空も大地もうごめき、ウゴメク。

この世に生まれたからには、精一杯生きてみよう

目標に向かって

2007年06月01日 | 個人
  ブログは一般的に「電子日記」などと訳され、社会問題などを扱ったジャーナリスティックなものから、興味のあるニュースに独自の論評を加えるもの、趣味の話や身の回りの身近な話、仕事や家庭の話など、ブロガー(ブログを書く人)の思い思いの気持ちが込められている。私も2005年10月22日、興味本位で始めたのをきっかけに昨日まで1年7ヶ月、思い思いというよりも好き勝手なことを書き綴ってきた。最初の頃は結構他人の目を気にせず、まさにマイ日記的な私的なことが中心だった。いやいやそのスタイルは最後まであまり変わることもなく、楽しいこと、嬉しいことがあったときには素直に喜びを表し、悲しいことや辛いことなど個人的な感情も人に悟られると分かっていても、本音を書いてきた。時には“見られている”という気配を感じながらある意味自分を美化する誇張表現もあったりした。それは書き手の思いであり、逆に身内がその文章を読んだ時に、あれぇ、と思ったこともあったかもしれない。それはそれで軽く流していただければありがたい。

 私も自分のブログに関しては、ニューヨークヤンキース松井秀喜の掲示板で知り合った方々の影響が往々にしてあった。特にブログ先輩の塾長には大変お世話になった。改めて感謝します。一番苦労したのは複数の写真の貼り付け方で、何度も何度も訪ねては丁寧な指導を受け、面倒臭がらすにご教授賜り、感謝に堪えません。

 さて、元来私も書くことは好きで、夜遅くに投稿していた時などは、とにかく一日の記録を残さなければ、の気持ちでうとうとしながら訳の分からない文章もたびたびあって、読み返すと「何じゃこりゃ」、しかし、「それも愛嬌か」とばかりにそのままにしていた(と言い訳がましく)。それほど眠くてもキーを叩いていた記憶があります。時折、口開けてポカ~んとしながら、PC机の角に頭ぶつけたこともありました。
 
 これまで私のブログを読んでいただいた皆様、本当にありがとうございました。コメントを定期的にいただいた塾長を始め、竜虎の母様、ボネちゃんにトモヤさん、マユさん、だれやみさん、みゆさん、最初の頃はゴジ健さんにもお世話になりました。ゴジトピ(松井秀喜の掲示板)つながりでその輪に加えていただいたようなものでしたが、実際毎日続けることの辛さを身にしみて感じた一人です。その中でも2年間ほとんど休まずに続けてきた塾長には頭が下がります。☆ちゃん、貴方とのユニークなコメントのやりとりは今も懐かしく思っております。

 私は、しばらくの間、ブログを閉鎖いたします。夜はあることに打ち込もうと勉強することにしました。「そんな肩肘張らずに一日ひと言でも」と仰られる方もおられると思いますが、私のこと、性格から言いまして一言ではすまない人間でして、ついつい長くなる性格と思ってます。この最後の投稿も軽くみなさんに「サヨナラ。私勉強に専念します」とあっさり型で終わろうとしたのに、長々と未練がましく。きっとこれが私の性格かもしれません。

 そういうわけで、また復帰することがありましたらリニュアールしたウゴメクをよろしくお願いします。

 それとコメントは残さなくとも“日課”にしていた未知なる“ファン”の皆様、本当にありがとうございました。私も夢を実現すべく今でしかできないことに向かって、これから取り組んで参ります。そして、その夢が叶いましたらここに戻ってきたいとそう思ってます。近い将来なのか、遠い将来になるかは自分の努力次第です。帰ってこなければ実現できていない証拠ですので、私のバカさが加減がお分かりになるかと思います。そうならないように頑張ります。








  

   いろいろ皆様ありがとうございました。


変革の時代

2007年05月31日 | 仕事
  いよいよ、5月も残すところあと1日となった(投稿時は30日)。新年度もふた月が過ぎると、つい先日まで年度末でバタバタしたのにもうふた月も“消化”と、慌てる自分がいる。18年度の決算状況は思うような結果が出ずにかなり厳しい一年となった。その二の舞を踏まないぞと、新年度に向かって誓った一人であるが、4月のスタートでもなかなか軌道に乗り切れない、5月のゴールデンウィークもそこそこでは、上期の売上もある程度の見通しがたってしまい、前年度以上に今年度はまたまた厳しい年になりそうだ。

 昨日のブログにも地元の経済について書いてみた。都市部の大手企業と地方の中小企業は、もちろん関連がないわけではない。だが、大企業の決算数値がそのまま地方にも表れているかといえば、そういうものでもなく、地方は地元の企業の景気に左右される傾向が強いことが分かった。残念ながら当地の経済関係は相変わらず底冷えの状態で、その実態は求人倍率でも分かる。県内のハローワークの求人状況では、毎回その統計では当市が最下位の結果を招いている。

 「会社が元気、社員も元気」とするキャッチフレーズがある企業が創設したときに、話題になった。よその企業にもプラスの効果を与える素晴らしいキャッチフレーズで、きっと、その会社が新たな空気を発生させ、停滞した一部のよどんだ空気も新鮮なこの空気がかき消してくれるものだと期待はしていた。しかし、それとて一時だった。熱しやすく冷めやすいと言う当市の人間性がよく表れており、企業が光っているのも数年。あとは惰性での営業か、収支トントン、ギリギリの営業実績でどうにか決算を乗り越えた年が続いている。

 こうやって外からその企業をみると、ここが甘い、これは時代遅れ、このやり方は無駄などと素人でも診断できそうな生温い営業を展開している。当然、自社と比較することも多くなり、そういった甘さ、流行性、無駄な事業等にこだわって今も成功していた栄光にこだわりを見せているところが発展性のない要因につながっていると思われる。

 「会社が元気、社員が元気」は、働く人間にとっては理想に近く恵まれた環境の中で仕事をしている感がある。きっと社内の雰囲気も明るくさわやかであるに違いない。だが、いつまでもそのパワーは持続はできない。息切れもするだろうし、周囲の環境の変化によっては路線も変わることだってある。そういうときに発揮するのは、中堅の力ではなかろうか。既に団塊の世代が築き上げた社風やビジョン、様々な運営の形態には、継続できるものとそうでないものがある。やや冒険的な要素も含まれるものの、ここは将来を見据えた事業の変革も大事なのかもしれない。いつの時代も中堅クラスの人間のバイタリティーと発想の豊かさには感心させられていた。

 中堅からそろそろ幹部的な地位にある私も会社に対する思いは人以上にあると思っている。ところが、従来の業務だけでは経営的にも限界があると感じ始めた。そこで今、変革の必要性を問う一人でもある。ややもすると6月、今、私も変わろうとしている。

