goo blog サービス終了のお知らせ 

語り得ぬ世界

現実逃避の発展場 Second Impact
since 2014, The First Departure:2005

都に咲く向日葵(八十二)

2009-04-26 07:53:56 | 都に咲く向日葵

残るは梓の居室であるが、目の不自由な梓は、日常的に加茂屋に留まっており、外出することは稀である。侵入の機会はほとんどといっていいほど見当たらない。それでも楓は、珍之助と権六がいない服部党にあって留守居を担う梓であることから、外出機会は必ずあると踏んでいた。
そして、予想どおりその機会がすぐに訪れた。

服部珍之助が大坂に出立して七日が経過した日の巳の刻(午前10時)、梓が身支度をして、茶葉の調達に行くとだけ告げて一人で出かけていった。それは服部党独特の隠語で、京都所司代直属の番所に定期報告と指示の有無の確認に行くということである。

日が高い中で梓の居室に侵入することは危険を伴うが、滅多に訪れない機会を逃すわけにはいかない。しかも、珍之助の大坂行きもあって加茂屋は手薄であり、いまは下忍二人と捨丸しかいない。楓は意を決した。

伊賀者は階下にいる。二階にある梓の居室は死角にあたる。楓は捨丸にわざと「使いに行ってきます」と告げ、一旦加茂屋を出て、次の角を曲がると路地沿いに取って返し、素早く裏庭の格子戸をくぐって土塀から二階へ跳躍した。音もなく屋根瓦に着地すると、連続する動作で飛び込むように開けておいた二階物置に入り込んだ。物置の引戸を少しだけ開き、階下の様子に神経を集中させる。気配は感じない。廊下に出た。さらに梓の居室の前で止まり、部屋の中を透視するように気配を探る。かすかに香の匂いが漂うが、部屋は静寂だけが包んでいる。やはり忍用の罠に注意しながら、慎重に障子を開けた。

正面に祭壇。白木の祭壇には供物や榊とともに、小さな厨子が置かれてある。それ以外では部屋の片隅に行李が一つ無造作に置かれている。まさか、そんなところに三書があるとは思えないが、楓は居室に入り行李に近づいた。
行李の蓋を開ける。そこには流れるような藤の柄を施した艶やかな小袖が一着だけ入っていた。楓は着物をそっとめくる。やはり何も見当たらない。
―目の見えぬ梓が持っているはずもないか…。
龍眼を使えるとはいえ、盲目の梓の回りに大事な三書を置いておくはずはないのだろうと楓は考え、立ち上がった。祭壇が目に入った。一応そこも見ておこうと楓は厨子の裏側などを検める。しかし何も見当たらない。祭壇や神具の下なども見たが何もない。祭壇をあきらめ、今度は部屋を見回した。
しかし、そこで楓は微妙な違和感を覚えた。違和感の原因を冷静に考えながらもう一度室内を見てみる。
行李であった。
着物が一着しか入っていないのに蓋の位置が高い。楓はもう一度蓋を開けた。さきほどの小袖が見える。行李を横にしてみた。二重底であった。着物を取り出し、竹で編まれた底を揺するように引っ張ってみると底が簡単に外れた。
平べったい紫色の風呂敷包みが出てきた。開いてみると今度は黄色い油紙が出てきた。それも開ける。三書であった。
楓が三書を素早く包みなおしたそのときであった。

襖が突然開き、榊を手に捨丸が入ってきた。
捨丸は無表情な楓と目が合った。しかし、それは普段自分ににこやかに接する楓ではなく、殺気を含んだ冷徹なくの一そのものの目であった。捨丸は状況を理解できないのか、一瞬動作と表情が止まった。同時に榊がぽとりと落ちた。
「楓さん…?」
楓は三書を持ったまま、一気に間合いを詰めつつ、懐から一瞬の動作で短刀を取り出した。その瞬間、捨丸の表情は驚愕とも苦悶ともいえぬものに変わった。容赦なく楓は刀を繰り出した。風を切る音に思わず捨丸は目をつぶった。「もう目を開けることはない」という言葉がぼんやりと浮かぶ。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十四弾。
フィル・ペリー “ My Book Of Love ”。三書にたどりついた楓。しかし、そこに現れたのは捨丸であった。絶体絶命の捨丸の運命と楓の運命やいかに。
伸びのあるファルセットが印象的なフィル・ペリーは現在57歳。R&B、ジャズ・フュージョンのセッション・ヴォーカリストとして、リー・リトナーをはじめ、数々のセッションやプロジェクトに参加してきた実力派シンガー。4枚目のソロアルバム“ My Book Of Love ”(2000)から。参加プロジェクトにも名作は多いが、不遇の80年代を経て額面どおりの実力を発揮してからのソロアルバムにも隠れた名作が多い。日本で決して売れているわけではないが、声は個性的で艶っぽく、歌の巧さは申し分ない。この曲は、カリビアンを隠し味に、まさに流れるようなアーバン・ソウルの旋律に身をまかせたくなるような逸品。

「My_Book_Of_Love.mp3」をダウンロード

4.5MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(八十一)

2009-04-25 05:26:08 | 都に咲く向日葵

翌朝、天空高く青い月が浮かぶ夜明け前、服部珍之助、権六ら十二名の伊賀者が馬で大坂をめざし出発した。まずは河内国藤井寺まで馬で駆ける。藤井寺にある道明寺には伊賀の草がいるので門前町を拠点に天王寺砦を包囲する石山本願寺の各陣所を襲うことにしていた。
梓は加茂屋の前に佇み龍眼を発動させ、一同を静かに見送った。その黒くも透明な瞳はしっかりと服部珍之助の背中をとらえていた。珍之助は振り向いて梓に頷いてから、馬の腹を蹴り掛声とともに疾駆していった。

梓は昨夜のことを思い出していた。
思わず珍之助の胸に飛び込んでしまったが、珍之助の前で涙を見せたのは、こどもの頃からの記憶を呼び起こしてみても初めてである。さぞや驚いたであろうに、珍之助はやさしく受け止めてくれた。それが嬉しかった。本心はこのまま抱かれてもいいとさえ思っていた。
珍之助は涙が止まるまでは静かに背中をさすってくれていたが、梓が落ち着いたように見るや、「梓も早く寝るがいい」とだけ呟き、振り返らずに出て行った。独り残された梓の目からはもう一度、今度は静かに涙が溢れてきた。
これまでも意識したことがないといえば嘘になる。だが、今の今までこの感情に気づかないようにしてきた自分にひどく後悔し、再び涙が止まらなくなった。珍之助が花山院大納言の姫君と惹かれあっていることも聞いている。自分にとっても妹のようないろはが、珍之助に兄であること以上の感情を持っていることも知っている。はじめてこの十年の歳月を恨んだ。
―見えない目でも涙は流れるのだな…。
この夜梓の目は一晩中乾くことがなかった。

