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こうふく みどりの / 西加奈子

またまた西加奈子です。
図書館の予約を、西加奈子と本谷有希子ばっかり予約しまくったので、当たり前なのですが、素晴らしいのは、「こうふく あかの」の次にこの「こうふく みどりの」が入ってきたってことです。幸運。

「あかの」とのつながりは、ズバリ「猪木」でした。
西加奈子さん、プロレスが好きというのは知っていましたが、猪木つながりでこういう2冊を同時に書くとは。

「あかの」よりもこっちのほうがずっと好きですね。
「あかの」は男性の物語。男性視線で描かれている。奥さんは女性だけど、男性からは計り知れない女性である奥さんの突然の衝動的な行動の結果に翻弄されていく男性である主人公の物語。さえない同僚も、あのお店の人達も、太字部分の話も男の話だった。
西さんは女性なので、やっぱり男性の描きかたよりも女性を描いた時のほうがいきいきしている気がする。人物が生きている感じ。
いや、これは、大阪弁っていうのもあるのだろう。
「あかの」の主人公の東京弁は、けっして「変」ではないけど、やっぱりいきいきしていないと思った。魂が入っていない東京弁。後から学んだ東京弁。いや、べつに変じゃないんだけど、西さんが書く大阪弁の登場人物のいきいきした様と比べるとすごく見劣りする。

この「みどりの」は、やっぱり女性である西さんが、大阪弁をしゃべる女性の主人公とその周りの女性達をほんとうにいきいきと動かして作り上げたストーリー。
いや~、しかし、女性は奥が深いというか、ちょっと怖いねぇ。
やっぱり男性はもっともっと単純で、ただただ「男の子」のままなのだろうなぁ。女性に比べて。
自分も含めて、中学生ぐらいのころと、考え方とか何かに対するこだわり方とか取り組み方とか、あんまり変わっていないと思う。結局は、夢中で自転車こいでた中学生のころと同じような気分で、男はみんな夢中で仕事をしているだけなんじゃないかと思うのですが。
女性はなんか、女の子から女の人に変わっていくんですかねぇ。
この主人公は、その入り口のところに立っているような年齢なのかな。
大人の世界、大人の女性の世界を入り口から覗き見ているような、そういう年齢。

中学生の主人公が語る部分だけだとただの青春恋愛小説で終わってしまうものを、あの太字で書かれた手記みたいなのを間に挟むだけで、これだけ深い物語に作り上げているのはすごいとしか思えない。
西加奈子と本谷有希子ばかり読んでいるけど、小説家としては、もう全然、構成のうまさとか描写のうまさとかで言っても、西さんの圧勝だな。格がちがう。
西さん、ほんとうまい。

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こうふく あかの / 西加奈子

また、西加奈子の小説を。
図書館で予約したので、赤と緑、どちらが先に来るのかは運だったが、先に来たのは赤だった。赤と緑がどういう関係か知らないが、前に読んだインタビュー記事で、どちらを先に読んでもらってもかまわない、ということを言っていたので、安心して読み始める。

しあわせーってなんだっけなんだっけ♪
そんな、さんまの歌が頭をよぎる。
この主人公、周りの人を全員バカにして生きている、こうすれば人気者になれる、こうすればカッコ良く見られる、こうすればイヤミじゃなく見られるとか、そんな下らないことばかり考えて生きている男。
こんな奴いるのだろうか?
とにかく、そんなどうしようもないバカな男が、普通に考えれば非常に不幸な状況におちいり、結果、幸福になる話だ。といっても、結果はかなり先のことだし、本当に幸福なのかちょっとわからないけど、でもきっと、この部下や妻を内心バカにしながら外面ばかりを取り繕って生きている状況よりもずっとずっと幸せだろう。そう思う。

猪木か。
新日本プロレス。古館の実況。好きだったなぁ。
と言っても、僕が好きになった時は、すでに長州力とかと闘っている頃で、まだハンセンともやっていたけど、この小説に出て来る名勝負の数々は、僕がテレ朝で新日本プロレスを見始めたときには過去だった。
でもたしかによくわかる。猪木はものすごくカッコ良かった。男のロマン。うん。たしかにそんな風に思った。
裏番組が金八先生だったか、とにかく、僕以外の家族全員が楽しみにしているドラマの枠だったので、プロレスを見るのが本当に大変だった。
ほんと、どうやって見ていたのだろう?
けっこうちゃんと見ていた記憶があるのだけど。
ビデオデッキもウチにはまだなかった。

「プロレススーパー列伝」というマンガまで買っていたっけ。
猪木と馬場のエピソードには、本当に感動した。
なので、西加奈子さんが猪木に入れ込むのもよくわかる。
猪木は昭和という時代を語る時に、実ははずしてはいけないキーパーソンのような気もする。
もちろん、力道山の時代というのもあるわけだけど。
猪木って人は、やっぱりものすごい人なのだ。

と、小説の内容と関係ない昔話になってきてしまった。

プロレス。
茶番だとバカにするのは簡単だけど、そんなことはない。
それは夢中で見たことが一度でもある人ならばわかるはずだ。

この小説の主人公が、こんな薄っぺらな人間だけど、かつて夢中で猪木を見ていた時代があって、そしてまた、妻の妊娠に始まる不思議な道は、プロレスとつながっていく。猪木の力なのか? あのバーが彼に変化を起こしたのか。彼にもう一度しっかりと自分の人生を歩ませる。幸福とは何か。それは人からどう見られるかではない。自分の道をしっかりと一歩一歩歩いていければ幸福。あの子を育てるのは並大抵の苦労ではなかっただろう。受け入れるまでにどれほどの心のハードルを越えただろう。世間の目も厳しいものだったにちがいない。でもきっと、彼は幸せになったのだ。