企業の努力とは

2007年05月30日 | 地元
  地元朝刊紙、当地版の連載記事を興味深く見ている。タイトルは鉄工団地ルネサンス。地元の大企業・旭化成とともに歩んできた鉄工関係の事業所が団地を形成し、今その営業形態に変化が生じている様を追っている。連載記事ではうろ覚えでしかないが、団地を形成した当初は20数社が社屋を建てていた。そして、そのほとんどが旭化成の下請け企業であり、繊維関係及び当時の旭化成の生産で関連のあった企業は、大企業から仕事をもらい、安定した売上を計上していた。記憶では1970年代初頭だったか。

 ところが、現在はどうか。旭化成も繊維関係の事業はほぼ撤退に等しく、新規の研究と事業を展開。大企業とともに育った団地企業は、方向を転換し始めた戦略には正直とまどいも見られた。従来の業態にいつまでもしがみついているわけにはいかず、それぞれの企業で新たな道を探し始めている。いや、そうでもしないと、団地内の企業は倒産し、腕に技術を持ちながら工場内でしか生かせないのであれば、まさしくつぶしも利かない状態。一時景気の不透明な時期が続き、失業者も増えていた時代もこの団地にはあった。それはバブルがはじけた時代がそうで、鉄工関係も冷え切っていた。

 今約20社ある企業はどう生き伸びているかというと、連載にも紹介されているとおり、事業の形態に変化が生じてきているのも事実で、独創性や従来の事業の関連などに変化しつつある。たとえばS舎は社長の経営方針の電気設備を主としていた形態から新たな技術を導入し始めた。ユニークといえば、工業と農業を並行してやっている点。実際には社員二人を農業部門専属として置き、近く農業生産法人を設立するという。将来的には後継者のいない農家の世帯や市外の農業世帯にも足を伸ばし、水田約30㌶を借り受け、有機農法ブランド生産・販売する計画だそうだ。

 未知なる農業の世界と思えそうだが、実はしっかり従来の事業にそのヒントが隠されてあった。そして、その関連から新たな事業展開の発想。地道に行なってそれが成功すれば、投資した分だけの価値以上のものが跳ね返ってくる。社長のそういった意気込みが伝わってきそうである。

 大企業も今や時代を見据えて儲からない、コストのかかる事業は切り捨ての時代へと向かっている。そして、全く関係のない業界にまで手を広げ事業を拡大させてきた。しかし、それは資金力、利益の大きい大企業ならではの判断であって、どれだけの投資をつぎ込んでも会社を傾けさせるほどの無能な経営陣はもういない(かつてはいたが)。

 零細企業は大企業の真似などできるわけもなく、一年一年の決算が勝負といったところだ。今は、そのS社のように工業でも農業を展開する柔軟な発想も要求される時代が来ているのではないだろうか、とふと思った。ここに何某のヒントが隠されているような気がした。せっかくの連載。そのヒントをうちの会社でも有効に生かせないものかと。来月は当社の株主総会がある。残念なことに減収減益の結果である。累積○字もさらに拡大した模様。営業の一人として毎日そのことが頭から離れない。うちにとって利用客増が一番の特効薬(収益増)であることに間違いない。ところが、利用者も売上も昨年よりもダウンした。かなり厳しいと他人事ではなく、今年度は結果を残していきたいとそう思っている。幸い?そう次男の野球の応援もいかなくて良い年(一年生だから)でもあるのだから。ここは一年、全力投球でやっていくぞい。と言ってもすでに二ヶ月が経過。時が経つのは早い。残りの10ヶ月で勝負をかけよう。

花菖蒲たち

2007年05月29日 | 趣味
   5月最後の休みはいつもの植物園。花の種類もあまり知らず、きれいだの形がどうだの程度の“愚解説”しかできない。そこはまず下手な解説よりも写真をご覧あれ。今日の昼のニュースで「今、宮崎の市民の森公園では、ハナショウブが満開、見頃」の映像が出ていた。当市もおそらくそろそろだろうと楽しみに行ってきた。ところが、2、3分咲きってところか。肩透かし。宮崎ほどなかった。




 濃い紫、白、黄、しぼり(まだら)、青と黄のミックスなどなど、花の形も微妙に違っている。一般的に栽培は水に浸かっているのかと思いきや、乾いた土で育てられていた。しかし、周囲に水路が張り巡らされており、いつでも水を補える状態になっている。









初夏の花もいくつ撮っただろうか。またもや園内の植物も合わせて撮ってきた。この日撮った別の写真はまた後日アップアップ。

 H19.5.28、花菖蒲アラカルト

県防災訓練

2007年05月28日 | 地元
    


   県の大掛かりな防災訓練が今日、市の東部及び沿岸海域部であった。昨年、一昨年と本県は台風の風水害にやられ、河川の氾濫や土地の低いところの床上、床下浸水をはじめ、予想をはるかに超える雨量で河川の堤防が決壊し、鉄道の橋脚まで壊してしまっていた。いまだその鉄道は復旧の見通しがたっていない状態。また、昨年は未曾有の竜巻が本市を襲い死者3人、ケガ20人だったか、30人だったか、甚大な大災害が続いていた。これを受けて本県を中心とするその危機管理局らのグループは、これらの大規模な天災による壊滅的な被害を想定した訓練の実施が急務だった。そして、今回、本市を始め地元消防と県警、自衛隊(陸、海、空)、地域住民、日赤、ボランティア関係に電力、NTT、管工事、建設業関係等も加え、それぞれの事態を想定した訓練が行なわれた。



 私もこれらの訓練に直接に携わることはなかったが、会場近隣という条件で今後起こりうる様々なトラブルにも対応できるようにと、訓練会場を回ってみた。東部の方財海岸では、沖に海上自衛隊呉所属の護衛艦を待機させ、そこからホバークラフトが2隻、被災した住民を救助するための訓練を行なった。初めてこの“船”を見たが、水陸両用の構造。さっきまで沖で風を切って走っていたこの大型機が一気に砂浜に上がり、陸の上を悠々走れるなんて。水陸両用の優れものだ。見るからにスクリューやキャタピラ、タイヤなどはなく、水・陸を走る場合は底がゴムのような袋にエアを入れ、後部に2基ある大型のプロペラによって風を起こし、その風を利用して海の上を走り、陸上でも砂の上を走ることができる構造のようだ。もちろん、海上は浮上用の機を浮かす装置も付いていた。機を浮かせ、大型のプロペラ2基を使いこれで海でも陸でも走れるわけだ。陸に上がるとそのプロペラとエンジンの音なのか爆音が響き渡り、耳をつんざく。周囲の砂も台風で起こった風のように半径50㍍は優に超え、あたり一面砂嵐のようだった。やがて機は海に入ると今度は海水をもスプリンクラーのようにまき散らしていた。

 近くで見ていた当社の従業員の義母(87)は、「生きてて良かった。死ぬまでにこんな陸を走る船など見ることもなかろう」とマルチ的なホバークラフトの偉大さに驚くとともに、大掛かりな訓練にもびっくりしていた。