そんな出立の様子を加茂屋の奥から見つめる別の瞳があった。
下働きを続けてきた楓の頭の中には、加茂屋の構造のすべてが入っていた。ただし、服部珍之助の居室と梓の居室だけはさすがに掃除をすることも許されていなかったので、細部まではわからない。侵入も考えたが、慎重を期して時機を待っていた。

そして珍之助不在のいま、時機が到来した。梓は出立の日の深夜珍之助の居室に侵入し、徹底的に検めた。忍用に罠があることが十分考えられたため、こよりなどの初歩的なものから飛び道具を使った忍返しに至るまであらゆる罠を想定し、戸棚、天板の開閉もすべて慎重に取り扱ったが、結局罠は一切仕掛けられていなかった。しかし三書も見当たらなかった。それどころかほとんどもぬけの殻であった。部屋の隅に着物が畳んで置かれているだけである。
―大坂に赴くにあたって身辺整理をしたのか、そもそも加茂屋以外にどこか拠点があるのか…。
そこで楓はふと自分の感情が複雑なことに気づいた。珍之助の居室で三書が見つからなかったことは楓にとってよくない結果だったのに、三書がなかったことに安堵する自分がいて、持ち物がほとんどないことに寂しく思う自分がいる。珍之助が身辺整理までして大坂に向かったことを不安に思う自分もいた。普段なら無感情に次になすべきことを考える。敵地において雑念が入ると命取りになりかねない。だが楓は何となく落ち着かなかった。
必要以上に留まることは危険なことだとわかっていたが、楓はすすっと部屋の隅に置かれた着物に近づき、跪いて着物をそっと持ち上げた。鼻を近づけ大事そうに匂いを嗅ぐ。馬鹿なことをしているとわかっていた。でもこのまま立ち去りたくなかった。
着物はどこかひなたくさい。楓は胸の奥底に閉じ込めていた何かが膨らんできていることがわかった。忍の技は体が勝手に反応する。でも今の感情も心が勝手に反応していた。
急に梓が羨ましく思えてきた。二人が組んでいた頃の武勇談を捨丸が得意げに話していた。楓は忍の技量では誰にも負けない自信がある。
―梓の技量はいかばかりであったろうか…。
腹立たしくさえ思えてきた。それが嫉妬であることに楓は気づいていない。
着物をもう一度嗅いだ。匂いによって服部珍之助がここにいるような気がする。いや、いてほしいと思った。
だが、それを長く続けるわけにはいかない。体から引き剥がすように、忍であるもう一人の自分が着物を床に置いた。居室を去るとき、名残惜しく振り返るのが、もう一人の自分への、楓のせめてもの抵抗であった。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十三弾。
マドンナ “ La Isla Bonita ”。梓ははっきりと珍之助を意識し、楓にも明らかな変化が生じつつある。生死を懸ける場面になればなるほど、人はピュアになれる…。
マドンナとしては通算3枚目となる“ True Blue ”(1986)から5枚目のシングルカット。日本語に訳すと『美しい島』という同曲は、ラテンのリズムが切ないバラード。同アルバムは全米第1位を獲得。

「La_Isla_Bonita.mp3」をダウンロード

3.7MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(八十)

2009-04-20 05:21:07 | 都に咲く向日葵

梓はこのまま別れたくなかった。そもそも大坂へ向かう珍之助の身を案じていたのに、逆に心配させてしまったのは自分も悪い。
「珍之助」
梓が呼び止めると、居室から出ようと襖に手をかけていた珍之助がゆっくりと振り向いた。梓は咄嗟に自分でも予想しなかった行動に出た。
梓は立ち上がり、振り向いた珍之助の胸に飛び込んだ。
「梓…」
「すまぬ」
「な、何を謝る…おぬしらしくない…」
「そなたはせっかく心配してくれていたのに」
「それは…」
「わたしが案ずるのは大坂に赴くそなたの方だ」
「大丈夫じゃ。俺は不死身だ」
「そなたの忍の技量が天下無双なのはわかっておる。だが、これから赴く先は戦場だ。本来忍が行く場所ではない」
「戦乱の世にあっては戦場も忍の働き場だろう。それより俺はおぬしの方が心配だ」
珍之助のどことなくやさしげで、でもどこか諦めも入った言い草が梓には切なかった。まるで死地に赴くように聞こえ、急に涙が溢れてきた。
「珍之助…」
だが、梓は死地に赴くのは自分のほうであると感じていた。幸運の星の下に生まれている珍之助は、此度の大坂でも役目で命を落とすようなことはないと梓は確信していた。梓が戦おうとしているところも戦場である。しかし陰陽の術を飛ばし合うこちらこそが、本来の忍の働き場ではない。珍之助の諦観はそのまま梓自身を指していた。珍之助は此岸にいて、梓は彼岸にいる。背の百足が動いたような気がして、その埋めようのない隔たりがどんどん広がることに梓は悲しくなってきた。
「争いごとは人の世の常ではあるが…憎しみ合うことで何が生まれる?」
梓は珍之助の胸に顔をうずめながら問うた。
「憎しみは何も生まぬ。憎悪の連鎖を生むだけだ。だが誰かが終わらせねばならぬ」
珍之助は右手で梓の髪を撫でながら答える。
「われら忍では何もできぬ」
「忍にもできることはある」
「権力者の駒にすぎぬ忍に天下は動かせぬ」
「忍に天下は動かせぬが、現状を拒んで逃げれば飲み込まれるだけだ。逃げれば、それこそ何も生まれぬ」
「だったら忍に何ができる?」
「われらには侍にない技がある。一人で大名でも大将でもその首をかき斬れる」
「兵の数に頼る軍団も一人の忍が崩せるということか…なんという滑稽なまでの矛盾だ」
「この世は矛盾に満ちておる」
「この世から戦乱がおさまるのはいつのことであろう…」
「御屋形様が天下を統一すればおさまる。さすれば徳川の陰謀など灰塵と化し、おぬしに無用な負担をかけることもすべてが終わる」
もとより死を覚悟しているとはいえ、珍之助のやさしさに梓は胸が苦しくなった。今日は耐えられそうにない。蟲毒を浴びたからだけではない。自分だけが彼岸に流されていくようなひどい孤独感を覚え、救いのために伸ばされる珍之助の手をどうしても掴めない悪夢のごとき非現実感が怖い。自分だけが人ではないものに変化していく恐怖を初めて感じていた。それが弱気のなせる幻であるとわかっていても、梓は珍之助の前で我慢できなかった。涙が止まらない。
「死にとうない…」
「案ずるな。梓はこの俺が守る」
それが気休めの言葉であることは、二人はよく承知していた。
それでも、梓はもはや思慮の範囲を超え、すべてをさらけ出していた。むき出しの言葉の応酬に救いを求めていた。
そして、珍之助は梓の弱気をしっかり受け止めようと思っていた。梓の体の変調は松平親忠の呪詛のせいであるのは間違いなかった。かつて二人が組んでいた頃は、一つ年上の梓がいつも珍之助の弱気と勘気をやんわりと受け止めていた。今度は自分がその役目を果たさねばならないと感じていた。
「…」
梓の肩が震えるのを感じた珍之助はそっと抱き、背中をさする。梓は十年分の涙がとめどもなく溢れ、珍之助にぎゅっとしがみついた。そのまま二つの影が重なり、冴え冴えとした月の光がその闇を包み隠した。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十二弾。
TOTO “ Stop Loving You ”。梓と珍之助、命を懸ける二人の距離が十年の歳月を超えて縮まる。
1978年アメリカ西海岸から彗星のごとく登場したTOTO。ボズ・スキャッグスのバックバンドから発展したバンドは、ハード・ロック、プログレ、AORなどさまざまなジャンルのサウンドを昇華し、洗練してみせる。文字通り通算7枚目となる “ The Seventh One ”(1988)から。サビのコーラスに隠し味のようにさりげなく聞こえるイエスのジョン・アンダーソンのバックコーラスが贅沢な一曲。ちなみに、このときのTOTOのリード・ヴォーカル、ジョセフ・ウイリアムスは、「スター・ウォーズ」など映画音楽の大御所ジョン・ウイリアムスの息子である。(このアルバムのみ参加で脱退)

