながら、
「竹中重治は弱小の斎藤方で織田の軍勢を打ち負かすほどの軍師である。油断するなという意味じゃ。若いそのほうらの試練と思え」
「はぁ…」
珍之助は首を傾げ、梓は困ったように天井を見上げた。一龍斎はそんな二人を眺めて嬉しそうに微笑むばかりであった。

そして決行当日。稲葉山城に潜入した珍之助と梓は、天井裏を音も立てずに竹中半兵衛重治の寝所をめざしていた。二人は稲葉山城の図面を空で書き写すことができるほどに頭に叩き込んでいたので、ひたすら寝所に向かうだけであった。

城兵の数は少なく、二人が不寝番の見回り役に遇うこともなかった。
「拍子抜けだな。天然の要害と言われた稲葉山城も忍には赤子同然だ」
珍之助が囁く。
「油断するな。そなたの悪い癖じゃ」
梓が鋭く切り返す。
「油断などしていない。童扱いするな」
珍之助は梓にたしなめられるとすぐむきになる。
「何を怒っておる?」
「怒ってなどおらぬ」
梓は前を行く珍之助の背中を眺めながら、くすっと笑った。
笑ってから少し心配にもなった。
弱冠十七であるが珍之助は梓から見ても忍の技量は相当のものであると評価している。本人も己が腕に自信があるようだ。それにかなりの負けず嫌いでもある。ただ、過信からくる油断が生死を分かつということは一龍斎はじめ先人が口を酸っぱくして言ってきたことでもある。それを言うと珍之助は必ず「わかっておる」と怒ったように言う。これまでが順調すぎたのかもしれない。梓と珍之助が組んだ暗殺・破壊・撹乱工作で失敗したことはなかった。でも、いつか痛い目に遭うだろうと梓は確信めいた予感があり、内心恐い気がしていた。それに対して珍之助は単純で想像力が足らない。恐いもの知らずなのであるが、頭を打たれたとき、果たして大丈夫であろうか…梓は心底心配していた。
―もっと素直になれば忍としては天下無二になるのだが…。

やがて二人は西の丸の一角の天井裏で立ち止まり、声なき声で話す。
「竹中半兵衛の寝所だな」
珍之助の問いかけに梓も返す。
「いかにも。手筈どおり降りれば一気に斬る」
「うむ」
天井裏の隅から寝所中央の布団を見ると小さく盛り上がっている。軍師とはいえ一介の侍大将に影武者を置くほどの余裕はないはずである。珍之助は足元の天板を素早く外す。対角線の隅でも梓が天板を外していた。
まず珍之助が音もなく飛び降り、布団をめくる。驚いた相手は刀を掴み、抵抗を試みる。珍之助は怯んだように見せかけて半歩後退する。詰め寄る相手の背後に今度は梓が降りてきて斬る。珍之助がとどめを刺す。という段取りであった。珍之助は囮である。この方法で何度か暗殺の役目を果たしてきた。二人は阿吽の呼吸と目の合図で十分意思疎通が行える。

