空も大地もうごめき、ウゴメク。

この世に生まれたからには、精一杯生きてみよう

2006ファイナル

2006年12月31日 | 家族
   2日に渡っての投稿だったので、前日のを30日として、今回が2006最終投稿。

   昨日は、追加の年賀状を知り合いに頼んで、今日印刷する予定だった。頼んだのはインクジェット紙。しかし、残念ながらどこも品切れで手に入らなかった。今日は恒例の家族との大晦日買物で大分まで行ってきた。そこのデパート、スーパー等の出張販売も期待した。だが、置いてなかった。最後は大分の郵便局にも電話で問い合わせたが、ここもダメ。年賀状の振り分けでお昼まで職員は出ていたようだ。ここで無理にお願いするものの、「ないものはない」とあっさり。当然だ。それは仕方あるまい。

  一度に100枚の追加賀状ではやっぱり無理か。

  最後の頼みもう一度知り合いの局長と局長婦人にお願いした。いたるところの郵便局に当たってくれた。

  あった。

  どうしてもインクジェットにこだわった。

  義父の回復の様子を病院側が写真に収めていた。笑顔の素晴らしい写真だった。どうしても親しい人に近況を報告したい、との義父・義母の願いだった。それを賀状で送りたい、その一心で探し回った。
 
  義父が倒れたのが今年の元日。あれかれ一年、早いものだ。リハビリの状態で少しずつ経過は良くなっている。

  来年は是非とも家庭で介護ができるように回復してほしいとそう願っている。

  

2006もあとわずか

2006年12月31日 | 時事
 少年野球の今年一年の振り返りは、10人の選手の回想だった。選手それぞれに思い出がいっぱい詰まっていて、まだまだ武勇伝はたくさんある。ほんの一部だけ紹介してきただけだ。それでも中にはプライベートに口をはさんでいたシーンもあって、一瞬ドキリとするような内容も。しかし、それも愛嬌。子ども達の精神年齢はまだまだ発展途上、と思っている。

  プライベートの話は自分に戻していよいよ本年も今日と明日を残すのみとなった。あと2日で新年を迎える。今年一年ブログでお世話になった、塾長、母様、ボネちゃん、だれやみさん、まゆさん、トモヤさん、他ちょくちょく閲覧している見知らぬ皆様、ありがとうございました。

  いろいろなことで世間の注目を集めた宮崎、延岡でした。来年は良い意味で注目される延岡であってほしい、とそう願っています。

振り返りファイナル

2006年12月29日 | 少年野球
   ここまで選手9名を紹介してきた。最初は軽く彼の人なりを紹介して終わるつもりであった。ところが、性格や特性等を記していくにつれ、ついつい文章が長くなった。長いから彼との思いが深い、というものでもなく、イメージや思い出話等で熱くなっただけ、一人一人にはそれぞれ別にまた深い思いはいっぱいある。

  最後に紹介することになった彼は、今回の選手紹介でも“トリ”に相応しい選手だった。目を瞑って今季を振り返る時、誰が一番印象に残る選手だったかと考えると、Aチームの保護者のうち半数以上は彼と答えるであろう。それほど最後まで苦労してきた選手だったから。

  当チームの主将を務める彼は一昨年からAチームで頑張ってきた。小生意気なところが彼の性分で顔付きはやんちゃな6年生だ。細身であるがガッツは人一倍、負けん気が強いものの、お化け等にはめっちゃ弱い一面もある。こう見えてもナイーブな性格で恥ずかしがりや、少々短気なところは父・母どちら譲りだろうか。

  彼は今のAチームのメンバーと一緒にやることを誰よりも楽しみにしていた。2年間はベンチに入るも主役を上級生に譲り、他の3人とともに脇役であった。が、守備に非凡なものを持ち、スタメンでも登場していた。うちの家の壁には次男に言い聞かせるように「○○(主将の名前)に追いつくには」の目標の表が飾ってある。彼は良き目標相手であった。

  それは5月22日(月)での練習中に起きた。突然のアクシデントが彼を襲った。シート打撃の練習だった。投手は私。打者は彼。ボテボテの三塁前の打球だった。前進守備で捕った三塁手は慌て気味に一塁に送球した。球がそれた。一塁手はベースを離れ本塁側に体を移動して捕球した。そこに打者走者の彼が突っ込んできた。ベース手前で激突。タッチにいこうとした一塁手と交錯したのだ。

   その衝撃は大きかった。すぐにベース手前でうずくまる彼。額に冷や汗をかきながらうめき声が聞こえる。すぐに駆けつけた私。右手で左手を抑えていたが、腕を曲げるように指示すると痛みで顔が崩れる。「これはまずいことになった」と思った。すぐにグランドから用水路を挟んだ前の整形外科に連れて行き、レントゲンを撮ってみると「きれいにポッキリ折れてました」とは携帯で呼び出され、駆けつけた父の話だった。

   しばらくしてギブスで固められた左手を首から吊って帰ってきた姿に、チームメートも彼のところに駆け寄り心配していた。これで野球の練習はおろか学校の体育の授業、日常の生活にも支障をきたすことになった。ヤンキースの松井が5月11日に骨折したばかり、そのシーンを見ていた私は、しばらくそれとダブってしょうがなかった。

   次の日から彼はグラウンドには出るも裏方役に徹していた。これからが一番楽しくなる時期に彼は一月の診断を守り骨がくっつくのを待った。意外にも驚異的な回復力で思った以上に復帰は早かった。医師によると「子どもの成長は予測がつかないこともある」と彼の父が話してくれていたとおり順調な回復だった。それからランニング中心のメニューで徐々に体をならし始め、近い距離からのキャッチボール、軽めのスイングとまだまだ痛みは取れないようだったが、チームメートにおいていかれるのを嫌った彼は率先して新しいメニューにも取り組んでいた。

  そして、次の運命の日がやってきた。それは7月12日の話。すっかり他の選手と同じメニューをこなしてきた彼は二塁の走者だった。ランダムプレーが始まってタッチにいったところ足を滑らせたかその勢いだったか、聞いた話だったがグラウンドに左手から落ちて再度同じ場所を骨折したのだった。これまで順調に回復してきたのに、その衝撃は大きかった。結局終盤の2大会当たりまで長引いた。今回は大事を取り復帰までは周囲も慎重だった。