 この訓練は自衛隊を所有する国、危機管理局中心の県、それに地元の自治体の協力で行なわれた。当然県が絡むとこの人の登場となる。東国原知事である。県所有の「ひむか」のヘリで着陸したかと思うと、ホバークラフトを視察、さらに再び県のヘリで離島に渡り、現地での災害訓練を視察。知事行くところに報道陣群がり、野次馬の住民がさらにその輪に加わる。その移動には訓練そっちのけで住民らが知事に握手を求めるなど、一体何しに来てるの?と半分腹立たしくなった。見学も良いが節度ある行為を取ってほしい、とそう願う。ヘリで飛び立った知事に陸から手を振っていた女性は「知事と握手ができた、うれしい」「私もよ私も」。首をかしげたくなる光景だった。




 「知事は芸能人か」。「かつてはそう」と漫才でも語られそうな寒いギャグを一発。
 

大掛かりな防災訓練

2007年05月27日 | 地元
  次男の中学が来週から中間テストに入るため、今週末は部活動の練習もなく自宅学習。そうかと思えば朝10時には野球部員の友人がうちを訪ね、「図書館に行こう」と誘って出ていった。教科書、参考書を入れたバッグの中には、何故か知らんゲームPSPもしのばせていたようだ。きっと休憩時間にはカチカチやってるに違いない。ややもすると時間も忘れてゲームに夢中、ゲームをしている目が勉強している時よりも生き生きしてもらっても困るのだが。

 結局は図書館でも集中した勉強ができたかは疑問。全ては中間考査後の成績表で決まる。昼ごはん代ということで500円は自分のお小遣銭から持っていったようだ。足りたのかな。足りなかったら我慢が一番。小学の時に比べ子どもらの行動範囲も広くなってきたなぁ。校区内外、自転車で遊びまわっている、部活動がない時は。そして、今はいろんな意味で見聞を広めようとする次男も、自転車こいで新たな発見に気づいているのかもしれない。それと、よっ、次男、中学生になればもう少し字をきれいに書こうや。これじゃ小学2、3年生の字とは変わらないぜ。先日の宅習の字はひどかったなぁ。

 さて、明日は県北では沿岸を中心とした大規模な防災訓練がある。本市では海上自衛隊の護衛艦も“出席”し、ユニークなものではホバークラフトも海上での人命救助に一役買うことになっている。大掛かりな今回の訓練は、自衛隊も昨日から沿岸近くのグランドをメイン会場に、大規模災害を想定した実践的な訓練が行なわれることになっている。また、運悪くこの訓練を主催するのが県関係ときた。ということは、そう東国原知事も陣頭指揮を取ることになっている。一目彼を見たさに市民がやってくる。訓練部隊は真剣そのものなんだろうが、見学の市民が膨れ上がるのは心配。周囲ではわいわいわんパークだったか、市内の全保育園、保育所の園児らに声がかかっている。こちらは近くの文化センターがメイン会場。お昼過ぎくらいまでの日程ではあるが、しっかりこの訓練と時間が重なっている。自衛隊のへりや県警のヘリ、消防、日本赤十字、NTT関係ほか、地元住民とこれらを“エキストラ”と見ると、大掛かりな映画が完成することだろうに。

松井、3番起用に応える

2007年05月26日 | 松井秀喜


   >新しい守備位置も経験し、偉業も達成し尽くしたイチローは、意外な夢を口にした。それはメジャーのマウンドに立つこと。日本では1996年の球宴で1度だけ経験している。「9回2死、バッターは(当時巨人、現ヤンキースの)松井(秀喜外野手)だった。すごくわくわくしていたのに、投手が代打に送られた。はらわたが煮えくり返って、完全に冷めてしまった。相手がピッチャーだったので直球しか投げず、結果はショートゴロだった」と振り返る。イチローのまだ見ぬ決め球は、来るべき未来のためにとってある。

  >デビューからほとんど休むことなく7年目で到達した1000試合は、イチローのしっかりした肉体管理を示す数字といえる。野球にかかわる行動で特徴的なのは、その日の試合開始から逆算して睡眠、起床、食事などの時間を決めていること。チーム集合時間の遅刻は一度もない。あらゆる面での準備こそが大きな故障を防ぎ、安定した成績につながることを熟知している。一方で自分で決めたことを機械的に消化しない細やかさも安定感の背景にある。「自分の体がそれを欲するかどうか」を優先してルーティンをこなす。球場入りしてからのランニングやマッサージ、ストレッチは状況によって微妙に変化をつけている。「小さいことを重ねることが、とんでもないところへいくただ一つの道だと思う」。安打や盗塁など目を引く数字よりも地味な出場試合記録。しかし、根底にあるものは同じなのだろう。(by共同)

 イチローの夢は一度でいいからマウンドに登って捕手目掛けて投球すること。今なら日本人バッテリーが組める。城島がよそのチームに移るか、他の日本人投手がマリナーズに移るかしない。いずれもあっても不思議ではないが、これが野手出身がマウンドに上がるとなれば話は別だ。是非、イチローにやってほしいパフォーマンスである。いや、簡単に球速140キロ代を出すイチローならば、中継ぎでアップアップしている投手よりよっぽどいい成績残せるんじゃないかな。

 ケガをしない強靭な体、これは日ごろから自分を鍛えていることにほかならない。>>あらゆる面での準備こそが大きな故障を防ぎ、安定した成績につながることを熟知している。一方で自分で決めたことを機械的に消化しない細やかさも安定感の背景にある。プロ中のプロたる由縁である。


 松井の4号ホームランは弾丸ライナーで右翼席に真っ直ぐ伸びてそのままスタンドイン。メジャー5年目で、3番に座って打った初めての一発となった。放物線を描く滞空時間の長いホームランとは違った。コンパクトに振りぬいたバットスイング。しかも低い弾道は球の回転が違う。ボールが速ければ速いほど回転も速くなる。ということは打球も同じことが言える。打球がすぐにスタンドに入るには、投手の投げる回転にさらにスイングのパワーが伝わり打球にスピードが加わったことだ。たまたまテレビでそのスイングを見ていた。下からすくい上げたスイングではあの飛球にはならない。最終打席の中前適時打も見た。終盤のこの1点は大きかった。引っ掛けたスイングだったが転げた場所が良かった。

 任せた、と言われたい。チームを背負いたい。「重要な位置にいる方がアドレナリンは出やすいよね」3番に座って5試合目の松井は、思いを遠慮なく口にする。1回無死1塁、フルカウント。シリングの146㌔はライナーであっという間に右翼席へ。右翼へ大ファールを放った1球後だった。専門家は「警戒を強める相手から“打ち直し”ができるのは、バットコントロールに狂いのない証拠だろう」とみている。

 勝率5割に届かない戦いが続く中、トーリ監督は戦う姿勢を変えない大切さを強調する。「こうやって日々戦い続けるしかない」。だが、反撃のため、ただ一つ手を打った。それが松井の3番起用だった。大リーグでは最強打者の位置と言われ、これまでトーリ監督も最も動かすことを嫌った打順に手を付けた。

 チームの危機に要としての役割を託された。松井は「重要な立場を任される方がいい。負ければ、あいつが悪かったと言われる。それが分かりやすくていい」。今背番号55がヤンキース打線の中心にいる(共同=神田洋)。

