弁護士法人かごしま 上山法律事務所 TOPICS

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現代裁判官“浪花節”考 東京新聞から

2006-04-13 | 雑感
東京新聞の記事からです。

 桜が突風にも散らずあでやかに咲き残る昨今。東京地裁の“お白州”で名文句が飛び出した。「今晩ぐらいは桜を楽しまれたらいかがでしょう」。一億円のヤミ献金事件で法に問われた村岡兼造元官房長官(74)に言い渡された無罪判決。川口政明裁判長(54)はこう声を掛けた。司法改革が進むなか、判決内容以上に注目される裁判官の“浪花節”とは。

 「一年三カ月の間に二十八回、法廷に通った。そのたび四、五時間もかかり、弁護士との打ち合わせも各回ごと二、三回はした。初めてパソコンを買って最終意見を自分で打ちました。そうした苦労を裁判長はよく知っていてねぎらってくれたのだと思う。胸が熱くなりました」
 判決言い渡し直後の心境を、村岡元長官は振り返る。
 先月三十日、無罪判決を言い渡した後、川口裁判長はこう声を掛けた。
 「今、桜が咲いています。今後のことはどうなるかわかりませんが、せめて今夜一晩ぐらいは平穏な気持ちで桜を楽しんでみてはいかがでしょうか」
 当日夜、村岡元長官は“花見酒”をどう楽しんだか。「テレビ出演などもあり、三人の弁護人、二人の息子とささやかに都内の店で一時間半ぐらい祝杯を挙げた。目黒区の自宅への帰り道、車の窓から眺めた桜並木の美しさは格別だった」

 実は川口裁判長は、過去にも法廷で被告人を男泣きさせたことがある。
 二〇〇三年十二月、オウム真理教前代表の麻原彰晃被告人の主任弁護人、安田好弘弁護士が、住専から融資を受けた不動産会社に資産隠しを指示したとして強制執行妨害罪に問われた事件の判決公判。安田弁護士に無罪を言い渡した後でこう語り始めた。
 「起訴されてから満五年。結審が遅れ、ご迷惑をおかけしました。私なりに努力して事件の理解に努めました。今度お会いする時は、今日とは違う形で」
 安田弁護士は、たまらず被告人席ですすり泣きを始めた。すると裁判長はさらに続けた。
 「もう一度主文を読みます。被告人は無罪」

 一方、川口裁判長は、保育園児杉野隼三(しゅんぞう)ちゃん=当時(4つ)=ののどに割りばしが刺さり、救急病院の医師が業務上過失致死罪に問われた事件の判決も担当した。
 東京地裁で先月二十八日あった公判では被告医師に無罪を言い渡したものの、診察の落ち度を認定。その上で異例の「付言」をこう判決文に添えた。
 「隼三(ちゃん)はその小さな体で生命が危険な状態にあることを訴え続けていた」「本件で隼三(ちゃん)が遺(のこ)したものは、医師には患者が発するサインを見逃さないことをはじめとして、真実の病態を発見する上で必要な情報の取得に努め、専門性にとらわれることなく、患者に適切な治療を受ける機会を提供することが求められているという基本。誰もが二度と悲惨な体験をすることがない糧とすることが供養となり鎮魂となる」
 先のケースのように、無罪判決でいたわりを受ける被告とは異なり、被害者側の受け止め方には複雑なものがある。隼三ちゃんの父、正雄さん(54)はこう胸の内を明かす。
 「判決を聞いたときはショックで頭がぼーっとなったほどでした。『付言に良いことが書いてある。美しくまとまった、格調高い文章だった』という声も聞きましたが、私も妻もそうは思えません。あの文章を付けるのならば反対の判決であってもよかった。本文で書かない限り、病院も医師も反省はしません。四十四回の公判を通じて、裁判長はその点をよくご存じだったはずです。単に私たちを慰める意味なら、あんな言葉はなくてもよかった」

