空も大地もうごめき、ウゴメク。

この世に生まれたからには、精一杯生きてみよう

北海道から帰郷

2006年12月15日 | 家族
     

     北海道の修学旅行から昨日、長男が帰って来た。

 最後はバスの中での5時間くらいの旅だったが、私の車に乗るなり「暑い」と。理由は1時間半も学校のそばの駐車場で待たされ、暖房をつけていたからなのと、北海道の寒さに比べればとの感想である。

 予定では9時に学校に到着するはずだった。しかし、到着したのは10時半。待っていた保護者からブーイング。それもそうだ。バスの到着が遅れる場合は、修学旅行用の連絡網が前もってつくられており、その順番で連絡するようにとの指示があったからだ。

 1時間半も待たされて、結局連絡があったのは待機していた車の中。「今、高千穂を発ったと言いますから、あと1時間はかかります」と。学級委員なのか、学校関係者なのか、女性が雨の中、案内に回っていた。何十台と車はつながり、1台1台窓を開けて案内する姿には頭が下がる一方、どうしてもう少し早く連絡ができないのか、と腹立たしさで一杯だった。

 今の世の中、ほとんどの家庭に携帯がある。それらの情報網によってすぐに情報は伝達される。遅くなる場合は、と前もって連絡網(用紙)があるのに、どうしてそれを利用しない。正直意味がない連絡網と学校の体制にはあきれた。

 ほとんどの家庭が各々の子を学校周辺の道路で待たされていたわけだ。その光景にびっくりして付近の住民からも通報があり、パトカーが見回ってきた。

 「何の集会ですか」と。「いえ、子どもの修学旅行の迎えです」と。「あ~そうですか」。

 みんな迷惑。雨のため車で暖を取れば、当然排気ガスは増え環境汚染につながる。しかも燃料費も増える。そして一番は貴重な夜の時間である。9時から10時半までの1時間半は通常は仕事場から帰って来る時間かもしくは、帰ってすぐに風呂に入ってホッとしている時間である。その貴重な人生のひとときを申し訳ないが、連絡網さえしっかりしていれば有効に生かせたわけだ。何のための連絡網なのか、必要のないものはつくるな。と言いたい。学校も学校で遅れてくる時間が分かるように誰か待機させとかなきゃ。現地の先生や代理店などから連絡があれば、保護者からの問い合わせでも対応できるように。全く反応なし。校舎は灯りがついているのに。

 生徒を無事送り届けようとする引率の立場も分かる。しかしどうだ、今回のお粗末な対応。これで保護者から注意を受けても何も言えまい。猛省していただき、次回の旅行や今後の学校運営の教訓としていただきたい。

 唯一の救いは、長男のお土産だった。これでつまらない土産だったずっと落ち込んでいたと思う。





  写真は左から弟へのお土産。お菓子大好きだ。彼は。
 
  中央は、妻へのピアス。

  右端は私へのビールの味のするキャラメル。

   何故?。アルコールの土産は一切禁止だったため、気を利かして私の大好きなビールの名のつくキャラメル。

  えへへ、時間かけて一人ゆっくり味わって食べようかな。


ウリウリ坊

2006年12月14日 | 地元
  

    来年の干支は亥(イノシシ)。

 休みの今日はウリ坊探しに出た。地元の夕刊紙にウリ坊の記事が出ていた。来年の干支の写真にどうぞ、と小動物園の「ダチョウ園」が呼びかけていたのを見て。ヨシッと決め込んで今日の休みに計画を立てていた。ところが、朝からの雨に悩まされた。


 ここ、ダチョウ園は小動物の小楽園。種類としては主役のダチョウを始め、ワンワン、ニャンニャン、コケコッコーにメーメー、その他いろいろの動物がここに住んでいる。それらの仲間に先日イノシシの子、ウリ坊が仲間入りした。その記事が地元の夕刊紙に掲載され、いとおしいウリ坊を探していた私は、これがラッキーな記事だったことは言うまでもなく、休みを利用して撮影の計画を密かに練っていた。

 実は旧北方町にイノシシを飼っている事実を突き止め、そこにウリ坊がいないかを確認していた。ところが、この時季はウリ坊がいない時期であることを知った私は諦めざるを得ない状態であった。飼養している家庭から聞いた話であるが、もともとウリ坊は春の時代に育つ動物らしい。だから、今の時期にはもう斑点も見られず、飼っているとはいえ、中獣に成長しているようだ。