面白いなぁ。

猪木の昔のビデオとか、また見たいなぁ。
DVD売ってるのかなぁ。
見てみたい。

体調悪く、めちゃくちゃな脈絡ない文章であることを自覚しつつ、直す気力なくそのまま投稿。

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『グ、ア、ム』 本谷有希子

また、本谷有希子作品です。
図書館で借りた。
こんなに早くこの出たばかりの新刊が手元に。
ネットで予約できちゃう図書館サイコー!
もうきっと、僕は本を買って読むことは無いだろう、きっと。
だって高いし、読んだあとはかさばるだけだから。

この作品は、今までの本谷有希子作品と比べると、比較的、インパクトに欠けるというか、おとなしめって感じ。

さっき、映画「ハンコック」でイヤな気分を忘れられるから映画ってやっぱいいなぁって書いたのは、実は、この小説を読んでいるときは、全然忘れられなかったからだ。
行間に、そのイヤな気分が、どんなに抑えても浮かび上がってきてしまって。

そんなわけで、この小説を正しく批評したり、とてもできない。

この小説に、これまでのほかの作品ほどには、入り込めなかったのは、僕のそんな気分のせいだったのか、それとも、登場人物がほぼ女性3人だけという、男性の僕にはなんか共感できないシチュエーションだったからだろうか。

姉と妹の関係、「腑抜けども…」でもそうだったし、本谷さんには妹がいるのだろうな。きっと。
本谷さんが妹のほう、ってことはないだろう、きっと。
東京に、大した理由もなく出てきて、非現実的な夢を語りながら親に迷惑かけてぶらぶらしている姉、だったんだろう、きっと。
偶然にも、しっかり売れてしまったわけだけど。
いまや売れっ子劇作家、だよね。

子供のころ、夏になると家族で海に行った。
三浦海岸とか御宿とか。
今、あのころのように家族で海外旅行なんてしたら、いったいどんなことになるのだろう。
あいかわらず、僕は僕のポジションを演じるのだろうか。僕に期待されている役目を果たすだろうか。
大人になった僕たちは、きっと、あの頃とはちがう、大人の僕たちの役目を果たすんだろう。もう子供ではないのだから、きっと。

そう思うと、このグアム旅行はこの姉妹にとっては、最後の、子供としての旅だったんだろうなぁ。

小説として読むと、最後のチャモロビレッジのところから、40ページぐらい使って、一気にどこかに突き進んで行ってほしかった。
すこし期待はずれというか、尻切れトンボって感じ。
いつもの本谷節を期待しすぎだろうか。

ま、それも、僕の気分の問題なのかもしれないのだけど。
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わたくし率イン歯ー、または世界 / 川上 未映子

図書館で、予約して、そして借りられた。
図書館で借りられて良かった。
なぜかと言えば、このページ数(100ページちょっと)で、1300円もする本を、僕はきっと買わなかっただろうから。
図書館のおかげで、この本を読めた。良かった。

と、結論から言えば、大変刺激的で面白い本だった。

哲学的な、「自己とは何か」、「意識とは何か」、この今、自分はこう考えているこう思っていると自分で思い込んでいるその自分とは何か、その存在とは何なのか?
そういうことを時々ではなく常に考えている人、生活や日々の仕事や用事をこなしながらそういうことを考えているのではなくて、そういうことを考えていることのほうが中心にあって、生活や、生きている肉体や、外界のことはその中心(中心が歯なのだと主人公は決めたのだ!!)とは別のところで起こる瑣末な事象。そういう風に思っている人が一人称で語る語るわけでありました。

哲学ってものに、自分の意識って何なんだ?とか、生きているってそもそもどういうことなんだ?とか、そういうことにやはりとても興味があり、若いときから時々哲学書の入門書みたいなものなんかを読んでみたりするのだけど、哲学をとことん専門でやっている人というのは、それはもう、日ごろから考えまくっているだけに、シロウトが楽しく読んで興味を持てるようなわかりやすい本というのには当たったこともなく、興味あるわりには、ろくになにも知らないという情けない状態でおるわけであるのですが、そこはそれ、えらそうに持論めいたことを時々語ってみたりもするわけなのでありますが、結局、なにもわかっちゃいない、と。
でも、やっぱり哲学の本というのは、これは難解で、頭にすこんと入ってきたりしてはくれないわけで。

で、この本を読みながら思ったのは、こういう形態で読むと、整理されていないけど、こういうことについての思想・思考というのが、意外にもすんなりと入ってきてくれるものだなぁ、とまぁそういうことです。

僕よりもだいぶ若い作者の女性が、哲学思想をぶったつもりはないのかもしれませんが、僕にとっては、自分とは、この自分で自分だと感じているこの一人称のワタクシは一体なんなのか、と。
僕が僕だと思い込んでいる、この意識というものは、幻想なのか、やはり実態が存在するのか、なんなのか?
結論など無いのは承知で、やはり時々ぐるぐる考えてしまうわけですが、そのぐるぐる考えることの助けになったというか、いや、一緒に同じようなことをこの女性と一緒に考えたという体験をしたかのような。

と言いながら、後半に行くにつれ、だんだんとスピードが上がっていくというか、熱が上がっていくというか、こんだけただただ自己の頭の中でのぐるぐるめぐりを書いているだけだったような本なのに、最終的には、それなりにストーリーとしてまとまって終わっているのも、これはなかなか見事ですよね。