珍之助は段取りどおり天板の正方形の小さな穴から音もなく飛び降り、間髪入れずに布団をめくった。だが、そこには人影はなく巻かれた別の布団が置かれてあった。
「布団にだけ意識を集中していてはだめだ」
背後から諭すようにかけられたその声に珍之助は驚いて振り返った。いつの間にか三十前後と思しき痩身の男が白い寝巻きを着て立っていた。丸腰である。呆気にとられた珍之助は棒立ちになった。男の声は天井裏にいる梓にも向けられた。
「そっちにいる忍も降りてまいれ」
天板から覗いていた梓が困惑しきった様子で、珍之助のほうに目で救いの合図を送ってきていた。珍之助はやむなく頷き、梓は力なく飛び降りてきた。
「おおかた寝首を掻きに来たのであろうが、殺気は駄々漏れ、警戒心も薄い。少々これまでうまくいっていたからといって、いつまでもそうは思わぬことじゃ」
男は二人の忍に警戒する様子もなく平然と言ってのけた。
珍之助は女子と見紛うばかりの色白痩身の男に完全に毒気を抜かれ、返す言葉もなかった。暗殺者としてのこれまでの自信は粉々になった。
そんな珍之助を尻目に梓は気丈にも声を出した。
「竹中半兵衛重治殿とお見受けいたす」
「ほお…おぬし、くの一か…。いかにも竹中半兵衛重治である」
「なにゆえ人をお呼びなさらぬ?」
「手合いを呼ぶ瞬間に必ず隙はできる。そんな馬鹿らしい隙に斬られては元も子もない。ゆえにこうして時間稼ぎをしておる。騒ぎ立てるより有効な活路を見いだせるかもしれぬからな。ふふふ…」
そう言って竹中半兵衛は嬉しそうに笑った。
「しかし、まるで我々の襲来を察知していたかのように、布団には囮を仕込み、御自身は隠れておいででおわしたが…」
「あれだけ殺気が漏れておったら…」
半兵衛は珍之助のほうを向いて笑った。
「おぬしたち、その装束からして伊賀者と見たが…であれば織田の手の者であろう?」
「…」
さすがの梓もこの問いには沈黙した。
「ふむ…主は明かせぬか…。まあよい。美濃の侍大将ごときの寝首を掻きに来るほどのもの好きはそうそうおらぬわ」
半兵衛は顎に手を当てむしろ自慢げに言ったので、梓は思わず聞いてみたくなった。
「半兵衛殿は我ら刺客を前に、何ゆえそのように落ち着き払っておられまするか?」
「生死は運命。じたばたしても死ぬときは死ぬ。刺客と申しても油断だらけの刺客。ならば生き抜ける機会は増えるというもの。あ、悪く思うな。そのほうらの手際の良さは認めておるぞ。さらに技を磨けば一流の刺客になれる」
「…」
珍之助は恥ずかしく、そして悔しい思いでじりじりと胸が重くなってきたが、潔く負けを認めるべきかどうか、まだ自分の中で決着がついていなかった。その証拠に右手には抜き身の刀を下げたままであった。しかしながら、珍之助に右手を振り上げる余裕は微塵もなかった。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十八弾。
ブライアン・アダムス“ Hearts On Fire ”。珍之助と梓の前に忽然と現れた竹中半兵衛重治は、鋭いがどこか人を食ったような男であった。そんな竹中半兵衛の前に若い二人の忍はまったくの形無し。二人に起死回生はあるのか。
全米7位となった“ Into The Fire ”(1987)収録の熱いロック・ナンバー。このアルバムは全米No.1シングルを輩出した派手な4枚目 “ Reckless ”に隠れて目立たないが実は名盤の5枚目。

「Hearts_On_Fire.mp3」をダウンロード

3.2MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(六十五)

2008-06-29 11:02:07 | 都に咲く向日葵

珍之助と梓はどちらともなく黙り、薄暗い庵治寺本堂の中にしばしの沈黙が流れる。梓は座ったまま身じろぎ一つせずにいた。珍之助はそんな梓を見ていて、不思議と落ち着きを感じていた。若い頃から共に死線を潜ってきた二人である。背中を預けることに何の躊躇いもない。空白の十年が横たわっていたが、今はこうして再び背中を預けている。
珍之助は静かに語りかけた。
「梓、おぬしは徳川家康の狙いをどう見る?俺は今すぐ御屋形様に叛旗を翻すことではないような気がする…」
「うむ。織田の天下をひっくり返すまでの力はまだない。その後を見据えているのだろうな」
「まるで御屋形様に露払いをさせるかのようではないか」
「それだけ賀茂の怨念は凄まじいのだ」
「おぬしは怖くないのか?」
愚問だとは思ったが、珍之助は何となく訊きたくなった。
「怖い」
そう言ってから梓が小さく「ふふふ」と笑った。
「そう答えてほしいのか?」
「ははははっ」
珍之助は愉快だった。ふと昔のことを思い出した。
「そういえば、永禄六(1563)年の稲葉山城での事を覚えているか?」
「もちろん。そなたはまだ十七であったな」
「なっ!おぬしもまだ十八だったではないか」
珍之助がむきになって言い返す。梓は小さく笑う。
「何がおかしい…。あのときは稲葉山城の斎藤方の重臣、竹中重治殿の暗殺を試みた」
「確かその年、織田方は新加納の戦で斎藤方に敗退した」
「そうだ。竹中重治殿一人にしてやられた」
「凡愚な斎藤龍興には過ぎる軍師であった…」