 ところが、そのウリ坊が地元の夕刊紙に掲載されていたため目が点になって喜んだ私はすぐにこの記事に飛びついた。

 朝からそわそわのわたし、100円玉を2個握り締め、デジカメも充電いっぱいにして園に向かった。

 着くと小動物君(さん)達が私を歓迎してくれた。どうもおかしい。何故か、門扉が閉まっている。よく見ると中央には「本日休園」の看板が出ていた。その横には毎週火曜日が休園日とある。今日は?


 


 後から出てきた男性に聞くと雨の日も休園日になるとか。そう。今日の当地は朝からシトシト雨。ずっと降り止まず、小動物はこの環境の下、小屋で屋外に出ようと今か今かその出番を待っていたらしい。「晴れたら外に出しますので」。晴れ間がのぞくどころか雨が止むことも今日はなかった。おそらくこの日ここを訪ねたのは私一人だったのではないか、というくらい周りはひっそりしていた。

 来年の干支イノシシ。ごつい、いかつい、凶暴な、イノシシは「猪突猛進」と言われるように、真っ直ぐな動物である一方、目元だけをみると可愛い動物でもある。しかし、あの野生の毛が今ひとつ年賀状写真のイノシシに馴染めない。その方が鋭くていい、という意見も聞かれそうだが、個人の感覚として年賀状で使用するならイラストか。写真ならやっぱり「ウリ坊」だろう。と解釈している。

 ようやく見つけたと思ったらこの日の休園。さぁ年賀状の受付も始まる。元日に届くよう準備だけはしていこう。まだあて先も何も書いていないが。

 入園料の200円は小動物園では手ごろだろう。しかし、ここを訪ねてくる人たちで経営は成り立つのか、そちらを心配していた。



健診前、飲み過ぎ注意

2006年12月13日 | 少年野球
    今月16日(土)と17日(日)の1泊2日で、少年野球の子どもと親との親睦旅行。卒団旅行が組まれている。行き先はお隣り熊本の三井グリーンランド。施設内のホテルブランカという洋風ホテルに宿泊。当初28人乗りのマイクロバスを使って、選手の父親が運転する予定であったが、参加者が徐々に膨れあがり、30数人にのぼったことから、急きょ運転手付きの中型バスをチャーターした。その方が親も平等に楽しめる。運転を一人の父親に任せるのはやはり申し訳ない。チャーターすることにより一家族辺りの負担が増えたのは仕方あるまい。それで皆が同じ条件で楽しめるのだから。

  何度かこれで最後と言い続けてきた当チームの集まりも、最後のお別れ旅行をもってチームの全ての行事は終了する。

  思えば一年前。新年度のスタッフを決めるのに、いろいろ役割分担があった。現場サイドとそれをサポートする親、私は仕事さえ融通がきけば現場に残りたかった身だった。どうしても休日に集中する仕事ゆえ、指導の立場からそれを運営していくバック(支え)の立場となってしまった。

  ある打ち上げの席(居酒屋)で監督との口論も今は懐かしい思い出だ。これもお互い、チームに対する強い気持ちの表れだと思っている。もちろん、その中身について指導方針の違いや野球に関する考え方の相違もあろう。譲れるときは譲り、逆に自分で体得して理解した技術については、私も一歩も引かなかった。

  指導者たるものワンマンではいけない、とはかねがね言われ続けてきた。少年野球の場合はチームを支える親達の協力なしには成り立たないのだから。むろん、現場に口を出すことはないが、行き過ぎた指導はかえって子ども達を萎縮させてしまうという欠点が浮き彫りになる。そういうときはコーチたちが子どもをフォローする。コーチと監督はそれらをうまく分担させることによってうまく軌道する。それも一方的に我を通すと厄介なことになる。強いチームはそこの連携ができている。




  さぁお別れ旅行まであと3日だ。父母の会長夫妻がいろいろな“アトラクション”を予定している。この一年間の総結集となるか、打ち上げでもヒートアップしてきた。さらにこの年を振り返りながら、個々で熱くなったものを年忘れ(忘年会)を兼ねて盛大に催したいとそう願っている。思いっきり飲んでもよし。