 村岡元長官に裁判長が声掛けしたような一言は、俗に「説諭」と言われているが、過去にも評判を呼んだ説諭はさまざまだ。
 「説諭」は、裁判官が好き勝手にやっているわけではなく、ちゃんと法律に基づいている。刑事訴訟規則二二一条で、裁判官は「被告人に訓戒できる」となっており、この訓戒が俗に言う説諭だ。
 有名なのが東京都世田谷区の東急田園都市線三軒茶屋駅で銀行員を殴って死なせたとして傷害致死罪に問われた少年二人の裁判で〇二年二月、東京地裁の山室恵裁判長(58)が行った。
 被告側は「一生かけて償う」としつつ「被害者にも犯行を誘発する面があった」と主張したが、裁判長は「君たちは、さだまさしの『償い』という歌を知っているか。君たちの法廷での言葉がなぜ心を打たないか、この歌を聴けば分かるだろう。少なくとも歌詞を読んでみてほしい」と諭した。「償い」は交通事故加害者の若者が、遺族に「人殺し」とののしられつつも仕送りし続け、ついには「ありがとう」との手紙を受け取る実話が基だ。
 山室裁判長は〇一年七月にも「ロリコンとか、すけべおやじとかいうことじゃないの」という“名セリフ”も述べている。被告は児童買春禁止法違反の罪に問われた東京高裁判事。「仕事のストレス」があったと弁解する被告に「日本の司法に汚点を残したことが分かっているの?」「裁判官が、こんな犯罪で裁判官を裁くとは思ってもみなかった」として、ロリコン発言となった。約一カ月後の判決公判では「人のために生きるという視点を持って、もう一度、自分自身を見つめてほしい」と説諭した。

 おりしも、司法制度改革で「市民に開かれた司法」が唱えられている。「一般社会と断絶し、世間知らずの裁判官」との批判もあるため、最高裁を筆頭に、裁判官たちが、しかめっ面をかなぐり捨てて「人間味」のアピールに走っているのだろうか。一昔前まで判決主文の朗読だけで、わずか数分で閉廷するのが常の最高裁大法廷も、最近は傍聴人の前で判決理由を朗読するなど、ていねいさを前面に出している。
 しかし、最高裁に問い合わせると、全国の裁判官に対し「人間味あふれる訴訟指揮を行うように」などと指導することはないという。「最高裁から、ああせい、こうせいということは、やっておりません。裁判官は、個々の良心に従っており、最高裁が、訴訟指揮に口出しすることはない」と組織的な動きを否定する。
 ある裁判官OBは「司法制度改革とは関係ない気がする。むしろ、照れの一つも感じずに、ああいうことを言える世代が増えてきた、ってことじゃないかなあ」と“世代論”を唱える。
 「僕たちのころは、よけいなことは言わない。どうしても言いたいことは、判決文の行間ににじませるように書く。裁判官が、もっと抑制的な時代だったからねえ」と、昨今の裁判官の“口数の多さ”を皮肉る。
 とはいえ難民問題を扱う東京地裁民事三十八部の菅野博之裁判長のように、判決文朗読後、外国人の当事者に向かって、平易な言葉で説明し直す裁判官も出てきた。
 ベテラン弁護士らはこう指摘する。「裁判官には、芝居がかった道徳的な言葉よりも、原告、被告、傍聴人の理解を助けるような一言を期待したい。開かれた司法とは、そういうことでは」
 ジャーナリストの魚住昭さんは最近の裁判官の“浪花節”を「本来、法的な責任と道義的責任とは別のもの。裁判官は法的責任の構成要件を論理的に検討するのが仕事だ。ここをきちんとすればするほど道義的責任論と乖離(かいり)してくるケースもあるので、穴埋めとして何か言いたくなる。割りばし裁判の方はこのケース」と分析しながらこう強調する。
 「村岡元長官や安田弁護士の裁判では、裁判長の言葉の中に『高裁では有罪になるかもしれないよ』という含みがあったかもしれない。感情的な言葉を差し挟めば判決の論理性が薄れてしまうこともあり、ただの蛇足になってしまうこともあるのを忘れてはいけない

事実認定がしっかりされていれば、説諭も効果があると思います。


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1 コメント

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考えさせられます (noguchi)
2006-04-14 10:54:19
安田弁護士にそんな過去があったとは・・・

 ならば何故先日の山口県光市母子殺人事件の公判にあんな形で欠席したのか、それとは別次元の話なのか。理解できない。
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