  復帰第一戦となったのは延長、判定戦の代打だった。1死満塁の好機を迎え彼を代打に送った。彼は速球に押され、打球はフラフラっとライト前の飛球となった。飛んだ位置が良かった。うまくライトライン際に落ち、しかもバウンドが右にそれた分右翼手も慌てた。3走者に続き2走者も還り、劇的なサヨナラ勝ちをおさめた。父でコーチのYさんはその場で必死にこらえながら目頭を抑え、目は真っ赤にしていた。4ヵ月半、最も楽しいはずの公式戦をほぼ棒に振り、練習に出てきても裏方役に徹していた彼だった。その苦労が実を結んだのであろう。これまでの大会や練習試合はベンチの中かランナーコーチに専念してチームメイトの頑張りに声を掛けていた。その努力が報われた素晴らしい劇的な復帰試合だった。彼から明るい笑顔が戻ってきた。

 私がスコアラーに続くもう一つの感動シーンを挙げるとするならば、このコーチYさんの涙を挙げよう。息子のこれまでの苦しい苦労もこの劇的なサヨナラ勝ちの立役者となったことで、すべてのモヤモヤも一辺に吹き飛んだことであろう。こらえる気持ちを抑えきれず男泣きしているその姿に私も目頭を抑えていたから。よくやった主将。その後の練習試合でもサヨナラ安打を放っていたが、チャンスに強いところを何度も見せてくれた主将には本当に頭が下がる思いだ。さすが我が家の次男の目標選手だけある。

 もし、怪我なくシーズンを終えていれば、さて、どのようなチームが出来上がっていたのだろうか。少数の部員だっただけに主将を欠くスタメン記入も監督も辛かったに違いない。だれより一緒に時間を共有してきた監督もこれら素晴らしい選手に恵まれて最高の年を送ったことだろう。そして、少年野球の納会の席でも触れたが、親にも恵まれたと思う。

 思い出に残る一年をありがとう。
   

振り返り9

2006年12月28日 | 少年野球
    人生の転機は何度かあると思う。彼の場合も一人の人物の影響で彼の“進路”を変えたのは言うまでもない。その前に彼を語るにはある時期に周囲に迷惑を掛けてきたことから始まる。それは彼が幼稚園の年中時代の頃だ。同じアパートに住む一つ上の友Y君と夕方旅に出た。二人はジャスコに行きたいがばかりにトコトコ歩き始めた。それはY君が親とともにショッピングに行った記憶を頼りにしての自信のない旅だった。
  
   アパートからスタートした彼らは目指すはジャスコだった。ところがどこで間違ったか、東に行く所を西に行ってしまい、2.5キロ先の金堂ヶ池に到着した。その池は水底が堆積され、ドロドロの底なし沼化していた。子どもなどは一度落ち込むとそのドロドロした水底に足を取られ、なかなか上がれない危険な池なのだ。周囲を散策した後、それから気を取り戻した彼らは目指すジャスコに向かった。が、たどり着けたどうかはいまだに不明、途中再び方向変換した彼らは以外にもスーパーダイエーのそばの交番で保護された。
 
  その間、二人がいないことがアパート内で広がり始め、住民を巻き込んでの捜索劇が始まった。もちろん、警察にも捜索願いの届けを出し、パトカーも協力。何件か協力する住民たはすでに携帯を持っていて、お互いに見つけたらすぐに連絡を入れようと番号を控えるなどの先進技術を交わしていた。そうしているうちに彼の母は目に涙を溜めながら二人を気遣っていた。アパートの下は大瀬川が流れる。間違って川に落ちたのでは。一人が助けようとしてもう一人も落ち込んだのでは、悲観的になればなるほど事態の悪化を予想してしまうのが人間の弱さだ。

  しばらくしてアパートの住民から「ダイエーそばの交番で発見」の通報が入った。その人は自転車で捜索に加わってくれていた。母親同士一緒に迎えに行った。二人は交番でうずくまっていたという。靴は脱げていて裸足で歩いていた。手には脱げたビショビショの靴を持って。足に擦り傷をいっぱいこしらえて。その場でヘナヘナへたり込んだ母親達。二人の疲れた顔を見て涙があふれたという。元気でいたら決して怒ってはダメだぞと父は妻に釘をさしていた。もちろん怒る気持ちはすでにどこかに吹き飛んでいたようだった。

  そのY君はアパートの友達とともにサッカー大好き人間だった。彼も空き地で一緒に加わり、近所ではサッカーのグループができていた。「俺は絶対野球はしない」と周囲にもらしていた。父が口うるさく「野球」「野球」と言っていた反発だったのだろう。そのY君がどうしたものか、小学5年生の時に野球部に入った。それまで毎日サッカーボールを相手にリフティングしていたY君だったのに。そして、一緒に遊んでいた彼もY君のいないアパートは寂しいと思い、野球部に入部。ここが彼のターニングポイントだったと思う。

  もしY君がそのままサッカーの道を歩んでいたら、彼もその後についてきたであろう。それほど二人は大の仲良しだったから。

  彼は運動はさておき、自然特に昆虫大好き人間だった。夏休みの児童クラブも屋外に出てセンダンの木に留まるセミを素手で捕まえては、その満足感と達成感を味わっていた。その証拠に野球の練習でも周りにトンボが飛び始めると、野球そっちのけでトンボを追い始めるヤツだったから。

  その彼も監督曰くポーカーフェースなところがあって、聞いているのかいないの分からないマイペース人間だった。しかし、大事な時にポカをやることもあり、ベンチでも冷や冷やだった。四球や安打で走者になった時などがいい例。反撃のチャンスの時に下を見てリードする癖があり、投手から目を離した隙にけん制タッチアウト。ベンチから厳しい注意が飛ぶ。飛んで当たり前。そのけん制で何回アウトになったことか。

  彼は二塁手、遊撃手、捕手、最後は左翼を守り、ここぞというプレーは残念かなそうなかった。半面、打撃面は長打力があった。監督も彼の一発には期待していた。私が印象に残っているのは、北浦のグラウンドであった練習試合の左中間サヨナラ安打。真っ二つに抜けた鋭い当たり、走者が還ればサヨナラだったから記録は単打。しかし当たりはランニングホームラン。その当たりは鮮明に覚えている。