こんな本ばっかり読みたいとは思いませんが、この本を今日読めたことは、本当に素晴らしい体験だった。


いや、でもさ、いっつも不思議なんだよね。
意識って何?
僕が僕なのだと思っているこの意識って何?
命って何?
3000年も前の種が芽を出したりするじゃないですか?命って何?生きてるって、どういう現象を指すの?
そもそも、ナマコみたいなチューブ状のものでしょ。個体として生きていると言えばまぁ生きていると言えるぐらいの。
そこに、ちょっと電気信号でこっちの刺激をあっちに伝える経路のようなものが出来ただけなんでしょ。
ちょっとずつ伝える刺激の種類が増えて、複雑になって行って。。。
痛覚・触覚みたいなのをこっちからあっちに伝えて、刺激に応じて単純に反応することで、少しだけ外界から身を守れるように、ま、たまたまなったと。自然淘汰で。
そのうち、順番は知らないけど、視覚・聴覚・味覚、と、ねぇ。
どのあたりから、「意識」は生まれたの?
魚類には「意識」はあるの?
脳は伝わってきた刺激に応じて、すごく単純な反応を体に返すだけ?
あの、魚の群れのCGシミュレーションも、かなりシンプルなプログラムで再現できるんだよね。
そのレベルって、まだ「意識」なんて呼べるレベルじゃないんだろうなぁ。
伝わってきた刺激に応じて、単純に反応するだけならば、食性植物だって同じ。
というか、食性植物って、踏むとニュルっと体を単純によじるだけのナマコぐらいには、進化している、進化の途中って感じなのかな?
鳥類は?
ほら、あの、「皇帝ペンギン」の映画で、いかにも「家族愛」や「親子愛」があるみたいにセリフが乗ってるけど、あんな高度な意識は無いんだよねぇ。
どのあたり?
猿は、「自分」という「意識」がありそう。
ありそうというか、猿のが「自分」って思っていそうなのが、時々ウソっぽく思えて、そう思うと、実は人間が「自分」って思っていることだって、かなりウソっぽく思えてきちゃうのだけど、まぁ、人に意識があるならば、猿にもあるんだろう。
じゃ、犬は?
哺乳類には全部、「自分」という感覚があるのかなぁ?

で、結局、また考えてしまうこととして、人工知能が「自分」という感覚を持てるのか、っていうことですわな。
時計を壊すのと、犬を殺すのと、明らかな違いは、犬にはどうも「意識」がありそうだってこと。
犬を殺すことの罪悪感はそれが原因でしょ。
じゃ、やっぱ、「自分」っていう「意識」を持った機械を壊すのは、それはやっぱり、「殺す」って感覚になるよね。
まあ、つまり、ブレードランナーだったり、押井守が描こうとしているテーマに突き当たるわけですが。

とこんなに長く書くつもりなど無かったわけですし、そもそもいつもこんなことをどれだけ考えたところで、結論など出るわけがなく、だからこそ、人をそれを哲学とカテゴライズしているわけでして。
だから、もう書くのをやめるのですが、かつて哲学が科学や数学や芸術などとまったく同じ一つの学問だったように、いや、欧米ではずっとそうだと思う。日本では不思議と、理系・文系とかフィールドを極端に分けているけど、欧米の人はそういう意識はあまり無い感じがするし、仕事として研究なんてものをやらせていただいている人間にとっては、やはりどこかで常に意識し時には深く考える必要もあるのではないかと思うのでありました。

しかし、結論は「わたし」も「わたくし」も無い純粋体験で良いのだろうか。それでは、植物がただ風に揺れているようではないですか。せっかく、食虫植物よりもずっと進化して「わたくし」になったのに。

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西加奈子 / きいろいゾウ

のんびりゆったりしたツマとムコさん2人の田舎暮らし。
正直、前半はちょっとダラダラとし過ぎと感じた。
この独特の雰囲気、この2人の、特にツマのほうの、常人とはかけ離れた感性とか考え方とか、ムコさんとの微妙な依存関係みたいなもの、そういうのをていねいに描くためには、これだけのページ数が必要だったのかもしれないけど、うーん、いやそれにしてもちょっとダラダラしすぎではないだろうか。

大切なものはなにか、自分が絡めとられていると感じていたもの、ずっと引きずってきたもの、それらは本当に大切なものを大切だと感じるための、大切なものに気づき、臆面もなく堂々と大切だと伝えて大事にして生きていくための、そのための経験、そのための出会い、そのための試練。

大地くんがいいね。
ツマとムコさんの結びつきを見ちゃうと、そりゃあ敵わないって思うよなぁ。頑張れ少年。
あと、平木直子。この人のキャラがすごくいい。

日記は読んでいたのだろうか?
あとミシンの音。
その点が最後までミステリーのまま終わってしまう。
ムコさんに、ツマが日記を読んでいると思い込ませ、2人に試練を与えるための、なにものか(神、月?、大自然?、とにかく大いなる力)による仕業なのかなぁ。
その結果、雨降って地固まる、という感じで、確かに2人は前よりもしっかりと、自分たちの本当の気持ちに蓋をせず、まっすぐにちゃんと相手を見つめて生きていく確固たる夫婦になったのだけど、はたしてそうなのかなぁ?
日記に色んなもの貼り付けるのか? 神様が? お月さまが? うーむ?
でも、ツマ視点のほうの話では、彼女は部屋にさえ入っていないしなぁ。
うーむ???
やっぱわからん。

ま、いっか。

すべての過去が、自分を取り巻くすべての事象が、庭の木や虫や動物や鳥達、太陽や月や海の動き、すべてが、2人を「あるべき姿」にすっぽりと納めるために動いていた、はず。
逆三角形の一番下の頂点の2人。
すべてはつながっていて、すべてはこの今のために、今の2人のために。
そういう夢想。
こうだったらいいよね、という夢のようなお話。

読み終わった。
この世界からさようなら。 って気分です。
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本谷有希子 / 漂流