 私は神田さんの記事が大好きだ。調子の悪い時は悪いなりに、そのポイントを的確に指摘、刺激を与えつつ、松井を発奮させようと引き出しているような気がしている。そして、今回の「3番起用に応える」の記事。調子のいい松井にとってこれらの記事を読むたびに、快感を覚えるのは私だけだろうか。イチローも今、絶好調だ。チームの状態が万全とは言えない今のヤンキースにあって松井が3番に抜擢されたことは、松井ファンにとって最高の喜びである。今、それに応えてくれているから。だが、こう褒めると、次からのゲームで調子が狂い、3番降格。いつもの指定席(5番か6番)に、というケースも。ここはこの辺にしておこう。
 
 

予期せぬ事態

2007年05月25日 | 個人
   私の年齢も日本人男性の平均寿命からするとすっかり折り返し点も過ぎている。平々凡々な人生かもしれないが、当然生まれてこの方小さな壁から大きな壁に何度もぶち当たってきた。それは自分が注意していてもいなくても。突然不意打ちを食らうかのように、第三者による予期せぬ事態が引き金になって、という場合も過去にあった。

 真相はわからないが徐々に解明されると、私も正直穏やかな生活は送れない。ここまで自分なりに将来設計を立ててきたつもりだ。しかし、仮にそれが事実ならば新たな目標をつくって、とにかく新しい将来設計図に作り直し、短期間で設計図通りの答えを出さなくてはならなくなった。前々から今の生活に変化を加えなければならない、とは思っていた。また、そうすることが親の務めだとも。しかし、根っからのんびり屋な性格が後ろ向きな材料となって、自分を変えようとする気持ちにまで発展しなかったのは事実である。遅かれ早かれ行動に起こさなくてはならなかったが、まさかこういった形でとは。

 真相解明にそう時間はかかるまい。しかし、わたしとて今は信ずるしか道はなく、最悪の状態も想定しながら、これから先は自分に鞭を入れながらただひたすら、新たな“勉強”に取り組んでいくしかない、とそう思っている。その勉強とはもちろん終わりのない勉強ではあるが、目標地点に達し頂上付近にたどりつけば、その勉強にもピリオドを打ちたいと思っている。

 遠回しな表現であった。ブログではここまでしか書けない。私の周囲で変化が置き始めているのは事実。今は最悪の状態でないことを願うしかない。残念だがその結果がいつ出るかも今の段階では分からない。
 

住みやすい延岡

2007年05月24日 | 地元
  

   今日の地元夕刊紙コラム欄の書き出しに、財政破綻した北海道夕張市のことが書かれてあった。最終的に600億円を超える債務を抱えて破たん。平成36年度まで18年間で再建を目指すというくだり。この非常事態に昨年度までほとんどの幹部職員など市職員の半数は退職していった、という。あおり受けて市民は市民税、固定資産税、軽自動車税なども引き上げられ、「どこかよそのまちに移り住みたい」というのが市民の気持ちだそうだ。すっかり地元には愛着がなくなっているのだろうか、魅力のない街にしたのはいったい誰なんだろう。今や破たんの言葉は民間ばかりでなく、地方自治にも当てはまる時代。ぬるま湯に浸かっていつまでもお風呂に入っている時代はとうに過ぎてしまった。現に当市の職員にもどっぷりぬるま湯に浸かって一日を終えている者がいる。民間の厳しい社会にもおそらく音を上げてついて行くことはできまい。定時前に入庁してチャイムと同時に退庁、退職の日を待つ身なのだろうか彼らは、なんとも情けない。

 さて、その夕刊は行政破たんの関連から当市の市民意識調査(昨年秋)のことに触れ、中盤から後半にかけて書いている。それによると「延岡市にずっと住み続けたいですか」の問いに、「市外に移り住みたい」の回答がわずか16%だったことに触れ、逆に「住み続けたい」「できるだけ住み続けたい」が83%だった回答に、8割以上が延岡のことが大好きだという結果に裏づけされた答えが返ってきた。愛着を感じている人間がこの延岡には多いんだなと判断できそうな回答である。

 その「住み続けたい」人たちに理由を問うと、①自然環境が良い②農林水産物が新鮮③買い物など日常生活に便利④住宅・土地事情がよい⑤公園や下水道など生活環境がよい-がベスト5だった。手前味噌ながら補足させていただくと、①、②は関連があって昨年2月の北方、北浦の合併、そして今年3月の北川との合併、これにより自然環境と特産物の新鮮さは一気に加速した。これで本県の基幹産業のほとんどを当市でもまかなえることができ、県北の土地柄からまさに“北の雄”としての存在感を十分に発揮している。海に面する旧延岡市、旧北浦町、山間部の旧北方町、旧北川町、それぞれの町に息づいた産業がそこにはあって、全国に発信している。③買い物など日常生活に便利というのは果たして、何を指すのだろうか。大型店(スーパー)はイ○ンの一人勝ちで他にビッグな大型店はない。あとは住宅地に地元のSCが進出し、そういった利便性を言っているのだろうか。④宮崎などに比べゴミゴミしていない。商店街付近の道路も二車線で広くはない。また、交通量も宮崎に比べると3分の1くらいだろうか。駅前さえ込み合うのは出退勤の時間くらいで、それでも通勤ラッシュの言葉には程遠い。土地事情に関しては土地の評価額が人口規模同程度の市と比べても低いため、安くで土地を購入できる条件もこれで満たされる。⑤公園や下水道などの生活環境がよい。さて、そうなのかな、⑥以下の回答よりも気持ち多かっただけの結果なのかも。公園は多いとは思わない。が、下水道は平成16年度末の下水道普及率が72.5%(全国平均68.1%)と全国平均を4.4ポイント上回っている。これらが住みやすい環境を創出していると考えられ、市民も満足しているのであろう。

 一方、「市外に住みたい」と答えた人の理由は①交通の便が悪い②レジャー施設などが少ない③安定した働き場がない④買い物など日常生活に不便⑤教養・文化面が不十分-これらがベスト5となっている。

 解説すると①は陸の孤島と言われ、高速交通網の不毛地帯、高速道路はまだ西都市まで。空港も宮崎まで足を伸ばさなくてはならず、電車は情けないかな、今どき単線である。どこにいくのにもマイカーがなければ生活できない状態。②レジャー施設は人口13万5千人都市ならば、そんなものだと私は思っている。その分、自然環境に恵まれ、観光面がカバーしてくれてると。③有効求人倍率は全国1.03倍(季調値) 宮崎県0.67倍  日向0.61倍 延岡0.55倍-との数値が出ている(3月の指標)。残念かな日向よりも求人倍率が低く、本県でワースト1だったような。住みやすい土地柄ではあるけれど、何せ仕事のできる事業所が少ない。4年生大学生もアルバイトがないと嘆いていた。⑤確かに高いレベルの教育環境にはない。中学3年の上位の子どもは宮崎市の理数科高校や県外の有数な私立高校に通っている状況である。

 そして、将来に描く延岡市像で多かったのは①高速道路や公共交通機関が発達した交通の便のよいまち②犯罪や交通事故、災害などの少ない安全なまち③福祉が充実したまち-などの回答が寄せられていた。