  今Y君は中学1年生。部活動はサッカー部に所属。ということはY君を慕って彼も中学に上がればサッカー部に入るかもしれない。まぁそれはないかな。



振り返り8

2006年12月27日 | 少年野球
  振り返りも残るところあと3人となった。部員数の少なさは、当地区17チームのうち、1、2位ではなかっただろうか。Aチーム10人、Cチーム13人、合わせて23人。しかし、同じ日程で組まれるそれぞれ別の大会では、同時登録ができないため、Aチーム10人で頑張った。それでも主将が負傷で欠場していた時は、もうあとがない。9人ギリギリで戦ったこともあった。もう、試合中のケガが一番怖くて、クロスプレーやランダムプレー、スライディング等は特に気になった。滑り込みに難を残す選手もいた。足から滑ってもベースが近いとか、頭から帰塁すると、胸で滑れずにそのままボテっと倒れたまま。小熊が倒れたような仕草に周囲から失笑も。ある意味いろいろグランドで楽しませていただいた。

  できる選手、できない選手。往々にしてセンスが問われる。センスのある選手がやはり伸びる。いわゆる運動感覚である。能力は徐々に身につくもの。感覚は反復(練習)意外になく、体が順応しなければなかなか習得できない。その差がこの時期にくっきり分かれてくる。

  彼は、6年生部員に混じる唯一の5年生だった。入部したのも早く、小さい頃からボールを握っていた。今の6年生よりも技術的に秀でた時期もあった。しかし、歳の功かな、6年生の技術は彼をいつの間にか追い越してしまっていた。

  Bチームの頃は内野の要で遊撃を守った。Aチームでは前半は左翼、右翼、二塁と転々とした。足が遅いのが難点だった。ベースランはドッタドッタと音を立てながら、なかなか前に進まない。気持ちは前傾姿勢なのだが、足の回転がイマイチだった。

  何度か彼に注意、指導したものが2つある。1つは彼が守る内野守備である。ゴロを捕球する際に右利きの野手は左足の横で捕球するのが基本(もちろん、打球が速いときや途中でイレギュラーしたり、体の正面で捕れない左右に動く時は左足の前では捕れないが)。ということは必然的に右足は折れるような形で捕球することになる。しかし、彼はそれができなかった。イージーゴロでも全て左足が折れて捕球していた。随分窮屈な捕りかただったと思う。そこを手取り足取り何度も教えたが、なかなか習得できなかった。

  それと打撃面。彼はテイクバックなくそのまま来た球を打つ癖があった。テイクバックがなければタイミングが取れない。そのため彼は足だけでタイミングを取っていたことから、少々速い球には付いていけなかった。投手が振りかぶって、もしくはモーションを取って投げる場合は、バットを上に一度引き上げ、戻す勢いが反動となって強い振りができる。その意味を教え込んでいたが、なかなかそれを飲み込めず最後まで自分のバッティングスタイルを貫いた。というよりも修正できなかった、といった方が早いか。

  来年彼は6年生一人のチームとなる。当地区の少年野球連盟の規約というか、条件に6年生がいるチームは必ずAチームをつくらなければならない、とうたってあるようだ。彼より下の学年は4年生3人、3年生7人、2年生2人、1年生1人の編成だ。運悪いことに来年4月の開幕の頃には今の4年生と2年生の兄弟が転校していなくなる。11人体制となる。来季は5年2、4年7、3年1、2年1のチームとなる。チームの存続にも影響を与えるような部員数である。

  彼の父はシーズン前から現有体制を懸念していた。一つは今のCのメンバーにAチームと対等に戦える力はなく、(息子)一人がいることで他のメンバーに迷惑がかかる。もう一つは、彼が補欠でもいいから自分よりも上か同等のチームに移籍することが、彼にとってもプラスになるだろうと。これには選択肢は二つあった。残ってAチームを編成するか、移籍させてBチームで編成するか。最初は説得に走った私も最終、監督にも相談していた彼ら家族のその意志は固く、その後時間を置いても変わらず、最後は彼らの気持ちを尊重した。

  来季から当チームはAチームのないチーム編成となる。連盟(少年野球連盟)も何度かどうにかできないかと、通達があった。もう少し待ってくれと、頼んできたが、いよいよ来季の登録の時期が来月と迫った。しかし、新しいスタッフ陣も固まった模様。これで来季はBチームからのスタートとなるようだ。ただ、登録は途中でも変えられる。負け戦でも経験を踏ませる意味から途中A変更も可能である。その当たりスタートしてからでも遅くはなく、じっくり考えてほしいと願うばかりだ。

  これで来季はAチームがないことから、応援は卒業と同時に同じ中学校にあがる近くの○チームを応援することになる。彼も必死になってレギュラーの座をかけ頑張っていることだろう。それには上記の2点を早く自分のものにすることが先決だ。





振り返り7

2006年12月26日 | 少年野球
    水泳が得意でスキーもたしなめ、運動はお手の物。喘息持ちであるが長距離、持久力もあって瞬発力も。うちの切り込み隊長(トップバッター)と二人は良きライバルだった。時折喘息が止まらない時もあったが、運動と野球の練習で少しづつその病気も消えつつあった。

   いつもニコニコしていているから喘息の気配など見られなかったが、家庭では幾分悩まされていたらしい。練習中に一度だけ呼吸がきつくなったこともあった。しかし、親は冷静だった。周りの方が気が気でなかった。彼のニコニコ笑顔は実に可愛い。彼の似顔絵を描こうと思えば目を三日月に書けば完成。彼の顔を思い出すときは必ずこの笑顔(三日月)しか思い出ださないから、それほどイメージ的に彼は笑顔なのだ。

  だが、内面的に考え込む癖があった。最初の頃は、「だって」と言い訳するような子だった。おそらく思い込みで野球をしていたのと、注意力が足りなかったことも挙げられようか。前半戦監督がサインを出すと必ずといっていいほどサインを見間違っていた。サイン違いは誰でもあること。しかし、そのサインが見えなかったとか、早過ぎて分からなかった時などはタイムを取って、聞くのが一般的。しかし、彼はそう信じ込んでいるから、コーチにも聞くことはしなかった。それだけに修正するのは時間かかると思っていた。が、後半はすっかりサイン違いも少なくなった。成長の証だろう。慣れである。サイン習得も技術のうち。

  5年生の頃、堤防下で私と次男がキャッチボールをしていた時、最初に彼がそのキャッチボールに加わった。それから野球熱心な彼の父が仕事帰りにスクーターで駆けつけその練習に仲間入りし、ボールを投げる基本から教えた。5年生のBチームの時は彼はエースだった。手の甲を上に向け、ギリギリまで手を返さず、右足の横から頭の横から手が出るよう弧を描くようなスタイルを覚えさせた。しかし、一度自分のスタイルができてしまうと、修正するのに時間がかかる。最後まで修正するのはムリだったが、一つだけ修正できるとすれば、投球モーションを早くすることだった。セットから投げ下ろすまでの時間、私は最後までここにこだわった。