図書館で借りた。
読み始めてびっくり。これは小説じゃなくて戯曲(というの? とにかく舞台演劇の台本)だった。
あいかわらず、この人の作品は、ある人が必死にしがみついて生きてきた何かをその人からサッと奪い取り、その一番ピンチな状況でのその人の生き様を描くという、ある意味非常に意地の悪いストーリー展開。
「ほんたにちゃん」が自身の経験で書いたのならば、この本谷さんという人は他人に対して意地が悪いということではなくて、きっと、自身も含めて、「その必死でしがみついていたモノを一度手放してからがその人の本当の人生。一枚むけたその時からが、本当に面白い人生の始まり。」と思っているのだろうなぁ。
「腑抜けども…」の姉、いや、あのお話だと妹もか、「ほんたにちゃん」の主人公、「ぜつぼう」の主人公も、化けの皮がはがされて、さあお前はどう生きる?と。
奈落のそこに突き落とされて、どん底のようでいて、さて上を見上げれば、かつて自分が必死に居続けようと頑張っていた場所は、あれれ?たいして良い場所でもなさそうだ、と。どん底のようでいて、むしろ前よりも良いポジションかも、と。
ここまで落ちれば恥ずかしいものもない、いっちょやってみっか! というちょっと前向き上向きの「きざし」が見えたところで終わるお話が多いから、この人の作品は読後感が気持ちよいのかな。
そして、前にも書いたけど、やっぱりこういう突き落とされる感じ、化けの皮をはがれる感じって、生きていれば誰でも何度か経験するから。
だから読者が共感するんだよね。
狙ってやってるわけじゃないだろうけど、うまいよなぁ。
面白かった。

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本谷有希子 / ぜつぼう

猿岩石大好きだったなぁ。どろんずも。あとチューヤンと伊藤くんのパンヤオも。
夢中で見ていた。
多少はヤラセと言える部分もあったのかもしれないけど、彼らがヒッチハイクでユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を旅したのは確かだ。
僕は彼らを通して見ることができた色んな国のいろんな出来事に本当に夢中で見入ってた。

そんな、かつて一大ブームの主役だった今はひきこもりのような生活をしている主人公。

ぜつぼう、か。

自分が絶望しているという意識だけにしがみついて、自分の絶望だけが自分を支える唯一のもの。
俺は誰よりも絶望している。俺の絶望は誰にもわかりやしない。
絶望しているのではなく、「絶望している俺」にしがみついているだけの男。

絶望って何だろう、と。
希望が全く無いなんてことがあるのだろうか、と。
テレビの世界と対極の、何も無くすごくシンプルな村。
絶望なんて、「こういう風にあるべき」とか「こうなりたい」とか「こういうのがカッコいい」とか、まぁそういう、ある種の目指すべきモデルみたいなものがあって初めて、そのモデルからずれてしまった時に生じる感情なのかもしれない。
学歴とか出世とか地位とか名誉とか、そして人気とか。目指すべき。。。
そういうものがまったく関係無い素朴な村に来てしまうと、しがみついていた「絶望」が揺らいでくる、のかな?

くだらなくて、無意味でいいのだ、と。
この女性も何かから逃げて生きてきた。
型にはめようとする夫。「あるべき姿」に押し込めようとする社会。
そんなときに猿岩石とか見たら、何か解放されたんじゃないかなぁ。
普通は自分で海外旅行して感じるものなんだけど。
日本での今の環境の中で自分が求められている役割なんて、周囲が自分を「こういう人」と思い込み型にはめようとしている人物像なんて、自分が「こうありたい」と思い込んでいた姿なんて、全て、別にどーでも良いものなんだ、と。

意味なんて無いさ。
別になんでもいいのさぁ。 

とフィッシュマンズが歌っていたっけ。

意味なんて無くていい。
くだらないって最高。

意味のある人生、価値のある生き方、そんなもの別にどうでもいいものだと。

かつてテレビの中の主人公を見て、そんな「解放感」をもらった女が、こんどはその主人公を解放する。

くだらないからこそ素晴らしい。
意味なんてなくて良い。
ただただ旅があれば。
人生は意味の無い旅。
だからこそ素晴らしい。

そんなお話だったのではないかと、僕は感じました。
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西加奈子 / しずく

短編集。
「通天閣」と一緒に図書館で借りた。

それぞれ味がある作品。
いろんな作風で書くことができるんだなぁ。
けっこう器用な人なんだと再確認。

個人的には、小説そのものと関係ないけど、「ロックステディ」とか「スヌープドギードッグ」とか、知らない人は全く知らないだろうと思われる単語が普通にポンと使われているのがなんだか嬉しかった。

そのロックステディを聞く年齢的にかなり焦ってる女性が主人公の「木蓮」が一番好きだったかも。「エス・イー・エックス!!」と叫ぶ子供が、下ネタ方向のことばかりに関心を持つんだけど、でもそれは、自分の両親の間にかつてあった生々しく優しい愛を確認したいんじゃないか、という、本当はそんなこと無さそうだけど、でもそんなふうに考えるとなかなか良いお話だな、と。

あと、「灰皿」もよかったなぁ。
僕は、どんな立場の人であっても、初対面の人にいきなりタメ口で話す人は嫌いだけど、でもこの小説家の女性はなかなか魅力的だし、この丁寧で上品な口調の老婦人との関わりかたも良い。
一見幸せそうでも、心に何かを隠しているかも。その隠しているものまで含めて相手を受け入れられるだろうか。勇気を出して。

他にも小粒ながらなかなか面白い短編の数々。

なかなか良いですなぁ。


しかし、女性は変わるものだねぇ、というリンク集。

一番はじめに見つけたインタビュー。こんな顔のこんな雰囲気の人だと思っていると…、
http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/pickup/interview/nishi_k/