「Stop_Loving_You.mp3」をダウンロード

4.1MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十九)

2009-04-19 06:41:19 | 都に咲く向日葵

織田信長が安土城の築城に着手した天正四年、石山本願寺が再び挙兵した。四月に入り信長は明智光秀、荒木村重、塙直政を大将とする三万の討伐軍を大坂に派遣したが、討伐軍は緒戦で大敗を喫し、塙直政が討ち取られてしまうという失態を晒す。さらに本願寺側の猛烈な反攻に遭い、討伐軍の一部は天王寺砦に籠城せざるを得なくなったうえに、一万五千もの大軍に包囲されてしまった。事態打開に向け、伊賀服部党にも京都所司代村井貞勝から大坂への下向命令が下った。
服部珍之助は権六に命じ里から手練の伊賀者を十名呼び寄せ、京都所司代の命を伝えた。
「伊賀服部党は天王寺砦を包囲する本願寺軍の後方撹乱を行う。狙うは各陣の侍大将の首だ。容赦せず斬れ」

珍之助は権六を伴って天王寺へ向かうことにした。梓の居室にやってきて留守居を梓に託す。
「梓、あとを頼む」
「承知した。だが加茂屋が手薄になるな」
「やむを得ん…。三書のこともあるので、そろそろ本格的に庵治寺へ移ることも考えなければならぬな」
「うむ…。いずれにしてもこちらのことは任しておくがいい。それよりそなたこそ気をつけて大坂へ行ってくれ。天王寺あたりはかなり混乱していると聞く」
梓の表情に少し翳りが差した。
「うむ」
「本願寺には河内、和泉あたりの地侍がかなり合流している」
「烏合の衆に付け入る隙など与えぬ」
「確かにどれほど統率が取れているか未知数だが、油断は禁物だ。何より織田信長への怨念が奴らを突き動かしている」
梓は戦場の混乱こそが忍にとっての狙い目であると同時に、危険な罠になることを承知している。それは伊賀服部党を率いる珍之助も同様だ。しかし、梓は人の怨念こそが思いもよらぬ力と結果を生むことも知っている。
「形勢は織田方が劣勢だ。御屋形様御自らご出陣なさるともっぱらの噂じゃ。相当お怒りなのだろう。叡山のごとき徹底的な殲滅戦が行われるやも知れん」
「そうなると徳川の動きが気になる」
梓は背筋を伸ばすようにして静かに言った。
「都ががら空きになるということか…」
「まさか家康が御屋形様の留守に反旗を翻すとは思えんが、源氏正統公認に向け官位官職を得るための朝廷工作を仕掛ける可能性はある」
「だが、独断で朝廷に接近すれば京都所司代を通じ、御屋形様の知るところになるぞ」
「珍之助、徳川の工作は何も貢物によるものとは限らぬぞ」
「まさか…蟲毒…」
珍之助はそこに思い至り絶句した。
梓は自身の背に這う百足を思い出す。間違いなく蟲毒を用いた呪詛の念が内裏に向かって流れている。美濃、近江、京を結ぶ線上に織田信長という強大な氣が渦巻くことで、遠江からの怨念を薄める役割を果たしている。その氣が大坂へ動けば京の都は松平親忠の呪詛をまともに浴びることになる。徳川家康は蟲毒の力によって帝を頂点とする朝廷に恐怖の揺さぶりをかけることもできる。
「御屋形様がご出陣なさることになれば、朝廷の陰陽師による呪詛返しの陣を張ってもらうよう村井様に申し出てくれぬか?」
「わかった」
「わたしも親忠の蟲毒に対抗してみる」
「それは危険だ!」
珍之助は間髪入れずにきつく言った。
「珍之助…」
梓は驚いた。同時に龍眼を発動し珍之助の表情を窺った。真剣で厳しい目をしていた。
「梓は霊力もあって多少の術を使えるかもしれぬが、陰陽師ではなかろう。いまは伊賀服部党の忍ではないか。おぬし、前にも申しておったが、囮になるつもりだろう。そんなことをしては命を落とすぞ。それはいかん」
「だが、徳川の陰謀を知るのはわたししかおらぬではないか!」
梓も少し声を荒げた。
「だからといって、おぬしがなぜ囮にならねばならぬ?!」
「囮だからといって命を落とすとは限らぬ」
「囮と殿軍は命を捨てることが前提だ」
「最後まで希望を失わぬのがそなたの信条ではなかったのか!」
梓はどうして自分がむきになるのかわからなかった。心配してくれていることはわかるが、珍之助の弱気が気に入らなかった。
「俺は大坂へ向かう。簡単に死にはせぬが、万一のときはおぬしに服部党をまとめてもらわねばならぬ。それに…」
珍之助は言葉を切り、視線を床に落とした。
「それに?」
珍之助は梓の目のことを思い、これ以上傷つけたくなかった。珍之助がずっと負い目を感じていることであるが、梓がもっとも嫌がることでもあったので、それを口にすることはできなかった。
「いや、何でもない…」
「珍之助、そなたの言うこともわからいでもないが、主上を守ることが第一だ。御屋形様の天下取りのためでもある。この身は惜しゅうない」
梓は静かに、しかしきっぱりと言った。
「わかった。もういい…」
珍之助が脱力したように肩を落としたのを梓は龍眼で見た。梓が言い出したら聞かないことを珍之助もわかっているのだろう。
「いずれにしても、互いに無駄死にだけはせぬようにしよう」
珍之助の態度を見て梓もそう言うのが精一杯だった。
「うむ」
珍之助は立ち上がった。
「出立の用意をしてくる。明朝夜明け前に立つ」
何となくなく気まずい空気が流れる。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十一弾。
Chicago “ You're The Inspiration ”。石山本願寺の反攻により窮地に陥る織田信長であったが、時代の歯車は確実に回り、服部珍之助は大坂へ赴くことに。だが梓と珍之助の間に流れる互いへの思いやりは噛み合わない。
通算17枚目、絶対無比ともいえるピーター・セテラ在籍時の“ 17 ”(1984)から3枚目のシングル曲。シカゴのルーツは1967年にさかのぼるが、このアルバムがリリースされてからはピーターのヴォーカルを前面にバラードAOR路線をひた走ることになる。17枚目はシカゴの中でもっとも完成度の高いアルバムと言われており、この曲は全米第3位を記録。これはマドンナ “ Like A  Virgin ”、フォリナー “ I Want To know What Love Is ”、ジャック・ワグナー “ All I Need ”といった当時の超強力ラインナップ・シングル曲に阻まれた結果であり、リリース時期によっては1位も夢ではなかった名曲。