 運動能力は切り込み隊長に次ぐレベルの高いものを持っている。それだけにこれからが楽しみな選手である。特技は持久力だ。そういう面を伸ばせばスタミナも付き、マウンドに上がらせる選手を作るならば、うちのエース同様走りこみを重点的に。重い球を投げれる数少ない選手だけにまだまだ伸ばせる要素はたくさんある。
 

   

振り返り6

2006年12月25日 | 少年野球
   サウスポーのエース。昨年まではほとんどマウンドに登ることもなくじっくり育て上げてきた。もちろん、6年生投手がいたから出番がなかった訳だが、マウンドは突如として制球をなくす孤独の場である。どんなに周囲から「落ち着いて」とか「真ん中でいいから」と励まされても、こればっかりは人の手助けで立ち直れる場所ではない。野手陣の拙守(まずい守備)によりこれまで要所要所抑えていたピッチングも、突如足元をすくわれてトントンと得点を入れられ、相手ペースに持ち込まれ逆転のケースもこれまでにあった。彼は先輩達が築いてきたこれらの失敗をしないようにと、控えの選手としてベンチの中でその様子を見守ってきた。そして、最後の年、彼はエースナンバー1を監督からもらい、心に誓っていた。この番号は誰にも渡さないぞ、と。

  投手たるもの、ハートも肝心。マウンド度胸などといわれて、向こう気の強い性格の選手がある意味、時として胸元を狙って投げれる度胸も要求される。体をのけぞらせると外角が遠くに見える。そこにズバッと投げれる制球力と前向きな気持ち、バッターとの駆け引きは常に自分を優位にさせておくこと。スピードがほどほどであれば、胸元をえぐる強気のピッチングと外角に投げ分けれる制球力がどうしても必要だ。

  うちのエースはスピードはそこそこだった。制球力はまずまず。仮に四球で走者を出しても牽制球が上手かった。セットから右足を上げ一塁に送球、クロスするかしないかのうまいタイミングで一塁走者を釘付けにしていた。しかし、ひとたびタイミングを捕まれると、投球動作と同時に二塁へ盗塁を許してしまったこともたびたびあった。残念ながら盗塁阻止率は少なかったように思える。10回走って1回もアウトにできただろうか。けん制球にいいもの持っていただけに、もったいない試合が何度もあった。捕手も二塁で刺せない状態であったので、彼のけん制プレーは大きな意味があった。

  その意味とは絶妙なタイミングで牽制球を投げ、不意をつかれた一塁走者が飛び出すケースが多く一、二塁間に挟まれランダムプレーが始まる。これが上手いチームなら、アウトカウントが増えたと安心して見ていられる。ところがうちのチームはその挟まれた走者を生かしてしまう。それも2塁ベースで。無死1塁の場合だと、けん制で1死走者なしとなるところ、うちの場合は無死2塁と傷口を広めてしまうのだから監督のベンチの声も大きくなるのは当然だ。「なにやってんだ」。彼のけん制球が何も生かされていないのである。

  最後の公式戦は市内でもはずれの総合運動公園であった。その大会で準優勝したチームに逆転負けを喫してしまった。前半までうちのペースで優位に進め、このままいけば勝てると、誰もが信じるナイスゲームだった。しかし、あれよあれよという間に追いつかれ、逆転された。途中、次々に加点されその逆転劇の内容までは思い出せないが、エラー絡みであったのだけは覚えている。

  試合終了後、グラウンドの隅に集まったナインに監督から「よくやった」とねぎらいの言葉が掛けられると、日ごろ泣かない選手まで悔し涙を流していた。エースの母は今季ずっとスコアラーとしてベンチに入り、時折男まさりの激しい注意、指導の声が飛ぶ。何を隠そう、学生の頃は女子ソフトボールの選手だったという。彼女の兄も高校野球選手で私とは高校は違うが一緒にジャンケンをした仲である。彼女の父も実は少年野球の監督を務めた。しかもエースの3つ上の兄(中学3年野球部)も当クラブ卒業生、まさしく野球一家に育った環境にある。

  最後の試合、スコアーを付けていた母は途中から涙目になり、おいおい泣き始めたと監督が話していた。その時の模様は私は覚えていないが、ただ、円座になり監督をはさみ最後の反省会をする前に、母はエースの息子にに「よくやった。よくやった。良く頑張ったね。よく練習も辛抱した来た。何も言わんでいいが」と息子を何度も称えていた。エースもその言葉にはぐらぐら揺れ親子でワンワン泣いていた。その場にいた私は、何が一番悲しかったといえば二人のその会話が一番悲しく、ぐっと一人目頭を抑えた。

  持久戦にやや課題を残す選手である。夏場でも汗かきからアップアップ、スタミナ不足の感は否めない。今の彼の素直な球は中学に上がれば通用しない。一層のスピードとさらなる制球力に磨きをかけていくことが大事であろう。それは走り込み以外になく、少年野球が終了した今も地道なトレーニングが必要である。頑張れエース。延岡を代表するエースになれ。



振り返り5

2006年12月24日 | 少年野球
    彼は5年生の時に転校してきた。それまでは前の学校(熊本か長崎かちょっと忘れたが)で、ソフトボールを経験してきた選手。当小学校にソフトボールのスポーツ少年団がなかったため、すぐに他の少年団(サッカーやバスケット等)を選ぶこともなく、野球部に入部した。

  5年当時はまだBクラスだったが、彼の守備力には定評があった。サードを守っていた彼は、捕球時の構えが良かった。腰をぐっと落とし激しい打球にも目をそらさずにグラブに入るまでしっかり見ていた。

  口数は少ない。こちらから喋りかけても、一言二言答える程度。余計なことは言わない性格で、歳の割にはいつも落ち着いて行動を取るような子だった。それでも内に秘めた忍耐力は人一倍、知らないところで男泣きするような選手だ。

  守備練習でコーチが走者となって塁を埋め、私も老体にムチ打ちながら走者となった。監督が打つノックの打球に、一塁から長躯三塁を落としいれようと必死に走っていた。三塁ベースに余裕で着くや彼から「大人気ない」とぼそり。それ以降彼は私の顔見るたびに、そういう目で見ていたので、私は逆にわざと大人気ないプレーをしては、彼にそういわせていた。それが彼と私のスキンシップだった。

  ただ、試合では練習中のいつものプレーができないこともあって、「どうした○○」と心配することもあった。彼の前にボールが飛んできても安心して見ていられたからだ。ソフト時代に覚えたグラブさばきが少年野球でも十分通用し、まさにうちの数少ないチームの内野の要の一人でもあった。