 夕張と違って市民が住みやすいと思えるまちづくりが本当の住みやすさなんだろう。これらの結果より市民の一人として住みよい環境づくりに貢献していこうと思う。

健闘、星雲野球部

2007年05月23日 | 高校野球
   先日の高野連通達による特待制度廃止に伴う処置として、ひと月間の公式戦出場禁止や野球部部長の更迭などがそのペナルティとして科せられ、対象となる私立の高校はかたくなにそれを守っていると思う。ここはその時期と処分(5月31にちまで対外試合禁止や部長の辞任等)さえ守っていれば、夏の大会予選の出場は認められるとする措置に石にかじりついてでも、の意識や意欲が私立の野球指導者にはあると思う。ここは言う通りにするしかない、というのが本音であろう。しかし、元をたどれば高野連が黙認してきたのは事実で、今回の裏金事件で発覚したことにも自分たちの黙認は認めず、高校側に全て責任を負わせる措置に正直憤りを感じる者も少なくなかった。私も夏の大会までに間に合わせるような今回のペナルティーの取らせ方には、ある意味、選手のためにも良いと指摘したが、果たしてそうだろうか、と疑問に思った。ブログ友の塾長からもご指摘があったが、だったら高野連に罪はないのか、全て私立だけで問題を解決させてこれで終わりで良いのか、という制裁措置には疑問も残る。他の運動部には認められて野球部だけはという措置もどうか。一部に高野連ではなく高体連に加盟すべきだ、などの声も聞かれている。それほど連盟の組織に反発を持っているものが少なくないというわけだ。

 それ以降は新聞もテレビでもその後の対象高校に触れている記事は少ない。だが、発覚後の別の公式戦もそろそろ始まり、野球関係者の間では「○○高校が出場していればねー」や「○○高校の△△選手が見たい」などの噂もぼちぼち出始めた。地元でも先週からNHK杯県北予選が始まった。当然ぺナルティーを科せられている延岡学園高校と聖心ウルスラ学園高校の二校は大会に出場していない。

 昨日、県北ニ校の代表枠をかけた準決勝二試合が地元の野球場であった。そして、なんとその4強に長男の高校が残っていたのだから、その勢いについ浮かれて私も午後から途中まで応援に行ってきた。気になる。長男が退部したチームであっても、いやそのチームであるから気になっている。未練がましいかもしれない。守備につく彼らを見るたびにセンターに目がいき、「そこは長男のポジション」と中堅手が移動するたびに、長男がグラウンドで活躍したであろう姿と重なってしまう。
 
 結果は今大会代表権獲得間違いなし、という相手に接戦を演じ、4-5で惜敗した。素晴らしい選手の活躍だった。1回戦は先の普通科交流戦(定期戦)では0-11と惨めな試合を生徒に見せ、基礎からやり直しだ、と私から鋭い指摘(勝手にスタンドで論評していただけだが)を受けていたあのチーム。なんと定期戦で大敗した相手に競り勝ったのだから。3-2だったか。あれからわずかな練習期間でここまで修正を重ね、成長してくるとは、選手の活躍に目を細めスタンドで観戦した。だが、ベンチの采配にも「やや」と疑問もあった。2死1、2塁の反撃のチャンスに重盗(ダブルスチール)はなかろう。悠々三塁でアウトだった。二塁走者はスタートも遅くベース手前で完全にタッチアウト。せっかく同点にした矢先のちぐはぐな攻撃にそういう采配はないなぁ、と一塁側保護者応援スタンドからもため息も。

 高校野球は突如投手や守備から崩れると一方的な試合となって面白くなくなる。しかし、こういった展開の接戦も冷や冷やしながら楽しめて面白い。投手戦は両投手の無失点に近い投げあいで白熱してこれもまた面白いが。取っては取り返す、一喜一憂してスタンドは拍手と激ましの言葉が交互に。

 さて、この大会が終了すると7月から地方大会の予選が始まる。その大会に照準を合わせ、グラウンドの土を付け真っ黒になりながらユニフォームのままで自転車で帰る球児をよく見かけるようになった。アンダーシャツやストッキングの色でどこの高校か班別できる。つい彼らには「頑張れよ」と運転しながらつぶいやいている。その時には県内11校だったか、“謹慎”が解けた私立高校も加わる。高校野球も徐々に夏に向かい始めた。

父との会話

2007年05月22日 | 家族
   休みの今日は午後から父を誘って実家近くの父所有の山に登った。目的はビワちぎりだ。久しぶりと言っても10年前くらいか、その時までは立派に実っていた。当時妻と義母、幼い長男を連れ、父の案内でその山に登った。途中、雑木に1mは優に超えているヘビが絡まっていて、たまたまヘビ嫌いな義母がこれを見つけ、腰を抜かせたことがあった。みんな大笑いしたものだが、本人は地べたに座り込んでしまい、これこそ本当に腰をぬかすという表現にピッタリ当てはまった格好。それ以来かな。懐かしい想い出に残る山だ。最近は山のどの所有者も高齢化が進み手入れしていない状態。いたるところ雑草が伸び放題。場所によっては杉も細くスリムに成育している。人間でいうならガリガリ君か。私でないことは確かだ。

 急に思い立った。ビワ狩り。スーパーで露地物のビワが出回っているのを見て「季節だなぁ」と思っていた矢先、仕事途中、ある自宅の庭先にまだ成長途中のビワの果実を見つけた。「よっしゃ、今度の休みは実家所有の山に登ってビワ狩りだ」と決め付けていた。ところが、そのことも忘れていて、午前中は会社で今週から始まる中学生の受け入れ(職場体験学習)の準備をしていた。それでビワのことなど忘れてしまっていた。車に乗る途中ふと思い出した。午後2時過ぎ。まだ陽も高い。「居るかな」、実家の父を訪ねた。すると本を読んでいたらしく「山に行こう、ビワの成る山」。いきなりだったので私の言葉にも重い返事だった。しかし、しきりに私が行こうと誘うと、ようやく重い腰を上げてくれた。行くと決まれば準備がいい。さすが百姓の長男だけある。長袖、長ズボン、所有の山には沢があるので長靴、タオルを腰に巻き、軍手をはめ手には鎌を持って。私はといえば誘った方なのに、半袖にカジュアルシューズ、帽子もないときた。これでよく山に登ると言ったもんだ、と父は思ったかもしれない。長袖の薄い上着を借り、帽子の代わりにタオルを頭に巻いた。結構百姓の息子に相応しい格好であった。

 久しぶり父との会話も弾んだ。「俺が元気なうちにうちの山がどこにあるかくらい知っておかないとな」。この言葉のころには父も上機嫌だった。戦前この山は市の山だったが、戦後食料難を迎え、地元の人たちにイモを植えて生活するようにと無償で市から贈られたという。その代わり管理はすべて自分たちでというのが、無償の条件だった。最初は皆がイモを植えて収穫していた。ところがこの山はなだらかな部分が少なく、傾斜のあるところばかりで、収穫したイモを担いで降ろすのも大変とばかりにイモの生産は自然にストップ。それからは茶を植えたり、クリやウメ、カキにビワと実の成るものに移行し始めたという。