「You_re_The_Inspiration.mp3」をダウンロード

3.6MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十八)

2009-04-18 17:25:01 | 都に咲く向日葵

天正四年三月も半ばに差し掛かったころ、ついに楓は梓が「盲目の巫女」であることの確信を得る。

「盲目の巫女」ならば三書も身の周りにある可能性が高い。銀八がもたらした知らせでは、近々石山本願寺が動き出すという。そうなれば織田との総力戦になる。京の都は騒がしくなり、伊賀服部党も都にとどまってはいられないかもしれない。楓は服部党が動くことになれば、必ずや三書が珍之助、梓の周辺で動くと見ていた。そのためにも梓が「盲目の巫女」であることの確証がほしい。予断で動いて別に存在した場合、すべてが振り出しに戻ってしまうだけでなく、服部党に食い込んだこの状況すら無に帰してしまう。梓が「盲目の巫女」でなければ、三書の奪取ではなく間者として伊賀服部党の動向を探ることに楓の役目が切り替わり、最後には服部珍之助暗殺になると銀八に言われていた。
―あの男はやさしすぎる。
感情に流されることは暗殺者にとっては致命的である。暗殺という役目を果たせるかどうか自信がなかった。
梓が「盲目の巫女」であってほしい―楓は意識のどこかでそう願っていた。
だが三書奪取であっても、勝負に出ることになる。命を懸けることに違いはない。ならば暗殺ではなく、正々堂々と斬り合いたかった。

いつものように捨丸は楓の居室に菓子をもらいに来ていた。捨丸は珍しい貴重な菓子がもらえる梓にすっかり心を許していた。そんな素朴にして純粋な捨丸を手玉に取るように扱ってきた楓は、捨丸が権六の噂話などを平気でするようになったのを見て、いよいよ時宜到来と読んだ。

さりげなく梓の話題を振っていき、やがて核心に迫る話を持ち出す。
「捨丸さん、梓様って盲しいておられるのに、そんな素振りは少しもお見せにならないわねぇ」
「だろう?」
「なんというか、心に眼があるような…」
「梓様は不思議な霊力をお持ちなのさ」
捨丸は得意げに話す。
「霊力?」
「龍眼といって、霊力を使えば見えるんだぜ」
「龍眼を操るなんてすごいお人じゃないかい。
「梓様はかつてくの一だったけど、敵の城で目をやられてから巫女に転じ…」
さすがにそこまで言って捨丸は口をつぐんだ。権六には固く口止めされていたことを思い出した。
「巫女様?」
「う、うん…」
捨丸は急に口が重くなった。だが、楓は梓を清らかな女人だと褒めちぎり、そんな霊験にあやかりたいと真顔で言うと、捨丸は情にほだされ結局梓が巫女として熱田神宮にいたことまで喋ってしまった。
「このことは他では言わないでおくれよ」
「もちろん言わないわよ。わたしは伊賀服部党に拾われた身…」
その後捨丸は梓の部屋には神棚があること、頭領である服部珍之助の許婚と目されていた時期もあったことなど、結局梓の身上を楓に話した。
「このことは他では絶対に言わないでおくれよ」
捨丸はもう一度念を押して楓の居室を後にした。
楓は捨丸をにこやかに見送った後、一瞬胸の奥底で小さな痛みを感じたが、元の無表情に戻ると黒川銀八に知らせるべく、忍び文の用意をするなど、三書の奪取に向けてさっそく動き出した。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十弾。
Y&T “ She's Gone ”。楓がついに動き出し、三書の争奪戦が今静かに幕を切って落とした。
日本でも人気の高いデイヴ・メニケッティ(Vo,G)率いるアメリカン・ハードの雄、Y&T10枚目のアルバム “ Ten ”(1990) からドラマティックな一曲。哀愁を帯びたメロディ、エッジの効いた骨太なギター・サウンドがファンにはたまらない。バンドは1991年に解散したものの、2001年に再結成し、昨年6月には来日するなど現在でも健在である。

「Shes_Gone.mp3」をダウンロード

3.9MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十七)

2009-02-14 08:09:34 | 都に咲く向日葵

翌朝楓は加茂屋の前を掃き清める捨丸の姿を見つけると一計を案じた。
箒を抱えるようにして捨丸が店の中に戻ってきたそのとき、
「捨丸さん…」
楓が呼び止めた。
「っ?」
捨丸は急に楓に呼び止められ、驚き、次に顔が一気に紅潮した。
「な、なんじゃ?」
「昨日使いに出た際に堀川で珍しい菓子を見つけました。わたし一人で食べるのももったいないので…かといって甘ったるい菓子などこちらの殿方は見向きもしませんでしょうし、よろしかったら捨丸さんご一緒にいかがかと…」
「せ、拙者も服部党の端くれ、甘ったるい菓子など…」
捨丸はまだ十二歳、実は甘いものに目がなかった。楓は権六、捨丸たちの会話の中から知っていたのである。塩をまぶした菓子のほうが多いほど高価な砂糖を使った菓子は滅多に手に入らない。だが、普段甘いもの好きを権六たちにからわれている捨丸が強がりを言うであろうことも楓は計算していた。
「そうでしたね。ごめんなさい。でも気が変わったらわたしの部屋にお越しくださいな」
「き、気が変わったらそうする」
強がりを言ってから後悔する捨丸の性格も把握していたから、逃げ道を作っておいた。そう言えば必ず捨丸は来るであろうと確信していた。