  転校当初は彼の父もサービス業なため、なかなか応援には来れなかった。が、6年最後のAチームでは何度か仕事を休んで彼の応援に駆けつけていた。スタンドから送る声援はほのぼのとしていた。日ごろから練習に出て来れない分、休んできた時くらいは大声で応援しようとする父の気持ちも痛いほど分かった。最後のお別れ旅行も仕事で来れなかったが、心優しい餞別の品を受け取り皆に感謝された。

  堤防下で父とキャッチボールしていた頃を思い出した。近くに彼と同級生の従兄弟がいて、三人でよくキャッチボールをしていた。5年の頃である。キャッチボールはその後、ピッチングにまで発展していた。父は彼を投手にしたかったのかもしれない。癖のない素直な球を投げていただけに、意外にも投げ込んでみると、そこそこやれたかもしれない。しかし、そうなれば三塁手がいない。少ない選手だけに一人二役、三役は当たり前だった。が、なぜか彼だけは一役(三塁手だけ)。それだけ絶大なる監督の信頼を寄せていたのであろう。

  親が転勤族だけに、彼はいずれこの地を去ることになるが、ここでの良き思い出をいつまでも忘れないでほしい。



振り返り4

2006年12月23日 | 少年野球
  チーム一背が高く当然今、声変わり真っ只中。試合開始、終了時の集合あいさつの時は、彼は本当に6年生なのかと驚くほど頭二つくらい飛び抜けてでかかった。スラリとした体型。今170cm近くある彼の欠点は、残念かな体がやたら硬い。

  守備は主に一塁を守った。開幕当時はゴロのさばきも今一つで、彼のポジションに監督も頭を痛めた。何せ、内野ゴロ楽勝、アウトカウントをゲットの一連のプレーも、送球の球が捕球できずに一塁手が捕球体制に入っているまでは良いものの、その球が急に落下し始めるともうダメ。捕球のタイミングを逃すと、必ず後逸して1個の進塁を許してしまっていた。ワンバウンドの捕球が苦手で、内野ゴロアウトがいつの間にか2塁打になっているのだから始末が悪い。

 彼の体の硬さには定評があった。普通一塁手は野手からの送球に足を伸ばして捕球するが、彼はそれができなかった。そのため、ベース近くに守り、伸ばせない足でぎこちなく野手の送球を待って捕っていた。何度も捕球時の注意点を指導してきたが、それができない。伸ばそうとする気持ちはあるのだろうが、足が、体が言うことを利かない、体だけでかくて運動音痴なところがある選手だと思ってきた。

 もう一つぎこちないところ、それはボールの投げ方だ。いわゆるモーション。捕ってから投げるまでが遅い。遅い上に球も遅い。これでは何しているか分からない。普通、遅い球を投げるものはこれをどこでカバーするかと言えば、モーションを早くする、だ。しかし、彼の場合両方遅かった。コーチ陣も随分それを改善させようと努力してきた。それでも直らなかった。最後までその捕ってからのモーションは直らなかったが、練習試合等でマウンドに上がることも時々あって、後半には球に勢いがついてきたのは成長した証だった。スピードものってきた。

 あと、2ヶ月あったらまだまだ彼は成長間違いない選手だったと思う。持久走大会も4位と健闘。投げるフォームばかりでなく走るフォームも悪く、短距離は速いといえる選手ではないものの、持久力はしっかり見につけていた。何せ野球部に入る前にはスイミングに通っていたというのだから肺活量もついていたのだろう。

 練習の休みの日、雨天時に合羽を着て堤防を走っている男性がいた。妻はよくこんな雨の日に走るもんだ、と感心を過ぎて大丈夫かなと心配もしていた。その男性が合羽を脱いでいるのを見て唖然。そう一塁を守る彼だったのだ。背が高いため小学生には見えなかったのも良く分かるが、黙々自主トレを行なうその姿勢に大したヤツだなぁと私をうならせた。聞くと雨天時の練習メニューはコーチである父が考えてテーマを与えてやらせていたとか。いい話である。

 彼の成長を一番願っていたのは父であった。凡打が続くたびにベンチで腕を組み渋い顔で息子をにらみつけていたあの“勇姿”は今でも忘れらない。すかさず監督から厳しい注意が飛んでいたが、何を隠そう父のその姿の方が彼にとっては一番辛かったに違いない。しかし、ひとたびタイムリーが出ようものなら、それはそれはハイタッチで喜びを体で表す単純と言えば単純なのだが、侍ジャイアンツのような家庭でもあった。
 




振り返り3

2006年12月22日 | 少年野球
   主将の怪我により彼こそ、ポジションをいろいろ経験させられた選手もいまい。チーム一のワンパク坊や。血の気ってのが早いのだろうか。ちょっかい出す方なのか出されている方なのか。正直彼の両親はそのことで随分学校にも出向いて教務主任や教頭らに相談に行っていたようだ。

   彼の日ごろの練習の態度からはなかなか想像はできないが、ひとたび練習から離れると少しもじっとしていない。彼のアドレナリンが沸々と動き始め、遂には最高に達して“ワンパク行動”に出ているのではないか、と推測している。

   先日の卒団旅行でもおでこに切り傷をつくって旅行に参加していた。「どうした頭の傷」と聞くと、「喧嘩した」と彼。「相手は」「マー君」。マー君は私の従兄弟の子ども(はとこ)に当たる。「理由は」と尋ねると「大したことない」といつもそうだ。彼が発祥のキーマンになっている。マー君は目の横あたりに青あざをつくっていたという。

   そうすれば(そう言えば)喧嘩になることくらい分かっている。しかし、自分を抑えることが彼にはできない。そう何度も経験すればどうなるかの判断くらいつくだろう、と思っていても感情とともに体が反応するのが彼の特徴である。もちろんチーム内の選手とも何度も衝突していた。それでもまた別の選手と喧嘩を繰り返す始末。どこかに原因があるのだろうが、幸いなことにいつまでも尾を引かない喧嘩のようだ。生傷が絶えない取っ組み合いの喧嘩をしても翌朝は何もなかったようにしているという。不思議な彼である。

   先日、6年生の参観日に行った。授業が始まったというのに、クラスの保護者は私一人。「やや間違ったのかな」、とクラスを出ようとした瞬間、一人二人と集まりだしたので、やっぱり今日だったんだと思い直して授業を見守った。それでも後から保護者(全員母親)は、クラスの中に入らず廊下で他のクラスの保護者とおしゃべり。授業参観の形態も変わったなぁとつくづく思い知らされたのである。