 私が幼い幼稚園か小学低学年時代までは祖母に連れられ、よくここに登った。特にこの薫風の季節、お茶やウメが出回る頃に付き合わされたものだ。その記憶を今もはっきり覚えていて、大量のビワが脳裏に強烈に焼きついていた。

 この歳になるとそういった幼い時代の想い出を再現したくなるものだ。秋はアケビ獲り、春はワラビ獲りとこれから先は名人(父)にお願いして連れてってもらおう。一人では身の危険を感じるから。わけは登り口に数件の民家があって、その一番山よりに自宅と山の間に野菜畑がある。ここに最近イノシシが出没してくるようになったという。そこの住人は網で侵入を防ぐべく策(柵)をこしらえていた。ところが相手イノシシは親子4頭でその畑を荒し、夜、物音で気づいたその住人は畑の中にいるその物体を見て驚いたという。すでに本人は畑の中に足を踏み入れた後だった。それからその人は動いてはいけないと直立不動。子と一緒にいるイノシシも気が荒れていて大変だったとか。「生きている心地がしなかった。死ぬるかと思った」と父に話したという。私が小さい時には野生のイノシシなどこの山でもみたことはなく、ましてやこんな近くの人里まで降りてきているとは。テレビの特集で山に実のなる植物や好物の葉がなくなり始めた、というドキュメント番組を見ることがある。主にクマなんであるが保護動物の場合は首に発信機を取り付け、再び山に帰し、行動範囲を知るような追跡調査も行なっているところもある。まさかそこまではやらないと思う反面、今回のイノシシ騒ぎもクマの実態に近いものがあると私は感じた。そう、ここにもイノシシの好物がなくなってきたのかと。

 イノシシはやぶの中を移動して生活するため、ダニなどの寄生虫がつきやすい。そのため、湿地に穴を掘り、ねそべったりころがったりしてぬぐうほか、寄生虫を防止するためにも役立っている。こうしたどろ浴び場を、猟師は「ぬた場」といい、どろ浴びすることを「ぬたをうつ」という。 そのぬた場を見つけた。最近浸かった跡かもしれない。近くにいることは確かだろう。餌を探しに“放浪の旅”に出ているのだろうか。
 
 ビワの収穫はなかった。というより3本の木全てが跡形もなく消えていた。えっ盗難?まさか、こんな人里離れたこの場所で根から掘り起こして持って帰るバカはいまい。となれば枯れたのか。戦後の食料難で植えられた木である。50年以上は経っている計算。もう寿命だったのか。3本の木が跡形もなく消えていたのには驚いた。10年前までは黄黄したあのビワがここに成っていたのに。でも、収穫よりも久しぶりに父との会話ができて良かった。仕事のことも忘れてこうやって自然に戻るのもいいもんだ。次の収穫はいつだろうか。実の成るものは。

53回園遊会

2007年05月21日 | 個人
  

    高校時代の同窓会、園遊会が五月晴れの昨日、母校の体育館であった。先に同窓会総会、続いてアトラクションをメインとする園遊会。旧制延岡中学校、延岡高等女学校が加わり、延岡恒富高校、そして現在の延岡高等学校と今年創立108周年を迎える県内でも有数な歴史と伝統のある高校である。その同窓会は何故か薫風の季節にある。一般的に帰省客に配慮した同窓会はお盆や正月の季節である。しかし、母校の同窓会は爽やかな五月中旬に行なわれる。しかも会場は体育館。実はこの体育館というのが厄介であるけれども、暖冷房を使わずに窓を開けていれば自然の風が吹き、暑くもなく寒くもない館内の室温でしのげるのは最高の季節でもある。


 以前は低い長テーブルを台にし座布団を敷き、その上に正座してそこでお弁当を広げ、ジュースはもちろん、ビールや焼酎、水割りにワイン、いたれりつくせりのお接待を受けていた。これが数年前から長机に変わり、パイプ椅子に座ってのスタイルに変更した。参加者が高齢化していることがその理由で、これはご年配にはすこぶる好評である。しかも、この日を待ちわびた県外在住のOBやOGは交通費や宿泊代が高くついても、毎年帰ってきている方もおられる。盆、正月には帰ってこれなくともこの同窓会だけは帰るという方も。それだけに幹事役をつとめる実行委員会は「最高の想い出を」と会の充実に連夜討論を繰り返してきたという。思えば私もちょうど10年前。幹事の実行委員会は36、35歳(年男、年女)がその役を務めることになっている。同窓会が終了するやすぐに次の時代にバトンタッチ。そのバトンがうまく渡せないとスタートからつまづく、地元にいるOB、OGにもうまく伝わらず結局苦労するのは、出てきている実行委員だけとなる。仕事の分担は一人に集中加担され、夜中遅くまで喧々諤々。あ~でもない、こ~でもない、今年はこれをメインになど、アトラクションの中身が一番の課題で、これまでの催しを参考にしながらいかに今年の特徴をだして想い出深いものにするか、「良かったね。今年の会も良かったよ」と実行委員にねぎらいの言葉がもらえるか、携わったものだけにしか、この喜びは分からないが、ホスト役の実行委員はそのために、お接待の教育も受けるほどだ。

 今年のホストメンバーは70人と聞いた。10年前の我々のときは130人いた。クラスの数も9クラスと変わらないことから、生徒数もきっと同じくらいだろう。夜遅くまで会の在り方や催しの中身を話し合い、それぞれに持ち場を決めて振り分けた。もちろん県外の同級生もこの日だけのために応援で駆けつけ、彼らには接待のマニュアルさえ渡せてないため、もっぱら駐車場整理班とドライブスルー班。快くその仕事を引き受けてくれた。体育館でメインの催しがあっているときも黙々と車で来るOBらにお弁当と資料を渡していた。滅多に帰れないのに、中で何があっているかも気になるであろうに。今年はホストの数が少ないため、車の誘導案内は警備会社に任せていたようだ。

 会場に入ると昨年の写真がパネルに貼ってあった。こんなもんかな。昨年の実行委員はあまり写真にはこだわらなかったのか。ご年配の人たちには希望の写真を無料でお渡しするサービスにもなっていたから、我々の時代は。

 資料はまずまずのパンフレットが出来上がっていた。後半の広告収入が毎年厳しい。チケット販売と広告収入が運営の大半を占めるだけに、いかに幅広く集めてくるか。昨年の企業は昨年の実行委員を知っていたから付き合いでとか、年々景気悪くなっているからもう今年から、など彼らにとって大きな壁にも突き当たっていたようだ。と言っても毎年苦労するのがその広告の件、今も昔も変ってはいない。これも回った件数と何度も足を運んだ分だけ、自分たちに営利的なものは何もないのに、と愚痴る委員も毎年現れるが、それも催しが終了すると、良き想い出となったであろう。