果たして事は楓の思惑どおりに進んだ。
「楓さん…」
捨丸が楓の居室の前で声をかけてきた。
「どうぞ」
「その…気が変わったのでござる」
頬を紅潮させ捨丸が入ってきた。
楓は小さな布袋から白い丸薬のような金平糖を一粒取り出した。
「これは?」
「こんへいとうという南蛮菓子でございます」
「そ、そんな菓子を楓さんは買えるのか?」
「はい。忍をしていた際の給金の蓄えもそれなりにありますし、甲賀を出奔するとき金子もいくらか奪ってまいりました」
そう言って楓はにっこり笑ってみせた。
「…」
普段怜悧な無表情の楓が見せるまぶしい笑顔である。捨丸はどぎまぎして目を逸らすほどであった。
「ただし、これは本物のこんへいとうではありませぬ。堺の菓子職人が見よう見まねで作ったものだとか。南蛮渡来のこんへいとうは主上か公家か大名でないと口にできぬほど高価で数も少ないもの。ゆえに値はそれなりに張りましたけども、楓でも買えたのでございます」
「そうなのか」
捨丸は金平糖を手にとってしげしげと眺めた。
「お口に入れてみてください。噛まずに舐めるのがよいと店主が申しておりました」
「うん」
捨丸は大事そうに口に入れてみた。
「これは…」
「甘いでしょう?」
捨丸は目を丸くした。こんなに甘味の効いた菓子を食べたことがない。まるで舌そのものが溶け出しそうであった。舌の代わりに金平糖がすぐに溶けてなくなった。
「もう一つどうぞ」
「あ、でも…」
いくら堺で作られた金平糖とはいえ、それなりに高価なものであろう。さすがに捨丸には遠慮が働いた。
「かまいませぬ。ならば…」
楓は手ずから捨丸の口にそっとふくませた。
「んっ…」
捨丸は金平糖の甘さよりも唇に当たった楓の右指の冷たい感触に胸が高鳴った。
さらに楓は金平糖が入った布袋を捨丸の懐に押し込んだ。
「楓さん…」
「また手に入ったらお知らせしますので…」
「あ、ありがとう」
捨丸は顔を赤めながら頷いた。

こうして楓は捨丸に金平糖を与えたが、何も聞き出さなかった。まずは信頼を得なければならない。それから何度か捨丸に菓子を分け与えることで、徐々に懐柔していったのである。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十九弾。
シン・リジィ “ Dancing In The Moonlight ”。ついに動き出した楓。楓と梓が交差する先には何が待ち構えているのか?!
アイルランドの英雄、故フィル・リノットが率いたシン・リジィの通算8枚目となる “ Bad Reputation ”(1977)収録。メロディアスで軽快ながらセクシーなサックスソロと哀愁たっぷりなギターソロが印象的なこの曲は、全英第14位、アルバムは全英第4位を記録。サックスはスーパートランプのジョン・ヘリウェルが演奏。

「Dancing_In_The_Moonlight.mp3」をダウンロード

3.2MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十六)

2009-02-11 17:04:01 | 都に咲く向日葵

「梓、入るぞ」
珍之助はすっと襖を引いたが、そこに全裸の梓が佇んでいるのを見て慌てて閉めた。灯明に浮かぶ白い裸身が残像として網膜に焼きつく。
「す、すまぬ。着替え中とは知らなんだ」
「ははは、そんなに慌てずともよい。そなたなら見られてもかまわぬ」
「ば…馬鹿を申すな」
「今着物を着る」
「うむ」
だが襖越しに帯を巻く音が妙に艶かしく聞こえ、珍之助は思わず咳払いをした。
「どうかしたのか?」
「あ、いや、最近おぬし、食が細いというのを聞いた。どうかしたのか…と思ってな」
「なんだ?心配してくれているのか?」
「そ、そういうわけではないが…」
梓は顔を赤らめているであろう珍之助を想像すると愉快であった。
「もういい」
「え?」
「着替えは済んだ」
「あ、そうか」
あらためて珍之助が襖を引いて入ってきたが、どこかばつが悪そうで、そんな珍之助を見るのが梓は楽しくて仕方ない。
「それで、どうなのだ?」
珍之助は照れ隠しもあって話題を戻した。
「何が?」
「だから、食が細いということだ」
「ああ、心配は無用じゃ。まもなく春になる。季節の変わり目はどうしても食が細る」
「ならばよいが…」
本当のところは、梓は体調の変化を微妙に感じていた。食欲はない。さらに時折微熱が出ることがあり、その周期が狭まってきていた。松平親忠の蟲毒であることは間違いなかった。浜松城に奴はいる。何としても倒さねばならなかった。このまま呪詛を吐き続け、しかも徳川家康を傀儡として天下を脅かそうものなら京の都が恐怖に沈みかねない。
珍之助に裸身を見られてもよいと言ったが、背中の百足状の染みだけは見られたくなかった。珍之助ならすぐにわかるだろう。やさしい頭領に心配はかけたくなかった。
「いずれにしても、最近おぬしは部屋にこもりがちだが…」
珍之助は心底心配そうに言った。梓の微妙な変化に気づいていた。
梓は何もかも黙っているわけにはいかないと思い、正直に言うことにした。
「都に流れてくる呪詛を辿っていた」
「それで?」
「辿りつけた。やはり三河からだ。今は遠州浜松城にいる」
「徳川家康だな」
「そういうことだ。浜松城ということは、おそらく家康周辺に松平親忠がいるはずだ」
「しかし…この途方もない話を御屋形様に注進する手だてがない…」
「案ずるな。親忠は三書を血眼で探しているはずだ。必ず動く」
「梓おぬし囮になるつもりか?」
「是非もない」
「危険だ」
珍之助は腕組みをしながら呟いた。
「なんだ?そなたらしくない言い方ではないか。わたしなら大丈夫だ」
「相手は怪物か妖怪の類だ。嫌な予感がする」
「気のせいだ」
「だったらいいが…あ、いや、すまぬ。弱気の虫はいかんな」
「ははは…そなたのほうがこの梓は心配だ」
だが実際梓は珍之助の勘の良さに舌を巻いていた。
「用心に越したことはない」
そう言うと珍之助は立ち上がった。
「珍之助」
梓は思わず呼び止めた。もう少し珍之助にいてもらいたかった。
「ん?」
珍之助は梓の居室を出ようと襖に手をかけたところで立ち止まり振り返った。
梓は龍眼を発動させたままであることに気づいた。ずっと珍之助の自分に対する心配そうな表情を見ていたから、思わずその胸に飛び込みそうになった。弱気の虫は自分のほうである。
しかし、梓は寸でのところで思いとどまった。そんなことをしたら珍之助が困ってしまうだろう。蟲毒を浴びたこともわかってしまう。珍之助のことだから梓を心配して作戦から外すと言い出しかねない。
「なんでもない…」
梓は首を振り、龍眼を閉じた。
「とにかく決戦が近いのは間違いない。季節の変わり目か知らぬが、食が細いのは良くない。しっかり食べてくれ」
「そうする」
襖が後ろ手で閉められた。
梓には、このときばかりは珍之助のやさしさが痛かった。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十八弾。
イーグルス “ I Can't Tell You Why ”。蟲毒を浴びた梓。覚悟を決めたはずなのに珍之助のやさしさに触れ、心が一瞬揺れる。
邦題『言いだせなくて』は“ The Long Run ”(1979)収録。イーグルスのスタジオ盤としてはラストアルバム(再結成除く)となるこのアルバムは、初登場から14週にわたって全米第1位を独走。だが、バンドの解散が決定的になったのはこのアルバムを録音しているときであったという。ティモシー・B・シュミットが語りかけるように歌う切ないメロディのバラードは全米第8位を記録。