  ただ一つ心配。旅行後の18日(月)に、健康診断が予定されている。糖やたんぱくを出さないよう、アルコールは抑えとかないと、えらいことになってしまう。

美々津に思う

2006年12月12日 | 家族
    一町を過ぎた日向市に美々津(みみつ)という地域がある。江戸時代から昭和の初期、鉄道が敷設されるまでここは回船問屋として栄えた町である。日向市の南端、耳川の河口に開けた港町。古くは神武天皇の東征のお船出の地とされ、また江戸時代から明治時代にかけては京阪神との商取引で大いに栄えた。狭い道の両側に建ち並ぶ家々は、この時代の名残を今に伝え、情緒あふれる町並みを形成している。もと回船問屋だった日向市歴史民俗資料館、明治期の町家だった美々津軒、大正時代まで呉服商だった美々津まちなみセンターの3か所は内部も見学できる。

  ここ美々津に従妹の結婚式のために帰省していた千葉の伯父と富士宮市の叔父・叔母の3人とともに、香り高い文化と情緒豊かなこの町並みを訪ねた。明治の廃藩置県により日向国は美々津県と都城県に分割され、美々津には美々津県の県庁が置かれた。そのわずか2年後の明治6年には両県は統合され宮崎県となった。大正10年に日豊本線が開通、その後国道10号線が開通し、輸送の主役が鉄道や自動車に移っていくに従って、海運業が主体である港町としての美々津の役割はなくなり急速にさびれていった。時代の変遷である。海運業を中心とするこの地は、関西の取引が多く、材木や炭、農産物(野菜でもシイタケ類が主)を京都、大阪に運び、帰りに着物や酒、おもちゃなどを仕入れて千石船に積み、交易が続いた。

  そして、今回訪ねた日向市歴史民族資料館は、美々津でも屈指の回船問屋「河内屋」を修復した資料館と、河内屋伝来の民具や市内から収集された歴史資料を並べた土蔵風の管理棟に分かれている。資料棟は美々津の商人の暮らし、管理棟は美々津の歴史に関する展示コーナーとなっている。

  地元のボランティアガイドが繁栄した頃の美々津を紹介していた。町並みも全国的に珍しい河口に面した港のある地域で、当時最も賑わった頃の江戸時代をしのぶこともできる、といわれている。




  それは、1986年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたからである。指定を受け20年が経過。壁は白壁に統一され、しかも家屋の高さや屋根瓦、通りに面した玄関口等には規制がかかっていた。しかし、町並みのはずれの方は廃屋も目立ち始めた。高齢世帯がその地で息を引き取り、そのまま家屋を放置しているからであろうか。せっかくの伝統的建造物もその廃屋を見ると、まさしく興ざめだ。それでもメインストリートの素晴らしい文化施設でそれをどうにか帳消しにしている。

  時として、地方の文化を知りたいときには、情緒豊かなこの地でのんびりするのも良し。年間5000人程度の観光客しか来ず、平日はガラガラ。ところが、私達が訪ねた9日は、福岡の方から大型のバスを貸し切ってツアーで参加するご年配の姿もあった。

  日向と延岡、人口的にはおよそ半分しかない。文化にいたっては県庁もここ美々津にあったことから、県内の中心部であったのはまず間違いない。その後の発展は海上から陸上(鉄道)に移り変わったことが一番であろうか。そのまま、海上交易が盛んであったら、日向と延岡の人口は逆転していたかもしれない。


  

食べ頃?

2006年12月11日 | 仕事
    

    会社内部は暖房が効いて31度を超える温風が噴出す箇所がある。朝方冷え込んでもややもすると日中は暖房がいらなくなる。東側と南側は強化ガラスに見守られ、燦燦とした陽射しが差し込んでくる。ちょっとした温室になる。

    そこに最近はパパイヤが加わり、お客さんたちの目を楽しませている。6個ある実の2個が黄色に熟し始め、もうそろそろ食べ頃か、とワクワクしてきた。しかし、いままでパパイヤなど栽培した経験のあるものは誰一人いなくて、その熟した実がさて、今が食べ頃なのかはさっぱり分からない。勘を頼りにして収穫しなければならない。