   そうそう、その参観日での話。人権についての授業だった。ある脳性小児麻痺の女児の作文(詩)をもとに、文章の前後を読んで(  )に入れる言葉を自分で考えるという授業だった。

   その授業で思ったことは、やたら子どもの動きが多すぎる。例えば授業中に急に席を立つ。どこに行くかと思えば後ろの棚に行って物をとってくる。おいおいそれはいつも机の中だろう。また、先生が話をしている途中に質問を入れる“ヤツ”もいる。今度はなんだ、つまらん質問するなよ。また、先生が質問して答えを挙手で述べる場面では一度正解すると、図に載って何度も何度も手を挙げ先生の気を引こうとする“ヤツ”。

  参観の(  )の問題は、○○に行きたくない場所を自分の言葉で探すものだったが、その行きたくない場所はどこかという先生の問いに、手も挙げずに「(ナイト)クラブ」や、「ピンクサロン」などの答えが返ってきたのには飽きれ驚いた。いろいろな子どももいるもんだ。大人が赤面するような“名答”を寄せるものも。

  野球では、先にAクラスに上がって苦しい練習に耐え抜き、何度も監督から馬鹿だの、アホだの言われてきた。それでもついてきた。打たれ強い性格も持ち合わせている半面、涙もろいところもある。それでも野球が大好きな少年である。誰より彼が一番野球好きな少年だと言えるのではないか。二塁手から左翼手、捕手、遊撃手といろいろ試されてきた。もともと二塁手か遊撃手を狙っていたが、その望みは叶わなかったものの新たなポジション(後半は捕手)に、彼の希望が見て取れた。

  来年中学に上がる。その中学はうちの小学校ともう一つ別の小学校の二校が一緒になる。その別の小学校にも○クラブという少年野球のチームがある。そのチームとは全ての公式戦が終了した後に毎年交流試合を行なって親睦を深めている。その最後の練習試合で彼は捕手としてガッツあるプレーをした。

  走者がいたかどうかは覚えていないが、打者が打った球が小飛球となった。上がったのは捕手の目の前、一塁線のラインの内側、フェアゾーンだった。彼はすくっと立ち上がって頭から突っ込んだ。ミットにボールが触ってしまってファールゾーンに転げたが当然フェアゾーンのプレーだったので主審も「フェア」を宣告した。当然倒れた体制から体を起こして一塁送球では間に合わない。ベンチから「何やってんだ。野球を知らない。間に合わないなら、ファールゾーンで出してとれよ(ボールが回転しているため、バウンドするとファールになる)」などの批判的な声も聞かれた。

 そうかな、彼はそこで取れると思って頭から突っ込んだのだろう。わずかに及ばずミットにかすめてファールになってしまったのだから。そこまでのプレーはナイスファイトだろう。積極的なプレーだ。捕ろうか捕るまいか緩慢な中途半端なプレーではなかった。もちろん、最初からファールにしようとすれば球もキレているから取りに行かなくて済む話なのだが、あえて果敢に挑戦した彼のプレーは私はガッツあるプレーと見た。仮にそれがフェアになったとしてもいいではないか、挑戦したことに彼の野球のひたむきさを感じた次第である。

  彼のモチベーションを高めるには、そういう良い面を引き出して、彼の負の面を消去しなくてはいけないんじゃないかなと思った。やんちゃな野球侍はまだ個人戦(喧嘩)と冷やかし等の方が興味あるかもしれないから。中学ではしっかり大人になってくれよ、皆と協調できる子に。

 
  





振り返り2

2006年12月21日 | 少年野球
    彼は、入部当初、辛い練習が始まると野球を止めて泣きながら帰ることもあった。また、心配してきた母の車に後部座席に乗ったまま車から出ようとしないこともあった。試合では緩慢なプレーに厳しく注意を受け、対戦相手に失礼極まりないないが、大声で泣くこともあった。それもシーズン後半に入って。一口に甘えん坊に育った彼だった。甲高い女の子ような声を発するから、顔を見なければ女子が練習に加わっている錯覚さえ感じた。

  精神面の弱さは今の子どもには特に見受けられる。もともと進んで入部した訳ではないらしいが、野球は好きなようだ。中学に上がっても父が顧問をしているリトルに入ろうか迷っていたというから、まんざらでもなさそう。3つ下の弟が性格は兄とは正反対。Cチームで今頑張っている。背は3年生でも小さな方であるが、とにかく野球大好き人間だ。内に秘めた闘志が弟にある。その内面の気持ちを兄に譲ってあげたらと何度も思ったが、それでも練習中、試合中とお構いなく人前で涙を流してきた彼の性格は誰もが知ることで、だからといって彼を非難するものは誰一人としていなかった。いわばそれが彼の性分、よく言えば彼のキャラでもあったから。泣き始めると、またか、とチームメートもそう彼のことをとやかくは言わない。言い過ぎると彼も落ち込んでしまうから。うまくテンションを持ち上げてコントロールし、練習に復帰する環境を整えてやること。一時的な感情を抑えきれずに涙を流すという単純な行為でもあったから、その時間さえ通り越せば後はケロッとしているのが彼の明るい性格なのだ。

  身長はチームで3番目にでかくて、体重はおそらくチーム一かもしれない。ゲームが何より好きな彼は、とにかくよく食べる。趣味はゲームと食べることだろう。野球はその次の次くらいかな。
  
  守備では右翼を守り、背後の打球の感覚が分からず長打にしてしまうケースや前進し過ぎてワンバウンドで頭を越える拙守も何度もあった。練習のノックではその反復練習を彼に仕掛け、「もういっちょ」とノッカーの打球は彼の左側(右中間側)にゴロを打つ練習を繰り返すと、諦めて追わない。その緩慢な動きに監督から何度も厳しい指導を受けてきた。そうすると息が切れてヒイヒイいい始め、“自信喪失兼練習逃避”が始まっていた。入りたての頃の話である。しばらく見ないと思ったら終わりの方で少しだけ見られたものの、クラブに入って精神面を鍛え直され、強くなったんじゃないかな。野球を通じて一回りも二回りも成長したやに思う。