「I_Cant_Tell_You_Why.mp3」をダウンロード

4.5MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十五)

2009-02-09 05:25:04 | 都に咲く向日葵

加茂屋には女が梓と楓の二人だけだったので、楓は絹が使っていた部屋をあてがわれていた。一丈(約3メートル)四方ほどの狭い部屋ではあるが、行李が一つ置かれている以外何もないので寒々しく感じられた。それでも隅々まで清潔感を保っていることから、先の住人がきれいに使っていたことが窺える。
梓はその居室の真ん中に座って瞑目していた。精神を集中させている。
日が暮れて男たちの夕餉が始まっていた。甲賀なら普通は飯炊き女が給仕をするものだが、ここでは男だけで食べるので楓は席を外せと言われている。当然信用されていないからであろうが、それは予想されたことである。下手に自分から動いたり、勝手なことをすれば疑いが増す。ここでは極力無口で、指示されたように動こうと決めていた。そうすれば時間はかかっても必ず信用度は増す。実際、捨丸の態度に変化を感じていた。
楓が加茂屋に来て二十日ばかりが過ぎた。梓が“盲目の巫女”である可能性が高いが、証拠がない。三書がこの加茂屋のどこかにあるとしても、容易に見つかるはずもないから危険を冒してまで探すこともない。梓の生い立ちは捨丸から聞き出そうと決めていた。そこに何かがあると楓は踏んでいた。
だが、珍之助をはじめ服部党の連中は不思議と清々しい。年下の捨丸を騙すことにいささか良心が咎める。甲賀黒川党では命じられるまま暗殺・拷問を繰り返してきたが、服部珍之助と出逢ってからというもの、こころにさざ波が立っているのも事実だ。実際絹という伊賀の女にとどめを刺せなかった。
―おかしな男だ。
剣の腕は立つのに、黒川のような情け容赦のない空気は纏っていない。とりあえず相手を信用するというところが変である。斬り合った間柄だというのに。それに妹を心配する姿がひどく自然体である。頭領というのに自らの弱さを曝すことに躊躇しない。それは自信の裏返しであり、信頼も得よう。かえって強さを証明することなのかもしれない。
―変わっているが、雲か風のような男だ。
珍之助のことを考えると鎖帷子に覆われたはずの楓のこころの奥底がちりちりと痛む気がする。出会いのとき、急遽遊女を装ったからとはいえ、珍之助の胸に抱かれたことが今でも忘れられない。あのときは役目上抱かれても仕方ないと覚悟を決めていたが、まるで見透かされていたかのように捨て置かれた。実際遊女ではないと看破されていた。自分の未熟さを恥じつつも、そのやさしさが素直に嬉しかった。
―不思議だ…。
今は珍之助なら抱かれてもいいと思っているが、あの男が自分からそんなことを言い出すはずもない。それがわかっているだけに、ひどく哀しく感じてしまう楓であった。

楓はおもむろに立ち上がった。雑念を振り払うように首を左右に振り、意を決したように居室を出た。

                   ◆

同じころ梓も居室で瞑目していた。梓の居室には神棚が設えてある。安倍清明を祭ってある。その前でこころ静かに瞑目していたのである。
梓は体の変調を感じていた。蟲毒と化した松平親忠が持つ力がどこへ及んでいるのかを探っていたが、賀茂氏歴代の怨念が天皇家に向いているのは間違いないと考え、熱田社が奉る日本武尊の霊力にも頼りながら帝につながる呪詛を辿っていたのである。陰陽道で守られている内裏ではあるが、帝という存在が霊的に大きいだけに霊道は自然とできてしまう。その霊道の一つに呪詛の念が流れていたのである。おそらく霊道を親忠は見つけ出したのであろう。同じ霊道を梓も見つけたのである。珍之助と再会する前から都に渦巻く邪悪な怨念をずっと感じていた。それが三書にもとづく珍之助の分析・推理と一致した。松平親忠である。三河国まで辿り着けた。しかし、梓にとってその代償は大きすぎた。深追いしすぎたのである。
―蟲毒を浴びてしまったかもしれぬ。
梓は静かに立ち上がり、するすると小袖と襦袢を脱ぎ捨て全裸になって龍眼を発動させた。自身の体を医者のように眺めてみる。
いつの間にか背中に小さな黒くて細長い染みができていた。その黒い染みはまるで百足の影のようであった。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十七弾。
フィル・コリンズ “ One More Night ”。動き出す楓。だが気持ちは少しずつだが揺れてもいる。珍之助への想いが膨らみ始めていることに気づいていない。一方、梓は松平親忠による蟲毒の呪詛を浴びてしまった。この先二人を巡る運命やいかに…。
フィル自身3枚目のソロアルバムであり、全米・全英ともに第1位を記録した“ Ⅲ(No Jacket Required) ”(1985)収録。このアルバムは1986年グラミー賞最優秀アルバム賞も受賞している。中でも切ないバラードのこの曲は秀逸の出来で、全米1位、全英4位の大ヒット・ナンバー。

「One_More_Night.mp3」をダウンロード

4.4MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十四)