    このパパイヤ、実は家で栽培していた方が、もう育てきれないと、地元夕刊紙に掲載、呼び掛けされ、回りまわって当社が“里親”となったわけだ。

    手放した方の理由は、背が伸びすぎて自宅の天井に当たってしまうだった。すでにその頃から実は6個ついていて、譲り受けた11月18日から20日間、その実の大きさは今熟している2個を除いては少しずつ大きくなっている。

    最初の収穫は今まで育ててきた“大家”さんに。というのが条件。だが、いつが収穫なのかも誰も分からない。




    ネットでパパイヤを調べた。そうしたら、一般的にスーパーなどで販売されているパパイヤとは種類が違う。どちらかというとココナツのような大きさだ。熟す前の緑の実はスライスして天日干し、サラダや和え物にもなるという。ウリに近い食材だとか。もちろん熟せばフルーツとしても食べられる。

    ベトナムだったか、タイだったか。庭には高さ5、6㍍にも成長したパパイヤがそびえたっているといい、少しも珍しくないという。市場では100円もしない、というからこちらで注目されるものでもなさそう。

    先日は地元の夕刊紙が取材に来てくれた。まず、“大家”さんが引き取り手を捜している、との記事が先行し、当社が引き受けた、という二回目の記事で。

    従業員は“大家”さんのためにも枯らしてはならない、と皆熱くこのパパイヤの木を見守っている。

修学旅行

2006年12月10日 | 家族


    高2の長男が今朝、修学旅行に出掛けた。行き先は国内組の北海道。一方、国外組はオーストラリア。国際人文学科の生徒はすでにオーストラリアにいて、ホームステイ2週間の真っ最中。

    朝、4時45分家を出て、大分まわりの高速道路に乗って福岡へ。飛行機で福岡から新千歳空港まで。13時20分には北海道に着き、明日と明後日は午前2時間、午後2時間の計8時間、スキー講習がある。南国生まれの生徒たちだけに雪が降り積もっている光景はおそらく初めての者が多いと思う。まず、当地宮崎は雪が降ることも少なく、積もることなどは数年に1回あるかないか、それも表面に薄っすら白い雪かなのか霜なのか分からない程度の雪だ。スタッドタイヤはおろかチェーンなど装着したこともないドライバーがほとんど。

   ところが、1時間もする高千穂町は毎年が雪が降り積もり、大半の家にはタイヤチェーンがおいてある。海岸部の延岡と山間部の高千穂、さらに奥に行くと五ヶ瀬町という日本最南端のスキー場があり、もし降り積もっている雪を知る生徒がいれば、それはここ五ヶ瀬スキー場での経験があるものだと思う。

   以前のブログにも書いたが、同じ県内でも温度差が激しく、南国でも降雪地帯を持つ本県ならではの地形である。


   さて、今朝長男を車で送って学校に行った。到着一番乗り。「何か自分が一番張り切っているようだね」と後部座席で妻との会話を聞いた。「そうじゃないのかな」と内心微笑んだ私。学校のジャージの下をクラスに忘れてきており、昨夜は担任の先生に教室を開けてほしいとお願いしていた。その時間もあって早めに到着した。先生も「おいおいしっかりせよ」と笑いながら了承してくれたそうだが、「これで先生に借りができた」と長男。その恩はしっかり勉強で返すようにと、念を押していた。妻は旅の途中でも「ハイと缶コーヒーでも渡したら」。それこそ失礼ではないかとも思ったが、生徒と先生の関係はその程度のものでも良いのか、と私は何も言わなかった。

  4泊5日、旅から帰ってくるのは14日(木)21時頃。日程では1日、小樽市内と札幌市内の自主研修(自由行動)がある。広大な台地での経験に何を思って帰ってくるのか、土産話が楽しみである。

安藤前知事、逮捕

2006年12月09日 | 時事
   

    ついにというのが相応しいのか、とうとうというのが相応しいのか、宮崎県、本県の前知事が逮捕された。

   あれだけ「一切関与していない、関係ない」、などのコメントを残し、議会開会中でも身の潔白を訴え続けて来た前知事が、警察の捜査を受けることになった。

  今回の逮捕劇は実に長かった。福島、和歌山のように疑惑が生じてすぐに逮捕というものではなかった。地元の新聞、テレビは毎日毎晩、彼の報道を続けた。そのたびに潔いのか、本当に潔白だったのか、カメラの前に登場しては何度も自身が関与していないことを主張し続けた。

