残るは梓の居室であるが、目の不自由な梓は、日常的に加茂屋に留まっており、外出することは稀である。侵入の機会はほとんどといっていいほど見当たらない。それでも楓は、珍之助と権六がいない服部党にあって留守居を担う梓であることから、外出機会は必ずあると踏んでいた。
そして、予想どおりその機会がすぐに訪れた。
服部珍之助が大坂に出立して七日が経過した日の巳の刻(午前10時)、梓が身支度をして、茶葉の調達に行くとだけ告げて一人で出かけていった。それは服部党独特の隠語で、京都所司代直属の番所に定期報告と指示の有無の確認に行くということである。
日が高い中で梓の居室に侵入することは危険を伴うが、滅多に訪れない機会を逃すわけにはいかない。しかも、珍之助の大坂行きもあって加茂屋は手薄であり、いまは下忍二人と捨丸しかいない。楓は意を決した。
伊賀者は階下にいる。二階にある梓の居室は死角にあたる。楓は捨丸にわざと「使いに行ってきます」と告げ、一旦加茂屋を出て、次の角を曲がると路地沿いに取って返し、素早く裏庭の格子戸をくぐって土塀から二階へ跳躍した。音もなく屋根瓦に着地すると、連続する動作で飛び込むように開けておいた二階物置に入り込んだ。物置の引戸を少しだけ開き、階下の様子に神経を集中させる。気配は感じない。廊下に出た。さらに梓の居室の前で止まり、部屋の中を透視するように気配を探る。かすかに香の匂いが漂うが、部屋は静寂だけが包んでいる。やはり忍用の罠に注意しながら、慎重に障子を開けた。
正面に祭壇。白木の祭壇には供物や榊とともに、小さな厨子が置かれてある。それ以外では部屋の片隅に行李が一つ無造作に置かれている。まさか、そんなところに三書があるとは思えないが、楓は居室に入り行李に近づいた。
行李の蓋を開ける。そこには流れるような藤の柄を施した艶やかな小袖が一着だけ入っていた。楓は着物をそっとめくる。やはり何も見当たらない。
―目の見えぬ梓が持っているはずもないか…。
龍眼を使えるとはいえ、盲目の梓の回りに大事な三書を置いておくはずはないのだろうと楓は考え、立ち上がった。祭壇が目に入った。一応そこも見ておこうと楓は厨子の裏側などを検める。しかし何も見当たらない。祭壇や神具の下なども見たが何もない。祭壇をあきらめ、今度は部屋を見回した。
しかし、そこで楓は微妙な違和感を覚えた。違和感の原因を冷静に考えながらもう一度室内を見てみる。
行李であった。
着物が一着しか入っていないのに蓋の位置が高い。楓はもう一度蓋を開けた。さきほどの小袖が見える。行李を横にしてみた。二重底であった。着物を取り出し、竹で編まれた底を揺するように引っ張ってみると底が簡単に外れた。
平べったい紫色の風呂敷包みが出てきた。開いてみると今度は黄色い油紙が出てきた。それも開ける。三書であった。
楓が三書を素早く包みなおしたそのときであった。
襖が突然開き、榊を手に捨丸が入ってきた。
捨丸は無表情な楓と目が合った。しかし、それは普段自分ににこやかに接する楓ではなく、殺気を含んだ冷徹なくの一そのものの目であった。捨丸は状況を理解できないのか、一瞬動作と表情が止まった。同時に榊がぽとりと落ちた。
「楓さん…?」
楓は三書を持ったまま、一気に間合いを詰めつつ、懐から一瞬の動作で短刀を取り出した。その瞬間、捨丸の表情は驚愕とも苦悶ともいえぬものに変わった。容赦なく楓は刀を繰り出した。風を切る音に思わず捨丸は目をつぶった。「もう目を開けることはない」という言葉がぼんやりと浮かぶ。
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BGMにこちらをどうぞ。向日葵サウンドトラック第六十四弾。
フィル・ペリー “ My Book Of Love ”。三書にたどりついた楓。しかし、そこに現れたのは捨丸であった。絶体絶命の捨丸の運命と楓の運命やいかに。
伸びのあるファルセットが印象的なフィル・ペリーは現在57歳。R&B、ジャズ・フュージョンのセッション・ヴォーカリストとして、リー・リトナーをはじめ、数々のセッションやプロジェクトに参加してきた実力派シンガー。4枚目のソロアルバム“ My Book Of Love ”(2000)から。参加プロジェクトにも名作は多いが、不遇の80年代を経て額面どおりの実力を発揮してからのソロアルバムにも隠れた名作が多い。日本で決して売れているわけではないが、声は個性的で艶っぽく、歌の巧さは申し分ない。この曲は、カリビアンを隠し味に、まさに流れるようなアーバン・ソウルの旋律に身をまかせたくなるような逸品。
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