永禄六年三月、美濃の斎藤龍興の居城、稲葉山城に珍之助と梓が侵入したのは、城主ではなく、軍師である竹中重治暗殺が目的であった。新加納の戦で弱小の斎藤軍に敗退した原因が竹中重治の采配にあると考えた織田方の柴田勝家は、この稀代の軍師の調略を進めていたが、一向に織田になびく気配がなく、業を煮やした勝家は伊賀服部党を使って竹中重治を暗殺することにした。
「しかし、出立の前夜、思わぬ人物が父上を訪ねてきた」
「羽柴秀吉殿だな」
「その頃は木下藤吉郎と名乗っておった…」

「一龍斎殿、木下藤吉郎たってのお願いがござる」
藤吉郎は一龍斎の前に座るやいなや床に突っ伏すように頭を下げた。
「何事でござる。木下様、面を上げてくだされ」
「いやいや、織田方の忍の頭領たる服部一龍斎殿にぜひともお聞き入れいただきたい事柄でござるゆえ…」
藤吉郎は頭を下げたまま
「お話くだされ」
「竹中半兵衛重治の命、この木下藤吉郎にお預けくださいませぬか」
「なんと…」
「柴田様の命で服部党が稲葉山城に刺客を送り込むとお聞き申した」
「ふむ…」
一龍斎は腕組みをして唸ってしまった。柴田勝家の命は信長の意を受けたものではなく、勝家が気を利かしたにすぎない。つまりはごますりである。ゆえにこの命令は目的を果たすまで極秘であったはずであった。それをどこで聞いてきたのか、この男はそれを制止するために実行部隊である服部党の頭領に駆け引きなしの直談判に来た。一龍斎は藤吉郎とは初対面である。無謀というより無茶である。この行為が柴田勝家に伝われば、間違いなく命はないだろう。しかし、それはないと、一龍斎の性格も含め計算ずくということか。この単刀直入振りではこちらも駆け引きするだけ無駄であろうと一龍斎は腹を括った。織田信長家臣団の中では下位に列せられながらも、機転を利かした『墨俣の一夜城』で一躍名をあげただけのことはある。一龍斎はこの小柄な男の地獄耳と度胸に感心した。そして興味を持った。勝家のごますりを潰す気か、それとも深慮遠謀があってのことなのか。
「なにゆえお止めなさる?」
そこで藤吉郎は顔を上げた。その薄い唇に舌なめずりのような笑みが浮かんだのを一龍斎は見逃さなかった。
―思惑どおりの展開ということか。
一龍斎は常に役目に忠実だが、融通が利かない男ではない。
「竹中半兵衛重治、殺すには惜しい男でござる。この藤吉郎、どうしても家来に欲しゅうござる」
「ほお…。確かに新加納では織田方は竹中重治一人に煮え湯を飲まされたも同然。知略に優れた武将とお聞きいたしており申す。が…柴田様の調略でも寝返ることはなかった人物でござる。木下殿に勝算はあると申されるのか?」
「もちろん」
藤吉郎はよくぞ訊いてくれたとばかりに相好を崩した。
「あの男、金品、加領では動きませぬ。柴田様はそこを読み違えておられる。天下をも狙えるほどの知略を有するあの軍師は無欲ゆえの涼やかさを持っておりまする。大将に奉るのではなく、軍師には軍師としての役目を与えてこそ動き申す」
「木下殿の軍師として、でござるか?」
「いかにも。あれだけの男、うかうかしていたら他の侍大将に持って行かれまする。それどころか甲斐の武田か越後の上杉にでも召抱えられては大変なことになり申す」
それは困ると言わんばかりに今度は眉間に皺を寄せる。一龍斎は表情がころころ変わる猿顔の男にますます興味を持った。武田や上杉まで持ち出して、それではまるで自分が天下を狙う大将だと言わんばかりではないか。