ご出身の関西大学のサイトでのインタビューではこんな雰囲気
http://www.boom-sports.com/archives/2006-06.html

それでもって、いかにもレゲエとかスヌープドギードッグとか聴いていそうなイデタチのこの感じ
http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/pickup/interview/nishi_k/20080306/

うーむ、女性って…。
一番上のは、本人にとっても「ちょっと勘弁してほしいタイミング」でのインタビューだったのかもしれないけど。
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西加奈子 / 通天閣

大阪に2年住んでいた。
通天閣には何度行っただろう。
とにかく、この周辺の怪しさと言ったら、そりゃもう東京から遊びに来た友人を連れて行くには最高の場所だったので、本当に東京から誰か来るたびに連れて行ったように思う。

最初に行ったのは同期のタカハシとだっただろうか。
駅から、通天閣とは逆の方向に伸びる商店街を歩いていたら、100円ライターと、へんな小さな置物と、その他2つか3つ、普通に考えれば「ゴミ」としか思えないようなものを並べて売っているおじさんがいたり。
この商店街では色んな経験をした。
真っ白なすごい化粧をして、着物(?)を着ていている人がいて、うわ~この街はやっぱりヘンは人が多いなぁって思ったら、その人の両手が肘から先がなくて尻餅をつくほど驚いたという経験もある。本気でこわかった。
どっかのお店では、えんぴつで手書きで曲名が書いてある正真正銘の中古カセットテープが売っていた。売り物になるのか? とにかくディープだ。
商店街をさらに行ってから、左に曲がったら、そこはまるでタイムスリップしたかのような古い町並みで、それぞれの建物の中で1人ずつ不幸そうな顔をした女性が着物を着て正座して座っている。目が合うとかるく会釈されたりして、なんだここは!! この時の驚きも忘れられない。
一体この今の時代に、ソープとかそういう場所でなく、ああいう和風のああいう場所で着物を着てそういうことをしなければならなくなった人って、いったいどういう人生を歩んできたのだろう。とにかくあんな街が今でも(10年以上前のことだけど)存在することに、ショックでしょうがなかった。
商店街が終わるあたりには、右翼(?)の事務所らしきものがあったり。
これがまた、コワイ人がその周辺にうろうろしていて目を合わさないようにそーっと通ったり。
別の日にあてもなくブラブラ歩いていたら、真昼間なのに道端で寝ている人がいたりビール飲んでる人がいたり、ションベンしてる人がいたりする街に迷い込み。あとから知ってみればそこがあの西成だったりして。
そうだ、この小説にも出てきたけど、あの「路上カラオケ」にもカルチャーショック。あれはすごい。あの発想の自由さ。その上たのしそうだし。
妹が東京から遊びに来たときも連れて行った。
通天閣のちかくでスマートボールを2人でやった。
妹が来たときは通天閣にも登った気がする。
たしか、大阪に2年いる間に、通天閣にのぼったのは3回か4回だったと思う。

そんなわけで、僕にとっては大阪ディープサウスというイメージの強い通天閣界隈が舞台のこの小説。
景色を脳裏に思い浮かべながら、たっぷりと楽しめました。
2人の主人公の、それぞれ今の生活を、周囲に文句をつけてプライドを保ちながらただただ我慢してやりすごしていく後ろ向きの生き方が、どんどんどんどんツラくなっていって。

ただやり過ごしたり、変化が起こるのを待つんじゃなくて、自分から行動して、一歩前に出てみて、変えてみる、自分からやってみる、自分の人生を自分で生きてみる、最後のほんの数ページで、2人の主人公の人生がほんの少し交錯して、2人がそれぞれ前に踏み出してみようとする。
ああ、やっぱりこの人の小説は面白い。

「あおい」、「さくら」では素人っぽい文章という感想を持ったけど、この本では全然そんなことなかった。あれはわざとだったのかな。それとも、文章がうまくなったのかな。

ノキアのケータイにiPodのようにどんどんCDから音楽を入れて聞いているのだけど、なんとなくこの小説を読んでいるあいだは、その中からトム・ウェイツの「Closing Time」と「Small Change」の初期2作品を選んでずっと聞いていたけど、これがドンピシャだった。
どこまでも落ちていくような、酒びたりのような、この小説の雰囲気にピッタリ。

この本は、20年以上ぶりに図書館という施設で借りて読んだ。
今の図書館は素晴らしい。ネットで予約が出来て、メールで通知がある。
ある意味、広い本屋で一生懸命探すよりもずっと楽だ。
目当ての本が決まっているなら、今の図書館は素晴らしすぎる。
まだ読んでいない西加奈子の本をたくさん予約した。楽しみだ。
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西加奈子 / あおい

「さくら」を読んだのは、いつのことだろう。
母が病気をして、入院中の暇つぶしにと、新宿の高島屋のほうの紀伊国屋書店で、病院に見舞いにいく途中に、あわただしく選んだ2冊のうちの1冊だ。
自分が読んでもいない本を人にすすめるというのもどうかと思ったけど、「家族のきずなが…」的なことが、帯だったか、店員さんの自筆オススメコメントだったかに書いてあって、息子の僕が病気の母に送る本として良いんじゃないかと思い買ったのだった。
幸いなことに母は元気になり、退院した母が、「あなたにもらったこの本、面白かったわよ」と言って、僕にくれたのだ。
そして読んだ「さくら」はとてもとても面白くて、最後の最後のハイスピードで突っ走っていく感じがもうたまらなくて、たしか最後の30ページぐらいは、近所のドトールで、ボロボロ涙が出てくるのをもう抑える気にもならず最後まで読みきったのだ。