   一方、打撃面では非凡な才能が彼にあった。バットを水平に振るレベルスイングで、体重が後ろ(右足側)に残る癖は最後まで直らなかったものの、ミートがチーム一うまかった。だから、センター前や三遊間をライナーで抜くヒットも多く、長打につながるケースも。しかし、残念なことに足が遅かった。普通の選手であれば3塁打は確実といった素晴らしい当たりも、ようやく1塁キャンバスを回って「エッサコラサ」と前になかなか進まない。それでやっと2塁にたどり着ける走塁。「お前は足がおしぃ(遅い)なぁ」とベンチからも再三言われてきた彼だった。

   そのユニークなキャラが見られないとは寂しい限りだ。










少年野球振り返り

2006年12月20日 | 少年野球
   先週金曜日の話。次男の小学校で持久走大会があった。最近はグラウンド周回コースは取らず、学校から2、300㍍先の堤防下で行なわれている。距離にして1500メートル。堤防下の直線コースを折り返す単純なコース設定である。

   実はこの大会も野球部が上位を独占した。1位から4位まで野球部が入賞した。うちのチームの監督も当日は見学に行っており、校長と話しをしたというが、上位独占にも校長は運動部の実力を評価するとともに、当の監督はその結果には満足満足、うれしそうに校長と話したという。

   やはりその嬉しさの元となるものは遊撃を守る監督の子どもが優勝したことも挙げられよう。彼は運動会でも団対抗リレーのアンカーをつとめ、得意分野は長距離よりも短距離の方だ。しかし、ここ数年、学校の持久走大会では必ず優勝する実力の持ち主。チーム一背が低くくても人一倍負けん気は強い。時々、思うような結果が出ないと悔しがって泣いてしまうのが彼の性分。今年はキャプテンが左手を骨折して捕手に途中コンバートされ、主将の代役を務めた。体力は他の誰よりもある。持久力、瞬発力。他の選手にない地肩というか、球にスピードはある。癖のない送球で二塁ベースに素早く投げれるのはうちのチームでも一人か二人。捕ってからのスピードも速くて、監督は正捕手が戦列を離れてすぐに息子を捕手に抜擢したのは正解だった。だが、夏場の大会では守備を終えてベンチに引き上げて来る時に、円陣を組まずそのままベンチに座るのは、どうかなと私も不思議だった。彼ならではの体力がある。それは上記に記したとおりだ。捕手としての務めは自分が苦しくても皆を励ますくらいの気迫があってほしかった。

  真夏日に脱水症状に近い状態となり主審の配慮でベンチで冷たいタオルで頭を拭いたこともあった。それだけキャッチャーというポジションは過酷な場所だ。だがそれは、同じ時間にゲームをしているチームの捕手とて同じことだろう。もちろん投手も同じことが言える。しかも思うようにストライクが入らない時はなおさらだ。孤独なポジションなのだ。どんなに周囲から励まされても「入らないものは入らない」と半ば球に聞いてくれ、のような荒れた状態も続くからたまらない。それでも降板の指示がない限りは投げなくてはならない辛さがそこにある。その間、ベンチはどうにか立ち直ってほしいと願うばかりであるが。

  今日から、少しずつ少年野球の今年一年の振り返りを綴っていこう。忘れないうちに。一人ひとりの紹介か、ゲームの思い出など。

  本日のトップバッターはまさに打撃でもチームのトップバッターを紹介。彼には他の子どもにない素晴らしい素質があるだけに、内面的な弱ささえ克服すればとてつもない選手になる。監督の厳しさからその反発とも見てとれる時もあった。が、徐々に得意分野を伸ばしてさらなる成長を期待したい。

健康診断の日

2006年12月18日 | 個人
  

   今日は健康診断に行ってきた。一年に一度休館日に毎年行なわれており、午前中に行ってきた。診断といっても地元の保健所を使って検査を受けるもので、体の隅々までチェックする本格的な健診とは違って、この程度のものならば、小さな“欠陥”も見落としてしまっているかもしれない。やるなら人間ドックだろうけど、検査費用もままならない。事業所の健診は年に一度というサイクルでは時すでに遅しの感さえもある。それほど人間の体はいろいろな組織が毎日のように破壊されているわけだ。どんなに医学が進歩してもまだまだ解決できていない広い大地にどっしり根付いたような悪玉組織がまだまだ善玉を食いつぶしてしまっているようにも見える。不治の病も治すことができる時代は来るのだろうか。そうなれば人間の寿命はさらに延びることにもなろうが、果たしてそれでいいものだろうか。

  検査内容は、今日の順番からいくと、まず、胸部のレントゲン撮影、次に聴覚検査、心電図、尿検査に、身長・体重測定、問診と血圧測定、視力検査、最後は血液採取で終了。尿と血液の成分による体内部の数値は後日、コメントがついて送られてくる。

  これまで肥満の傾向は指摘されてきた。今年も運動不足と食事制限もしない不摂生からくる脂肪率の高さで、おそらくはまた同じようなコメントが返ってくるものだろう。いやだなぁ、体重はここ数年減りもしない。身近に素晴らしい屋内施設があるだけにトレーニングできる環境にあるのに、なぜかしない。きっといつでもできるからと高をくくっているからだろう。きっとしっぺ返しがくる。そうならないためにも、今週から重い腰上げて励むかな、屋内トレーニング。

  昨日まで思うようにアルコールを摂ってきただけに、そのつけが心配だ。そのためにも、強い精神力で最初の3日(坊主)を超えさせ、次は1週間、一ヶ月、3ヶ月、半年、一年、目標立てて頑張ろう。自分のお腹を毎日見ながら。

お別れ旅行

2006年12月17日 | 家族
  16日(土)、17日(日)1泊2日の日程で所属していた少年野球チームの子ども達とその保護者総勢36人とともにお別れ旅行に参加した。行き先は隣県の熊本県荒尾市にある三井グリーンランド。ここは、小学生の修学旅行やグループ旅行にもってこいのレジャーランドである。九州でもここ三井(グリーンランドを通常三井と略する)は、1、2位を争うレジャーパークで、ジェットコースターなどのスピードとスリルを瞬間に味わえる乗り物類が多いので有名なテーマパークでもある。園内を案内するマップをみると77もの体験型遊具や館(やかた)類などの屋内型の施設がここにある。



  私はこれまで長男が小学低学年の頃に二度、高学年に一度、家族で楽しんだ経験がある。行くたびに体験型のスリルと高速スピードの乗り物に挑戦。まだ若い30代半ばの頃で、どの施設にも違和感なく乗れたし、乗ることによって子どもとのスキンシップをはかってきた。