「それゆえの刺客だと思いまするが」
「それがしなら必ずや調略いたす。ぜひとも」
もう一度藤吉郎は頭を下げた。
「しかし、それがしにも役目はござる」
「そこを曲げて何とか!」
一龍斎は妙案を思いついた。
「それがしにも役目があり、命に背くと忍としての信用に関わり申す。木下殿の思うようにはできませぬ。しかも此度の役目はそれがしが行くつもりでござった」
「…」
「ですが、それを取りやめ、十七になる倅に任せまする」
「ご子息に?」
「いかにも。親馬鹿ではなくまこと腕は立ち申す。しかしながら、弱小美濃の斎藤方にあって一人気を吐くほどの人物。そう簡単に斬れると思えませぬ」
「…」
「だが十七の忍に斬られるなら、それだけの人物。木下殿のお見込み違いと諦めくだされ。しかし、倅が斬れぬならそれなりの人物。斬れぬ代わりに首級に負けぬほどの…まあ、手柄にはなりませぬが、本人には大きなみやげをもろうて帰って参りましょう」
藤吉郎は目を大きく開き、唾を飲み込んだ。
「つまり…」
「倅の腕に懸けましょう。斬ればそれがしの役目は果たせまするが、果たせなければ咎めもあるやもしれませぬ。木下殿は竹中重治を失うのは惜しゅうござろうが、お見込みどおりなら斬られることはなかろう。木下殿がここまで来られたことに、この一龍斎もそれなりに返礼せねばなりませぬ。よろしゅうござるか?」
藤吉郎は選択の余地はないと瞬時に決断した。
「承知いたした。一龍斎殿にお任せ申す。かたじけない」
藤吉郎は再度頭を下げ、立ち上がった。
「ではこれにて」そう言って振り返った瞬間に一龍斎が声をかけた。
「ときに、木下殿」
「はい?」
「一つお聞かせいただきとうござる」
「一龍斎殿の頼みとあらば…」
「木下殿は竹中重治を家臣に召抱えて天下を狙うとでも?」
「ははは…まさか。御屋形様がいらっしゃいまする」
言葉とは裏腹に藤吉郎の目はぎらつくように輝いていた。
「承知した。ところで、この部屋の前庭に倅がおりまする」
「ほぉ…。では御免」
今度こそ藤吉郎が濡れ縁になっている廊下に出ると、前庭に蹲る影を見つけ立ち止まった。一龍斎の居室の警護にあたっていた服部珍之助である。一龍斎と藤吉郎のやりとりを知る由もない。
「伊賀の忍でござるか?」
「いかにも」
「服部一龍斎殿は聞きしに勝る人物でござるな」
「は…」
「ご子息も忍としては相当の使い手らしいが、一龍斎殿のご子息なら短慮軽率な単なる人斬りではなかろう。行く末が楽しみでござる」
「…」
「これからの国盗り、天下取りには忍の力は欠かせぬ。精進なされよ」
藤吉郎はそう言い残して去っていった。
それからすぐに珍之助と梓は一龍斎に呼ばれた。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十七弾。
フリー“ Wishing Well ”。木下藤吉郎と服部一龍斎の出会い。竹中重治暗殺の帰趨を委ねられたのは若き日の服部珍之助であった。稀代の軍師と珍之助の対決やいかに。
70年代ブリティッシュ・ロックの名曲中の名曲。ブルースをベースにしたポール・ロジャースの渋いヴォーカルは、時を超え21世紀の現代でも聴く者の心を打つ。フリーのラストアルバムとなった“ Heartbreaker ”(1973)収録。

「Wishing_Well.mp3」をダウンロード

3.3MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(六十四)

