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美々津に思う

2006年12月12日 | 家族
    一町を過ぎた日向市に美々津(みみつ)という地域がある。江戸時代から昭和の初期、鉄道が敷設されるまでここは回船問屋として栄えた町である。日向市の南端、耳川の河口に開けた港町。古くは神武天皇の東征のお船出の地とされ、また江戸時代から明治時代にかけては京阪神との商取引で大いに栄えた。狭い道の両側に建ち並ぶ家々は、この時代の名残を今に伝え、情緒あふれる町並みを形成している。もと回船問屋だった日向市歴史民俗資料館、明治期の町家だった美々津軒、大正時代まで呉服商だった美々津まちなみセンターの3か所は内部も見学できる。

  ここ美々津に従妹の結婚式のために帰省していた千葉の伯父と富士宮市の叔父・叔母の3人とともに、香り高い文化と情緒豊かなこの町並みを訪ねた。明治の廃藩置県により日向国は美々津県と都城県に分割され、美々津には美々津県の県庁が置かれた。そのわずか2年後の明治6年には両県は統合され宮崎県となった。大正10年に日豊本線が開通、その後国道10号線が開通し、輸送の主役が鉄道や自動車に移っていくに従って、海運業が主体である港町としての美々津の役割はなくなり急速にさびれていった。時代の変遷である。海運業を中心とするこの地は、関西の取引が多く、材木や炭、農産物(野菜でもシイタケ類が主)を京都、大阪に運び、帰りに着物や酒、おもちゃなどを仕入れて千石船に積み、交易が続いた。

  そして、今回訪ねた日向市歴史民族資料館は、美々津でも屈指の回船問屋「河内屋」を修復した資料館と、河内屋伝来の民具や市内から収集された歴史資料を並べた土蔵風の管理棟に分かれている。資料棟は美々津の商人の暮らし、管理棟は美々津の歴史に関する展示コーナーとなっている。

  地元のボランティアガイドが繁栄した頃の美々津を紹介していた。町並みも全国的に珍しい河口に面した港のある地域で、当時最も賑わった頃の江戸時代をしのぶこともできる、といわれている。




  それは、1986年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたからである。指定を受け20年が経過。壁は白壁に統一され、しかも家屋の高さや屋根瓦、通りに面した玄関口等には規制がかかっていた。しかし、町並みのはずれの方は廃屋も目立ち始めた。高齢世帯がその地で息を引き取り、そのまま家屋を放置しているからであろうか。せっかくの伝統的建造物もその廃屋を見ると、まさしく興ざめだ。それでもメインストリートの素晴らしい文化施設でそれをどうにか帳消しにしている。

  時として、地方の文化を知りたいときには、情緒豊かなこの地でのんびりするのも良し。年間5000人程度の観光客しか来ず、平日はガラガラ。ところが、私達が訪ねた9日は、福岡の方から大型のバスを貸し切ってツアーで参加するご年配の姿もあった。

  日向と延岡、人口的にはおよそ半分しかない。文化にいたっては県庁もここ美々津にあったことから、県内の中心部であったのはまず間違いない。その後の発展は海上から陸上(鉄道)に移り変わったことが一番であろうか。そのまま、海上交易が盛んであったら、日向と延岡の人口は逆転していたかもしれない。