こないだの送別会、下北沢だったのだけど、ちょっと早く着いたので、暇つぶしにビレッジバンガードに入った。この店は、ここ数年、いつのまにやら、本屋として、そして、CD屋として、かなりの売り上げを誇る店になってしまっているらしい。洋服にセレクトショップというものがあるけど、本やCDのセレクトショップとでも言ったところだろうか。本屋として考えれば、ほんとうに少しの本しか置いていないけど、店が選んだ厳選された本だけが並んでいる。ある独特の視点で選ばれた本たち。本やCDをこういう店でだけ買う人って、正直まちがっていると僕は思うのだけど。自分の目で選ぼうぜ、な。
まあ、そんなことはともかく、「さくら」と並んで、この「あおい」が陳列されていた。
ああそうだ、「さくら」ってすごく良い本だったなぁ。
この作家のほかの本も読んでみたかったんだよなぁ。
「きいろい象」という本もあったのだけど、この作家の第一作をまずは読んでみたくて「あおい」のほうを買った。
CDもそうだけど、まとめて2冊買っちゃうと、それぞれの作品の印象が薄くなるので。
「あおい」だけ。

なるほどなぁ。
この人の不思議なところは、まず、最初に読み始めると、けっこう素人っぽく感じるんだよなぁ。もちろん、これが第一作だからというのもあるけど、とてもプロが書いている本という気が、少なくとも読み始めは、しない。
まるで、決して文章を書くことが上手くない人の日記かなにかを読まされているような。
だけど、40ページも読むうちに、すっかりこの人のお話の世界に入り込んでしまっていて、素人とかどうとか、そんな気がしなくなっていく。わざとなのだろうか。不思議だ。

普通、どうしても第一作は自分の経験で書いてしまうらしいから、主人公の「あたし」は、西加奈子と近いのかな。こんなタイプの男性が好きなのかな。こんな恋人と同棲してたのかな、とか思ってしまった。
なんか似ているよね。この人の書く男性って。
あんまりいないタイプだし、いると周りは迷惑なタイプだよなぁ。
「自分」があって、周りに媚びず、勝手に生きているような。
空気を読めないんじゃなくて、あえて読まないタイプ。
僕はこういう人あんまり好きじゃないのだけど、西加奈子は好きなんだろうなぁ。
すごく私小説っぽい。
「あたし」の行動は、正直よくわからない。
理解しづらい行動をする主人公「あたし」なのだけど、「あたし」が好きになった相手カザマ君も僕には理解できないっていうか理解したくないタイプの男で、そんな「あたし」がカザマ君を好きで好きでたまらないという、結局そういうお話なのだけど、それがダラダラと大したストーリーもなく進んでいくのだけど、それでいて、面白く読めてしまうこれは一体なんなのだろうか。
理解できない行動は、やがて「あたし」のヒサンな過去の事件がその原因だということがわかってくる。「みいちゃん」もまた。
この部分が衝撃的だから、読者の僕は、この話に引き込まれたのだろうか。
こんな過去があるなら、と「あたし」の全ての不可解な行動を納得してしまっているだけなのだろうか。
だとすれば、「飛び道具で解決」という一番ずるいタイプの小説と言えなくもないのだけど、でも決してそんなずるい小説という気がしない。

「さくら」もそうだったけど、つらい悲惨な出来事が時に僕らの人生には振りかかるし、それによってやっぱり僕らの生活はグチャグチャに傷つけられるけど、でも、だからって一生その出来事のために暗く悲しい人生を歩まなければいけないなんてことはなく、また僕らは何か大切なものを見つけ、やがて元気に楽しく素敵な人生を歩いていける、そういう強いメッセージがこの人の小説の素晴らしいところだ。
それは、過去を忘れるとか過去を許すとかそういうことではなく、元通りになれるとか、一気に変われるとか、そういうことでもなく、過去をしっかりと抱えたまま昨日までの自分とは何も変わっていないけど、でも、どんなにつらい日にもバカみたいに空が青いように太陽が楽しそうに照っているように、残酷なほど今までどおりごく普通に回り続ける自分の周りの世界の確かさの中で、自分もまたしっかりと自分のまま力強く楽しく愉快にカッコよく歩いていける時が来る。

ああ、なんて元気の出て来る小説だろう。
僕たちは、どんなことがあっても、また元気に歩き出せる。
傷ついたケモノが、やがて前と同じように森の中を走り回れるように。


土曜の夜、子供達とお祭りに行き、酔っ払ったイキオイでだらだらと書いているうちにすごく長くなってしまった。が、長いわりには何が言いたいのかわからない文章。酔っ払いだな、ほんとに。

他の作品も読んでみよう。
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本谷有希子 / 生きてるだけで、愛

すっかりこの作家(というべきなのか、劇作家というのが本当だろうけど)のファンになってしまった感じです。

なぜなんだろう。
この話なんて、決して自分が共感しないタイプの人が主人公なんだけど。
でも、この物語にのめりこんで読んでしまう。

こういう生きることにトコトン不器用な人ってたくさんいて、子供の頃からずっと色んな不器用な人とつきあってきたような気がする。
だからだろうか。

ちょっと精神的に不安定な人が、いよいよ本当にまずいぐらいに不安定になっていく中で、ほんのちょっとの、全然しっかりとしていない はかないかすかな光を見つける話。恋愛小説と言えば、たしかにそうなのかもしれないけど。

不安定な人の気持ちを、その不安定な人の一人称で書いていて、バカで凡人でこういう面での苦労を知らない僕なんかは、一瞬「ああ、これで救われていくのかな。好転していくのかな。」と思ってしまったところから、わずかなどうってことないことをきっかけに、全てが壊れてしまって、というか、全てを壊してしまって、壊してしまったことに対しても、いつものことだし最初からあきらめているからそれほど動揺も後悔もしない。しないけど、もう絶望のどん底に落ちていってしまう。
読んでてヒリヒリして、胃の奥のほうがキューっと痛むような。
きっと主人公の彼女は、僕が読みながら感じたその胃の奥のにぶい痛みを1年中感じて生きているんじゃないかという気分で、ずっと読んでしまった。