  しかし、報道が先に書きたてた。逮捕へ。とか、今週中にも。検察の調べを受けているとか、今日にもなどの活字が新聞に躍っていた。あれだけ書き立てられれば、もう観念するだろう、というくらいよく報道されていた。もちろん、本人には罪の意識もなかったのだろう。もし身が清らかであれば。

  彼がそこまで言ってのけたものは何だったのか、すでに取り調べは始まっており、前知事は全面否認しているという。当たり前だろう、本当に官製談合にかかわっていなければのことだが。何故、あれだけ強気の記者会見ができたのかも私は不思議でならない。

 真実は何なのか、すべては司直の手に委ねられる。

  

伯父達とお墓参り

2006年12月08日 | 個人
    少年野球の練習も試合もなくなり、週末はサービス業の本業に専念できるとあって、ある意味ではこれまで迷惑をかけてきたチームのメンバー=会社の同僚らに少しづつ暇を与えていく番だと思っている。

  当社は上期の繁忙期を過ぎるとこの時期は閑散期になるのだが、忘年会というシーズンは少々気合を入れて頑張っている。収入の大きい季節は夏までであって、忘年会は団体の予約が入らないと成果は残せない。しかも、価格の高い会席料理等を勧め、鍋料理はあまり勧めない。

  ところが、9割以上が鍋の予約。肝心な会席料理は一人当たりの単価が高く敬遠されている。そこをどうにか会席にと粘って、ひっくり返すのが我ら営業の仕事。最近は事業所も忘年会、新年会をするところが減ってしまい、するだけでも良しと考えた方がよく、あまり無理を勧めると「それでは違う会場で」となってしまう。厄介な話だ。営業のテクニックは相手を良く知り、会社の業績を理解したうえでの行動が要求される。飲食業関係もこの時季は客の取り合いである。昨年はここだったから、今年はここ。幹事が変われば場所も変わる。それぞれの交際の範囲もある。毎年毎年頭悩まされながらこの時季を乗り越えている。

  さて、いとこの結婚式のため、伯父と叔父・叔母夫婦が帰郷している。一人は千葉県鎌ヶ谷市から二人は富士宮市から。いずれも地元の大企業の関連会社がある縁でそちらに居を構えている。今日は午前中、久しぶりにお墓参りに行った。

 墓前には今年も彼岸花の咲いた後の葉が青々茂っていた。妻と二人で植えた彼岸花である。岩盤の上に移植し、土をかぶせても空洞ができてなかなか根付かなかったこの彼岸花であったが、元気にみずみずしく葉を伸ばしている姿を見て、「おまえ(彼岸花)も頑張っているな」とつい声を掛けたくなった。

 昨日の雨も上がり、今日の日中は青空がのぞき、10月上、中旬の陽気だとか。親戚を迎えて気持ちのよい半日を過ごした。

自殺報道に思う

2006年12月07日 | 個人
  「悩んでいる子の背中を押しているのではないか」。

 と言ったのはPTA全国協議会の幹部。都内の民放連を訪れ、手にしていた要請文には「報道がそれに続く自殺を誘発している可能性を否定できない」と書かれ、取材も含めた改善を求めたという。

 地元の朝刊紙の記事で、昨日松井のメッセージを書いたが、私も自殺の"流行性"については、報道も幾分かの影響があると指摘してきた。そのようなことが書かれてあったので再度そのことについて触れたい。

 北海道滝川市のいじめ自殺が報じられたのは十月初旬、その後の二ヶ月で少なくとも六人の青少年が命を絶った。いじめが発覚した北九州市の小学校では、校長が記者会見の翌日に自殺した。

 母親が自殺をした体験をつづった著書がある振付師、watariさんは「報道する必要はあると思うが責任の追及に終始して、必ずしも再発防止につながっていないのではいか」と実感を込め、厳しく分析しているという。

 これに対し、十一月半ば、都内で民放の記者を対象に開かれた研修会では、急きょ自殺報道のあり方がテーマに加えられ、「事態を単純化してとらえ、原因を追及しがち。多面的報道が必要だ」と、報道や情報番組でどう扱うべきか、見直しの機運はある、とこの社会状況に改善策を求めている。