2008-06-08 07:10:50 | 都に咲く向日葵

そのときいろはの頭の中で忍としての本能が鐘が鳴らした。神経を研ぎ澄まし、周りの状況を瞬時に把握する。付き添いの下忍三人のうち二人は正子が泣くのを見て困惑した様子で、二人並んでやや距離を置き、ともに目を逸らしていた。もう一人の下忍がすぐ近くにいたが、やはり困惑して棒立ちになっている。中忍は丘の中腹ぐらいに立って腕組みをしてこちらを眺めている。いろはは隠れた下忍がどこかにいるのではないかと考えていたが、見たところ丘の上にもそうした影の気配はない。
―今なら虚を突ける。一人でいる下忍を襲い、素早く刀を奪えば残りは何とかなる。
いろはは想像で間合いを計りながら、正子をどうするか考えた。
―下忍三人を斬る間、姫様には伏せてもらい、最後に残った中忍さえ斬れば後は海岸沿いに走るのみ。
無謀だとは思ったが、相手の隙は今しかない。斬り合いには自信があった。前の轍は踏まない。絶対に逃げきってみせる。
いろはは正子を抱き、その背中をさすりながら一瞬で集中力を高め、全身の筋肉に緊張を漲らせた。そして正子の背中を突いて伏せさせようとした瞬間だった。
「よせ」
後ろから突然耳元で囁かれ、いろははびくっと体を強張らせた。恐る恐る振り返ると、今までに見たことのないような真剣な表情をした左源太がいた。その一瞬でいろはの全身の緊張が解けたが、恐怖感が押し寄せた。
「いま動けば、そなたを斬らねばならぬ」
近くにいた下忍が左源太であった。巧妙に変装していたのだ。いつの間にかそれを解きあえて素顔を晒している。
それに対していろはは緊張が解けたのに、恐怖の余り何ら動くことができないでいた。そんないろはの様子を見た左源太は刀の柄から右手を放した。
いろは搾り出すように声を出した。その声は掠れている。
「なぜ止めた?」
「そなたを斬るわけにはいかぬ。それが俺の役目だ」
「意味がわからぬ。下忍に化けてまで付き添うことの意味は?」
「それが役目だと言ったであろう。斬るわけにいかぬから、陰日なたに見張っておる。だが非常事態では斬るしかない。つまらぬ気は起こさぬことだ」
「…」
左源太の言ったことは確かだろうといろはは思った。あれほど周囲を窺っていたのに、あっさり自分の背後を取られた。斬る気なら警告はしない。一人になったのも、困惑した様子を見せたのもいろはに油断をさせ、行動を起こさせるためだったのだ。そして力の違いを見せつけたところで警告を発する。これ以上効果的な警告はない。あまりに手が込んでいるが、それだけ自信があるということだ。
「まあ、それより…」
左源太は視線をいろはの向こう側に投げた。正子がまだ泣いている。
いろははようやく我に返り、正子の背中を抱いていたことを思い出した。背を抱く手がいまだに強張っていたが、無意識に再びさすりだした。
「姫様のこと、よろしく頼みまする」
左源太はそう言い残し、五、六歩下がって持ち場に着いた。
「…」
いろはは頷くよりほかなかった。

