空も大地もうごめき、ウゴメク。

この世に生まれたからには、精一杯生きてみよう

振り返り8

2006年12月27日 | 少年野球
  振り返りも残るところあと3人となった。部員数の少なさは、当地区17チームのうち、1、2位ではなかっただろうか。Aチーム10人、Cチーム13人、合わせて23人。しかし、同じ日程で組まれるそれぞれ別の大会では、同時登録ができないため、Aチーム10人で頑張った。それでも主将が負傷で欠場していた時は、もうあとがない。9人ギリギリで戦ったこともあった。もう、試合中のケガが一番怖くて、クロスプレーやランダムプレー、スライディング等は特に気になった。滑り込みに難を残す選手もいた。足から滑ってもベースが近いとか、頭から帰塁すると、胸で滑れずにそのままボテっと倒れたまま。小熊が倒れたような仕草に周囲から失笑も。ある意味いろいろグランドで楽しませていただいた。

  できる選手、できない選手。往々にしてセンスが問われる。センスのある選手がやはり伸びる。いわゆる運動感覚である。能力は徐々に身につくもの。感覚は反復(練習)意外になく、体が順応しなければなかなか習得できない。その差がこの時期にくっきり分かれてくる。

  彼は、6年生部員に混じる唯一の5年生だった。入部したのも早く、小さい頃からボールを握っていた。今の6年生よりも技術的に秀でた時期もあった。しかし、歳の功かな、6年生の技術は彼をいつの間にか追い越してしまっていた。

  Bチームの頃は内野の要で遊撃を守った。Aチームでは前半は左翼、右翼、二塁と転々とした。足が遅いのが難点だった。ベースランはドッタドッタと音を立てながら、なかなか前に進まない。気持ちは前傾姿勢なのだが、足の回転がイマイチだった。

  何度か彼に注意、指導したものが2つある。1つは彼が守る内野守備である。ゴロを捕球する際に右利きの野手は左足の横で捕球するのが基本(もちろん、打球が速いときや途中でイレギュラーしたり、体の正面で捕れない左右に動く時は左足の前では捕れないが)。ということは必然的に右足は折れるような形で捕球することになる。しかし、彼はそれができなかった。イージーゴロでも全て左足が折れて捕球していた。随分窮屈な捕りかただったと思う。そこを手取り足取り何度も教えたが、なかなか習得できなかった。

  それと打撃面。彼はテイクバックなくそのまま来た球を打つ癖があった。テイクバックがなければタイミングが取れない。そのため彼は足だけでタイミングを取っていたことから、少々速い球には付いていけなかった。投手が振りかぶって、もしくはモーションを取って投げる場合は、バットを上に一度引き上げ、戻す勢いが反動となって強い振りができる。その意味を教え込んでいたが、なかなかそれを飲み込めず最後まで自分のバッティングスタイルを貫いた。というよりも修正できなかった、といった方が早いか。

  来年彼は6年生一人のチームとなる。当地区の少年野球連盟の規約というか、条件に6年生がいるチームは必ずAチームをつくらなければならない、とうたってあるようだ。彼より下の学年は4年生3人、3年生7人、2年生2人、1年生1人の編成だ。運悪いことに来年4月の開幕の頃には今の4年生と2年生の兄弟が転校していなくなる。11人体制となる。来季は5年2、4年7、3年1、2年1のチームとなる。チームの存続にも影響を与えるような部員数である。

  彼の父はシーズン前から現有体制を懸念していた。一つは今のCのメンバーにAチームと対等に戦える力はなく、(息子)一人がいることで他のメンバーに迷惑がかかる。もう一つは、彼が補欠でもいいから自分よりも上か同等のチームに移籍することが、彼にとってもプラスになるだろうと。これには選択肢は二つあった。残ってAチームを編成するか、移籍させてBチームで編成するか。最初は説得に走った私も最終、監督にも相談していた彼ら家族のその意志は固く、その後時間を置いても変わらず、最後は彼らの気持ちを尊重した。

  来季から当チームはAチームのないチーム編成となる。連盟(少年野球連盟)も何度かどうにかできないかと、通達があった。もう少し待ってくれと、頼んできたが、いよいよ来季の登録の時期が来月と迫った。しかし、新しいスタッフ陣も固まった模様。これで来季はBチームからのスタートとなるようだ。ただ、登録は途中でも変えられる。負け戦でも経験を踏ませる意味から途中A変更も可能である。その当たりスタートしてからでも遅くはなく、じっくり考えてほしいと願うばかりだ。

  これで来季はAチームがないことから、応援は卒業と同時に同じ中学校にあがる近くの○チームを応援することになる。彼も必死になってレギュラーの座をかけ頑張っていることだろう。それには上記の2点を早く自分のものにすることが先決だ。





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