つらい。

「空気を読む」なんてことが、他のどんなことよりも最優先で周囲から求められるようになってしまったひどい時代に、こういう不器用な人がますます生きづらさを感じてしまうのだろう。

この小説が、なにか時代を映しているように感じるのは、メンタルヘルス系をネタにしたというようなことではなく、生きるのがつらい世の中の、その生きづらさをうまいこと描いてみせているからなんだろうなぁ。



もう1つ短編が入っているのだけど、この2人も、寧子と津奈木と妙にかぶる。

人と人の関係は、理屈じゃないんだよなぁ。
相手がどんなに理不尽な行動を取ったって、その人を好きなら、それも受け入れざるを得ない。
恋愛っていうものを、究極的に拡大解釈すると、結局、こういう関係なのかもしれない。
そういう部分を描きたかった長編(というほど長くないか)と短編、なのかな。


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本谷有希子/ほんたにちゃん



「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」が、すっごく面白かった本谷有希子。
やっぱり、他の作品も読みたい。
本屋では、他にも色々あったけど、自伝的作品らしきこの本が、とてもソソる。
やっぱ一冊選ぶなら、これかな。

わずか140ページなので、一気に読めちゃった。
最高だ、面白い。傑作だ。

誰だって心当たりがあるはずだ。
だって、人はちょっとずつ背伸びをして、今の自分よりもちょっと上の世界に、あたかもずっと前からいたようなフリをして、さりげなく入っていくしかないのだから。

はじめてビールを飲んで、おいしいなんて感じる奴はいないだろう。
背伸びしたんでしょ。

はじめてタバコ吸って、いきなりおいしいなんて思うわけないわけだし。
背伸びしちゃったでしょ。

レンタルレコード借りてきて、カセットテープに取って聞いてたバンド、ちょっとかわいいクラスメイトの女の子に、「レコード持ってるの? 今度貸して!」って言われて、「いいよ」なんて答えちゃったでしょ。ほんとは持ってなかったでしょ。

高校の授業サボって行った丸井のバーゲンで必死に買ったブランドの服、いかにも「いっつもこのブランドの服着てますけど何か?」みたいな顔で、カッコつけて着てたでしょ。

後半2つは、僕の実体験ですけども、まぁ、誰だって、カッコつけて背伸びして、いかにも前からよく知ってますみたいな顔して、「ピストルズから入っても、クラッシュに行っちゃわない?」みたいな、ねぇ、「ボブ・マーリーって楽屋ではすごい寡黙な人でさ、中野サンプラザの楽屋のボブ・マーリーなんて一言も話さなかったんだぜ」ってお前行ったのかよ楽屋に、っていうか、そのコンサートにそもそも行ってねえだろ、その時レゲエなんて全く知らないガキだったろ、みたいな、ね。

ま、いいんですよ。
みんな通る道じゃないですか。
当たり前ですよ、誰が最初からサブカルなんて詳しいんですか。
自分よりもその道をよく知っているはずの人の前でも、対等に会話をしたくて、かなり背伸びした発言もしちゃうじゃないですか。
それで、まぁ背伸びの程度がほどほどならば、見透かされていても「こいつ、がんばっちゃって、かわいいなぁ」ぐらいの感じで受け入れられてですね、段々とその道を極め、やがて下の子から逆に先達として尊敬される人になったりするわけですよ。
やっぱり、××さんのファッションって素敵ですね! なんてさ。
ぜったい、ぜ~ったい、最初っからバツグンにオシャレでセンスの良い奴なんていませんから。最初は、必死に背伸びして、カッコつけて、カッコ悪くたって精一杯フリをして、ね。でしょ。

だからね、誰だって共感しちゃうと思うんだよね。

ここまで赤裸々に、このカッコつけ自意識過剰状態の感情を、おしげもなくさらけ出した作品は、読んでいて笑いながら泣きそうでした。

最後がまた、いいよね。
このエンディング。


で、やっぱ気になるのは、これが「本人本」というシリーズの作品であり、タイトルが「ほんたにちゃん」というタイトル、とするとですよ、この話の中のエピソードがどこまで本人の実体験なのか、ですよ。
この人のプロフィールを読むと、ってことは、泊真市郎=松尾スズキ、で、野次マサムネ=庵野秀明?? え、ほんと?
いや、かなりの部分がフィクションとしても、この人、庵野秀明の前で最初かなりカッコつけてたのが、後でバレまくるという経験をしているのだろうか。


ま、とにかく、すっげー胸に突き刺さる本でした。

面白かった。
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デッドエンドの思い出/よしもとばなな

ブックオフでハードカバーと文庫本と両方100円で売ってた。
持ち歩きやすい文庫本を購入。
娘のヤマハの発表会の席取りのために並んでいるあいだに9割を読み、その後の3日間ぐらいで、ちょっとずつ残りの1割を読んだ。

大小5編の短編集。
あとがきで、よしもとばなな自ら「自分の作品の中で一番好きな作品」と言っているタイトル作「デッドエンドの思い出」、なるほど、わかる気がする。
ツライ経験を乗り超える5つの物語。その中でもこの「デッドエンドの思い出」は見事だ。なにが見事かって、出て来る人全員が「一見」良い人だということ。婚約者に内緒で別の女と同棲をし結婚を決めた男さえ「悪人」とは描かれない。そして、実際、そんな気で読めてしまう。この男は、世間や会社ではきっと「いい人」で通っているだろう、きっと。そんな相手にされたことだからこそツライということをきちんと描き、そして、そこからの再生の過程もまた、ドラマチックな展開など何も無く、いたって普通の生活の中で、ごくごく普通に傷が癒えていく過程を見せている。