正子はそんな忍同士の命を賭した一連の出来事に気づいていない。ただ泣き続けているだけであった。ずっと嗚咽が漏れている。いろはは正子の背を抱いたまま、視線を遠く四国と思しき陸地に振った。
あわよくばと考えていた脱出行とはいえ、忍の本能が一瞬の隙に反応した。気持ちは切れていなかったということである。
だが、結局いろはは何もできなかった。無計画なこともさることながら、己が力量不足を嘆くしかなかった。無力感だけが残った。同じ状況で兄ならどうしたであろうかと考えても答えは出ない。これで完全に道は閉ざされた。
雲の隙間から射す日射しが閉ざされた。風が冷たさを増した。
正子の背はまだ震えている。その背は少し細くなったかなと思う。自分はどうであろう。いろははふとそんなことを考えた。自分はそれなりに頑張っているつもりだったが、誰も助けてはくれない。昔みたいに褒めてくれる兄もいない。そう思うと気持ちが切れそうになる。それには耐えなければ…と思っていると、いま耐えているものが何なのかわからなくなってきた。目頭が熱くなってきたが、必死に耐える。
そこへ左源太が今度は普通に近づいてきて、にこやかに声をかけてきた。
「寒くなり申したな」
「…」
いろはは顔を背けるようにして視線を外したが、左源太はかまうことなく、まるで天候の話をするような調子で「殺気が流れており申した」と静かに語った。
「え?」
「そなた、腕は立つようだが、過信のあまり殺気が流れすぎだ」
「…」
「とはいえ筋はよい。さすが服部珍之助殿の妹御でござる」
左源太は「気が済むまで帰るのは待ちまする」とやさしく言うと腕組みをしながら背を向け、いろはと正子から再び離れて行った。
いろはの涙腺の堰が切れた。
海寄りの風が正子の背中を抱くいろはを冷たく吹き抜ける。頬を伝うものが温かく感じられた。それが幾筋も幾筋も伝っていく。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十六弾。
クリストファー・クロス“ Ride Like The Wind ”。いろはの咄嗟の企ても左源太の前に水泡に。
驚異のデビューアルバム“ Christopher Cross ”(1980)収録の全米2位の大ヒットシングル。マイケル・マクドナルド(元ドゥービー・ブラザース)のバック・ヴォーカルも印象的。

「Ride_Like_The_Wind.mp3」をダウンロード

3.7MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(六十三)

2008-06-02 05:33:16 | 都に咲く向日葵

それから半刻ほどして、正子といろはは屋敷を出た。望月左源太は玄関まで見送りに来たが、「役目があるのでこれにて御免」と言い残して踵を返した。入れ替わりに見張りには屋敷では見かけたことのない中忍らしき者一人と下忍三人が付いてきた。いろはは他に下忍が遠巻きにしているのでないかと考えていたが、確かめようがない。
「ああ、何だか嬉しいのぉ」
正子ははしゃぐように声をあげるが、いろはは周りの状況を把握するのに余念がなかった。脱出できるかどうかはわからない。正子にも何も告げていない。言えば正子は必ず緊張する。緊張はこちらに伝播し、相手にも伝わる。それでは元も子もない。一瞬の機会を狙うしかなかった。
だが、付き添う四人は二人に付かず離れずの距離感で、無言で歩きながらも巧みに四方を囲んでいる。今のところ隙がなかった。

冬の冷たく乾いた風が刺すように一行の間を吹き抜ける。どんよりとした雲が低いが、時折雲間から日が射すことがある。
屋敷の門を出て塀沿いにぐるりと回ると目の前に松が群生した丘が広がっていた。それを越えれば海なのだろう。風に乗って潮の香りがする。一行は丘へと続く緩やかな坂道を登っていった。

いろはは密かに体を鍛えていたので大丈夫だったが、正子は幽閉生活で足は萎えていないか心配だった。脱出の際には生死を分けかねない。だがそれは杞憂であった。正子の足取りは軽やかである。これなら逃げるときになっても何とかなるといろはは安堵した。
「ここはどこじゃ?」
正子が先頭を歩く中忍にいろはが一番知りたいことをあっさり訊ねた。いろはは自分が訊くと警戒されるのは確実だったので、時機を見計らって正子から訊いてもらおうと思っていたところだった。このときばかりは正子の無邪気な性格がありがたかった。
「…」
口止めをされているのであろう。正子が訊いても中忍は喋らない。
「それすら教えてもらえぬのか…。おもしろうないのぉ…」
それでも四人は押し黙ったままであった。
やがて一行は松が生える丘の頂に達した。