 今回の催しは母校出身のデュオ「#SOAR」(そあ)のライブやその他のアトラクションで、賑わったという話。途中から退席した私は乾杯まではいなかった。幹事以来、会場に入るのは初めてだった。接待係の紺のエプロンは我々の前の時代の先輩が購入したものだったはず、まだまだ活躍している。男性も女性も社長も社員もその垣根はなく、エプロンを着用すれば皆同級生。我々の時は女性陣が仕切って準備を進めていた。当時はまだ低いテーブルだったのと、来場者が1,000人だったか1,500人だったか、体育館が狭く感じたほどだった。そのため背中合わせに体ギリギリで、人一人がやっと通れるスペースだった。だから接待の進行方向などマニュアルにあって、ここで待機する人はこう入って、こっちから出るなど、細かな注意点もあった。しかし、間違えても分からないものだが、帰って持ち場に戻ると「あんた間違えたやろ」と女子。人のことはよく見ているもんだ。えへっと笑って誤魔化していた。


 全体的に見渡すと我々のテーブルも宴が始まると少しづつ増えてきた。50代以上かな参加率が高いのも、30代も幹事を務める以降からぼちぼち。34歳以下の参加は少なく、20代は皆無に等しい。いつの時代もこうやってこの同窓会の一員であることに誇りを感じ、懐かしい顔をみて会話が弾むとリフレッシュできる。この高校でよかったなぁ。おそらくどの高校のOB,OGも母校最高と思っていることだろう。それだけ青春を過ごしたわずかな時代の想い出がそこに集積されているわけだから。 偉大な先輩、歌人・若山牧水、空の先駆者・後藤勇吉氏らも遠くからこの宴をみて酒を酌み交わしているに違いない。


野球部歓迎会

2007年05月20日 | 中学野球
   今日は次男の中学野球部の栄養会が市内の結婚式場であった。毎年中体連前に開催されており、新入部員(一年生)が入り、落ち着いてくるこの時期に行なわれている。3年生を主流とするベンチ入りメンバーの栄養会に歓迎会を加えて実施しているもので、一つは一年生部員、その保護者を加えた顔合わせ会となっている。私は午後からの出勤のため、妻に出席を願った。13人いる新入部員の8割の親が参加していたという。1年生は次男の小学校の野球チーム6名ともう一つの小学校の少年野球チーム、それにその小学校のソフトボールチームによその小学校から一人を加え、13人でスタートした。昨年11月だったか12月始めだったか公式戦の全日程が終了して間もなく、両小学校の交流試合を毎年行なっている。目的は中学に上がって同じチームメートになるから、「来年もよろしくな」という毎年の恒例行事である。たった一日の一試合だけの交流試合であるが、もともと小学校も近く、そういった交流が以前からも続いており、中学に上がってはすでに兄弟でお世話になっている家庭もあって、全く知らない仲でもない。ところが、いざ顔を合わせるとやっぱり他の小学校という“垣根”もあって、この歓迎会まではどこかよそよしい。しかし、ひとたび自己紹介で部員、保護者が挨拶をすれば、もうそこからは顔を覚えられ、これまで以上に親しい間柄となる。ずっとそれまでは同じ小学校同士でしか行動できなかったのに、その垣根も取れて他小の親と仲が良くなる。そうやって交流の輪が広がっていくものなんだなぁ、部活動の利点は子どもの健全な心と体つくり、それに上下関係、礼儀や言葉遣い等を体得する良い機会であるとともに、親同士の新たな交流もまた始まり、いろんな意味で輪が広がって、お互いに助け助けられ合っている。

 最近の部活動は市内のチームとの練習試合ばかりでなく、日向や宮崎にまで行って遠征を行い、練習試合も組まれている。その時の移動のための交通手段は大抵親の車である。1ボックスカーは便利で一度に6~7人は乗れる。これなら2台で十分であるが、座席に余裕もほしい。やはり3台は必要など、そういった親の連携も必要になってくる。それからキーパーといって輪番制のお茶当番が待ち受ける。まだ一年生にはその順番が回ってきてないが、3台か4台の10リットル位の容器のキーパーが各家庭一台順番で。そういった影の仕事がこれから先回ってくる。キーパーについては少年野球の時もそうしていたので、違和感なくすんなり受け入れられた。だが、練習試合等で遠征に行くときはなかなか協力できないかもしれない。しかるに心情的には対外試合は地元でとお願いしたいところではある。

 その歓迎会の席で恒例の自己紹介があった。次男は他の新入部員よりも長く挨拶をしていたという。「守備は外野を希望します。バッティングでは遠くに飛ばせる選手になりたいです」と。他の部員が月並みの挨拶だったのに、まさか次男がそこまで話すとは、とびっくりしていたのは妻の方だったという。家に帰ってそのやりとりを聞いたが、そこで長男が「お前、そんなに喋ると部活もうやめられんぞ」と半ば脅しかげんでアドバイスする姿に、つい微笑んでしまった私だった。そう、長男は高1で退部しまってたから。それも休部状態からいつの間にか退部に追いやられていたので、後味の悪い結末。言ったから辞められないということはないが、言うならそれだけの責任をもてよ、という兄のアドバイスにも聞こえた。長男は今になって部に未練があるような口ぶりで妻に相談持ちかけているようだ。復帰できないことは本人も重々承知のうえで。未練があるのは長男だけでなく、私もその一人である。そう、長男の実力は私が一番認めていたから。

心の変化

2007年05月19日 | 家族
 今年の年頭に自分に言い聞かせたことがある。それはどんなに落ち込んでいた時でも後ろ向きにならないようにしよう、だ。そして、ブログも暗く湿り愚痴っぽい日記にはせず、仮にそういう日があっても、その件には触れず、前向きな一年としようということを心に誓った。だが、振り返ってみると愚痴っぽい記事もこれまでにあった。いつの間にか年頭の誓いは忘れてしまっている。というより、自分では暗く書いたつもりはないのだけれども、知らないうちに誓いのことなど忘れて、つい今日あった出来事や反省すべき点をそのまま書き綴っていた。特に子どもの話しになるとそれがはっきり現れていた。今年は最終年なのに、一向に自分の進むべき道を探しきれていない。何やってんだ。焦る気持ちは子どもよりむしろ親の方だった。自分が受験するわけでもないのに、進路を急かせ過ぎた感もあるが、それよりまず、行き先が見えないパズルのような迷路から一時も早く抜け出してほしい、と毎日気が気でなかった。

 連休後に自宅アパート内で子ども部屋の移動を行なった。これまで、長男と次男は一つの部屋に勉強机と二段ベッド置いて、そこで勉強と寝る部屋を与えていた。しかし、3年になるんだから長男には部屋を与えてやろうと、以前から決めていた。ようやく連休後に大掃除をしながら部屋を移動することができた。長男は新たな環境が気に入ったらしく学校から帰ってもテスト前、後にかかわらず常に部屋にこもって勉強?をしているようだ。何よりこれまでより明るくなったのが私達夫婦にとっても救いだ。こんなことならもう少し早くに部屋を分けてやるべきだった、とは妻の弁。そうだろう。すかさず「あんたが家を建てないからよ」と矛先がこちらに向かわないうちに話をそらす。