 一方で自殺を美化した描写を避けるといった、ドラマ制作などを意識した議論はまだ少なく「今後の課題になるだろう」(民放連幹部)と指摘している。

 子どもはテレビの影響を受けやすい。格好良い生き様の後に急に何かに挫折し、格好良い死を選んだとき、「人間て簡単に死ねるものだ」などと思いはしないか。ドラマという架空の世界と現実を一緒にできるのが、人生経験の少ない若い世代の考えではなかろうか。

 ゲーム場にはシューティングゲームという、ガンやライフルで画面の相手を撃ち倒すゲームがある。日本はガンを持たない国であることから、それに近い満足感と撃ち倒す(撃ち殺すものもあるが)達成感を味わえる。また、テレビゲームでは少し古いが、ストリートファイターなどの闘魂対決。パンチ、キック、神風を巻き起こす必殺技などもある。

 これらは自分がその場に伏しても再度闘いができる。リセットでき、コインを追加することでさらに続く。まさにバーチャルの相手だが、それらの影響も否定できないと思う。さらには家庭用のゲーム機もソフトを代えればいろいろな対戦ものが遊べる。これはコインもいらない。必要なのは電池ぐらいだ。

 十一月から「自殺防止キャンペーン」を始めたNHKは、関連の番組ごとに視聴者からの反響を分析。制作段階でも言葉遣いや取材法について、予防策に取り組むNPOや専門家にアドバイスしてもらう体制を整えた。「どう扱えばどんな影響があるのか。地域や人によって差はあるが、具体例を蓄積し方向性を探りたい」とNHKの担当者は話している。

 いじめ、自殺、これらの問題を解決するのは難しい。やはり、すべての教育(親、学校教育等)において、素早く見抜き、親身になって善処することに尽きると思う。そう簡単に解決できる問題でもないが、どこかにそのサイン(兆し)があるとも言われている。最近の複雑な家庭環境に加え、親と子のコミュニケーションが少なくなったのも、問題があるのかもしれない。

 そういう意味からも報道の立場はいじめをなくし、自殺者を抑制する手段を講じてほしい。ドラマの殺人事件などはもってのほかだ。そうい番組はなくし、命を大切にするような番組に切り替えられないか、その当たりからも検討を重ねて欲しい。番組制作のディレクターや民間のモニターの方々へ。







松井のメッセージ

2006年12月06日 | 松井秀喜

      いじめられている君へ

  君は、無理して立ち向かわなくていいんだ。

  学校やクラスにいても楽しくない。仲間にうまく入れない。それなら、それで、別にいいんじゃないかな。だれかがつくった世界に君が入らなければいけない、ということはないんだよ。

  それより、君には、居心地のいい場所で、自分の好きなことに夢中になってほしい。何かに没頭することによって、いやなことが気にならなくなることって、あると思う。逃げるんじゃない。自分から好きな世界を選ぶんだ。その中で同じ夢を持った友達に出会うこともあるだろう。新しい仲間ができるかもしれない。

  ぼくは小さいころ、体が大きいだけでなく、太っていた。それを悪く言う友達もいたかもしれない。ぼくはまったく気にならないタイプだからコンプレックスを感じることもなく、ただ大好きな野球に没頭していた。そのうちに、自然と体も絞れてきた。もちろんいい仲間とも、たくさんめぐり合うことができた。

  だから君にも大好きなことを見つけ、自分の夢を持ってほしいんだ。スポーツが好きな人もいれば、音楽が好きな人もいるだろう。何かを書いたり、つくったり。見ることでもいい。どんなことでもいいんだ。大好きなものに出会えたら、それを大切にして欲しい。

  君をいじめている人がいるとしたら、その人もきっとつらい気持ちでいると思う。だって、人をいじめることが夢なんて人はいないはずでしょう。いじめは夢の遠回りなんだ。その人にも、自分の夢を早く見つけて欲しいと言いたい。後悔するような時間は、短い方がいいからね。

  だから、いま君が立ち向かうことはないんだ。
 
     大リーガー  松井秀喜さん   朝日新聞12月6日付  

  いじめの投稿が大手朝刊紙に今、掲載されている。松井は11月7日にも産経新聞に投稿し、話題を呼んだ。

  「次々と子ども達が自らの手で命を絶つことには、僕も我慢がなりません。いろいろな理由があるにせよ、いじめをしている人、いじめで悩んでいる人には、もう一度じっくり考えてほしい。

 あなたの周りには、あなたを心底愛している人がたくさんいるということを。それは家族であり、親戚であり、友人であり、先輩であり、後輩であり、時にはペットであるかもしれません。

 人間は一人ではない。いや一人では生きていけないのです。だから、そういう人たちが悲しむようなことを絶対にしてはいけないと僕は考えます。相手の身になって、もう一度考えてみてください」

  新聞の投稿ではなかなか子ども達は目にしない。親が読んでこういう人がこういうこと言っているぞ、と子どもに言い聞かせている程度か。それならせっかくのメッセージも半減してしまう。

  いじめは現代の社会現象、それから発展しまうといじめられた側は死を選ぶ傾向にある。メディアも執拗にそれを追いかけて書きまくったことから、死が一人歩きから、いじめを受けていた子どもの最後の手段、"美徳化"していたようにも思える。最近は自殺の記事は少なくなった。これもある程度はメディアが自粛したからだろう。皆が自殺、自殺と書きたくると、命の尊さは忘れてしまい、軽はずみに死の方を選んでいるような現代社会とも見てとれた。「そんなに皆が簡単にできるなら」と連鎖反応を起こしていたのかもしれない。一時的な気持ちで。

  新聞のメッセージもいい。だが、政府が子どものいじめに本腰挙げるのならば、やはりメディアでもテレビだろう。しかもゴールデンタイムの番組のコマーシャルで流す、ってのはどうだろう。インパクトは十分だ。

  例えば、人気番組のドラマでお笑いでも、特集ものでもなんでもいい、その時間に松井秀喜がいじめのメッセージを番組を見ている子どもに訴えてはどうだろう。

  できれば民放一斉に同時間でお願いしたいものだが。



少年野球の納会

2006年12月04日 | 少年野球


   昨日は会社もお休みをいただき、子どもと親との交流を深めた。今シーズン最後となるグラウンド納め式。いわゆる納会である。長男の時代から3年のブランクをおき、次男の今回で少年野球ともサヨナラを告げる。最後のグラウンドは、後に残るCチーム(4年生以下)の親が中心となって、カレーをこしらえ、家庭での一品料理を持ち寄り、オードブルを取って、七輪焼きは上ホルモンや焼肉、鶏肉のセセリ等がグラウンド隅に煙を立ちこませ、炭火焼ならではの香りを漂わせながら食をそそり、選手と参加した親の胃の中に消えていった。

  最近は学校での催しは許可制で、グラウンドは年度当初に使用スケジュールを報告しなければならない。その中での禁止事項が盛り込まれ、グラウンド内では煙草禁止、火の使用もダメ、アルコールはもってのほか。

  今回の納会では禁止事項ではあったが、特例を認めていただき、親と子の交流を深め。AとCチームの混成の紅白戦を手始めに、6年生-父親の対決や、A,C各チームと母親対決などもあって盛り上がりを見せた。

  日ごろから選手には厳しい指導やスタンドから叱咤激励の声援も飛ばせていた保護者もいざ自分たちが打席に立つと、空振りか見逃し、「これでは子ども達のことをうるさく言えない」と反省しきり。ボックスに立つと独特の緊張感があり、バットをうまく使いこなせない母たちは、「当たらない」と首を何度もかしげていた。

 グラウンドでの対戦が終了すると、Aチームの選手一人ひとりから監督へ思いを込めた手紙が送られた。本来ならば選手一人ひとり読み上げるところだったが、それでは「手紙」にならない、とある部員の意見で手紙は帰って一人で読んでほしいスタイルに変えた。それぞれに熱い気持ちが監督に伝わったことだろう。



 花束は監督に、また、保護者からは練習や試合で指揮を取った頃の熱い指導をビデオに収めそれを編集してDVDに収録した形を贈った。父母の会会長は渡す前から目が潤み、その瞬間は目を真っ赤に晴らして、会長の言葉は言葉にならなかった。

 さらに、選手からお母さんに一輪の花が「今まで練習迎えにきてくれて、応援に来てくれて、これまで育ててくれて」と感謝の気持ちを込めて。花が渡ることも知っていた母達であったが改めて受け取ると、ぐっと堪えてきた気持ちも涙に変わっていた。

 ありがとう、子ども達よ。楽しいこと苦しいこと、喜びや悲しみの瞬間をも共有してきたのも親子だからこそ。その少年野球の結晶がこの日に集約され表れた。

 最後は全員で記念撮影。6年生の卒団と今季で退団する5年生のF君も一緒に送りだした。この先また、選手達はそれぞれの道を進むことになるが、きっと少年野球時代のことは忘れないであろう。
 
 私も自分の息子を中心にいろいろ厳しいことを言ってきたが、それも少年時代では最後。次は新たな進級先でいろいろまた口うるさく言うであろう。この性格は直らないことだろうから。



門松完成

2006年12月03日 | 仕事
 

  今年も師走の便りとともに会社では市内の事業所の先陣を切って玄関前に門松を立てた。もうあれから一年かと、時の経つ早さに驚くとともに年が明けるとまた一つ歳を取ると、やや複雑だ。

   いつまでも若いことはななく、年輪のように層が増えるたびに角質や表面脂質も老朽化、まだしわは見られないものの頭に白いものと薄い傾向にあるのが悩みの種だ。

   門松は今年も当社の運転手のおじさんたちが2日かけてつくり上げた。昨年の今頃、塾長のブログで竹は節をうまく使って笑った顔に、とアドバイスをうけた。なるほど、確かに節を削ることによりその部分だけは笑った顔になっている、と感心したものだ。

   昨年の門松作成後は運転手さんたちに節のこと説明していたのに、今年も節なし門松。「人の言うこと聞かないなぁ」と思う反面、製作前に一言言っておくべきだった。節のこと。どうか間が抜けたような顔立ちだ。

  しかし、運転手さんたちも丹精込めてつくり上げただけにそう強くは言えない。日中陽も射さない寒い環境の場所で黙々作業を続けていただいただけにその努力は称えなければ。

  来年の話をすると鬼に笑われそうだが、商売繁盛、健康増進(健康づくり)、来季こそ期待します冬のボーナス。頼んだよ。○○社長。




日程変更に確認

2006年12月02日 | 仕事
     
    同業他社でこれから業務を提携しながらお互いに切磋琢磨していこうと、ある事業所から提案があった。それを切り出し、私もその考えに同調。同じような形態の他社にもその提案を告げ、数社で協議会を持とうと立ち上がった。

  しかし、それぞれの企業のスケジュールが合わず予定していた日程は1週間延び、2週間延びしながら、12月7日(木)と正式に決定していた。

  ところが会場となるK社の代表者Tさんから「まだ来ないが、今日だったよね」と電話がかかってきた。えっと私はびっくり。1週間延びると連絡をしたはず。「直接延期を聞いていなければ、他の従業員に伝わっていないですか」と応答した。「いやだれも聞いてないようです。いつ言われたんですか」とTさん。そういえば、あまり延期、延期が続くもので提案者のE社より直接Tさんに電話を入れてほしい、と私の方から要望したのだと思い出して、「すぐに確認します」と電話を切った。


  それから数分後、原因はつかめた。それはE社が連絡したのはS社の方で、協議会内の違う業者に連絡していたのだった。それは私が連絡をすることになっていた
業者でもあった。「それは私が連絡入れたところですよ」。二重に連絡がある分については問題はないが、それによって肝心の会場となるK社には連絡が一度もなかった訳だ。これには会場のTさんも立腹。「ちゃんと確認の電話を前日にも入れてくれないと。全ての予定をキャンセルして待っていたんですよ」と強い口調で言われた。

  申し訳ない。全ては私のミス。間をとってK社、S社に連絡をしていたのは私。しかし、こうも日程の変更を余儀なくされると、KもS社も会議について首をかしげかねない、それならば起案者側(E社)より直接K社には日程変更をお願いしてほしい、との狙いで私の方から要望したのだった。


 それがK社ではなく、間違ってS社への二重の案内となった訳である。

 全て私のミス。慌ててK社へお詫びに行った次第である。

 連絡は人にまかせる前に自分で確認。たとえまかせたとしても、別の話題からも連絡できたはずである。関連で日程変更を聞き出すこともできよう。良い面で反省の一日だった。