2008-12-31 08:11:16 | 都に咲く向日葵

「黒川とやらは石山本願寺配下であったのなら、織田方に寝返ったということか?本願寺の間者ではないと言い切れるのか?大丈夫なのか?」
「この天海が見極め申した。何か不足でございまするか?」
静かに、だが有無を言わさぬ口ぶりで天海が言い放った。
「いや…」
家康は天海から目を逸らして頷いた。普段の執務用に使う室内は寒々としているのに、家康のこめかみを一筋の脂汗が流れていった。
「それから…家康殿、黒川は織田方ではありませぬ。徳川の手の者でございます。ゆめゆめ間違われませぬよう」
「わかった…」
「さっそくでございまするが、黒川には役目を与えておりまする」
「役目?」
「徳川の天下取りに“害をなすもの”を取り除かせまする」
「害をなすもの?まさか…あれか…?」
「左様、“あれ”でございまする」
「在り処はわかったのか?」
「残念ながら…」
天海がそう言って首を振ると、絹でできた黒い頭巾が優雅に揺れた。
「しかしながら、手掛かりはあり申す」
「何じゃ?」
「“あれ”、すなわち三書を持つ者がどうやら“盲目の巫女”であるというところまでは掴んでおりまする」
「盲目の巫女?」
「三書を持ち出した熱田社の権宮司が口を割り申した。この男、見かけ以上に相当辛抱強かったらしいのでございまするが、小指から順に両足の指をすべて落とされ、次は手の指をという時に、三書を熱田社の“盲目の巫女”に預けたと割り申した」
天海の虫の手足をもいだかのような言い方に家康は不快な感情がちくりと首をもたげたが、杯に注いだ酒とともにそれを飲み干した。
「権宮司を捕らえた際風魔に熱田社の宮司や禰宜、権禰宜、参事、主事、巫女、舞女に至るまでおる者すべて秘かに洗わせたのでございまするが…網にはかかりませなんだ。斜陽の北条から召し抱えた風魔でございまするが、いつしか徳川御庭番の独占に胡坐をかいておりましたな。この黒川が盲目の巫女の正体を見いだしたのでございまするよ。もちろん風魔には詰め腹切らせましてございまする」
家康は風魔の上忍の一人が不祥事で斬首されたと聞いていた。
―詮索はしなかったが…このことだったのか…。
不祥事の中身もさることながら、裏工作は天海に任せてあるとはいえ、家康は自分が蚊帳の外に置かれているような気がしてまたまた不快になってきた。だが天海には逆らえない。それは死を意味する。
「それでその権宮司はいかがいたした?」
家康は聴くだけ無駄だとは思ったが、天海は自分に尋ねられることを欲しているに違いないと思ったので問うことにした。
「切り刻み申した」
天海は家康の予想に反してあっさりと結果を告げたように思えたが、次の一言で家康は凍りついた。
「すでに達磨となっていたその男、出っ張りは首のみだったゆえ、三日かけて首を鋸で引き申した」
家康には灯火にゆらめく影の一つがひと際大きく膨らんだように見えた。
「で、その巫女は?」
「この巫女が盲目であることを知っていたのは熱田社でもごく一部の者だったのです。巫女は龍眼なる霊力を操るがゆえに、めしいていることを並みの者には気取られないということでございました。それに権宮司を捕らえた時には熱田社を出奔してから年月を経ておりましたゆえ、その巫女も熱田社をすでに離れており申した」
天海はそこで一旦言葉を切った。灯火が三つの影をゆらめかせ、その場を静寂が一瞬にして支配した。だがそれはほんのわずかの間だった。銀八が言葉を継いだ。
「伊賀に腕の立つくの一がおり申したが、破壊工作中に負傷し失明したとのことでございます。拙者、この話は服部半蔵から聞き申した」
「半蔵が?」
服部半蔵。家康直轄の伊賀者の御庭番である。
「いかにも。当初はあくまで直感でござったが、くの一も巫女もどちらも美しい女で容貌が似ており申した。それで伊賀者の線から探らせましたところ、ようやくここにきて京都所司代村井貞勝配下の伊賀服部党にそれらしき人物がいるとわかりましてございまする」
「して、首尾は?」
「それが…」
再び天海が首を振った。黒頭巾も左右に揺れる
「そうか…。あれが天下に曝されては天下取りどころか織田信長を敵に回すことになる…。いまは得策でない」
そのとき銀八がおもむろに声を出した。
「憚りながら…この黒川銀八、必ずや殿の意に沿いまするゆえ、ご心配なきよう。織田ごときに天下は取らせませぬ」
「ふむ…大した自信じゃが…盲目の巫女は探し出せるのか?」
家康はさきほどの刃を思い出したのか、喉をさすりながらも威厳を崩さずに問うた。
「目星はついておりまする」
「まことかっ?!」
「いかにも」
銀八は落ち着き払って言い切った。
「手は打っておりまする。しかも伊賀服部党の頭領の妹もわが掌中にありまする」
「ふむ」
「ははは…いかがでございまするか?この黒川なら成し遂げましょうぞ。いやいや、信長の首級を持ってくることもできましょう」
天海は黒頭巾のため表情こそは窺えないが、家康にはその声は弾んでいるように聞こえた。
「家康殿、しかもこの黒川は驚くべきものを持って参った」
「驚くべきもの?」
「花山院右大臣家の姫君でございまする。この駒があれば朝廷へ楔を打ち込んだも同然」
「うーむ…」
家康は腕組みをして唸り声をあげた。
そして、少しの間を置いて黒川のほうを向いた。
「黒川…」
「はっ」
「そなたの働きがよければ褒美をつかわすが、何が欲しい?金子か?はたまた国がほしいか?」
無表情だった銀八の顔が少し歪んだ。いや、歪んだように見えたのは銀八の左のこめかみにある傷痕が引きつったかのように見えたからで、それは口元に笑みが浮かんだからであった。
「かまわぬ、言うてみよ」
今度は天海が促した。
「されば…この黒川銀八、闇の世界を支配いたしとうござる。殿が光当たる世の王ならば、拙者は暗き闇夜の将軍。望みはそれだけでござる。闇は決して光にはなりえませぬゆえ、殿には何ら危害は及びませぬ」
「おもしろいこと言う。暗き闇夜とはいかなるものか?」
家康は大きな耳たぶを揺らすようにして身を乗り出した。
「まつろわぬ者…すなわち鬼、妖怪、邪…これら魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界。これらを自在に操りとうござる。彼奴らの力は無尽蔵。操ることができれば現世の人の命など藻屑も同然。幾万の軍勢よりも強き存在にて無敵でござる」
「そんなことができるのか?」
「家康殿、この天海がおりまする。黒川に力を授けまする。これほどの腕と、才覚、覚悟を持つ者ならば、まつろわぬ者を操ることは難しくありますまいて」
黒川に替わって天海が答えた。
「なるほど…しかし…まつろわぬ者が天下に害をなさぬと言えるのか?」
家康は天海に向けて質したが、今度は黒川が言葉を引き継いだ。
「この黒川銀八、殿に害なす者をまつろわぬ者を使ぉて殲滅いたしまする。ゆえに光の王に仕えし闇将軍でござる。さすれば徳川様の天下は安泰」
「わかった。褒美はそなたの望みどおりつかわす」
「ありがたき仕合せ」
黒川がゆっくりと頭を下げた。
それを見た天海は満足気に頷いたのであった。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十六弾。
フィル・コリンズ&フィリップ・ベイリー “ Easy Lover ”。徳川家康と謎の僧天海に取り入った黒川銀八。その野望は闇の世界を支配することだと言う。こうして徳川の天下取りの歯車がゆっくりと回りだした…。
アース・ウィンド&ファイアのリード・ヴォーカルだったフィリップ・ベイリーと当時飛ぶ鳥を落とす勢いのジェネシスのフィル・コリンズという意表を突くデュエット。フィリップの見事なファルセットとフィルの野太い声の掛け合いが心地いいこの曲は1984年に12インチ・シングルとしてリリースされ、全米第2位、全英第1位となったロック・チューン。記憶違いなら申し訳ないが、この曲はMTVやFMなどのヘヴィ・ローテーションで何週も全米2位ながら、この1984~85年頃はマドンナの “ Like A Virgin ”がメガヒット独走中で、どうしても1位になれなかったという逸話を聞いた覚えがある。フィリップ・ベイリー初のソロ “ Chinese Wall ”(1984)収録。このアルバムは佳曲揃いの名作。