 長男との約束は「お前がここに居るまでに必ず家を建ててやる」だ。未だにこれは守られておらず、年内中どころか今の状態では二人(次男も)が自立してからでないと無理なようなである。これから大学進学の学費は来年以降に長男が入学して次男卒業まで9年間仕送り等が続くことになる。残念ながらどんなに条件の良い奨学金をいただいても彼らに渡せるお金は正直アップアップ。ギリギリのところだ。そういう意味でも郵便局の学資保険はありがたい。親戚に特定郵便局長がいて、何も言わせることもなく「ハイこれに必要事項記入して」「ひと月いくらの支払い。自動引き落としだからしっかり残金だけは確認しておいて」。半ば強引な保険加入であったが、今それを思うと正解だった。初年度にかかる入学金や授業料、諸々の費用はどうにかこの学資保険でまかなえそうだ。あとは奨学金で学生生活はどうにか送れそうである。

 うちが厳しいのを知っている長男は今年高校を卒業した先輩の進路が気になるようで「もし受験に失敗したら、先輩達のように浪人も視野に入れてほしい」とさりげなく妻に言ってきたそうだ。妻もそこはクールに「ごめん、それは無理。最初からその気持ちでは受かるものも受からないし、正直うちにはその余裕はない」と即座に答えたという。妻の言うとおりである。

 そして高校も高校総体前で今、青春真っ只中だ。5月下旬より本県代表をかけた地区予選が始まる。その前に今はテスト期間中らしい。部屋を分けたことで明るくなった長男は今度のテストもかなりやる気をもって臨んでいた。よしよし、少しづつ気持ちの変化が見え始めてきた。彼の行動が私の調子を大きく左右するといっても過言ではなく、ブログも最近そう落ち込んだ記事は少なくなっていると思う。とかく家庭内の事件が相次ぐ中で、彼の心の変化が我々夫婦のカンフル剤になっているのは確かだ。

 

 

 




5月の植物園

2007年05月18日 | 趣味
  先月20日以来、ほぼひと月ぶり植物園に午後から出掛けた。先月は中旬までは毎週のように足を運んでいたので、ほぼ植物の変化を感じることもなく「あの場所にはこの花、ここはあの花」とそれぞれの植栽域には、だいたい私の頭の中にはイメージとして季節の花が順番を待っていてしかも、職員の人達が植え替えを始めるものだから、大方のところ次はここにくるな、くらいのことは分かる。今回はあれから一ヶ月ぶりの撮影。さすがにひと月もおくと植物の成長は早い。しかも気温が上がり適度の雨(湿り)で、スクスクと新芽が出て青葉を付かせ、春、花を咲かせていた実のなる木には、緑色の果実が付いていた。食べれるかどうかは分からない。梅の大きさとほぼ同等のこの実はあの「枝垂れモモ」だ。開花時季(3月26日)は紅白の花が咲き、最初の頃は名前さえ知らなかった。しばらくして植物に詳しい方から連絡がありその名前が分かった。一本の木に白、紅、紅白混合と三種の花を咲かせる綺麗な木だった。植物通の人に言わせると「おそらく接ぎ木しているはず。色の違う枝をたどってみると接ぎ木の部分は膨れているはずだ」と話していた。実際にその部分を見ても膨れてはいない。本当に接ぎ木しているのか、と目を疑った。最初から“三種混合”(予防接種みたいだが)なんじゃないかな、などと疑ったりもしていた。この頃まで花自体はモモかサクラか程度の撮るだけしか能のない人間だった。ところが、この春あたりからアップで撮ることに喜びを覚えるようになった。出来上がった画像はまだまだ目の荒いところもあったり、背景が被写体の色とかぶっていたり、と反省することも多いが、少しずつ撮り方を覚えてきた。良い傾向だ。枝垂れモモの下には木苺だろうか、葉っぱから見てそう見えた。ヘビイチゴはこれより小さいし、食べるイチゴは三角錐型だし。周囲の緑の色にこのイチゴの赤が浮いて見えた。



 さて、夏の植物の開花と同時に昆虫も元気に地中這い出して“散策”始めたり、産卵の時季を迎えている。えっ?もう、産卵。ついこないだまでじっと冬眠状態だったのにと想像するや、一年越しとか二年越しの昆虫もいるのだろうかと虫の寿命まで心配になった。最近、仕事と全く違うことに関心を持ち始め「道間違えたかな」などと知人の山岳カメラマンに“影響”を受けている。いやいやその道を究めるのは厳しい、にわかカメラマンでは話しにはならないな。観察力だけは良いかもしれないが。

 今日は這い出してきたカミキリ虫を見つけた。そして、スイレンの咲く池にはギンヤンマと思われる比較的大きめのトンボが尾を水につけ、チョンチョン、時折水に入れたままの姿勢で腰を振っていた。産卵なのだろうか。スイレンのつぼみを抱いてそれを軸にして尾をくの字に曲げて卵を産みつけているようだった。ルピナスの花にはいろいろな虫が芳醇な香りに誘われて集まってきた。代表選手はモンシロチョウだ。小型のハチ類も目が離せない。次から次に移動しては花弁奥の花粉をいっぱい足に付けて飛び回っている。クマバチかなこのクロと黄のどっしりしたハチは。羽根の音が遠くまで聞こえてきそうだ。





 そのルピナス畑の中に白い花が数輪、一つの茎から分かれて育っていた。遠くからその形で分かった。そう、白いコスモスである。ルピナスだけ植栽されている一角に育っているのだから、ひときわそのスペースだけ目立っていた。しかし、数ある植物の中で各色ある花というものは少ないと思う。例えばシクラメン、この花に青色を造ったらそれこそ“ノーベル賞”もの、とは知人の農業高校の先生が話していた。もう二十年近い前の話、今もその色はないのかな。ピンクや白、紅があっても青系統がない。逆に白、青があって赤系統がないなどの花色。そう、このルピナスの花色は豊富だ。ざっと紅、桃、青、紫、黄、橙、白、細かく言えば桃にも薄いピンクもあり、紅にも濃いエンジ系統もある。青もスカイブルー系あり、橙も薄いオレンジ色のもある。



 資料によると、ルピナスは雄大な花穂を付ける一年草もしくは二年草の草花で、その花のかたちや咲き方から日本では「昇り藤」と呼ばれています。確かに藤と同じマメ科の植物で、花の形も似ています。とある。
 科名 マメ科  学名 Lupinus  原産地 南北アメリカ、南アフリカ、地中海沿岸
 別名 ノボリフシ(昇り藤)  草丈 40cm~1.2m  開花時期 3月~6月。

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 この他にもシーズンを迎えるのはスイレンの花、花しょうぶ、はたまたピンクのコスモスもペチュニアの花壇から見つけた。夏と秋が一緒に来ている。この日はマリーゴールドらしき苗を移植中だった。一苗一苗手に取って植え替えている園の人たちには頭が下がる思いである。これから本格的な夏を迎え、周囲には虫の好きな樹液の多い木々もあることからセミ時雨を聞きながらその作業に精を出さなければならない。くれぐれも健康にご留意いただきたい。職員の皆様あってのこの施設ですから。