物語を展開させるために、悪人を、いや悪意を登場させず、それでいて、いや、それだからこそとてもツライということを自然に、共感できるようにさらっと描いている。そのどん底からの再生の過程もごくごく普通なのだ。それでいて、一つの作品として見事に完成していて、読後感はさわやか。
こんなに普通に当たり前のようにこういう過程を描けて、それでいてちゃんと話に引き込める小説家、よしもとばなな、やっぱりすごいなぁ。

人はたくましく、どんなにツライ経験もやがて糧として生きていく。
ひとりひとりに美しいその人の人生がある。
自分で選んだキラキラした宝物を抱えて一歩一歩よそ見をせずに歩んでいけばいいんだ。
そういう気持ちにさせてくれるんだよな、この人って。
それでいいのだ。
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腑抜けども、悲しみの愛を見せろ / 本谷 有希子

ツタヤで手に取った映画「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」。佐藤江梨子、永作博美、永瀬正敏。うほー、惹かれるキャスティング。ジャケのサトエリの写真もそそる。面白そうだぜ、この映画は。いや、絶対に面白いにちがいない。

と借りる寸前まで行って、「ベストセラーの映画化」という文字を目にしてしまった。
このところ、「きっと原作はすごく面白かったんだろうなぁ」という映画とか、たくさん見てきてるので、原作がベストセラー小説だったらそっちを読むべきだろう、という思いに。

というわけで、映画を見ずに原作を読むことに。

本谷 有希子さんて、SPAで最近対談形式の連載を持ってる人で、話すこと面白いんだよなぁ。
SPAは嫌いだ、とえらそうに昔ここに書いておきながら、うしろのほうの「それでいいのだ」という対談連載だけはすごく好きでよく立ち読みしてしまう。あと、「これは事件だ」っていう連載。この2つは好きなのだ。
そして最近、この女性二人の対談連載がお気に入りに加わってしまった。
なんだ、あの2人のうちの一人が書いた本だったのか。

一気に読んでしまった。

うわー、面白かった。

田舎をバカにする気は全然ないけど、「(ど田舎の)故郷では子供の時から一番でした」って人の、実力に裏打ちされていない妙な自信って、ちょっと嫌いなので(あああ、こんなことを言ったからって、イヤな奴だって思わないでくれ~)、そこのところをとことん描いた、絶望に満ちた快作と言えるのではないでしょうか。
田舎町の閉塞感と、希望の無さと、無邪気さと、陰湿さと。

この小説の中で一番光ってるのが兄嫁。
この家族の中では「よそ者」の彼女が、その奇妙なキャラクターで、すべてを包みこんでいく。
この役を永作博美が演じているのか。

永作博美は、天才役者だと思っているので、これはもう映画のほうは見ずにはいれませんなぁ。見たい見たい。
佐藤江梨子がこの姉を演じるのも見たいし。

ぜってー見よう、映画。

と、小説を読み、面白く、結果として映画をすごく見たくなるという、めったにない展開。

よし、映画見るぞ、と。
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半島を出よ / 村上龍

やっと読んだ。
面白かったー!!
本気の村上龍はやっぱりスゴイ面白い。
今回のは、北朝鮮の戦士も語り手となっているところがまたすごいな。
これのおかげで、この小説はかなり深みが増している。
リアルに描くにはどれだけ資料をそろえる必要があったことだろう。
経済についても、これまでの著作でかなりの知識を持っていることはわかっていても、1冊の小説を書くためにこの人はどれだけ調べるのだろうか、と。

いや、しかし、そんなことよりも、やっぱり村上龍の文章が好きなんだろうな。
結局のところ、俺は。
だって楽しいのだ。この人の断定的な文章を読んでいるだけで。ただそれだけで。

社会の「まともな」人たちが何も出来ずに草食動物のようにあきらめ受け入れようとしている中で、シンプルな攻撃本能を持つ常識社会では異端の者達が、日本を救うとか、正義のため、とかではなく、シンプルに「こいつらは敵だ」と決めて半分は自分自身の満足のために立ち向かう。いや、立ち向かうっていうよりも、この人達は、敵がいたから戦ったのではなく、誰でもいいからとにかく殺したいっていう強いパワーを心に持っていて、そこに正々堂々と殺しちゃってよい相手がヒョッコリ現れたと、そういうことだもんなぁ。
面白いなぁ。
平和な社会で誰かを殺すと「罪」だけど、戦場ならば「正義」。英雄にだってなれる。
この人達は、自分達の性質を平和な社会で持て余して生きてきて、当然「犯罪者」だったわけだけど、なんとなんと日本が戦場になっちゃって、戦場になっちゃった日本では、なんと人殺しが「正義」。殺す相手が「敵」ならば人殺しが「正義」。英雄にもなれちゃうのだ!
面白い。

テロリスト達は日本の人・組織の常識的な行動を研究しつくして計画を練っていたけど、こんな非常識な者達のことなんて全く想像すらしていない。
今の日本で本当の意味でリアルな危機感を持って毎日生活している人って、結局、こんな人達だけで、本当に危機的な局面ではそんな人達だけが自分の考えで行動できるということかなぁ。常に生死を分ける決断をしてきた人以外は、結局いざという時に何も判断できない。

ま、とにかく1000ページぐらいの長い小説を読み終えた直後で、まだこの世界から抜けきれていなくて、余韻を楽しんでいるような気分。
あんまり感想らしい感想が語れない。

リアルな危機意識を持って生活しているとはとても言い難いなぁ、俺は。
色々考えちゃうし、刺激されるし、きっと今後の生き方にも多少は影響するんだろうなぁ、この本は。大学1年のときに読んだ「コインロッカー・ベイビーズ」のように。

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