「Easy_Lover.mp3」をダウンロード

4.7MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント

都に咲く向日葵(七十三)

2008-12-30 08:24:08 | 都に咲く向日葵

浜松城二の丸。徳川家康は悠然と薬湯を飲んでいた。家康は神経質なほど自らの健康に気を遣う。
「家康殿、薬湯もいいが、たまには御酒でも飲んではいかがでございまするか」
家康の向かい側、下座に座る人物が少しかん高い声でそう言った。
「いや、酒は宴席以外では控えておりまする」
「御酒は百薬の長とも言いまする。そんな節制ばかりしておるとかえって長生きできませぬぞ」
「この家康、天海様のように長生きいたしとうござるが…」
「ははは…ならば御酒ぐらい飲みなされ」
天海と呼ばれた人物は、紫の僧衣を纏い、目元だけが開いた黒い頭巾をすっぽり被っていた。その頭巾の穴からは涼やかに澄んだ黒い瞳が覗いている。
「ときに家康殿」
「は…」
「天海様はやめなされと申しておったはず」
「はぁ…申し訳ありませぬ…」
「ほれ、すぐにそのように…。そなた様は徳川の殿じゃ。そして天下を統べる人物となるべきお方。この天海は徳川家に仕える一介の僧侶。普段からそのように接せねば、家来の前で出てしまいまするぞ」
家康は頷くと薬湯をぐいと飲み干し「誰かある」と襖の向こうに声をかけた。
すぐさま小姓がやってきた。
「お呼びでございまするか」
「酒を持て。天海の分もな」
小姓が目を丸くして返事に窮した。家康が酒を所望するなど滅多にないことである。
「聞こえぬのか」
「ははっ」
畳に額をこすりつけるように小姓は頭を下げ、慌てて下がっていった。
襖が閉まるのを見届け、天海は嬉しそうに笑った。
「上出来でございまする」
家康は内心おもしろくなかった。「天海様」と呼べば怒るくせに自分のことは「家康様」ではなく「家康殿」と呼ぶ。わざと言ってこちらの反応を愉しんでいるのであろうとも思える。確かに家来の前で「天海様」は具合が悪いが、天海の正体を考えれば不遜な言いようは本能的に畏れてしまう。どちらにしても、天下取りという最終的な目的のためには我慢せざるを得ない。

小姓が二人それぞれ酒膳を持ってやってきた。肴は家康好みに味噌と干し魚だけである。二人は静かに家康と天海の前に置き、そのまま小姓が家康と天海の横に付いた。酒を注ぐためである。
「下がってよい。手酌する。人払いは続けよ」
「ははっ」
小姓がお辞儀をして下がっていった。
小姓が下がって少し間を取ってから、おもむろに家康が問うた。
「して、耳に入れたきこととは?」
天海は頭巾を取ろうとしないかわりに、家康には勧めた酒に自分は手をつけようともしない。
「殿に会ぉていただきとう人物がおりまする」
「誰だ…」
「もう来ておりまする」
「なにっ」
灯火がゆらりと揺れた。その後ろに影が大きく浮かび、灯火にあわせて同じように揺れる。
「忍なのか…?」
「いかにも。では名乗れ」
天海は家康に頷くと影に向かって促した。
「はっ。拙者、甲賀の黒川銀八と申しまする」
「甲賀者?風魔党ではないのか?」
「家康殿、風魔は松平の頃より使いし御庭番なれど、この黒川には別命を与えておりまする」
「別命?」
「左様、家康殿の天下取りを手助けするのが別命」
「腕は立つのか?」
「黒川は大坂石山本願寺の忍でござったが、相当の腕前につき召し抱え申した。その腕前、ここで披露いたさせましょう。やれ、黒川」
黒い影の塊にしか見えなかった銀八が刀を一閃した。一瞬灯火に刃が反射する。次の瞬間影が消えた。
「なにっ?!」
家康は声をあげて驚いたが、さらにもっと驚くことになった。
「!」
銀八が家康の背後から首に手を回し喉元に刃を当てていた。今度の家康は声も出なかった。
銀八はすぐさま刃を引き、首から手を放したが、家康の動悸は収まらなかった。
「…」
「いかがでございまするか?ほれ、黒川は、七尺はあろうかという大男でございまするが、身の軽さは神業ですぞ」
家康がゆっくりと首を回すと背後にいた銀八は無表情のまま頭を下げた。
「うむ…」
「黒川、下がれ」
「はっ」
天海の指示で黒川はすぐさま下座へ移動した。

*******************************************************************

BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第五十五弾。
ティトー&タランチュラ “ After Dark ”。徳川家康と謎の僧天海。その関係は危うい均衡の上に成り立つ。そして黒川銀八の登場。銀八の狙いは…。
クエンティン・タランティーノ制作総指揮・脚本・主演の型破りなアクション・ホラー「フロム・ダスク・ティル・ドーン」のオリジナル・サウンドトラック “ From Dusk Till Dawn ”(1996)収録。ちなみにこの映画ではブレイク前のジョージ・クルーニーも主演。

「After_Dark.mp3」をダウンロード

3.8MB。右クリック「対象を保存」でダウンロードしてどうぞ。

コメント