空も大地もうごめき、ウゴメク。

この世に生まれたからには、精一杯生きてみよう

振り返り6

2006年12月25日 | 少年野球
   サウスポーのエース。昨年まではほとんどマウンドに登ることもなくじっくり育て上げてきた。もちろん、6年生投手がいたから出番がなかった訳だが、マウンドは突如として制球をなくす孤独の場である。どんなに周囲から「落ち着いて」とか「真ん中でいいから」と励まされても、こればっかりは人の手助けで立ち直れる場所ではない。野手陣の拙守(まずい守備)によりこれまで要所要所抑えていたピッチングも、突如足元をすくわれてトントンと得点を入れられ、相手ペースに持ち込まれ逆転のケースもこれまでにあった。彼は先輩達が築いてきたこれらの失敗をしないようにと、控えの選手としてベンチの中でその様子を見守ってきた。そして、最後の年、彼はエースナンバー1を監督からもらい、心に誓っていた。この番号は誰にも渡さないぞ、と。

  投手たるもの、ハートも肝心。マウンド度胸などといわれて、向こう気の強い性格の選手がある意味、時として胸元を狙って投げれる度胸も要求される。体をのけぞらせると外角が遠くに見える。そこにズバッと投げれる制球力と前向きな気持ち、バッターとの駆け引きは常に自分を優位にさせておくこと。スピードがほどほどであれば、胸元をえぐる強気のピッチングと外角に投げ分けれる制球力がどうしても必要だ。

  うちのエースはスピードはそこそこだった。制球力はまずまず。仮に四球で走者を出しても牽制球が上手かった。セットから右足を上げ一塁に送球、クロスするかしないかのうまいタイミングで一塁走者を釘付けにしていた。しかし、ひとたびタイミングを捕まれると、投球動作と同時に二塁へ盗塁を許してしまったこともたびたびあった。残念ながら盗塁阻止率は少なかったように思える。10回走って1回もアウトにできただろうか。けん制球にいいもの持っていただけに、もったいない試合が何度もあった。捕手も二塁で刺せない状態であったので、彼のけん制プレーは大きな意味があった。

  その意味とは絶妙なタイミングで牽制球を投げ、不意をつかれた一塁走者が飛び出すケースが多く一、二塁間に挟まれランダムプレーが始まる。これが上手いチームなら、アウトカウントが増えたと安心して見ていられる。ところがうちのチームはその挟まれた走者を生かしてしまう。それも2塁ベースで。無死1塁の場合だと、けん制で1死走者なしとなるところ、うちの場合は無死2塁と傷口を広めてしまうのだから監督のベンチの声も大きくなるのは当然だ。「なにやってんだ」。彼のけん制球が何も生かされていないのである。

  最後の公式戦は市内でもはずれの総合運動公園であった。その大会で準優勝したチームに逆転負けを喫してしまった。前半までうちのペースで優位に進め、このままいけば勝てると、誰もが信じるナイスゲームだった。しかし、あれよあれよという間に追いつかれ、逆転された。途中、次々に加点されその逆転劇の内容までは思い出せないが、エラー絡みであったのだけは覚えている。

  試合終了後、グラウンドの隅に集まったナインに監督から「よくやった」とねぎらいの言葉が掛けられると、日ごろ泣かない選手まで悔し涙を流していた。エースの母は今季ずっとスコアラーとしてベンチに入り、時折男まさりの激しい注意、指導の声が飛ぶ。何を隠そう、学生の頃は女子ソフトボールの選手だったという。彼女の兄も高校野球選手で私とは高校は違うが一緒にジャンケンをした仲である。彼女の父も実は少年野球の監督を務めた。しかもエースの3つ上の兄(中学3年野球部)も当クラブ卒業生、まさしく野球一家に育った環境にある。

  最後の試合、スコアーを付けていた母は途中から涙目になり、おいおい泣き始めたと監督が話していた。その時の模様は私は覚えていないが、ただ、円座になり監督をはさみ最後の反省会をする前に、母はエースの息子にに「よくやった。よくやった。良く頑張ったね。よく練習も辛抱した来た。何も言わんでいいが」と息子を何度も称えていた。エースもその言葉にはぐらぐら揺れ親子でワンワン泣いていた。その場にいた私は、何が一番悲しかったといえば二人のその会話が一番悲しく、ぐっと一人目頭を抑えた。

  持久戦にやや課題を残す選手である。夏場でも汗かきからアップアップ、スタミナ不足の感は否めない。今の彼の素直な球は中学に上がれば通用しない。一層のスピードとさらなる制球力に磨きをかけていくことが大事であろう。それは走り込み以外になく、少年野球が終了した今も地道なトレーニングが必要である。頑張れエース。延岡を代表するエースになれ。