「おおっ…。これが海か…」
正子が感動の声をあげ、いろはは息を呑む。
青く澄んではいなかったが、雲間から射す陽光にきらきらと照り返す水面が眼下に広がっていた。丘の頂の少し下からは白い砂が海岸線まで続き、そこには穏やかな波が打ち寄せている。海の遥か向こうには霞んだように黒い陸地が横長に望見される。
―瀬戸の内海か…
いろはは地図を思い起こす。播磨か備前あたりであろうと思われた。
だが、そこでいろはの思考は停止した。
海とはこんなに広いのか。内海でこれなら紀伊や伊勢から海を見たらどうなるのだろう。いろはは自分の境遇を忘れ、目の前に広がる景色に見とれていた。
「いろは殿、波打ち際まで参ろう。よいじゃろ?」
正子はいろはの手を取った。最後の一言は中忍に向かって言った言葉である。
左源太があらかじめ許可していたのであろう。中忍は無表情のまま頷いた。正子がいろはの手を取ったまま、きゃあと言いながら小走りで駆け出した。
「姫様、走られては危のうございます」
「転んでも下は砂じゃ」
正子はいろはの警告に耳を傾けず小走りのまま駆け下りようとした。
「あっ」
正子が躓き転びかけた。咄嗟にいろはが手を引き、抱きかかえる。
「姫様、砂地でも転んでは怪我されるやもしれませぬ。それに御召物も砂だらけになりまする」
「…」
「ゆっくり歩いて下りましょう。海はどこへも逃げませぬ」
「わかった…」
正子が不服そうながら頷き、歩き出した。四人の忍は足が砂にめり込むことなく軽やかな足取りで、四方を固めながら同じ速度で下る。
すぐに砂浜に着いた。振り返ると下ってきたところは小高い砂丘であった。
その一瞬の隙だった。
「姫様っ!」
正子はそのまま波打ち際まで行っていた。
「きゃっ、冷たい」
正子の足元に小さな波が打ち寄せる。
「姫様、濡れまする。早ぉこちらへ」
「もう遅い。濡れてしもぉた」
そう言うと正子は嬉しそうに笑った。
「少しぐらいかまわぬではないか。いろは殿、そんな固いことを言っておると、もらい手が出て来ぬぞ」
「なっ」
うふふふと笑いながら正子はいろはの手をぐいっと引っ張った。
「いろは殿も濡れや」
引っ張られた勢いでいろはも波に足を突っ込んでしまった。
「冷たっ」
一瞬にして冷たい海水が足袋に滲みこむ。
だが、いろはは足の冷たさとは裏腹に、久し振りの外の空気と広大な海を目の前にした開放感で少々の足の濡れなどどうでもよく感じられた。
これが夏なら水の掛け合いでもするところであろうと思った瞬間、顔に冷たい水が飛んできた。
「はははは…」
正子が笑いながら掛けてきたのだ。
「姫様っ」
屈託のない笑顔の正子が容赦なく水を掛けてくる。
「冷とうございます!もぉ」
いろはも顔をめがけて掛け返す。
「冷たいっ、やめてたもれ」
正子の顔が濡れてしまった。
「ほれ」
また正子が掛けてくる。
次にいろはが掛けようとしたとき、正子の頬が濡れているのは海水のせいだけではないことに気づいた。
「姫様…」
波打ち際に棒立ちになって正子は泣いていた。
「…もう…は…嫌じゃ…京に…たい…に逢いたい…何を…じゃ」
切れ切れに聞こえてくる言葉とともに肩を震わし咽び泣いた。
いろはは正子の手を取り、足元が濡れないところまで引っ張っていった。だが、正子にかける言葉を持ち合わせていなかった。ただ、肩を抱き、背中をさするだけであった。
「…ううぅ…」
正子の嗚咽にいろははなすすべもなく立ち竦んだ。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第四十五弾。
アニタ・ベイカー “ Body And Soul ”。海を見た正子姫といろは。そこには希望ではなく絶望しかないのか…。
“ Rhythm Of Love ”(1994)収録。陰影が深く、絡みつくような歌唱は圧倒的なテクニックに裏打ちされたもの。ジャズのエッセンスを口に含んだ大人のブラック・コンテンポラリー。

「Body_And_Soul.mp3」をダウンロード

5.2MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント