空も大地もうごめき、ウゴメク。

この世に生まれたからには、精一杯生きてみよう

振り返り5

2006年12月24日 | 少年野球
    彼は5年生の時に転校してきた。それまでは前の学校(熊本か長崎かちょっと忘れたが)で、ソフトボールを経験してきた選手。当小学校にソフトボールのスポーツ少年団がなかったため、すぐに他の少年団(サッカーやバスケット等)を選ぶこともなく、野球部に入部した。

  5年当時はまだBクラスだったが、彼の守備力には定評があった。サードを守っていた彼は、捕球時の構えが良かった。腰をぐっと落とし激しい打球にも目をそらさずにグラブに入るまでしっかり見ていた。

  口数は少ない。こちらから喋りかけても、一言二言答える程度。余計なことは言わない性格で、歳の割にはいつも落ち着いて行動を取るような子だった。それでも内に秘めた忍耐力は人一倍、知らないところで男泣きするような選手だ。

  守備練習でコーチが走者となって塁を埋め、私も老体にムチ打ちながら走者となった。監督が打つノックの打球に、一塁から長躯三塁を落としいれようと必死に走っていた。三塁ベースに余裕で着くや彼から「大人気ない」とぼそり。それ以降彼は私の顔見るたびに、そういう目で見ていたので、私は逆にわざと大人気ないプレーをしては、彼にそういわせていた。それが彼と私のスキンシップだった。

  ただ、試合では練習中のいつものプレーができないこともあって、「どうした○○」と心配することもあった。彼の前にボールが飛んできても安心して見ていられたからだ。ソフト時代に覚えたグラブさばきが少年野球でも十分通用し、まさにうちの数少ないチームの内野の要の一人でもあった。

  転校当初は彼の父もサービス業なため、なかなか応援には来れなかった。が、6年最後のAチームでは何度か仕事を休んで彼の応援に駆けつけていた。スタンドから送る声援はほのぼのとしていた。日ごろから練習に出て来れない分、休んできた時くらいは大声で応援しようとする父の気持ちも痛いほど分かった。最後のお別れ旅行も仕事で来れなかったが、心優しい餞別の品を受け取り皆に感謝された。

  堤防下で父とキャッチボールしていた頃を思い出した。近くに彼と同級生の従兄弟がいて、三人でよくキャッチボールをしていた。5年の頃である。キャッチボールはその後、ピッチングにまで発展していた。父は彼を投手にしたかったのかもしれない。癖のない素直な球を投げていただけに、意外にも投げ込んでみると、そこそこやれたかもしれない。しかし、そうなれば三塁手がいない。少ない選手だけに一人二役、三役は当たり前だった。が、なぜか彼だけは一役(三塁手だけ)。それだけ絶大なる監督の信頼を寄せていたのであろう。

  親が転勤族だけに、彼はいずれこの地を去ることになるが、ここでの良き思い出をいつまでも忘れないでほしい。