  今はどうか。現地に10時半過ぎに到着し、さて、大人は何をしようかと8人の父たちはそれぞれにあ~したい、こうしたいという欲はなく、近場の観光も良いが日ごろできない公営ギャンブルも、いやいや、ゆっくりするのもいいかも。結局、三井周辺にあるボーリング場に5人行き、あとの2人はパチンコ、もう一人は三井に残って子ども達と一緒に行動、それも途中で飽きてやっぱりパチンコ店にいったとか。やがて5時のホテル集合時間となって子ども達は満足感いっぱいで帰ってきた。私は5人のボーリング組に入って2ゲームを行い、成績ではどうにか2位に食い込んだ。成績1位の父は以前ボーリング場に務めた経験のある方で、320点だったか。彼が「私はハイスコア257ですから、ハンディー30を引いて良いですよ」と優しい。そのハンディーを引くと260点。私は2ゲームで266点の得点を挙げ、辛勝。ハンディーの分で彼に勝って1位となり、全員から集めた500円の賞金から1位1,500円、2位1,000円に振り分け、おかげで1位の賞金をいただきホクホク。



  夜は宴会場でどんちゃん騒ぎ。一番盛り上がったのは拳闘ゲームだった。赤コーナーと青コーナーに分かれ、人形の拳闘士を使って人間がボクシングのプラスチックのグラブを付け、チューブにエアを送り、相手を倒すという単純な競技である。トーナメント戦で行なわれ、大人、子どもを混ぜての対戦。力は要らず、エアを送る時のタイミングがポイントとなる。早いジャブだから当たるというものでもなく、そこがこの競技の面白さであり、大人も子どもも同時に遊べるのが良い。

  決勝は監督-部長の同級生対決。監督が“セコンド”の力を借りて見事優勝。賞品のこの拳闘士ゲームなどを手に入れた。部長も監督のこれまでの労をねがらって優勝は遠慮したもよう。何せこの二人は同級生だけに熱い火花をこれまで何度も散らしてきた。決勝戦にふさわしい手に汗握るなかなかの好ゲームだった。

  二次会は部屋に戻って飲み直し。最初は父組、母組に分かれて。ややもすると母組みの部屋に移って“馬鹿騒ぎ”結構夜遅くまで騒いでいた。聞けば2時過ぎまで語りあっていたとか。私も子どもの大部屋をのぞいた後、自室に戻り床に就いた。おそらくその時間だったのだろう。朝起きると頭ガンガン。

  こうやって長い一日が終わった。子ども達には消灯を遅くしてやっていたが、実際に寝たのは4時、5時、遅い子では睡眠10分という子も。バスの中で眠れるという日ごろの生活にない安堵感もあるのも分かるが、まぁ最後だから良いかとの親心も見え隠れしていたのも事実。しかし、10分前はいけない。成長著しい時代だけに。

  2日目はサントリービール工場見学と九州で一番大きいと言われるイオンのダイヤモンドシティでのショッピングを楽しんだ。そして帰路へ急いだ。着いたのは18時30分。すでに辺りは真っ暗。お疲れ様の言葉とともに感じたのは、彼らとともに一緒に過ごしたことは一生忘れ得ない思い出になった。公式戦、交流試合、練習試合のエラーもタイムリーもファインプレーも、記録には表れないまずいプレーも今は良き思い出だ。

  10人しかいないチームだったが、彼らのおかげで親も団結できたとそう思っている。逆に少ない部員数だったから団結できたのかも。優勝は一度もなかったが、かえっていろいろな面で団結できうるメンバーだったと思う。
  
  会社も2日お休みをいただき、その分精一杯の思い出をつくることができた。ありがとう、この時季にお休みをいただいた会社にも感謝の気持ちでいっぱいだ。

  



















DICE-K入団決定

2006年12月16日 | 松井秀喜
   

    ぼくはもともと夢という言葉が好きではない。ここで投げられると信じてずっとやってきたから、ここにいると思う。

  「大リーグで投げることを夢見てきたか」の米国記者の質問に言葉を選びながら、一方ではこの言葉を待っていたかのように逸(はや)る気持ちを抑えながら、堂々とした返事が返ってきた。

   彼は今26歳。それまでの彼は甲子園全国制覇投手、2年後には法を犯してしまう失態も演じた。2000年9月13日に当時交際中で現夫人の自宅マンション前にて、球団名義のクルマで駐車違反を犯してしまう。松坂はその年の8月に犯したスピード違反で免許停止状態になっていたこともあり、身代わりとして西武球団の黒岩彰広報課長(元スピードスケート選手・カルガリーオリンピック銅メダリスト、現同球団代表)が出頭した。 しかし、その隠ぺい行為が写真週刊誌によって報道されたことにより、松坂は道路交通法違反(無免許運転、駐車違反)、黒岩ともども犯人隠避の疑いで東京地検に書類送検されている。その結果、略式起訴により罰金19万5000円の略式命令を受けた。球団職員が駐車違反の隠ぺいに関与していたことから、当時の小野球団社長及び黒岩は責任を取って辞表を提出するにまでに至った。とある。高校を卒業して2年の間に彼は天国と地獄をみてきた。

  プロ入りしてから以降、松坂の失態はおそらくこれだけなのかもしれない。他はあってもこれだけの不祥事はないだろう。身代わりを使い、当時の松坂の“側近”が犯した罪は大きい。しかし、すでにその件は時とともに埋もれつつある。このようなめでたい時に蒸し返すこともなかろうが。

  だが、ここで松坂は世間の注目を一人で負ってしまい、取り返しのつかないことをしてしまった、しかも他人にまで迷惑をかけた、と猛省の毎日だったようだ。よりによって相手は日テレの女子アナときた。かっこうのワイドショーネタ、標的にされた。書類送検も立派な犯罪だ。

  そういった暗い過去もある松坂であるが、それはマウンドで勝ち星を上げ実力をアピールすることと、密かに別の闘志を燃やし始めた。それとそれをバネにしてきたとも言われる。何しろ松坂の同級生は和田毅、新垣渚、杉内俊哉、久保田智之、藤川球児、村田修一、森本稀哲、實松一成と、松坂世代と称され、皆が切磋琢磨している。負けられないわけだ。甲子園のトップに登りつめた選手でもあるから。

  さぁ松坂。来季は松井との対戦が楽しみだよ。君がチームメートになることを願ってやまなかった一人であるが、別のチームに行ってしまえばそれはもう仕方ないこと。悪いがヤンキース戦はそう簡単には、勝たせてはもらえないから。松井が君の前で牙を剥き闘志を燃やしていることを知っているかい。

  メジャーを楽しもうよ、DICE-K(ダイスケ)。